126 ★五郎と志乃のシュークリーム(その6) ~『演じる』二人のやさしさ~
【06】 納豆にはウスターソース?
【現在にもどる。】
五郎は、妻のガンのこと、人工透析のこと、を考えていた。医者は、生命の危機までは言い及ばなかったものの、五郎は覚悟していた。膵臓から腎臓へガンが転移したということは、やがて全身へ転移していくのだろうと。それがどういうことになるのかも容易に推測できた。
翌日、五郎は妻の病室に行った。五郎が妻の病室に行くのは、週に1~2回だった。それが妻、志乃の希望であり、気遣いでもあった。「夫にはお金も、そして時間も、不自由にさせたくない」ということを言っていた。
五郎は、病室に入る前に、いつも役者になりきることにしている。この日もそうだった。
五郎(今日は、一段と辛い芝居になりそうだ)
今日の定期診察で、医師は妻に腎臓へガンが転移したことを告げることになっている。そして、妻から夫へそのことが告げられる。
五郎(どんな顔して、どう答えりゃいいんだ)
しばらく考えた結果、
五郎(まぁ、なりゆきで答えりゃいいか。とにかく暗くならないように、明るく返せればいいや)
五郎は病室のドアを開けた。妻はいつものように迎えてくれた。妻、志乃はいつものように、たわいのない話をした後、
志乃「今度、人工透析をすることになったわ」
五郎「そうか、あまり良くないのか」
志乃「そんなことない」
志乃は即答だった。
それが、かえって不自然だった。……が、それを無視して
五郎「何か食べたいものある?」
志乃「若い男の子」
志乃が無理してジョークを飛ばした。
五郎「腹こわすぞ、そんな取れたてのを生で食べたら」
志乃「そっか、そうよねぇ。そうだ! それより人工透析するようになったら、納豆を食べちゃいけないって、入院している人から聞いたけど本当かしら?」
五郎「知らないな、初めて聞いた。納豆のネバネバが血を固めちゃうのかな?」
志乃「まぁ納豆は今までさんざん食べてきたから、もういいかな~」
五郎「納豆と言えば、この前醤油とソースを間違えてかけちゃって」
志乃「え~っ」
五郎「知らないうちに納豆にウスターソースをかけていて」
志乃「えーっ、それで」
五郎「もう何十回もかき混ぜて、ひとくち食べたら『あれっ』と思った」
志乃「感動した?」
五郎「感動するわけないだろ!」
五郎が、おどけて言った。
志乃「お味は?」
五郎「何とも言えない味だった」
志乃「それで?」
五郎「ソースだけなんとか取り除こうとしたんだ」
志乃「そんなことできるの?」
五郎「できない」
志乃が笑った。志乃は、その様子を頭に想い浮かべた。
五郎「納豆のネバネバがソースを完全に閉じこめて、羽交い締めにして、2度とそこから出られないように覆っているんだ」
志乃「蜘蛛の巣みたいね」
五郎「うん。だからソースだけ取り除くのは不可能!」
志乃「そうよねぇ」
五郎「納豆とソースを分離できたらノーベル賞ものだな」
志乃「あなた、ノーベル賞にトライしてみたら?」
五郎「無理無理! というのも実はその2~3日前にも市役所の食堂で、同じようなミスをしているんだ」
志乃「同じような?」
五郎「うん、大根おろしにウスターソース」
志乃「それも分離が難しそうな組み合わせね」
五郎「うん、あきらめた」
志乃「あきらめたんだ」
五郎「キュウリのお新香とかなら間違えてソースをかけても、コップの水でキュウリをちょっとしゃぶしゃぶして、醤油をかけ直してパクッといっちゃうんだけど。大根おろしと納豆はダメだな。水でしゃぶしゃぶできない」
志乃「よく研究しているのねぇ」
五郎「だろっ」
志乃「あなたは、えらいわ。それ職場の朝ネタにも使えそうじゃない」
五郎「そうだな、仕事に入る前の世間話にいいかもな」
志乃「納豆と大根おろしなら誰でも食べるし」
五郎「うん」
志乃「大根おろしとソースの分離も無理そうね」
五郎「私の辞書には『不可能』という文字しか載ってないんだ」
志乃「どっかで聞いたようなセリフね」
五郎「『不可能』という文字は、私のような愚か者の辞書にのみ存在する」
その日結局、志乃から五郎へ『ガンが腎臓へ転移した』ことを伝える話は出なかった。
五郎は、夜寝る前に、インターネットで調べていた。
五郎「『納豆に含まれるカリウムが血液中に貯まり過ぎると、不整脈を起こして心臓マヒになることがある、普通に食す分には問題ない』か。さて寝よう」




