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女子ボートレーサーと市役所職員  作者: 池井 けい
第13章 奈美の夫、発見される!
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117/140

117 ♡今住んでいる所から離れたい

【12】 今住んでいる所から離れたい


 北村史郎(社長)、奈美、海斗の3人が、すぐそばの喫茶店に入って行った。


社長「つい最近、あなた方のことも、ご主人の過去もお聞きしました」

奈美「……」

社長「奥さんも、海斗君も大変だったね。色々苦労されたんでしょう」

奈美「まぁ」


社長「でも、こうしてお越しいただいて、私はほっとしているんですよ」

奈美「……」

社長「最初にご主人がここに来た時から、何か訳があるんだろうな、とは思っていたのですが」

奈美「……」


社長「まだ、家族が繋がっているんだ、って、わかって。とにかく良かった」

奈美「すみません。いろいろとご迷惑をおかけしまして」

社長「いや、とんでもない。私たちはとても助かっているんですよ。あんな真面目な人が来てくれて」

奈美「なら、いいんですが」


社長「これはお世辞でもなんでもなく」

奈美「そうですか」

社長「ええ、そうですとも。だいたいご主人がここへ来てから、一度も休んだことも無いし、遅刻したことも無い。海斗君、君のお父さんは立派だよ」

海斗の口元が少し緩んだ。


社長「一日中立ち仕事なのに、どこが痛いとか言ったことも無いし、風邪をひいたこともない。きっと体調管理にも気を使っているんでしょうね」

奈美「そうかも、知れません。真面目だけの人なんです」

社長「うん、そう言う所はあるかも知れませんね」


奈美「もう少し、ゆるめてくれるといいんですけれど」

社長「大丈夫ですよ、これからは」

奈美「もっと気楽に生きてくれたらな、と思います」

社長「そうですね。ところで、今日はご主人を連れ戻しに来たとか、ですか?」

奈美「いえ、そう言うわけでは」

社長「だとすると?」


奈美「いえ、とにかく家族3人で話し合って、今後どうするか、一緒に住むのか、どこに住むのか、仕事をどうするか、学校をどうするか、決めなければならないことが山ほどあるので、なるべく早く決めて、次の新しい生活に入りたいんです」

社長「なるほど。それで、急いで松山までやって来たわけですね」

奈美「ええ」

社長「海斗君、どうだい、ここの街は?」


海斗「……」

社長「今住んでいる街と比べて?」

海斗「こっちの方がにぎやか」

社長「そうかね。埼玉県の方が、にぎやかで人もたくさん居ると思ったけれど」

海斗「うううん。こっちの方が都会だよ」


社長「そうか。嬉しいことを言ってくれるね。松山市は四国でも一番大きい都市だからね」

海斗「うん」

社長「それに、博物館や美術館もあるんだよ」

海斗「お城もあるんでしょう」


社長「ほぉー、よく知っているね。驚いたなぁ」

 社長が大げさにびっくりした表情を見せた。

海斗の口元が大きく緩んだ。


社長「今度、お父さんに連れて行ってもらうといいよ」

海斗「連れて行ってくれるかなぁ?」

社長「じゃぁ、おじさんがお父さんに、一緒に行くように言ってあげるよ」

海斗「うん」


社長「奥さんは、どこに住みたいとか、なにかお考えがあるんですか?」

奈美「いいえ、私は日本ならどこでも。ただ、今住んでいる所からは離れたいんです」

社長「それは、どうして?」

奈美「……」


社長「いえ、嫌なら答えなくていいんですよ」

奈美「いえ、なんと言っていいのか。まぁ、いろいろあったので」

社長「それだけ聞けば充分です。どうです、よろしければ、ここに住むことも候補のひとつに入れていただけませんか?」


奈美「私は、どこでも」

社長「坊ちゃんは、どうかな?」

海斗「『坊ちゃん』?」


社長「そうか、ついつい、松山の人間は、『坊ちゃん』って言ってしまうな。ははははは」

 松山市は、夏目漱石の『坊ちゃん』ゆかりの地であった。

海斗「ここ、好きだよ!」


【13】 離婚の覚悟


社長「そいつは、おじさん嬉しいな。お父さんのような優秀な人に辞められちゃうと次を見つけるのが大変なんだよ。やっぱり同じくらい優秀な人を探そうとするでしょう、でも、無職でフラフラしている人で、優秀な人なんて居ないんですよ。優秀な人は、会社が離さないですからね」

奈美「そんなー? 優秀かどうかは?」

社長「なんでも、税務職員だったそうじゃないですか?」


奈美「ええ、まぁ」

社長「私、ひょっとしたら、こういう日が来るんじゃないかと思って考えていたんですけれどね、」

奈美「はい、」

社長「お父さんも今の仕事だけじゃとても家族を養っていける給料じゃない」

奈美「……」


社長「まぁ、パートみたいなものですから。そこでね、まず正社員になってもらう。しかし、正社員にする手続きというのは、雇用保険のことや健康保険、厚生年金など様々な手続きがある訳です」

 奈美が軽く頷いた。


社長「それとは別に会社としての手続きは、正社員・アルバイト・パートの所得税と住民税、更にこのパチンコ店の法人税、源泉徴収票の作成や法人税申告書の作成。それを今は税理士さん、社会保険労務士さんにお金を支払って頼んでいるんです」

 奈美が軽く頷いた。海斗は何もわからず黙っている。


社長「そこで、お父さんなら税務に詳しいし、保険や年金も出来ると思うんです。今お願いしている税理士さんは70歳前後だし、社労士さんももう60過ぎですから、理由を言ってお断りしようかと。丁寧に説明すればわかってもらえると思うんです」

奈美「……」


社長「そうしたら、その浮いた分のお金をお父さんに回せますので、ホールの仕事と経理の仕事を掛け持ちして少しは生活が楽になるのでないかと」

奈美「ありがとうございます。私たちのために、いろいろ考えてくださって。もし、こちらに住むことになれば、もちろん私も勤めに出ますので」


社長「そうだね、海斗君が学校に行っている間は、どこかで働けますね。ウチはもう無理ですけれど」

奈美「大丈夫です。求人誌で見つけますから」

社長「おっと、そろそろお父さんの休憩時間だ。今、戻ってお父さんと交代するから、今の話、伝えてもらっていいですか?」

奈美「はい、主人と相談してみます」

社長「うん」

 社長が喫茶店から出て行った。


 しばらくして博之が社長と入れ替わって喫茶店に入って来た。


奈美が近寄って来る博之に対して

奈美「元気そうね」

博之「うん。迷惑かけたね」

奈美「そんなこともう忘れたわ」


 博之が海斗の近くで中腰になり、海斗の目の高さを合わせた。


博之「海斗も元気そうだね」

海斗「うん、元気だよ」

博之「よく来てくれたね。新幹線で来たのかい?」


海斗「うん。楽しかった」

博之「そうか、それは良かった」

海斗「大きな橋も渡ったよ」

博之「きっと瀬戸大橋だな」

海斗「海が見えた」

博之「瀬戸内海だね」

海斗「本当の海を見たよ」


博之「そうか、埼玉には海なんか無いもんな」

奈美「ねぇ、座って」

博之「うん」


 博之が椅子に腰を下ろした。そして、店員を呼ぶとカレーライスとホットコーヒーを注文した。


博之「二人は食べたの?」

奈美「さっき駅で食べたばっかり」

博之「そうか。海斗は何を食べたの?」

海斗「ハンバーガーとポテト」

博之「そうか。それはすごいご馳走だな」

海斗「うん、最高だよ」

博之「ははははは。そうだよ、ポテトは最高だよな」


 奈美は、博之が笑うのを何年も見たことがなかった。

奈美(安心したわ。すごい心配したけれど、こういうのを『取り越し苦労』って言うのかしら?)


奈美「さっき、社長さんが見えていて、色々私たちのことを気遣ってくださったわ」

博之「うん、とにかくいい社長なんだ」

奈美「それでね、」

博之「うん」


 大きなマグカップに注がれたコーヒーが来た。博之は、それに手を伸ばした。

 奈美は、さっき社長からあった話をすべてそのまま博之に伝えた。


博之「そうか、そんな先まで考えてくれているんだ。有難いな」

奈美「で、どうしよう?」

博之「どうしようって、すべて二人で決めればいい。でも、社長がそこまで言ってくれているんなら、これ以上いい話は無いような気がするな」

奈美「そうよ。だって、どこへ行ったって就職が難しいんだから」

博之「うん。実は、ここへ来るまで、離婚の話が出るんじゃないかと思っていたんだ」

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