115 ♡夫、博之からの電話
【08】 夫、博之からの電話
松島奈美は、パートで働いていた。昼の休憩もそろそろ終わろうとしたとき、持っていた携帯電話が鳴った。
携帯電話に「美浦警察」と表示された。
奈美(えっ、なんだろう?)
電話に出た。
警察「美浦警察生活安全課です」
奈美「はい」
警察「松島奈美さんご本人さんですか?」
奈美「はい」
警察「突然ですみません。今、大丈夫ですか?」
奈美「はい」
警察「数年前に出していただいた『行方不明者届』の件ですが、」
奈美「はい」
奈美の表情がこわばり、緊張が走った。
警察「見つかりました」
奈美「えっ! 本当ですか? 無事ですか?」
警察「はい、お元気です」
奈美「ふーっ」
息を吐いた。
警察「詳しいことについては、ご主人さんが『今晩8時に電話する』とのことでした。
奈美「はい」
警察「いろいろ知りたいでしょうが、今晩の電話を待って、ご主人さんから話を聞いてもらえますか?」
奈美「はい」
警察「もし、今晩電話が無いようでしたら、こちら生活安全課までお電話ください」
奈美「はい」
警察「以上です。よろしいでしょうか?」
奈美「あの、どこに主人は居るんでしょうか?」
近くにいた2、3人のパートにも奈美の声は届いていた。
警察「その辺も含めて本人から聞いていただけますか? ご夫婦間のことですので、私どもとしては、何も申し上げられないんですよ。ただ、ご主人さんも家族のことを心配していたようで、今晩いろいろ話をしてくれると思いますよ。心配なさらないでください」
奈美「そうですか」
警察「ええ。安心してください」
奈美「わかりました」
警察「では、失礼いたします」
電話を切った。
奈美(今晩8時ね)
奈美の胸の内は、とても複雑だった。
◇
その日の夜8時。
博之は10円玉と100円玉をたくさん用意して、緑色の公衆電話のボックスの中にいた。博之は10分前から公衆電話ボックスの中に入り、これから妻に話す内容を考えていた。何を話せばいいのか、これからどうしたらいいのか、博之は迷っていた。
博之は腕時計を見ながら、自宅の電話番号の最後の数字ボタンを、8時になる5秒前にプッシュした。
ほぼ8時ちょうどに、奈美と海斗が住む家の電話が鳴った。奈美と海斗は電話のそばで、電話が鳴るのを待っていた。
海斗「鳴った!」
奈美は電話の前に立っていた。そして、すぐに電話に出た。
奈美「もしもし、」
博之「私、博之です」
奈美「元気?」
博之「うん、元気だよ」
奈美「海斗も居るの。代わるね」
海斗「もしもし」
博之「おお、海斗か、元気かい?」
海斗「うん。ねぇ、どこに居るの?」
博之「四国という所だ、わかるかい」
海斗「もちろんわかるさ」
博之「そうか」
海斗「海を渡るんでしょう?」
博之「そうだ、よく知ってるね」
海斗「なんで、四国なの?」
博之「なんでかな? 父さん、行ったことがなかったからからかな」
海斗「そうなんだ」
奈美は、最初、海斗に『父さんは出張している』と、嘘をついていたが、時間が経つとともに、本当のことを言わない訳には行かなくなり、ある程度のことを伝えていた。
海斗「お母さんに代わるね」
奈美に代わった。
奈美「四国のどこ?」
博之「愛媛県の松山市」
奈美「随分遠くに居るのね」
博之「うん。すまなかったな、何年も居なくなっちゃって」
奈美「うん。どうして出て行っちゃったの?」
博之「警察から何も聞いてないかい?」
奈美「何も聞いてないわ」
博之「そう」
奈美「『ご主人さんから聞くように』って」
博之「そうか。話せば長いんだけれど、失踪した日、私は交通事故を起こして、人を轢いてしまい逃げたんだ」
奈美「その人は?」
博之「死んだ」
奈美「えっ!」
【09】 引っ越し先は、どこにする?
博之「でも、今日わかったことなんだけれど、私が轢いたのは4台目の車だったそうだ」
奈美「4台目?」
博之「そう、だから『死体を轢いたんだろう?』って、警察の人が言っていた」
奈美「そう」
博之「だから、『ほとんど罪はないんじゃないか』って」
奈美「なんで逃げたの?」
博之「酒を飲んでいたんだよ。だから、『まずい!』と、そのときは思ったんだ。公務員だし、家族はあったし、みんなに迷惑がかかるから、姿をくらませれば誰が轢いたのかわからなくなると考えたんだ」
奈美「そう」
博之「今となって、冷静に考えれば、すぐに警察を呼ぶべきだったと思うけれど、そのとき、とっさに浮かんだのは、家族を『殺人者の家族』にしたくなかったんだ」
奈美「うん」
博之「あれから何年も経つけれど、今からでも、離婚というのであれば、もちろん応じるし、養育費も少ないかもしれないけれど、出来る限りの仕送りはするつもりだよ」
奈美「今、どうしているの? お金あるの?」
博之「お金はある、少しだけれど。こっちで、パチンコ店で働いている。とってもいい人に雇ってもらってるんだ」
奈美「そう、良かった」
博之「私の心配はいらないよ。逆に、そっちはお金あるのか?」
奈美「なんとかなってるわ」
博之「そうか。本当に申し訳ない。すべて私が悪かったんだ、すべて」
博之は涙声になっていた。
博之「美味しいもんも食べてないんだろう」
奈美「そんなことないわよ。毎日は無理だけれど、たまには」
博之「そうか」
奈美「ずうっとそっちに居るの?」
博之「わからない。けれど、そっちには戻れないだろうな。それに、今のパチンコ店のご夫婦にもお世話になっているし、恩返しをしないと」
奈美「そう」
博之「税務署の方はどうなっているんだろう?」
奈美「退職させられたわ」
博之「そうか。税務署は俺がひき逃げ犯と知っているのかな?」
奈美「わからない」
博之「うん」
奈美「海斗に何か言うことある?」
博之「うーん」
奈美「海斗、お父さんに何か言うことある?」
海斗が受話器を持った。
海斗「お父さん、戻ってこないの?」
博之「そうだな、今忙しいからな。様子をみてだな」
海斗「……」
博之「ごめんな。何もしてあげられなくて。いつか、いつか一緒に遊ぼう。それまで待っててくれるかな」
海斗「うん」
博之「いじめられてないか?」
海斗「ないよ」
博之「そうか。いじめられたらすぐに母さんに言うんだよ」
海斗「うん」
海斗が黙って受話器を奈美に渡した。
奈美「わたし、」
博之「また、連絡するよ。どうしても連絡が必要な時は『パチンコ、モナコホール』に電話をくれればいい」
奈美「うん」
博之「電話番号は、ネットでわかるから」
奈美「うん、わかった」
博之「すまなかったね。謝って済むことじゃないけれど、いつか穴埋めするから」
奈美「うん」
博之「じゃぁ」
博之が電話を切った。




