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紅の鳩  作者: りきやん
第五章
66/77

10

レティシアがその場を通りかかったのは、全くと言っていい偶然だった。

とにかく、炎の手が伸びない場所へ行こうと闇雲に走っていたのだ。


そして、見つけた。

対峙する、アンセルムとロランの姿を。


最初は、何かの見間違いだと思った。

アンセルムが手にした刃物が、ロランに向いているはずがない。

いくら他人の名前を覚えない、平気で金貨をばらまく頭のいかれた男だろうと、友人に牙を剥くなど考えられなかった。

レティシアは、アンセルムが寂しい人間だと知っている。

本当の自分を見て欲しい、偽りではない姿を知って欲しい。

その願いを叶えてくれる唯一の人物を害するなど、あり得ない。

けれども、アンセルムの振るった刃は止まらなかった。

ロランが、死んでしまう。

そう考えた直後、レティシアの身体が前に飛び出す。

ほとんど、条件反射のようなものだった。


「ロー!」


左腕に鋭い痛みが走り、鮮血がほとばしる。

上腕から肘まで深く抉られた傷口が熱を持つ。

背後で、呆然とした様子で呟かれた己の愛称に、レティシアは痛みに呻きながらも、どこか満足していた。

石畳に膝をつき、蹲っていた視界の端、黒いブーツが一歩後ろに下がる。

アンセルムだ。


「レティシア…腕…」


そう言ったきり、アンセルムは黙り込む。

怪我の具合を見ようとしゃがみ込むこともなければ、介抱する様子も見せなかった。

背中を丸め、左腕を庇っているレティシアを、ただ見下ろしている。


「レティ…おい、大丈夫か?!」


その中で、ロランだけが必死に叫びをあげる。

なるべくレティシアの身体を揺すらないように肩を抱き、アンセルムを見上げた。


「おい、アン!俺が殺したいくらい憎くても、何でもいい!けど、レティは関係ないだろ!手を貸せ!」


珍しく、語気が荒くなる。

アンセルムは呆然とレティシアを見つめ、その視線をいきり立つロランへとふと向けた。

引き攣れるように、その口角が上がり、息を吐くように小さな声が漏れる。

目は虚ろで、もはや何者も映さない。

ただ、その手に握ったナイフだけは決して手放さなかった。


「ふふっ…あははっ…ねぇ、なんでだろう?笑いが止まらないよ」


一歩、アンセルムが後ろに下がる。

ロランは荒い呼吸をするレティシアを胸に抱いたまま、その様子に眉を顰めた。

レティシアもまた、下唇を噛み締め、痛みに耐えながら、目の前で口角を上げる男を見つめる。

自虐と嘲笑に溢れた、歪んだ表情。


「シー坊が死んだのは、お前のせいだ!」


途端、血が凍ってしまったかのうように、ロランの全身に寒気が走った。

息が詰まり、吐き気すら込み上げてくる。

金縛りに合ったように、身体が動かない。

かつて、一度も、語気を荒らげることの無かったアンセルムが、怒鳴り散らし、ロランを責め立てる。


「お前があの女と駆け落ちなんかしたばっかりに、シー坊は殺された!だから止めたんだ。駆け落ちなんて、身を滅ぼすだけだって!あぁ、あの時、ふん縛ってでも止めるべきだったって、心の底から後悔してるよ!教えてあげようか?ボクの母さんは、父さんと駆け落ちして、捨てられて、落ちぶれて、気が狂ったんだよ!そう、ボクを父さんの代わりにしようとしたんだ!不幸だよ。とてつもなく、不幸だった!母さんは、ボクを見てくれない。親愛の欠片さえ、注いでくれなかった。あるのは、父さんへの情愛だけ」


アンセルムが言葉を切る。

そして、ナイフを持った右手首を、空いた左手できつく握った。


「でも、シー坊、ロラン、君たちと出会ってからは、違ったんだ。ボクをメルクリオではなく、アンセルムとして見てくれる、君たちが好きだった。それに、レティシア、君は、他の女の子たちとは違う。きっと、これから分かり合えるような、そんな気がしたんだ。毎日、ロランをからかって、シー坊と遊んで、女将さんや親方とおしゃべりして、夜はレティシア、君に会いに行く。そんな生活が続けば、それだけで、ボクは満足だったんだ」


一筋の涙が、アンセルムの頬を流れ落ちる。

顎を伝って滴り落ちた粒は、乾いた地面へ吸い込まれて、消えていった。


「お前のせいだ。ロランが、フランシーヌへの愛など望まなければ良かったんだ。そうすれば、今だってきっと、シー坊も親方も、女将さんも生きていた。ロランが、周りにいる人たちを大切にしていれば、こんなことにはならなかった」


アンセルムの左腕が、右手首から離れる。

自由になったナイフがゆっくりと持ち上げられた。

レティシアは息を呑み、身動ぎしたが、ロランは動くことは愚か、言葉を発することすら出来ない。


「気違いの女王を生み出し、全てを壊したロランが大嫌いだ」


アンセルムの青い双眸が、一瞬だけレティシアに注がれる。

その表情が辛そうに歪み、瞼が閉じられた。

そして、ナイフが一閃する。

真っ直ぐに切り裂かれた喉から、血が吹き出し、周囲の炎の色と溶けていく。

小さく空気が漏れる音がし、その場にアンセルムは倒れ伏した。

アンセルムが薙いだ右腕は、間違いなくその本人の喉笛を切り裂いたのだ。

呻き声とも付かない声があがり、倒れた身体が苦しげにくの字に折れる。

地に落ちた刃物が乾いた金属音を立てて転がり滑り、ロランの手が届く距離まで近づいた。


「アン…?」


答える声はない。

ただ静かに、炎を煽る風の音だけが響いた。

目の前に横たわる、男の亡骸は、喉笛を切り裂かれ苦悶の表情で事切れている。

生前の美しさが嘘のように、惨めで、醜い姿だった。


「なん…で」


レティシアを抱いていた腕から力が抜け落ちる。

腕の中に自分を庇って怪我をした女がいることなど、忘れてしまったかのように呆けていた。


「なんで、だよ」


周りから、大切だった人々が消えて行く。

親方、シリル、女将、そして、アンセルムさえもロランの元を去っていった。


『お前のせいだ』


アンセルムの放った言葉が、ロランを雁字搦めに縛り付ける。

他人の死の責任が背中に重くのしかかり、押し潰そうとしている。

そんな中でも、やはり、思い出すのはライラックの色。

あの心優しきフランシーヌの気が狂ってしまった原因が、どこにあるのか考えて、ロランはぞっとした。

もし、駆け落ちに失敗したことが、全ての始まりだったとしたら。


終わらせるのは、自分でなければならない。


「ロー…大丈夫かい?」


気遣わしげに、レティシアが声を掛ける。

けれども、まるで視界に入ってすらいないかのように、無視をされた。

レティシアは無事だった右手を、そっとロランの背中へ回す。

振り払われることは無かった。

幼子を抱きしめるように、レティシアはロランに寄り添う。


「フラン」


例え、その口から他の女の名前が零れようと、レティシアは強く目を瞑り、ロランの背をゆっくりと撫でる。

触れ合った部分は、火傷しそうになるほど熱かった。

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