07
アンセルムが出て行って、一日が過ぎた。
日が落ちて、茜色の光が窓から差す様子を見ながら、ロランはため息をつく。
アンセルムが望む回答をしなかったのは、嫌でも分かっていた。
シリルの殺害があってから、フランシーヌを酷く憎んでいることも知っていた。
それでも、ロランは嘘をつくことは出来なかったのだ。
己の中で、フランシーヌを否定する言葉を、どうしても口にするのが憚られる。
憎しみや、恨み言を吐けば、幼い日の時計台での優しい思い出さえも否定してしまうようで、怖かった。
「ロラン、ぼけっとしてるなら、こっちを手伝っておくれ!」
女将の叱責に、ロランは目を上げる。
あいよ、と気の抜けた返事をして、広げていた帳簿を閉じた。
アンセルムが帰って来ないことなど、特別珍しいことではない。
女将はいつものように、馴染みの娼婦の元で遊んでいると信じてやまないようだ。
もう帰って来ないのではないかと、心配しているのはロランだけだった。
もちろん、杞憂であればと思う。
いくら顔が合わせづらいとはいえ、昨日のような会話で別れを告げるのは、長年付き合いがあるだけにあんまりだ。
ちらほらと増えてきた酒場の客に、給仕まがいの手伝いをするため重い腰を上げる。
手に持った帳簿を片付けようと腕を上げた所で、緩く握っていたせいか、手の中から滑り落ち、ゆっくりと下に落ちていった。
本日何度目かのため息をつき、膝を屈めて、カウンターの影に隠れるように転がった帳簿に手を伸ばす。
その先に、製法が雑だったせいか、歪んでしまった窓ガラスを通して入ってくる夕方の赤い光が、床に波打つように映っていた。
随分と、心を惹かれる光景である。
普段ならどうとも思わないであろう光の揺らめきが、己の不安定な心情と一致しているように思えたのだ。
食い入るように見つめていた時、その光の範囲が突然広がる。
驚きに動きを止めれば、戸口から厳しい声が飛んできた。
「動くな!」
身体が硬直する。
問答無用で押し入ってくる影に、呆然とするしかなかった。
視界の隅に入った制服の意味が分からないほど、ロランは無学ではない。
濃紺の騎士服が、彼らが何者であるかを嫌というほど示している。
フランシーヌと共に捕まった、悪夢のような記憶が首をゆっくりと締めていく。
先頭を切って突入してきた紅茶のように明るい髪色の男には、見覚えがあった。
ロランはカウンターの後ろに蹲り、両手を口に当て息を殺す。
「なんで…?」
頼んだぞ、そうロランに言い置いて、川に飛び込み、行方が分からなくなった気さくな騎士の声。
冷たいエメラルドグリーンの瞳でこちらを見据える黒髪の教育係の視線。
必死に追い縋る、涙を浮かべたフランシーヌの表情。
走馬灯のように頭を過った記憶が、震えるほどの恐怖で身体を縛る。
「騎士様がうちの酒場に何の用だい?!ティボーとシー坊を殺した悪魔の手先に飲ませる酒なんか、一滴もないよ!」
威勢の良い女将の怒鳴り声が飛ぶ。
騎士たちは酒場の方に乗り込んだのか、随分と騒々しい音を立てながらカウンターの前を素通りしていった。
女将に勇気づけられたように、酒場の客たちが一緒になって野次を飛ばす。
火をつけたような騒々しさの中、罵詈雑言を意にも介せず、静かな声が響き渡った。
「降参する者は、捕縛。抵抗する者は、その場で切れ」
金属の擦れる音が響く。
剣が鞘から抜かれる音だ。
その音を耳にしただけのロランの背中にさえ、悪寒が走る。
目の前で見た酒場の客や女将たちは、息を止めて黙り込んだ。
野次が一瞬で止み、静寂が訪れる。
「かかれ」
躊躇いのない号令だった。
僅かな慈悲さえ感じられない。
途端に喚き声や金切り声が上がった。
慌てふためき、逃げ惑う足音。
誰のか分からない断末魔の悲鳴。
すぐにでも、立ち上がり、助けに入らなければならない。
けれども、ロランの足は言うことを聞かず、床に膝をつき、カウンターの影に隠れたまま一向に動かなかった。
何故、騎士団が突然乗り込んできたのだろうか。
今更、かつての逃避行の罪が被されることになったのだろうか。
もし、そうであるなら、この騒ぎの原因が誰であるかなど自明だ。
このまま隠れてやり過ごすことなど許されない。
椅子が、テーブルが、ひっくり返る音がする。
酒場の数少ない客たちがバリケードを築いているのかもしれないが、木製の安価なそれらは、簡単に破られてしまうはずだ。
酒瓶が割れる鋭い音に、忙しなく走り回る騒音のような足音。
カウンターのすぐ隣で行われているはずの殺戮劇。
全身に走る震えに、ロランは両腕で己を抱きしめる。
強く目を瞑り、祈るように瞼の裏にライラックの色を思い浮かべた。
竦む足を叱咤し、立ち上がれ、と狂ったように念じる。
驚いたことに、すんなりと震えが止まり、冷えた手の平に体温が戻って来た。
ロランは息を呑んで、衝動のままに立ち上がる。
目に飛び込んで来たのは、本来の酒場の在り方など見る影も無くなるほどに蹂躙された場だった。
酒瓶を振り回す、鳩新聞を読んでいた顔馴染み。
アルコールに溺れ、いつでも顔を真っ赤に染めていた労働階級の中年の男。
築かれたのであろうバリケードは崩され、椅子とテーブルの木片がそこら中に飛び散っている。
その最奥で行われていた虐殺が視界に飛び込んだ途端、全ての時が止まったようにロランは感じた。
フェルナンの剣に胸を貫かれる、女将の姿。
先程まで、酒場の仕事を手伝えと文句を垂れていた口から、血が吐き出される。
いつでもロランを睨み、時々は笑顔に細められていた眼が大きく見開かれていた。
貫かれた衝撃で丸まった女将の背中が、ゆっくりと後ろへ倒れていく。
「女将さん!」
何故、もっと早くに立ち上がらなかったのだろうか。
何故、帳簿を落とすような真似をしたのだろうか。
何故、言われる前に酒場の手伝いに行かなかったのだろうか。
ロランの頭の中が、疑問と後悔で埋め尽くされる。
手を伸ばし、カウンターから飛び出した。
「逃げろ、ロラン!」
けれども、伸ばした手は女将に届くことなく、強引に出口へと引かれる。
酒瓶を振り回していたはずの、紅の鳩贔屓の顔馴染みが目の前にいた。
「離せ!女将さんが!」
「もう助からねぇよ!」
男に続くように、酒場に居合わせた無傷の者たちが外へと逃げ出す。
女将の安否を確かめたくて、ロランは足を踏ん張り振り返ったが、背後にすぐ騎士が迫っていることに気付いて、抵抗をやめる。
剣を持った強者どもの群れに飛び込むほど、勇気がある訳ではなかった。
歯痒さに、強く下唇を噛み締めながら、どこに向かうでも無く、ただ男の後にひたすら続いて走る。
いつの間にか、手は離れていたが、踵を返して宿に戻ろうという考えは頭に過りもしなかった。
手近にある樽や木箱を道路に投げ捨て、障害物を築きながら無我夢中で前に進む。
異変に気付いた住人たちが、何事かと興味本位で顔を出し、騎士の姿を見つけては真っ青になって悲鳴をあげていた。
裏路地を駆け抜けながら、騒動が大きくなっていく。
混乱した場の中には、好機だとばかりに、手に包丁や棍棒を持って騎士に襲いかかる猛者も出始めた。
抑えこまれていた鬱憤が、一斉に吐出される。
抑圧されていた民衆が怒りの声を上げ、奮起したのだ。
火の灯った松明が、そこかしこで振り回され、投げ捨てられたゴミ屑に引火し炎を呼ぶ。
赤ん坊の布を裂いたような泣き声、怯えて逃げ惑う痩せ細った犬の唸り、女たちの怒号、男たちの雄叫び。
全てが溶けて交じり合い、混沌が腕を広げていく。
夕暮れ時の茜色に染まった街が、更に赤く塗り込められた。