それぞれの決意
部屋で祈るように手を組み、じっと俯いていたフランシーヌは、ふいにその顔を上げる。耳に入ってくる、微かな騒動の音。民の首を広場に晒した次の日のような、ざわついた空気が漂っている。何か起きたのだろうか、と窓へ目を向けた途端、その息を呑んだ。
遠くに、ゆらめく赤が見えた。夕日の悪戯かと思ったが、黒い煙を伴ったそれは、決して幻覚などではない。
炎だった。街の至るところから、火の手が上がっている。
「セルジュ……セルジュ!」
隣室に控えていた黒髪の青年は音もなく現れると、エメラルドグリーンの瞳でフランシーヌを真っ直ぐに見つめた。
「いかがなさいました?」
「何が起こってるの? 炎が上がってるわ!」
「あぁ」
無感動な瞳が、窓の外を一瞥する。そして、事も無げにセルジュは告げた。
「民衆が暴動でも起こしているのでしょう。何が発端かは知りませんが」
「フェルナンは? 騎士団はどうしてるの?」
「出払っております」
「なぜ!」
流暢に紡がれていた言葉が、途切れる。けれども、セルジュはまるで間など開けなかったかのように続けた。
「紅の鳩の根城へ行きました」
途端に、フランシーヌの顔から血の気が引く。セルジュに向ける双眸が見開かれたかと思えば、歪にその口の端を吊り上げた。オーギュストにそっくりの、暗い光をその瞳に湛えて。
「あなたが指示したのかしら? 私は手紙を処分しろと言ったはずよ。それが、何を示しているかくらい、優秀なあなたなら分かるでしょう?」
「えぇ、もちろんでございます。ただ、あの手紙を手にしたのが、件の青年と騎士、姫様、そして私だけでは無かったということでしょう」
セルジュはフランシーヌを伺うように首を傾げた。
「フェルナンの首を切り落としましょうか?」
フランシーヌはゆっくりと目を瞑る。そして、細く、長く息を吐いて、首を横に振った。
「……団長の目に入っていたのならば、そう動くのが当然だわ。彼は何も知らないのだから」
ロラン、とフランシーヌが口の中で名前を転がす。爪が食い込むほどに拳を握り締め、窓の外の炎を見つめる。
「外に出てくるわ」
「おやめください。そんなことをすれば、無事では済まないでしょう」
「でも! ロランに危険が及んでいるかもしれないのに、じっとしていられないわ!」
フランシーヌは、ベッドの下からある一式の服を取り出す。それは、かつて、ロランとの旅路で己を偽る際に身に纏っていた衣だった。3年前と比べると、随分と伸びた髪を一つに纏め、古びて埃を被った帽子の中に押し込める。
「着替えるから、出て頂戴」
セルジュは物言いたげに目を細めたが、深く礼をして、その場を辞す。扉が閉まり、完全に姿が見えなくなった後、フランシーヌは身に纏っていたドレスを脱ぎ捨てた。
「ロラン、お願いだから無事でいて頂戴……」
屈託なく笑う、想い人の表情が瞼の裏に蘇る。一瞬足りとも忘れたことなど無い。例え、敵になろうとも、彼の名誉と幸せのためならば、己の気持ちを押し殺すことさえ出来るのだ。フランシーヌの想いは未だに色褪せず、その形を歪なものへと変化させ続けている。
◆
クロードは、紅の鳩のリーダーとして、静かに己の指示を待ち続ける仲間の視線を受けながら、思案していた。民衆が起こした暴動はまたとない機会、それも、好機である。一人ひとりの顔を見渡せば、そのどれもが決意に溢れた表情をしていた。
隠れ家として使っていた町外れのカフェの窓から、そっと外の様子を伺う。太陽は混乱など知らん顔で沈んで行き、街の至る所で上がった火の手が辺りを明るく照らし出す。
貴族、特に女王への鬱憤が爆発した今、紅の鳩は民衆たちに味方する組織として動くことが出来るのだ。中央徒刑場へ幽閉されている、かつての仲間を混乱に乗じて助けることが可能かもしれない。
「クラリス」
クロードは、ずっと機を伺っていた。女性でありながら、紅の鳩の幹部として所属していた、自身の半身とも呼べる存在。この数年間、何度も助けようと画策したが、一度として成功した試しはなかった。
けれども、大勢で襲撃を行えば、徒刑場へ力づくで侵入することも出来るはずだ。水面下の行動による、思想の定着や識字率の向上を目指していたとは言え、それでは牢に入れられた仲間は救えない。この混乱に乗じない手など、あるはずもなかった。
今、このときのためにこそ、隣国から武器まで密かに輸入して準備をしていたのだ。パイプ役になってくれた男は、こんなときでも部屋の奥にある地下室で、酒でも煽っているのだろう。その豪胆さには舌を巻くばかりだが、彼のおかげで仲間を助ける希望が持てたのだ。
クロードは静かに息を吸うと、まっすぐに前を向く。
「行こう」
室内に強く響き渡った号令に、一同が力強く頷いた。
◆
ロランはただ闇雲に足を動かす。何処へ向かっているのかなど、意識などしていなかった。少しでも足を止めれば、女将が剣で胸を貫かれた場面がまざまざと思い出される。
一体、自分たちが何をしたというのだろうか。紅の鳩の根城になっているなどと、あらぬ嫌疑を掛けられるようなことをした覚えはない。騎士団を使い、ロランの住む宿を改めろと命令した人物を思うと、視界が真っ暗になるような思いだった。
ロランは、まだ心の隅でフランシーヌを信じていた。例え、残虐非道な行いを公然とやり遂げようと、シリルをその手に掛けようと、ロランのことは庇うのではないかと思っていたのだ。お互いが特別な存在であり、絆を、愛情を疑うことなど出来なかった。
それが、どうだろうか。なぜ、宿に騎士団が押し入ってきたのか、女将が殺されることになってしまったのか、頭の中で思考の渦が巻く。その中心は奈落の底に繋がり、ロランを盲目にし、容赦なく呑み込むのだ。
それでも尚、光を求めれば、手を伸ばした先には都合の良い考えばかりが待っている。フランシーヌは、紅の鳩の根城になっている宿が、ロランの住む場所だと知らなかったのではないだろうか。そう考えれば、随分と気が楽だった。
思えば、ライラックの髪を揺らして微笑む少女に、ロランは自分の住んでいる宿の名前や場所を話したことも無ければ、案内したこともない。そう、フランシーヌは、知らなかった。確かな逃げ道がロランの思考の中に生まれる。
火の手の上がる裏路地を駆け抜ければ、いつの日か、アンセルムと共に訪れた中央徒刑場の近くまで来ていた。怒れる民衆たちが門の前に群を成し、固く閉ざされた鉄門をこじ開けて、中に押し入ろうとしている。
門番は地に倒れ伏し、石畳の上にはどす黒い赤い液体が止めどなく流れていた。以前、話したことのある門番だ、とロランは他人ごとのように思う。この民衆たちは、押入ってどうするつもりなのだろうか。
どちらにせよ、自分には関係無いことだとロランは視線を注ぎながらも、そのまま正面を駆け抜けていく。その中に、日に焼けた茶色の髪に、髭を蓄えた、かつて旅人として一度だけ食卓を共にした男がいたような気がしたが、例え本人だとしても、話しかけられるような状況ではない。
ロランはそのまま徒刑場の前を突っ切り、再び路地裏へと身を滑り込ませる。
そこは、時計台へと続く道のひとつだった。無意識に、足がそこに向かっているのだ。
ロランは小さく口角を上げる。どれだけ表面で思考を積み重ねようとも、心の奥深くでは、結局フランシーヌを求めているのだ。そうでなければ、どうして時計台へなど向かうだろうか。
普段と違う表情を見せるこの日ならば、天辺まで登ればフランシーヌがいるような気がした。
裏路地を抜けて行けば、時計台前の少し開けた場所に出る。そこにライラックの色が無いかと、ロランが視線を走らせた時、よく見知った金色を見つける。
「アン……?」
見慣れた上質の上着を羽織った背中に、黒いベルベットのリボンで結ばれた艶やかな髪。振り返ったその顔は、裏路地に打ち捨てられた屑から上がった炎に照らされ、影を濃くしていた。
「生きてたんだ」
小さく、アンの口からため息が零れる。なんとも無機質な声音だった。しかし、ロランは気付かずに駆け寄る。
「おい! 大変なんだ! 女将さんが、騎士団に殺された!」
喧嘩まがいの状態に陥っていたことなど忘れ、ロランはアンセルムに助けを求める。
飄々としながらも、シリルや親方の死に憤っていたことを考えれば、力になってくれると考えたのだ。そのマリンブルーの双眸を見開き、手を差し伸べてくれると信じて疑わなかった。
「あぁ、そうか。そうだよね。でも、女将さんが死んじゃったのに、どうしてロランは死んでないの?」
そのせいで、吐き出された言葉を理解することが出来なかった。
伸ばしかけた手が動きを止め、息が詰まる。炎を背負い、薄っすらと口角を上げて目を細める姿は、何よりも不気味に見えた。
「おい……何、言ってんだ……?」
「もう一度言って欲しい?」
態度は、いつもと変わらない。けれども、その瞳には冷たい光が宿っていた。
「どうして、ロランは死んでないの?」
脳天を鈍器で殴られたような衝撃だった。
嫌にゆっくりと発音された言葉が、ロランの脳に浸透していく。手が震え、こめかみに冷や汗が浮かんだ。
「待てよ……なぁ? 死んで欲しいと願うくらい、俺のことが……」
そこから先は、言葉にならなかった。
走馬灯のように、アンセルムとの思い出が頭を過る。嫌だと言っているのに娼婦の元へ引きずられ、潰れるまで酒を飲まされた。何もないところからトランプを取り出し、周りを喜ばせ、人好きの良い笑みを浮かべている。シリルの情操教育に悪い知識ばかり教え込もうとして、何度も怒鳴り散らして引き剥がした。
ろくなことがなかったが、それでも、下らないことで馬鹿笑いし、お互いの背中を叩き合った唯一とも呼べる友人。
その男が、自分の死を願っている。
いつものように、おどけた様子も無く、ただ淡々とした嘲るような視線がロランに刺さる。
「仕方ないなぁ」
シリルが我儘を言った時に、甘んじて受け入れるような言葉だった。小首を傾げれば、その美貌が一層映える。
「この混乱の中で死んじゃえば、誰が殺したかなんて分からないよね?」
上等な上着の懐から、鈍く光る刃物が取り出される。それを手に取り、アンセルムは切っ先を真っ直ぐにロランへと向けた。
積み重なり膨れた憎悪の感情が、牙を剥いて、ロランに襲いかかった。




