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紅の鳩  作者: りきやん
第五章
58/77

02

アンセルムは宿を出ると、裏道を足早に抜ける。

以前は治安もそれなりに良かった場所だが、今では夜の1人歩きは例え男でも危険だった。

日が落ちてから出歩くなど、正気の沙汰ではない。

恐ろしいのは、人だけではなく、感染病や害獣も同様だった。


それでも、アンセルムは出掛けることを辞めない。

目的は、たった1つだった。


「あんた、また来たのかい?」


ライラック色の長い髪を揺らし、目の前の女があからさまに呆れた顔をする。

その頬は酷い青あざに覆われ、剥き出しの薄い背中には鞭で叩かれたような傷跡が残っていた。

明らかに、悪意を持ってつけられた傷跡である。


「レティシアに会いに来たんだよ」


アンセルムは口の端を上げ、できるだけ柔和な表情を作る。

レティシアは、苦虫を噛み潰したような顔をしてから、顎をしゃくって奥のテーブルを指し示した。


「ったく。まぁ、話すだけでお金が貰えるんだ。あたいも文句は無いけどさ」


金貨を床にばら撒き、レティシアと話したいと詰め寄ったあの日から、ずっと続いている関係。

床を共にするでもなく、唇を重ねることすらせず、ただ世間話とも言えるような会話を夜通し交わす。

不思議と、アンセルムの中にレティシアを金で買おうという気は起きず、無理に抱こうとも思わなかった。

欲が出て来た時は、店にいる他の女と寝るだけだ。


最早、定位置となった隅にある木のテーブルへと案内される。

注文はどうするかと訊かれ、アンセルムは迷わずウイスキーのボトルを頼んだ。

躊躇いもしない様子に、レティシアは呆れた顔をするしかない。


「あんたが来ると、金回りが良くなって仕方がないね」

「稼ぎが良かった日は、元締めに虐められないでしょう?」

「その通りさ。正直、助かってる」


言いながら、レティシアは奥へと引っ込む。

赤く傷ついたその背中を目で追いながら、アンセルムはため息をついた。


フランシーヌの悪行の余波は、未だにレティシアを苦しめている。

姫君がいなくなった時は、容姿が似ているからと、客からちやほやされていたというのに、女王となって君臨してからは、見るに耐えない傷跡が増える一方だ。

髪の長さが違うとは言え、商売道具としてフランシーヌの容姿とそっくりなことを謳っていたレティシアへの当たりは厳しい。

以前に比べればいくらか暴力は鳴りを潜めたものの、無くなることはなかった。


レティシアにつけられた傷跡を見るたびに、いつしかアンセルムは不安と同情、そしてやり場の無い怒りを感じるようになっていた。

これは、アンセルムにとっては大きな変化だった。

心が鈍ったように、快楽や悦楽を求めて生きて来た自身が、他人の痛みに対して、ここまで感情を揺さぶられることなど初めてだったのだ。


当の本人に毛嫌いされていることは、それとなく感じ取っていたが、顔を合わせる度にレティシアの態度が軟化していくことに喜びを感じていた。

アンセルム・リヴェットという人間を認めて貰える度に、居場所を与えられたような気になり、心が傾いていく。

シリルが亡くなってからというもの、ロランと女将の隣に居ることが息苦しく感じられ、母親が生きていた頃に戻ってしまったかのようだった。

心が凍ったように動かないのだ。

ロランを見れば、シリルを殺めたフランシーヌの姿がちらつき、意味もなく当たり散らしたい衝動に駆られる。

一方、姿が似ているレティシアを見ても、フランシーヌの事を思い浮かべることは無かった。

これには、アンセルム自身も不思議でたまらない。


「お待ちどうさん」


氷の入ったグラスと共に、栓の抜かれたウイスキーボトルが机に置かれる。

レティシアは琥珀色の液体をグラスに並々と注ぐとアンセルムに手渡した。

礼を言って口をつければ、灼けるような熱さが喉元を通り過ぎる。


「レティシアも飲む?」

「あたいは結構。正体不明になって、あんたとベッドに縺れ込むのは勘弁だからね」

「酔った子に無体なことはしないよ」

「店の女の半分以上を食っといて、どの口がそんなこと言うんだい」


残念ながら、レティシアの言っていることは事実であり、更に言えば半分以上ではなく、目の前で仏頂面をしている女以外とは関係を持ったような気がしている。

アンセルムは言い返せないと踏み、酒を煽ることで誤魔化した。


「あのさ」


黙って様子を伺っていたレティシアが、ふと口を開く。

今日はどんな話しをしようかと思案していたアンセルムは、酒を煽る手を止めた。

普段は、聞き手にまわり、適当な相槌しか打たないレティシアにしては珍しいことだった。

思わず、どんな内容が飛び出してくるのかと期待する。


「ローは元気かい?」


そして、その期待は見事に打ち砕かれた。

自分でも分からないくらいに不可解な感情がアンセルムを襲う。

以前からレティシアがロランに想いを寄せていたのは分かっていたことだ。

今更、腹を立てる必要も無ければ、諦めに似たため息を吐く必要も無い。

いつも気難しい顔しかしないレティシアが、ロランのことを話す時だけは優しく頬を緩ますことも知っていた。

アンセルムは胸の内に生まれた心を引き裂くかのような強烈な感情を消すため、手にしたグラスを一気に煽る。


「病気をしてないかって意味なら、元気だよ」

「どういうことだい?」

「そりゃ、色々あったから、落ち込んでる節もあるんじゃないの」


実際のところ、この数年、まともにロランと会話を交わしていないアンセルムには分からなかった。

傍目から見る分には、変わらないようにも感じられたが、ふとした瞬間にその瞳が曇り、どこか遠くを見つめているのだ。


「ローは…その…ここには…」


レティシアは珍しく言葉を濁し、所在無さげに周囲に忙しなく視線を向ける。

アンセルムはその様子を見ながら、じっと考え込んだ。


もし、ロランを連れて来たら、目の前のライラック色の髪をした女は喜ぶだろうか。

痣と傷で彩られたその顔に、喜色を浮かべてくれるのだろうか。

少しでも、暴虐の女王から受けた被害から救うことができるだろうか。


「ロランに会いたい?」


気がつけば、そう口にしていた。

それだけで、レティシアの表情が見る間に明るくなる。


「会わせてくれるのかい?」


期待に満ちたその顔に、アンセルムは「嘘だよ」と吐き捨てたくなる。

けれども、息を詰めて、その言葉は飲み込んだ。


「いいよ。次来る時は、ロランを誘ってみる」


心が軋んだ音を立てた。

それでも、レティシアが喜ぶならば、とアンセルムは頷く。


「ありがとう!アンセルム!」


初めて、面と向かって名前を呼ばれたことに僅かに瞠目しながらも、アンセルムは複雑な胸の内を心の奥底に押し込めた。

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