過去の繋がり
どうでも良いものは、たくさん持っていた。それこそ、人が羨む程に、様々なものを手にしていた。けれども、望んだものは何ひとつそこには無い。いつでも、欲しいものは手の平を滑り落ちて、音を立てて壊れてしまうのだ。
街灯の無い真っ暗な道を、アンセルムは迷いの無い足取りで歩いて行く。普通の人間ならば闇に恐れをなして、身が竦むような思いをするだろう。周囲を取り巻く静寂に、視界には己の身体さえ映り込まない。
孤独であることを嫌というほど思い知らされる。けれども、アンセルムはそのような思いに囚われることも無ければ、恐怖に身体を強ばらせることも無かった。なぜなら、例え、日のある場所だろうと孤独だったからだ。
『メル……メルクリオ……』
鼻にかかった媚びた声音が耳について離れない。瞼の裏に幽鬼のように髪を振り乱し、一心にこちらを求めてくる女が蘇る。
アンセルム・リヴェットの本名は、メルクリオ・リヴェットという。そして、父親の名前もまた、メルクリオ・リヴェットであった。父親の名前を、母親がそっくりそのまま我が子へと渡したのだ。
気が触れる程に父を愛した母は、姿をくらました父の身代わりとして我が子を据えた。容姿が父親にそっくりだったと言うが、実際に会ったことは無いのでその真偽は分からない。けれども、この見た目のせいで人生の前半は血反吐が出るほどに嫌な思いをした事だけは確かだ。
元々、父と母は貴族の出身だったらしい。とは言っても、母は上級貴族だったので、最下級とも呼べる地位にいた父との結婚が認められるはずもなかった。
そこで2人は駆け落ちをした。
そう、逃避行に走ったのだ。一時の熱に身を任せ、碌な計画もせずに、ただただ愛があれば全てが成せると信じて出奔したらしい。その結果、父は母を捨て、何処かへ去り、母は子を育てるためにドブさらいのような仕事にまで身をやつした。しかし、どれだけ生活が苦しくとも、母は決してその身体を売ることはしなかった。
物心が付く前までは、きっと大切に育てられていたのだと思う。けれども、メルクリオが明確な意識を持った頃から、母は教育に熱を上げた。字の読み書き、数の数え方、食事のマナー、身のこなし方、おおよそ貴族の中で必要だったはずの教養を叩きこまれたのだ。
必要があれば、手を上げられることもあった。その渦中に居た時は、これほどまでに耐え難いことが、人生の中で起きても良いものだろうか、と何度も唇を噛み締めたが、今なら分かる。母親と一緒に居た人生の中で、教育を受けていた頃は、随分と有意義で実りのある時間を過ごしていた。
ひと通りのことを覚えると、母はまず自分のことを名前で呼ぶようにメルクリオに強要した。今まで「母さん」と呼んでいた子供にとっては、不思議でならなかったが、それで母親が喜ぶならば、と名前を口にするようになった。
いつでも仕事で留守にしており、家にいれば疲れた顔をしている母親が、名前で呼んだ時だけはその表情を緩めるのだ。寂しさで胸を満たしていた子供にとって、それは、何にも代えがたい救いであり、母親からの愛情を感じられる瞬間だった。
名前で呼ぶ事に違和感を覚えなくなった頃、母親は唇に口付けるようになった。朝起きた時、仕事から帰ってきた時、夜寝る前。最初は掠めるように落ちていた唇に、だんだんと情欲が篭もり、その舌を以って咥内をまさぐる。
メルクリオは当然、母親に抗議した。
「やめてよ、母さん」
久しぶりの呼び方に、母は目を釣り上げて怒りを露わにした。手近にあった木の器を手に取ると狂ったように、メルクリオに叩きつける。
「私は! あんたの! 母さんじゃないわ! あんたは、メルクリオになるの! あんたは、メルなのよ!」
意味が分からなかった。一体何が母を怒らせたのか理解出来なかったし、話している言葉が同じ言語だとは思えなかった。理不尽な暴力に、身体を丸めて耐えることしか出来ない。
頼れる者が母親しかいないメルクリオにとって、唯一の稼ぎ手である母親に嫌われることは死を意味していた。黙って、母からの口付けを受け入れるしかなかった。
声変わりが終わった頃、母と関係を持った。恐怖と嫌悪から動くことすらままならないメルクリオの身体を、乾いてカサついた手の平でまさぐる。恍惚とした表情を浮かべながら、譫言を呟き続ける女の姿を見ていられなくて、目を瞑って耐え忍んだ。
「メル……帰ってきてくれたのね」
メルクリオの意思など母は求めていない。思い描いた通りの振る舞いや行動をしなければ、厳しい折檻が待っているだけだ。必死に自分を押し殺して、母の思い描く父になろうと努力した。そうでなければ、母からの愛情を失ってしまうであろうことを恐れたからだ。愛に飢えていた子供は、与えられる愛の種類も知らずに訳の分からぬままに手を伸ばして、それを求めた。
背丈が母親を追い抜かした頃、メルクリオは全てを諦めていた。与えられたかったのは、身を腐らせるような情愛ではない。求めていたのは、暖かなひだまりのような親愛。それに気づいた時には、すでに関係を修復するには手遅れだった。
上背が伸び、青年に近い年頃になったメルクリオは、ますます父親に似た。この頃には、母は日常生活の全てに於いて、完璧に父を演じなければ気が狂ったように喚き出すようになっていた。力はきっと、メルクリオの方が強かっただろう。それでも、反抗して手を出すことはしなかった。情愛が、いつか親愛に変わることを期待していたのだ。
器用さを生かして、手癖の悪い商売を始めたのもこの頃だった。お金に余裕が出来れば、母親の心にもゆとりが出来るかもしれない。そうすれば、無闇に身体を貪る関係が、日常の会話や話し合いによって改善されるように思えた。
人通りの多い道で、警戒心も薄く財布を懐から半分覗かせている人間から奪うのは容易い。同じように手癖の悪い連中とつるんで、毎日同じようなことを繰り返した。一日の稼ぎは、母の収入の一ヶ月にも達する時もあった。
また、母親以外の女に手を出し始めたのも同じ時期である。優雅な所作と、美しい容姿に惹かれて来る女を捕まえるのは、容易いことだった。
何を求めて、数えきれない程の関係を結んだのかは未だに分からない。単に、母親の肌の感触を忘れたかっただけかもしれないし、もしかしたら、彼女たちの中に親愛や絆を求めていたのかもしれない。
ただ言えることは、欲に溺れた女たちの顔はどれも同じで、快楽に手を伸ばす姿は醜いということだった。メルクリオの身体は女という存在を求めながらも、心の中では、はっきりと軽蔑していた。矛盾する己に、頭の奥で何かが壊れた音が聞こえたような気がした。
金銭的にゆとりが出来、母も身を粉にして働くこともなくなった。金の出処を聞かれたことはない。母親にとっての興味は、メルクリオがかつての恋人としてそこに居るか否かだった。
「愛してる。メル……メルクリオ……」
薄汚れたシーツの中で囁かれる愛に、メルクリオはその肌に指を這わせることで答えた。
自分は父親ではない。同じ名前であっても、同じ人間ではない。あなたからの親愛を欲している、あなたの子供なのだ。ボクを、ボク自身を見てくれ。そう声を大にして言えれば、どれだけ良かっただろうか。
長い間続けてきた父親と同じ所作、癖、話し方は身に染み付いてしまったせいか、抜けることはない。それが余計に母親の狂気に拍車をかける。
本当に欲しいものは、手の平から零れ落ちていく。どうでも良いものだけが、山のように溢れていた。
そんな母の死は、突然のことだった。病のせいで痩せ細り、骨と皮だけになった手を握る。二度と開かれることの無い瞼を見つめながら感じたのは、安堵だった。
ただ1人の拠り所を喪ったというのに、不思議と悲しみも不安も感じない。湧き上がったのは「やっと解放される」という喜びにも似た感情だった。
スリから足を洗い、代わりに手品を始めた。手元にあった金を賭博につぎ込み、イカサマをすることで資産を増やした。つるんでいた仲間とは手を切り、住んでいた家を後にした。
それから、自分に新しい名前をつけた。路地に打ち捨てられていた新聞の中で、最初に見つけた名前だった。連載小説の中の、登場人物である少年の名前。
目にした当時、その少年は両親と弟たちに囲まれて幸せに暮らしている描写をされていた。貧しいながらも、家では温かいスープと母の笑顔が待っており、弟たちと悪戯をすれば父の厳しい叱責が飛ぶ。特段、描く必要もない日常生活ではないかと思ったが、食い入るように何度も何度も読み返した。
その日から、メルクリオ・リヴェットはアンセルム・リヴェットになった。その後、小説の中のアンセルムがどうなったのかは知らない。
◆
闇の中、裏道を抜けている最中に、ふと人の気配を感じて顔を上げる。アンセルムは足を止めてじっとその正体を探った。向こうも同じようにこちらを見つめているのか、止まったまま動かない。
やがて、ぽつりと低い声が聞こえた。
「メル、か?」
懐かしい呼び名だ、と思うと同時に嫌悪感が背筋を這う。昔の自分を知っている連中に、禄なのはいない。
「誰?」
端的にそう問えば、相手は喜色を浮かべて駆け寄ってきた。
褐色の髪に、真っ黒な瞳。闇に溶けこむようにその場に突っ立っているが、頬の上のそばかすは、はっきり見えた。どことなく誠実そうな表情をしているが、アンセルムは知っている。この男が、どこまでも狡猾で自己中心的な人間だと。
「レミだよ、レミ! 覚えてないのか?」
「あぁ……君か」
抱いた女たちと違い、手を組んでいた仲間のことくらいは覚えている。アンセルムの手先の器用さや、機転、教養に心酔し、崇拝に近い感情を持っていた少年がレミだった。
当時は不器用で地下牢に放り込まれていたところを、気まぐれに助けたこともある。その救済が、余計に崇拝への拍車をかけたらしい。数年経った今でもそれは変わらないらしく、期待に満ち溢れた表情が浮かんでいる。
「やっぱり! 突然いなくなったから、心配してたんだ」
「そりゃどうも」
分かりやすく投げやりな返事を返すが、レミは気にも留めない。再会出来た喜びでずいぶんと浮かれているようだった。あの頃と変わらない、とアンセルムが感想を抱いたところで腰巾着の2人がいないことに気づく。
「バロンとオリバーは?」
年の割には大柄だった少年と、それとは対照的に驚くほど小柄だった少年がいたはずだ。いつも3人でつるんで、片時も離れることは無かった。レミは肩を竦めると、小さく笑う。
「ヘマして死んじまったよ。バロンは戦利品を売っ払う場所に失敗して、とっ捕まって、そのまま断頭台でさよなら。オリバーに至っては、小っせぇ癖に無理に屋根から逃亡しようとしてすっ転んで転落」
至って気にした様子も無く、言ってのける。数年間、寝食を共にした仲間も、レミにとってはそれほど価値があるものではなかったのだろう。
アンセルムが改めて目の前の男を観察していると、身を包む洋服がずいぶんと上等な仕立てであることに気づく。その袖に光るカフスも宝石をあしらった、一級品であるはずだ。
「ずいぶんとお金持ちになったみたいだね」
「あぁ、おかげさまでな」
レミは腕を上げて、アンセルムに自慢する。
「数年前にとんでもなく上手くいった盗みがあってな。そん時の戦利品で俺も有り難いことに大金持ちの仲間入りってやつだ」
聞いてもいないのに自慢を始めるレミに、アンセルムはさっさと別れを告げて宿に戻ろうと口を開きかける。けれども、続いた単語に、身体が凍りついた。
「煙突掃除人のガキを使ったんだ。すごいのな、あいつら。猿みたいに身軽に煙突から中に入って行ったよ。面白いくらいに俺の言うこと聞くから、囮に使ってやったら、良い働きを見せてくれたぜ」
息を詰めて動きを止めたアンセルムに、レミは気付かない。いかにも、自分の行いが素晴らしいことだとでも言う風に胸を張った。
「……それは、3年前の話かい? 貴族の屋敷に入ったっていう? オーギュストがフランシーヌに取って代わった時のこと?」
低く抑えられた声。アンセルムはともすれば、掴みかかりそうな己の中の衝動を押さえ込みながら問う。
「そう! それだよ! 知っててくれてるなんて、嬉しいな。メルとは比べもんにならないけど、結構手際良く出来たと思うんだよ」
「へぇ。どうやって、その子を取り込んだの? 手懐けるのも容易じゃないでしょ」
「ちょっと優しくしてやったらコロッと言うこと聞きやがったぜ。ガキは疑うことを知らないからな。チョロくて助かるぜ」
「ふーん。ちょうど新聞で、その事件を読んだよ。シリルって子だっけ?」
「あー、そうそう。そんな名前。すっかり忘れてた。そういや、あのガキは、処刑されたんだったか? ま、なんにせよ、俺の役に立って死んだなら、誉の極みってやつだろ」
事も無げに添えられた言葉に、アンセルムの目の前が怒りで真っ赤に染まる。これほどまでの激情を、覚えたことは初めてだった。
母親に犯された時でさえ、己の感情はこれほどの昂ぶりを見せなかったというのに。アンセルムは震える拳をそっと解き、口角を上げて目を細める。
「そう。随分と頑張ったんだね」
皮肉と侮蔑を交えたのだが、レミは純粋に喜ぶ。崇拝していた相手が認めてくれたという事実に有頂天になった。
「メルなら褒めてくれると思ったんだ! な、ここで会ったのも何かの縁だろ? 昔みたいに一緒に組もうぜ。バロンもオリバーもいなくなって、やりにくかったんだよ。メルの足手まといにはならないからさ」
「いいよ」
即答にも近い解答にレミは歓声を上げる。
アンセルムは目を細めると、ゆっくりと口角を上げて、乾いた唇を舌でなぞった。レミの行いに許しがたい憤怒を感じるとともに、シリルの命に報いるチャンスに心の片隅で仄暗い喜びを感じた。




