変わり果てた先に
あの惨たらしい、バルコニーの処刑から、3年もの月日が流れた。
街にはボロ布を纏い、通行人に施しを強請るもので溢れかえっている。暗く落ち窪んだ目をした民衆は、少しでも身なりの良い者が通れば、ハイエナのように集るのだ。時には、今日のパンを手に入れようと、通りかかる貴族の馬車の窓にしがみついている者もいた。
少し奥まった道に入れば、打ち捨てられた死体の肉が腐り落ち、蛆虫が湧いているような惨状である。衛生面が悪化した街には、害虫や害獣が溢れ、当たり前のように病が流行った。人々は、できるだけ外出を控え、息を潜めて生活することで、安全を確保している。
フランシーヌの治世になってからというもの、国は坂を転げ落ちるように傾いていった。貴族を擁立し、優先するその姿勢はオーギュストの政治を踏襲したものであると言える。
大臣たちは私腹を肥やし、各領地の税は跳ね上がり、好き放題をする者が随分と増えた。また、戴冠式も行わずに王の地位へと就いたせいで諸外国からの評判はすこぶる悪く、また、女王自身も外交に興味が無かったせいで、国交はほぼ断絶状態だと言っても遜色無い。
海に囲まれ、これといった特産物もあるわけではなく、実りの多い土地を持っている訳でもないこの国は、侵略の対象にならなかったのが、せめてもの救いだった。
ベレニスの宿も、その煽りを受けていた。客足はめっきり減ってしまい、今では、夜に1人、2人の客が来れば良い方だった。
市場がほとんど開いていないせいで、まともな食材を手に入れることが出来ず、提供するメニューは半分以下にまで減ってしまった。
もちろん、宿泊する者などほぼ皆無である。そのような状況でも、なんとか女将とロランが食っていけたのは、他ならないアンセルムのおかげであった。彼は最早、宿の一室を間借りしていると言っても良いだろう。月の収入の半分以上は、アンセルムの懐から支払われていた。
酒場のテーブルの隅に頬杖を突いて座っているロランは、何をするでもなく、ぼんやりと店内に視線を向けていた。厨房では女将が立っているが、彼女もまた包丁をいらいらとまな板に打ち付けているだけで、物を切っているわけではなかった。
ロランとは違うテーブルで、アンセルムはトランプの山札から1枚捲っては、その下に戻すという意味の無い作業を繰り返している。
誰も口を聞かず、重苦しい雰囲気が払拭されることはない。ただただ時間だけが無意味に過ぎていく。
「……ちわ」
酒場のドアが開き、1人の男が入ってくる。以前から、常連客として来ていた人間だった。毎日のように飲みに来ていた男だったが、今では月に1度まで頻度が減っている。
「いらっしゃい」
貴重な客であるにも関わらず、女将は無愛想に言い放つ。立場上、仕方なく発せられたと言っても良いような機会的な挨拶だった。
ロランとアンセルムに至っては、目を向けることすらしない。
男は適当な場所を選ぶと、椅子を引いて、そこに座り込んだ。そして、ビールを注文してから、手にしていた新聞をばさりと開く。ロランの座っていた位置から、丁度、新聞の一面を見ることが出来る。
絵が大きな面積を占めているものの、きちんと文字も添えられていた。薄汚い身なりで、髭も伸びたいようにさせている男だったが、字を読むことは出来るのか、とロランは変な感心を抱く。そして、その大きな見出しの中に「紅の鳩」と言う文字を見つけた。
頭の中に、いつの日か見た、懐かしい騎士団の逮捕劇が蘇る。それと同時に、茶色い髪を揺らして、子犬のように走り回る少年を思い出してしまい、胸が苦しくなった。目頭を抑えて小さく頭を横に振り、思い出を振り払う。
ロランは自然と立ち上がり、男の側に寄った。
「おっさん、その新聞、何て書いてあるんだ?」
「んぁ?」
話しかけられるとは露ほども考えていなかった男は、気の抜けた声を発して顔を上げる。そしてから、手の中の新聞の一面記事に目を落とした。
「フランシーヌへの批判と、民主制の必要性が説いてあるな」
ロランは探るように男の目を見る。このご時世に、フランシーヌの批判などを書けば、間違いなく首が飛ぶ。加えて、民主制の必要性を訴えるということは、王政の廃止を望んでいるということだ。記者はもちろん、新聞会社も見つかればタダでは済まない。
「それ、本当に新聞?」
「知らねぇのか、鳩新聞」
男はほれ、と手に持ったそれを掲げる。左下に小さく鳥を象った模様が入っていた。
「今じゃ読んでない奴の方が少ないな。絵が多くて、読みやすいし」
うん、と男は頷き、挿絵が書かれた部分を指でなぞる。
「噂じゃ、そこかしこに紅のメンバーの隠れ家があるって話だ」
「へぇ。一度解体されたのに、また集まってるのか」
女将がビールのジョッキを持って、こちらに来る。以前よりも色が薄く見えるのは、水が混じっているからだろう。テーブルに置きながら、女将も興味を持ったのか会話に混ざってきた。
「隣国から武器を輸入してるって話は、本当なのかい?」
「すげぇな、そりゃ。初めて聞いたぜ。ベレニス女将は、さすがに耳が早い」
男はジョッキを手に取り、喉を鳴らしながら半分ほど一気に飲み干す。
「国交断絶状態のこのご時世に、隣国に伝手があるなんざ、よっぽど顔の広いやつがいるんだろうなぁ」
「でも、武器を集めてるとなりゃ、ただ新聞出してるだけじゃ済ませないってことだろう?」
「こんな世の中になっちまったしな、早いとこ誰かがあの女の首を取るべきだ、うん。王政だろうが、民主制だろうが、今よりはちったぁマシになるだろ」
あの女、が指すところに、ロランは身を強ばらせる。ただ黙り込むことしか出来ず、喉に石が詰まったように息苦しくなった。
その時、背後でテーブルに拳を叩きつけたような鈍い音が響く。驚いて振り返れば、アンセルムが立ち上がり、こちらを見てにっこりと笑っていた。
「僕も、その通りだと思います。あの暴君の罪は、死で贖われるべきだ」
手元に散らばったトランプを器用に纏めると、アンセルムはそのまま出口へと足を向ける。
「出掛けてくる」
吐き捨てるように掛けられた言葉に、ロランと女将は顔を見合わせるが何も言わなかった。それなりに仲が良かったはずだが、今では一緒に飲みに行くことも無ければ、娼館に無理やり引っ張られることも無い。
気がつけば、アンセルムはいつも難しい顔で虚空を見つめており、道化のように大げさだった言葉回しや身振りはすっかり鳴りを潜めてしまった。人好きのする笑みの代わりに、今では仮面のように微動だにしない完璧な無表情を纏っていることが多い。そうなってしまった原因など、火を見るより明らかだった。
いつしか、ロランとの間ですら軽口を叩かなくなり、今では日に一言二言交わせば十二分な方である。それも、挨拶や宿泊の都合上の必要最低限の会話だけだ。カウンターに座るロランにちょっかいを出し、構ってくれとばかりに声を掛けていたアンセルムの姿はもう見ることが出来ない。
寂しい、という感情はもちろんロランにもある。けれども、フランシーヌのことについてアンセルムのように、はっきりと悪し様に言えないロランは、心の何処かで会話をしなくて済むことに安堵していた。
あの日、見た光景は今でも悪夢に見る。
自分の目で、はっきりと、フランシーヌの友人でもあったはずのシリルを、バルコニーから落とす場面を見たのだ。弁解の余地も無い。
今にも泣きそうな優しい笑顔を浮かべていたはずの恋人は、悪名高き女王へと変わり果ててしまった。
ロランは小さく頭を振る。どうやら、今日の夢見も悪くなりそうだった。




