もう戻れない
シリルに何があったのか。
セルジュに相談した際に、淡々と告げられた事実に、フランシーヌは怒りを隠せなかった。
「どうして!」
やり場の無い怒りを、八つ当たりのようにセルジュにぶつける。
オーギュストがシリルを陥れ、その親方の首を切っていたことを初めて知ったフランシーヌは椅子に倒れこむように座った。責める相手は、己が手に掛け、すでに息を引き取っている。
医者は、その場を引き取っていた。部屋にいるのは、フランシーヌとセルジュ、そして、ベッドに横たわるシリルの遺体だけだ。
シリルを助けられなかった事実は、フランシーヌの罪の象徴だとばかりに全身に絡みつく。目を閉じれば、シリルだけではない、両親やオーギュスト、手に掛けた名も知らない者達、そして、ロランにまで責められているような気がした。
「遺体を、ロランに返してあげましょう」
本来、帰すべき親方は、すでに断頭台の露と消えている。罪人の死体は親族に戻ることはない。彼の亡骸は、何処かに打ち捨てられ、誰かに花を手向けてもらうこともないのだろう。見つけ出して、シリルと一緒に墓に入れてやりたいと思うが、あまりに無謀な願いだった。せめて、少年の死だけでも彼と親しかった者に教えてやりたい。
「お言葉ですが、フランシーヌ様」
静かに聞いていたセルジュが、異を唱える。珍しいこともあるものだ、とフランシーヌは顔を上げた。
「なぁに?」
「そのような行為はお止めになった方がよろしいかと」
「なぜ? 親しかったロランに返してあげるのは、当たり前でしょう」
「あなたが演じていた無慈悲な女王なら、彼の首を切り、広場に晒すでしょうね」
「そんなこと……っ!」
出来るわけないじゃない、という言葉は喉元で霧散した。
貫かねばならないのだ。中途半端に役を演じれば、混乱が生じる。
出自も分からないような少年の遺体を手厚く葬り、親しかった人間の元に返したなどと噂が立っては、この短期間で手をかけた人々の命が無駄になる。ましてや、ロランの元に送り届けたとなれば、再び彼が噂の矢面に立たされるのは目に見えていた。
「でも、首を斬るなんて、そんな、だって、シリルなのよ……」
「それなら、バルコニーから遺体を落とし、殺したと見せかけるのがよろしいでしょう」
確かに、広場に面したバルコニーから身を投げれば、即死は確実だろう。何の罪もない少年を自らの手で放り投げた残酷な人間として、人々に記憶されるはずだ。それに、遠目ならば彼がすでに天上の人となっていることには気づかれない。堂々とシリルの死をロランに伝えられる。
「それにしたって、他に知らせる方法が……」
「手紙や使者で彼の死を教えるように頼むのは、危険でしょう。いつ、どこで、誰が見ているかなど分からないのですから。民衆の面前で、少年を殺したように見せかけるのが一番でしょうね」
フランシーヌは口をつぐむ。
セルジュの言うことは理解できるし、シリルの死を利用すれば、更に自分に関する悪評を立てられるだろう。けれども、親しかった少年の遺体を無碍に扱うことには抵抗があった。
「ロランのためなのでしょう?」
温度のない声音が、フランシーヌの背中をそっと押す。
自身の命を投げ出すことに恐怖は無い。知らない人間の命を奪うことに対する躊躇いも減った。
けれども、知人の死を利用することは、踏み止まっていた一線さえも綯い交ぜにし、境界線を跡形もなく消し去る行為だ。そこに踏み込めば、後は堕ちるところまで、堕ちていくしかない。
「姫様、ご決断を」
王位を継ぎ、民を虐げている今も、セルジュは変わらず姫様とフランシーヌを呼ぶ。そう呼ばれる時だけ、弱音を吐いて、縋っても良いような気になった。
フランシーヌはともすれば口に出てきそうな後悔や無念の言葉を押し込める。ロランのために、罪もない人々を手に掛けた時点で、弱くあることなど許されなかった。
「明日、彼を、バルコニーから落としましょう」
強張った、硬い声が室内に響き渡った。
◆
翌朝、ロランはアンセルムに叩き起こされた。
夜更けまでレティシアとアンセルムの3人で話をしていたせいで、身体を起こすのも億劫な状態だ。おまけに、フランシーヌのことを考え、アンセルムに言われた言葉を何度も吟味していたせいで、眠ったのはほんの数時間前だったと思われる。
布団を被り直して、起こしに来た友人に背を向ければ、普段の所作からは考えられないほど乱暴にベッドから引きずり出された。シリルがもう少し大きくなったら、同じ手を使ってロランを起こすであろうような仕草だ。
「な、なんだよ」
無抵抗のまま、床に落ちたロランはぶつけた箇所をさすりながら、憤然とした姿で立っているアンセルムを見つめる。
普段なら、にこやかな笑みで朝の挨拶を口に乗せるであろう友人は、固く強張った表情をしていた。最近、アンセルムの表情が豊かだな、と他人事のように思いながら、ロランは立ち上がる。
「出るよ」
「待て待て。いきなり人の部屋に来て、ベッドから引きずり落として、そりゃぁないだろ」
せめて、説明をしろ、と言外に伝えれば、アンセルムは待ってられないとばかりに、ロランの手首を掴んで外に連れ出す。
普段の服装と然程変わらない寝間着とは言え、せめてジャケットくらいは羽織りたい。ロランは壁に掛かったそれを、引っ張られながらも思い切り手を伸ばし、何とか手元にたぐり寄せる。片手を掴まれているせいで、袖を通すことが叶わないことに気づき、ロランはアンセルムの手を振りほどいた。
それを気にすることもなく、アンセルムは駆け足と言っても遜色ない速さで進んでいく。ジャケットに袖を通しながら、ロランは再度問いかけた。
「おい、アン。どうしたんだ?」
「いいから、早く」
頑なに質問に答えることを拒む友人に、ロランは首を傾げる。
階段を降りたところで、女将が待ち構えていた。その表情には焦燥が浮かんでおり、のんびりと歩いているロランを見て、苛立たしげに怒鳴り散らす。
「あんたは! こんな時まで!」
「ちょ、女将さん、こんな時って言われても、俺には何があったのか分かんねぇって!」
「シー坊が殺される」
アンセルムの説明は非常に端的だったが、的確にこれから起こり得る事実を伝えていた。ロランは一拍遅れて理解した内容に、眼の色を変える。
「なんで、早く言わねぇんだ!」
「真実かは知らない。でも、みんなが騒いでいる。広場で、シー坊が、殺されるって」
「処刑されるってことか?!」
「分からないよ。とにかく、行って止めないと」
3人は転がるように外に出ると、宿の戸締まりもそこそこに広場に駆け出す。
途中、同じように噂を聞いた者達が、野次馬根性からか広場に向かっているのが目についた。中には、随分と悲壮な顔をしている者もおり、おそらく、シリルのことを知ってる人間なのだろうと予想できた。
辿り着いた広場には、断頭台は設置されていなかった。もし、そこにシリルが立たされていたのであれば、心臓が止まるような思いだっただろう。
「なんだ、噂は間違いだったのか?」
「断頭台も無ければ、首が晒されてる訳でもないね」
「あぁ……良かった。間違いだったんだねぇ」
ロランの隣で、アンセルムと女将がほっと息をつく。集まっていた野次馬たちも、残念そうに顔を顰めている者もいれば、小さな子供が殺されるような事態では無かったのだと息をつく者もいた。
だいたいにして、シリルが処刑されるような事態になるはずがない。
ロランは走ったおかげで、多少まわるようになった頭で考える。フランシーヌが、友人であるシリルを見殺しにするはずがないのだ。
シリルの所在は未だに不明であることに不安は拭えないが、彼の死が突きつけられた訳ではないことに、ロランは安堵した。
「帰ろうぜ。宿の鍵、開けっ放しだろう」
「そうだね。不届き者が強盗に入るとも限らないし」
「アンがいるので、最近有名だからねぇ。金貨狙いの馬鹿者が、来るかもしれないよ」
女将がぶつぶつと文句を言うが、アンセルムからの支払いは、今の宿の主な収入源だ。本人がいる目の前で話すのも滑稽で、ロランは思わず笑いを零す。
その時、背後にいた誰かが大声で叫んだ。
「おい! あそこ!」
釣られるようにして、三人が帰ろうと動かしていた足を止め、振り返る。
途端、上がった悲鳴や動揺の声。皆が注目する先を見て、ロランは頭が真っ白になった。
視線の先には、バルコニーがあった。
いつも、祭典や国事の時に、国王が立ち、演説をする場所だ。豆粒のようにしか捉えられない姿は、顔を判別することすら難しい。それでも、ロランにはそこに立っている者が誰なのかはっきりと分かった。
短くなってしまったライラックの髪が風に揺れている。そして、その後ろでは黒髪の男が控えていた。フランシーヌと、セルジュだ。
その2人だけがいたのであれば、ここまで動揺は走らなかっただろう。しかしながら、あろうことか、フランシーヌの腕の中には茶髪の小柄な少年が抱かれている。
「シリル……なのか?」
呆然とした中で思わず零れた呟きは、誰に拾われることも無く、消えて行く。暴れることもなく、静かにしているシリルは、眠っているようにも見えた。
女王がこれから何をするのかと、民衆は一挙一動を見守ることしか出来ない。バルコニーに少年を連れてきて、一体何を話すことがあるのかと訝しむしかなかった。
フランシーヌが前に進み出る。腕の中で眠ったままの少年に視線を向けることすら無い。
テラスを囲う石造りの柵のギリギリまで来た時、不意にその手が前に突き出された。
重さに耐え切れないとでも言うように、シリルの身体からフランシーヌの手が離れる。
誰もが目を疑った。眠ったままの少年の身体は、重力に従って、堕ちていく。
その下には、石畳の地面が広がっているだけだ。
「シリル!」
気がつけば、大声で喚きながら、ロランはバルコニーの下へと必死に駆けていた。
目の前の人の壁が邪魔で、力加減も忘れて思い切り突き飛ばす。
貴族も、平民も関係なかった。
呆然と人が落下する様を見ている人垣を乱暴に掻き分け、前へと進む。
『僕ね、暖炉を登ってる時に、落ちたらどうしようって、いっつも思っちゃうんだ。暗くて、狭いところは平気だけど、高いところから落ちるのは怖いなぁ』
いつの日か、少年がそう零していたのが、ロランの頭の中に蘇る。その時は、適当な事を言って、宥めすかして終わらせた。
落ちることを恐れていた少年が、煙突の中ではなく、大衆の目前でその恐怖を味わっている。シリルの身体が、空中で不自然な格好を取り、真っ逆さまへ落下する。
石畳は目前まで、迫っていた。必死に手を伸ばすが、最早、間に合わない。
鈍い音が、広場に響き渡った。
きっと、人間を鎚で殴ったり、棍棒で叩きのめせば、このような音が立つのだろう。耳を塞ぎたくなるような、醜い、聞くに堪えない音だった。
水を打ったように、場が静まり返り、誰もがその惨状を目にした。
フランシーヌとセルジュの姿が、何事も無かったかのように、テラスの奥へと消えて行く。
誰かが、絹を裂くような悲鳴を上げた。それを皮切りに、集まっていた人々が喚き、叫びながら、逃げ出して行く。
呆然とした足取りで、ロランは悲鳴をどこか遠くの世界であることのように右から左へと流しながら、シリルの遺体へと近づいた。
「うそ……だろ」
フランシーヌが、このような残酷なことをするはずがない。彼女の友人でもあったはずのシリルを、殺すはずがないのだ。
けれども、先程、自身の目で見てしまった。フランシーヌが、シリルをバルコニーから落としたのだ。それは、疑いようのない事実だった。
「フランシーヌ……!」
隣から、地を這うように低い声が聞こえる。それが、アンセルムから発せられたのだと、ロランには理解できないくらいに、怨嗟に溢れた声音だった。
あれほど、大人になりたいと願い、自分たちの合間を縫って転がるように駆けていた少年が、二度と目を開くことはない。
子供の姿のまま、ついに、手の届かない遠い場所へと旅立ってしまった。鼻の頭に煤をつけて、はにかんだように笑う姿が、目の奥で霧散して消える。
無残に潰れた遺体を見て、ロランは立ち尽くすことしか出来なかった。




