友の死
フランシーヌは自室でじっと1枚の紙を見つめていた。なんのことはない、書き取り用の用紙だ。歴史的な英雄や、大罪人、戦争の名称、内乱の年号など様々な用語が所狭しと並んでいる。
その紙の端に、フランシーヌの名前と寄り添うように黒く塗りつぶされた箇所がある。そっと指でなぞりながら、フランシーヌは細く息を吐いた。
目論見通り、民衆の間ではフランシーヌの噂が耐えなくなった。いつしか、ロランの悪評は掻き消され、フランシーヌへの罵詈雑言で塗り潰されていく。けれども、ここで終わりにしては、ロランは居場所を失ったままだ。
城の中でも、随分と辞めたり、逃げたりした者が多い。使用人がいくらいなくなろうとも、フランシーヌには特に支障は無かったが、無断で逃げ出した者を見逃すわけにはいかない。逃げ出した者を見つけた場合は、文字通り首を切った。
オーギュストを殺してしまった時、あれほど後悔していたのが嘘のように、今は誰かの命を奪うことに躊躇いを感じない。もちろん、自身が手を下していないということも大きいだろう。
命令を下し、他の誰かに、首を切らせる。人の命を奪っているという感覚は、まるで感じなかった。
『馴れってものは、一番恐ろしい。異常だったものが、正常へと変わるのだから、ね』
かつてのオーギュストの言葉が、脳内に蘇る。死者の発言を思い出し、ましてや、自身が手を下した人間の言ったことに妙に賛同してしまうなど、滑稽でしかなかった。
フランシーヌは椅子から立ち上がり、寝るための準備を始める。あれほど、親切にしてくれていた使用人たちも、今ではフランシーヌを見るだけで震え上がり、近づけば蜘蛛の子を散らすように逃げる始末だ。おかげで、入浴も着替えも、今は一人で済ませる方が随分と楽になり、使用人たちには、呼び立てをした時以外は部屋に入るな、と言いつけていた。その命令を下した時の、彼女たちのほっとした顔を忘れはしまい。
ロランと会うために抜け出す時、着替えを一人で出来るように必死で隠れて練習した甲斐があったというものだ。その辺の貴族よりは、よっぽど自分で自分の面倒を見ることができる。
着替えをするために、コルセットを緩めようと手を掛けたその時、ノックが3回響き渡る。このような時間に何の用かとフランシーヌは訝しむが、他ならぬセルジュの用事だ。仕方なく、入るように短く告げる。
「失礼します」
相変わらず表情の読めない顔で、セルジュは室内に一歩踏み出し、後ろ手に扉を閉めた。
「どうしたの、こんな時間に」
「地下牢番から報告です」
「地下牢番?」
また、辞表の提出だろうか。今週で何件目だろうと、ぼんやりと考えたフランシーヌに、セルジュは淡々と告げる。
「姫様が親しくしていたと思われる煙突掃除人が倒れていたそうです」
あまりに淡々とした口調に、何を言われているか分からないことは、多々あった。けれども、これ程までに事態を飲み込むのに時間を要したのは初めてだった。
「……え?」
「現在、隣室に寝かせてありますが、力尽きるのも時間の問題かと」
「ま、待って、どういうこと? 煙突掃除人って、シリルのこと?」
「お会いになられますか?」
フランシーヌは目を見開き、セルジュを押しのけるように廊下に飛び出す。
隣室、と言っても、フランシーヌの部屋からは相当に距離がある。脇目もふらずに通路を駆け抜けるフランシーヌに、近くを闊歩していた騎士や使用人たちは目を剥いた。女王になってからは、ゆったりと周囲を威圧するような姿しか見ていなかったのだ。
まるで、駆け落ちと称して失踪する前のような振る舞いに、周囲の人間は瞠目した。そのようなことにフランシーヌは構っていられるはずもなく、一心の廊下を駆け抜ける。
「シリルっ!」
フランシーヌは扉を叩きつけるように開くと、ベッドの側まで駆け寄る。そこには、間違いなく、苦しそうに呻いているシリルが横たわっていた。
「どうして……何があったの?」
答える声は無い。浅い呼吸を繰り返し、歯を食いしばる姿に、フランシーヌは不安を抱く。
そっと額に手を乗せれば、驚くほどに熱かった。元気づけるために、布団からはみ出たその手を握ってやろうと目を向ける。
そして、その手の平が歪に膨れ上がり、形を崩していることに息を呑んだ。
「な、なんで……シリル……?」
火傷の痕だろうか。素人目にも、黄色い膿が溜まっているその手が、酷い状態であることが分かる。もしかしたら、この熱も風邪などではなく、怪我の部分から菌が入り込み発熱を起こしているのではないだろうか。
「待っててね、今、お医者様を呼んであげるから」
額に張り付いた髪をそっと分けて、フランシーヌは立ち上がる。
苦しそうに呻いているシリルを見殺しにすることなど、出来るはずもなかった。
廊下を駆け抜けたフランシーヌとは裏腹に、いつもの調子で歩いて来たセルジュが部屋に入り込む。命令が下るのを待つように、扉の付近に待機した。
「セルジュ、お医者様を連れてきて」
「その子供を助けるのですか?」
「当たり前でしょう! 私の友達よ!」
「かしこまりました」
セルジュは小さく礼をすると、再び扉を開けて音もなく出て行く。その歩調が、どうにも急いでいるものには見えなくて、フランシーヌは苛立ちを感じてしまう。
なぜ、シリルがこのような状態で地下牢番に見つけられたのか、見当も付かない。彼が良く話してくれていた親方は、さぞ心配していることだろう。
親方がオーギュストに殺されたなどと知る由もないフランシーヌは、そう考えた。
「シリル、もう少しの辛抱よ。きっと良くなるからね」
手を握ってやることすら出来ず、もどかしい気持ちでフランシーヌはベッドの上のシリルを覗きこむ。その口が、小さく動いていることに気づき、そっと耳を近づけた。
「……め、なさ……ごめん……さい」
繰り返される謝罪に、フランシーヌは居たたまれなくなり、その頭をゆっくりと撫でてやる。熱で苦しいのか、手が痛むせいかは分からないが、シリルの目から涙が零れ落ちた。
「おやかた……めな、さい……ごめ……さい」
扉が開く音が背後でする。
慌てて駆けつけて来たのであろう医者が、フランシーヌの姿を視界に入れるなり、恐怖を露わにした。けれども、その表情の変化に気付くことなく、フランシーヌはそれまで周囲に命令や威圧を与えていたことも忘れて、医者に取りすがった。
「お願い、この子を助けてください!」
「へ……っ?! あ、あぁ、か、かしこまりました」
呼び出されて、死刑宣告でもされるのかと怖気づいていた医者は、意外なお願いにうろたえる。以前のように、優しいフランシーヌに戻ったのだろうかと訝るも、その後ろでベッドに寝かされた少年を見て、動揺を隠し医者の顔になる。
「清潔なタオルと、水を持ってきてください」
「セルジュ!」
「すぐにお持ち致します」
みなまで言わずとも、セルジュはフランシーヌの言いたいことを汲み取り、部屋を後にする。
ベッドの側に寄り、柔らかな布団をめくり上げながら医者はシリルの様子を見ていく。その横で、フランシーヌは見守ることしかできなかった。
「随分と、酷い」
「先生、彼は大丈夫ですか? 熱は下がるのでしょうか? それに、手に酷い火傷を負っているみたいで」
「これはまた……」
医者がそっとシリルの手に触れるが、本人は意識不明の状態にも関わらず、痛みに呻いた。
「今夜が峠でしょう。持ちこたえれば、回復も望めますが……」
不用意に切った医者の言葉に、フランシーヌは恐怖に目を見開く。
人の死というものが、如何に耐え難いものなのか、改めて思い知らされる。命令一つで首を刎ねていた自分の行いが、いかに無慈悲なものだったのか、目に見えない亡霊たちに責められているような気がした。
「お願いします、助けてあげてください」
「もちろん、最善は尽くします」
医者は言いながらも、フランシーヌの態度に疑問を抱く。その辺の路地裏に打ち捨てられていそうな少年を、ここまで助けてくれと懇願するのに違和感を感じたのだ。
昔の姫君であれば、そう言った行動に何の不審も抱かなかっただろうが、今は笑いながら人の命を奪うことを命じる女王だ。顔には出さなかったものの、矛盾を感じながら、医者は手当を進める。
シリルが助かれば、フランシーヌは自分も救われるような気がした。彼が命を繋いでくれれば、手を下した亡霊たちもその怨嗟を多少は収めてくれるような錯覚に陥っていたのだ。
月が傾き、日が昇る。薄く白み始めた空には、明けの明星が輝いていた。
シリルがうわ言で呟く声が、掠れ、小さく消えて行く。最早、口元に直接耳を当てなければ聞こえない程に弱くなっていた。
誰が見ても、明らかに命の炎が消えかけていた。
医者は首を横に振り、フランシーヌにベッドの脇を譲る。呆然とその様子を見ていたが、床に膝をつくと、縋るようにその顔に手を滑らせた。
「シリル、シリル。お願い、元気になって」
答えはない。代わりに、苦しそうな呻き声が返ってきた。
「あなたの大好きな親方が、きっと心配しているわ。それに、ロランだって」
一生懸命に呼びかける。少しでも、少年の耳に言葉が届くように。
「ねぇ、元気になって、また一緒にお菓子を食べましょう。あなたの大好きなケーキを、たくさん食べさせてあげるから」
シリルが目を開くことは無い。
その代わりに、何かを求めるように口が動いた。フランシーヌはそっと耳を近づけて、何を言っているのか必死に聞き取ろうとする。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
祈るように、嘆くように、少年の口から謝罪が漏れる。
何に対して謝っているのか、負い目を感じているのか、フランシーヌには最後まで分からなかった。
苦しげに呻いていた声が、ぴたりと止む。慌てて顔を覗きこめば、苦悶の表情が一際大きく浮かび上がり、そして、緩んだ。
糸が切れたように横に垂れた首に、上下していたはずの胸は動きを止めている。
――死が、訪れた。
「あぁ……シリル……シリル……」
震える手を伸ばして、その頬に触れる。まだ、温かいそこには涙の跡が残っていた。
夜が、明けていく。
何事も無かったかのように、太陽はいつも通り顔を出し、窓から朝日を送り込んだ。




