06
突然抱きついたお詫びをしたいなら、一杯付き合え、と連れて来られた先は、レティシアの働く娼館だった。
用心棒を務める男から居心地の悪い視線を浴びながらも、約束した手前、踵を返して宿に帰る訳にはいかない。
ロランは大人しくレティシアの後についていた。
前回と同じテーブルに腰を掛けると、気を利かせたレティシアがグラスに水を汲んで持ってきた。
小さくお礼を言いながら、ロランは口をつける。
生温い水が喉を潤す感覚に、朝から何も口にしていなかったことに、初めて気がついた。
「ロー、また会えて嬉しいよ」
レティシアは腫れ上がった顔で、笑顔を作るが、痛ましさが増すだけだった。
ロランは、無言でグラスを傾ける。
なんと言葉を返せば良いのか分からなかった。
「街中がさ、あんたの駆け落ちの話しで持ちきりで、気が気じゃなかったんだ」
「レティも知ってるのか?」
「そりゃ、もちろん。姫様と…いや、今は女王様か。とにかく、知らない奴はいないよ」
「そっか」
沈黙が場を支配する。
レティシアが気まずそうに視線を落とすのを眺めながら、ロランは水を飲み下した。
「最初さ、ローが戻って来た時は、みんなローのこと悪く言ってたけど、大丈夫だった?」
「あぁ…まぁ、そうだな、うん」
恨み言を抱えた視線が、いくつもこちらを向いていた光景を思い出し、ロランは顔を顰める。
あまり、気持ちの良い思い出ではない。
そこで初めて気がついたが、ここ最近は、周囲の視線が冷たくこちらに向くことは少なくなっていた。
なぜならば、人々の関心はすでにロランではなく、フランシーヌにあったからだ。
まるで、庇われているのではないかと思わせる噂の移り変わりに、ロランは重い息を吐いた。
「最近では、あんまり言われなくなったな」
「だろうね」
知ってる、と言わんばかりにレティシアが笑う。
平民の、それも、下級の民の駆け落ちの話など、今のフランシーヌの凶行に比べれば、噂する価値すら無いものになるのだろう。
両親と婚約者を失い失意の底で気が狂った女王、となれば、彼女が駆け落ちをしていたはずの過去などすぐに忘れ去られていく。
ロランは手にしたグラスを傾ける。
空いた腹を満たすかのように、最後の一滴まで喉に流し込んだ。
グラスが空になったのを見届けたレティシアは、次を持ってくるために、テーブルから立ち上がり、奥に引っ込む。
ロランはその姿を見つめていたが、そこで違和感を感じた。
周囲の視線が、嫌というほどレティシアに向いている。
そこにあるのは、好意や恋慕ではなく、先日までロランが嫌というほど浴びていた嫌悪や憎悪の視線だった。
なぜ、そのような目を彼女が向けられるのだろうか。
ロランは疑問に思う。
その時、玄関からわっと黄色い声が上がった。
何事かと驚いて振り向けば、そこには、今朝方、喧嘩のようなやりとりをした相手がいた。
まさか、ここに来るとは思わず、ロランは焦る。
それはアンセルムも同様だったようで、ロランがこのような場所にいるとは思ってもいなかったようで、珍しく目を丸くしていた。
「ロラン、諦めることにしたの?」
群がる女性を押しのけながら、アンセルムはロランの隣に腰を掛ける。
普段、あり得ないくらいに上手く女をあしらうアンセルムにしては、随分とぞんざいな対応だった。
「諦めるって、何を」
「女王様のこと」
「まさか。なんでそうなるんだ?」
目を丸くしたロランに、アンセルムは落胆したようにため息をついた。
「なんだ。他の女の子でも抱いて、忘れようと努力してるのかと思ったのに」
「お前な」
そこまで不誠実ではない、と反論し掛けたところに、レティシアがグラスに並々と水を汲んで戻ってくる。
ロランの目の前にそれを置きながら、レティシアは隣にいる男の姿に目を吊り上げた。
アンセルムは面白そうにその様子を眺めている。
「帰んな」
にべもなく告げられた言葉を、アンセルムは笑って受け流す。
「酷いなぁ。来たばっかりなのに」
「あんたと話すことなんて、何もないよ」
そのやりとりに、ロランはレティシアが素のままアンセルムと話していることに疑問を抱く。
ただ、そのことについて、口を挟むのは躊躇われたため、どこかで本性がバレてしまったのだろうと自分を納得させるだけにしておいた。
「ボクにもお水頂戴よ」
「欲しけりゃ自分で取ってきな」
「冷たいなぁ」
言いながら、アンセルムはロランの前に置かれたグラスを手に取り、断りもなく口をつける。
ロランとしては、別にどうでも良かったのだが、レティシアはそれこそ目くじらを立てて怒り始めた。
「それは、ローに持ってきた水なんだよ!」
「いいじゃない、別に。ね、ロラン」
「ん?あ、あぁ、まぁ、俺は構わないけど」
「ほら」
勝った、とばかりに笑うアンセルムの表情が、多少意地悪く歪む。
こんな顔も出来るのか、と隣でロランは意外に思った。
いつも、当たり障りのない、万人受けするような表情しか見たことがなかったからだ。
それは、ロランの前でも、シリルの前でも、知らない誰かの前でも崩れることは無く、いつも一緒だった。
「ったく!ほんとに身勝手な男だね。ロー、新しいの持ってくるからちょっと待ってて」
憤然とした足取りで、レティシアが再び奥へと引っ込む。
それを見送りながら、ロランは隣のアンセルムに声を掛けた。
「お前ら、いつの間に仲良くなったんだ?」
「仲良く見える?」
「レティの奴、猫かぶってないだろ」
「レティ、ね。うん。レティシアはボクの前でも猫かぶりをやめたみたいだね」
含んだような言い方に、引っかかりを覚えるがロランは追求することはしない。
アンセルムとレティシアが仲良くなっていようが、言ってしまえば、一緒に寝ていようが自分に関係は無いとばかりに関心が無かった。
「レティシアの怪我、酷いと思わない?」
急に変えられた話題に、ロランは反応が遅れるが、深く頷く。
あの怪我は、転んだって出来るものではない。
それこそ、誰かに殴られでもしないと作れないものだ。
「なんで、あんな怪我してるんだ?」
「フランシーヌ様に似てるからだよ」
「は?」
呆然とアンセルムを見つめ返せば、そんなことも知らないのか、とばかりに小さくため息をつかれた。
「フランシーヌ様が酷いことばかりを繰り返すようになって、姿が似ているレティシアはうさ晴らしとばかりに、客に暴行を加えられる」
「待てよ、そんな、だって、レティはフランじゃない」
「ロランはそう思うかもしれないけど、似ているってだけで、当人と混同する人は結構いるんだよ」
アンセルムはグラスから一口、水を口に含む。
生温いそれは、お世辞にも美味しいとは言えない代物だ。
「もちろん、彼女を怪我させるような暴力を働く人間が悪いっていうのは分かっている。フランシーヌ様にわざと似せていたのが、レティシアだってことも。でもね、やっぱり、元凶は民を蔑ろにして平然としているフランシーヌ様だと思うんだ」
ロランの体温が、冷水を浴びせたように急速に冷えていく。
心臓は早鐘を打ち、アンセルムの次の言葉を待つ瞬間は、まるで、自分が断頭台の上で首を落とされる順番を待っているようだった。
「だからね、ボクはフランシーヌ様が好きじゃない。そんな彼女に傾倒するロランも、正直、見てられない」
アンセルムはむやみやたらと人に対する好悪を口にする人間ではない。
それを分かっているからこそ、ロランは絶句したまま、隣に座る友人を見つめることしかできなかった。
「ロランは遠いところばかり、見すぎているんだ。近くに、もっと大事なものだってあるだろうに。ボクが持っていないものを、沢山持っているのに」
アンセルムがグラスを傾けて水を煽る。
ロランは、そこで初めて目が覚めたような気がした。
自分はフランシーヌのことを愛しており、その自分と親しい友人が彼女に悪意を向けることなど無いのだと、高を括っていた。
だから、友人ももちろん、フランシーヌの凶行を心の底から信じているのでは無い、とどこか楽観的な気持ちでいた。
現実は、違う。
フランシーヌが間違えればその事実を突きつけようとロランに証拠を提示し、盲信しているのであれば目を覚まさせようと躍起になる。
数日前まで一緒にいた優しいフランシーヌが、民を苦しめるようなことをするはずがない、と彼女と会うことも、彼女の所業を見もせずに、ただ信じているだけだったのだ。
両の手で大事に守っていたガラス玉が、ばらばらと音を立ててこぼれ落ちていくような感覚がした。
「どうしたんだい、ロー。この世の終わりのような顔して」
フランシーヌと似た顔の女が、水が注がれたコップをテーブルに置く。
腫れ上がったレティシアの顔を直視することが出来ず、ロランはなんでもないと首を横に振り、差し出された水を一気に飲み干した。