駆け落ちの代償
曲がりくねった、複雑な道のりをロランは迷うこと無く駆け抜ける。ただでさえ暗い路地裏は、日が落ちてからは、さらなる闇に包まれていた。
一心不乱に足を動かしていたものの、ベレニス女将が切り盛りする宿に近づけば近づくほど、その速度は落ちていく。ついには、普段の歩調よりも遅い歩みでロランは足音を忍ばせるように進んでいた。
帰る場所など、宿しかないのだ。
けれども、何も言わずに出て行った手前、再び姿を見せることは気まずいどころの騒ぎでは無かった。特に、事情を知っているアンセルムに、駆け落ちに失敗したことをどう思われるか考えると、情けなさで胸が潰れてしまいそうだ。
動いていたはずの足が、完全に止まる。
途方に暮れたロランは、大きく天を仰いだ。路地の狭い隙間から、星など見えない底なしの沼のように暗い空が見える。
全てを投げ打って出て行ったのだ。今更、都合良くそれを拾いに帰ることなど、出来るはずもなかった。
ベレニス女将、シリル、アンセルム、ティボー親方の顔が走馬灯のように頭を過る。その姿を脳内から追い払うように、ロランは頭を横に振ると、時計台を目指すことにした。
どちらにせよ、もう一度フランシーヌに会って、今後の方針を決めなければならない。それに、路地裏でネズミやゴキブリたちと一緒に眠るよりは、四方を壁に囲まれた、時計台の階段に座って眠った方がましだろう。
残念ながら、時計台に向かうためには、このまま歩みを進め、宿の前を通るのが一番近かった。あまり近づきたくは無かったが、今来た道を戻って数十分かけて迂回するようなことはしたくない。通り過ぎるだけならば、誰の目に止まることもないだろう、と結論付けたロランは再び足を踏み出した。
人ひとりがやっと通れる幅の道を進んでいく。先に見える角を曲がれば、すぐに宿の目の前に差し掛かる。足音を立てずに忍んで通り過ぎるか、一気に駆け抜けるか迷ったものの、現在の時刻であれば、女将は宿に付随している酒場を切り盛りしているはずだ。加えて、アンセルムは外に遊びに行っているだろう。そうなれば、顔馴染みの客に見つかる前に、俯いたまま駆け抜ける方が得策のように思えた。
曲がり角に差し掛かる。
ロランはひと呼吸を置いてから、覚悟を決めて一歩を踏み出す。けれども、駆け出そうと力を入れた足は不自然な形で止まる格好となる。
宿の扉の前にいた、人影にロランは停止を余儀なくされたのだ。それは、相手も同じだったようで、扉に手を掛けたままの姿で止まっている。
「ロラン……?」
まるで、亡霊でも見たかのように、相手の顔色から血の気が失せる。驚愕に見開かれたマリンブルーの瞳が、信じられない、と語っていた。相変わらず美しい、黄金色の髪の毛が、松明の光を浴びて輝いている。
腕に抱えた食材入りの紙袋が、重力に従ってアンセルムの腕から地面へと落ちて行った。
◆
何から話せば良いか、分からなかった。
ロランはもちろん、アンセルムも同じように黙り込んだまま、宿の扉をくぐる。アンセルムが旅先から帰ってきた時は、昨日の今日、顔を合わせていたかのように冗談を言い合えたのが嘘のようだった。
正直、このまま、まわれ右をして逃げ出したかったが、アンセルムは逃さないとでも言うように、ロランの後ろをぴったりとくっついている。促されて辿り着いた先は、案の定、宿の酒場だった。
それほど客入りの良い店では無かったが、どこかその人数が減っているようにも見える。けれども、人数の割にはやかましく騒いでいる人間が多く、隣の人間が何を話しているのか聞き取るのも一苦労だった。喧騒に紛れているせいか、ロランの帰宅に気付く者は誰ひとりとしていない。もしくは、誰もロランがいなくなったことなど、気にしていなかったのかもしれない。
尻込みして、足が止まっているロランを、咎めるように、アンセルムが背中を押した。
厨房では、女将が包丁をまな板に叩きつけるようにして鶏肉を切っていた。その表情からは何も読めないが、手捌きから、どうにも苛立ちが募っているように見える。ロランの長年の勘を信じるのであれば、今、話しかければ、包丁の標的がこちらに向かっても可笑しくはない状況だった。
「女将さん」
やめろ、と止める間も無く、アンセルムが声を掛ける。勇気があるのか、無謀なのか、単に相手の機嫌など気にしていないのかは、分からない。
女将は手を止めず、鶏肉を親の敵のように細かく切り分けている。
「あぁ、アンかい。おかえり」
「言われたもの、買ってきましたよ。あと、もうひとつ、お土産」
「おみやげ?」
女将が、手を止めて顔を上げる。不信感が全面に押し出された顔が、こちらを向く。その瞳がロランを捉えた瞬間、包丁がするりと手を抜けて、まな板に突き刺さった。
「な……な……」
わなわなと、その口が震えている。
女将の様子がおかしいことに気付いた客たちが、ひとり、またひとりと口を閉ざして、こちらに注目し始めた。どんな言葉を掛けるべきか、準備をしていなかったロランは、黙り込んだまま、気まずそうに視線を床に落とす。
「この大馬鹿もん!」
力強く腕を引かれ、さしものロランもたたらを踏む。殴られるのかと覚悟をしたが、代わりに背骨が軋むほどの抱擁がロランを迎えた。
鶏肉の生臭い匂いと、玉ねぎやコンソメが交じり合った、懐かしい香り。先ほどまで、肉を切っていたはずの手で、ぐしゃぐしゃに頭を撫でられて、訳の分からないままに笑いが込み上げてくる。それと同時に、安堵が胸いっぱいに広がり、思わず鼻の奥がつんとなった。
「……ただいま」
絞りだすように呟けば、背中にまわる手の力がより一層強まる。その震えに気づかないほど、ロランは鈍感ではなかった。
「この……大馬鹿もん……っ!」
どうやら、それ以上の言葉が出ないようだ。
視界の端に、興味津々と言った体で覗いている野次馬たちが集まっていたが、ロランは極力気にしないようにした。それよりも、早く解放されないと背骨が折れるかもしれない。
解放を望む、些細な願いが通じたのか、女将はロランを身体から離してくれたが、その代償とでも言うように平手打ちが左頬に飛んできた。完全に不意打ちだったため、避けることも、その手を止めることも出来ず、呆気に取られて女将を見ることしかできない。転びはしなかったものの、首の筋が傷んだかもしれない可能性は否定できなかった。
遅れてきたように、張られた頬が熱を帯び始める。疼くような痛みは、感動の涙も安堵も、全てを胸の奥に押し込めた。残っているのは、危機感だけだ。
「どこほっつき歩いてたんだい! え?!」
鬼が取り憑いている、と言われても、思わず納得して頷いてしまいそうな女将の形相に、ロランはアンセルムに視線を走らせ、助けを求める。けれども、相手は知らん顔で、普段は絶対にしないであろう会計の仕事に勤しんでいた。
野次馬と化していた、まばらだった客たちは女将が怒り狂った途端、先を争うように金を置いて、逃げるように去って行く。中には、釣りはいらないとばかりに、銀貨を机に放って、そそくさと出て行く猛者すらいた。
「あぁ、もう、心配して損したよ! なんで、あんたは、そんなにピンピンしてるんだい!?」
「え、いや、えっと……」
「駆け落ちなんて、馬鹿な真似して! どの面さげて戻って来てるんだ!」
なぜ、失踪の原因を知っているのか、ロランは疑問に思ったが、すぐにその答えに行き着く。思わず、こちらに背中を向けているアンセルムを睨むが、当の本人は笑顔でお釣りを客に返している最中だった。
「どこ見てるんだい!」
胸倉を掴まれて、息が詰まる。蛙を潰したような声が漏れたが、女将が容赦することはなかった。
「あんたがいなくなって、こっちがどれだけ大変だったか! ティボーも……シー坊も……っ!」
最後の方は、言葉になっていなかった。
呻くような声を上げながら、女将は突き飛ばすようにロランを掴んでいた手を離す。よろけた身体を支えることは叶わず、厨房の床に手を突いて、座り込んだ。
般若のような女将の姿に、恐ろしくて震え上がってはいたが、ロランは女将の口から出た名前に嫌な胸騒ぎを覚える。
「女将さん……? 親方と、シリルが、どうしたんだ?」
床に突いた手を、強く握り締める。
セルジュに捕まった際でも、これほどの焦燥は覚えなかった。爪が、手の平に食い込む。心臓は、自分の物では無いように、無意味に暴れまわっていた。
「ティボーは、ティボーは殺されちまったよ!」
頭を鎚で殴られたような衝撃を、ロランが襲った。
女将は思い出しただけで、涙が出るのか、嗚咽が止まることはない。タチの悪い冗談であることを願いながら、ロランは助けを求めるようにアンセルムを見つめる。
丁度、最後の客に手を振り、酒場から追い出したところだった。振り返ったその顔が、いつものような人好きをする笑顔であることを祈ったが、現実は残酷だった。
完全なる無表情で、アンセルムはロランをじっと見つめる。
「シー坊は、行方不明だ」
静まり返った店内に、やけにアンセルムの声が響き渡った。
ロランの視界から、色が遠のいて行く。嘘だよな、と口元まで出かかった言葉は、発音されることなく喉元で霧散した。
手の震えは、未だに止まらなかった。




