釈放
牢に放り込まれてから、どれほどの時間が経っただろうか。ロランは冷たい石畳の上に座り込みながら、両手で顔を覆った。
空腹の度合いから考えれば、まだ数時間ほどしか経過していないようにも思える。しかしながら、絶えず備え付けの便所からの悪臭に苛まれ、食欲が減退しているということも考えられた。始めの方こそ、こみ上げる嘔吐感と戦うのに必死だった。
日の光が全く差し込まず、明かりと呼べるものは牢屋番の灯す仄かなランプしかない。水路からの冷気は、着々とロランから体温を奪っていく。気持ち程度の藁を地べたに均し、その上に座っていたが、冷えを防ぐことはできなかった。
フランシーヌは、どうなったのだろうか。このような扱いを受けるのが、自分だけだと良い、とロランは考える。まさか、姫君を牢屋に閉じ込めるようなことはしないだろうが、部屋には軟禁されるかもしれない。
このまま、死刑になるのだろうか。ひんやりとした空気を肌で感じながら、ロランは身震いする。
フランシーヌがそれを許すとは思えなかったが、彼女の知らないところで秘密裏に行われたのであれば、手は愚か、口を出すことすら出来ないだろう。自業自得か、と嘲笑にも似た笑みがロランの口元に浮かび上がる。一国の王女を連れ出すという、何とも大それたことをしたのだ。こうなってしまった以上、身の振り方を考えることすら無意味に思えて、ロランは思考するのを諦めた。
相変わらず、両手で顔を覆ったまま、ロランはじっと耳を澄ます。
絶えず聞こえてくる水音。牢屋番の灯しているランプの火が立てる音。暖炉の薪が爆ぜる音。放り込まれてから代わり映えのしない音が、周囲を取り囲んでいる。
不意に、その中に微かな足音が紛れ込む。ロランは暗い中で、さらに目を瞑り、懸命に耳を傾ける。地上から降りて来ているのだろうか、足音が階段の方から近づいてくる。
やがて、木で出来た扉が軋んだ音を立てて開かれる。ぼそぼそと、地下牢番と話している声が耳に飛び込んできた。
「おい、さっき牢屋にぶちこんだ男を釈放しろって、ラファラン様が」
「あー? まだ半日も入ってねぇだろ」
「知らねぇよ。何でも、姫様の勅命とかなんとか」
「ふーん」
どうやら、すぐに釈放されるらしい。ロランの心は嫌でも浮足立った。
早く、この寒さと悪臭から逃れたい思いでいっぱいだった。けれども、水を差すように椅子を引く音がする。どうやら、使いに来た男は地下牢番と世間話に徹するらしかった。
「しっかし、クリスの野郎の話、聞いたか?」
「クリストフがどうかしたか?」
「団長の話しじゃ、氾濫している川に飛び込んだらしいぜ」
「なんでそんな気違いじみたことを」
「ほら、やっぱ、あの事件……クリスが犯人だったんじゃねぇか? 逃げ道が無いと悟って、一か八かの賭けに出たのかもよ」
「どうだろうなぁ。俺はクリスじゃねぇと思うけど」
「なんでだよ」
「ほら、前に酒瓶が無いって、あのバカ騒いでただろ?」
話し声が止まる。
どうやら、両者とも考え込んでいるらしかった。しばらく沈黙を守っていたものの、使いの男が再び椅子を引く音がする。
「んじゃ、とりあえず、俺はラファラン殿からの命令を片付けてくるよ」
「気をつけろよ。姫様を連れてくような輩だ。何しでかすか分かったもんじゃねぇ」
随分な言い草だ、とロランは鼻を鳴らす。人が見境なく暴れるような猛獣だとでも思っているのだろうか。
足音が近づいてくる。鍵を携えているのか、金属が擦れる音が耳につく。やがて、牢の目の前で止まると、あっけないほど簡単に施錠が解かれた。
「ほーらよ。釈放だ、坊主」
ロランはすぐに立ち上がると、藁を軽く叩き落とす。一刻も早く、この場所から出たかった。
「相変わらず、ひでぇ匂いだな」
「そう思うなら、誰か掃除しろよ」
「いい案だな。これからは、牢にぶちこまれた人間の義務として便所掃除を課すか」
特に考えずに口にした提案が、未来の囚人たちの仕事を増やしてしまったらしい。
ロランは肩を竦めながら、牢の扉をくぐる。二度とこの場所に入れられないことを、祈るばかりだ。さもなければ、自分で自分の首を締めたことになるだろう。
先導して先を行く男に、大人しく従う。牢屋番の男が不躾にこちらを眺め回していたが、ロランは無視をした。
石造りの壁にはめ込まれた木の扉を押し開け、螺旋状に巻いた階段を登っていく。
「どこに行くんだ?」
「城の外以外にどこがあるんだ? それとも、中央にある徒刑場に行きたかったのか?」
「まさか」
冗談でも、中央徒刑場に入りたいなどとは口にしない。あそこには、凶悪な犯罪者しかいないと噂されている。
ロランが気にかかっていたのは、お咎めが一切無いまま釈放されることだった。
「本当に外に出れんのか?」
「姫様がそうしろって言ったらしいぜ」
なるほど、と納得した。
今回の被害者であるとも言えるフランシーヌが、無罪放免を言い渡したのであれば、確かに罪を被せられることもないだろう。せめて、お礼だけも伝えられないかと、ロランは無理を承知で先導する男に頼み事をする。
「なぁ、フランシーヌ様に会うことって出来ないか?」
「そんな簡単に会えるわけないだろ」
「そう、だよな」
そんな簡単に会えない相手と、数日のあいだ行動を共にし、あまつさえ恋仲であることが不思議で仕方がない。
落ち着いた頃に、きっとフランシーヌは再び城を抜けだして、時計台に来るだろう。ロランは楽観的にそう考えを纏め、あっさりと引き下がった。
「ありがとう、って伝えといてくれよ」
目の前の男は胡散臭そうにロランを眺め回した後、鼻を鳴らしただけで、了承の意を返すことは無かった。どうやら、やけに気さくなお礼の言葉が男の反感を買ったらしい。
玄関ホールを通り抜ける。見張りをしているらしい騎士団の団員が興味深そうにこちらを眺めていたが、声を掛けてくることは無かった。
大理石でできているらしい滑らかな床を、地下牢の湿気た空気と汚物を踏みしめたブーツで渡り歩くことに少しの罪悪感を感じつつ、出口へと向かう。
重厚な扉をくぐり抜けた先には、つい数時間前にフェルナンの馬で駆け抜けた、長い道が続いていた。
空は赤く染まり、すでに日が落ちかけている。道沿いに均等に植わっている樹木が長い影を落としていた。
同じ敷地内だというのに、遠く離れた門を目指して歩みを進める。
ロランを牢から連れ出した男は、まるで見張るように隣にぴったりとくっついていた。くたびれているものの、濃紺の制服は一応は騎士団所属であることを示している。けれども、言葉遣いや態度から、さして良い地位にはいないことはロランにも察しがついた。
特に会話も無く、気まずい沈黙を落としたまま、ただひたすらに並んで足を動かす。
早いところ、城門をくぐって解放されたいとロランが切に願い始めた頃、ようやく視界に大きく開かれた門が映った。見上げる程に大きく、立派な門の外には、見慣れた広場の風景が広がっている。
人々が萎縮しながら、早足で歩いているという違いはあれど、数年間暮らした街での見慣れた光景はどこか懐かしく見えた。それと同時に、途方も無い落胆が、ロランを襲う。それ以上、視界に王城前の広場が入ってくることに耐え切れず、綺麗に舗装された石畳の道をじっと見つめた。
数日前、フランシーヌやクリストフと過ごした時間が、幻だったのではないかと思えたのだ。
本来ならば、海の見える、満天の星空と、羊達に囲まれたクリストフの故郷にいるはずだった。フランシーヌやクリストフ、その家族たちと食卓を共に笑い合い、仕事に従事する。小さな教会でささやかな婚儀を上げることも、王都という巨大な檻に戻って来てしまった今、それは叶わない夢と消えた。
フランシーヌは従兄弟のオーギュストと結婚するのだろう。胃のあたりが、引き攣れるような痛みを訴えていた。
「ほら、とっとと行っちまえ」
隣を歩いていた男の投げやりな言葉に、ロランは弾かれたように視線を上げる。気がつけば、片足はすでに王城の敷地から一歩はみ出ていた。
礼を言うべきか迷ったロランは、隣を歩いていた男を振り仰ぐが、その表情があまりにも嫌悪に満ちあふれていたことに狼狽する。喉元までせり上がっていた、ここまで送り届けてくれたことに対する感謝の言葉は、発されること無く飲み込まれた。
鉄の枷を嵌められたのかと錯覚するほど重い、もう片方の足を持ち上げる。そして、王族が住まう敷地と市井の住まう場所を分け隔てる敷地を跨いだ途端、もの言わずに一心不乱に両足を動かした。決して振り返らず、ただひたすらに地面を見つめて駆け抜ける。
あまりにも無力な自分の力を呪うことと、フランシーヌの無事を祈る以外に、ロランにできる事は何一つ存在しなかった。




