文字
ロランが消えてから、ちょうど2日経ったその日。アンセルムは宿のカウンターに腰を掛けて帳簿をつけていた。
女将もショックからある程度立ち直ったのか、夜の酒場に向けての仕込みをしている。2人の間に会話はなく、沈痛な静けさが宿を包んでいた。
アンセルムは帳簿に書かれた文字を、指でそっとなぞる。乱雑ながらも、力強い字体は書いた本人を体現しているようで、意味もなく可笑しく思えた。今頃、駆け落ちした女とよろしくやっているのだろうか。
自分が消えたことで、残された人々にどのような影響を与えるかなど、彼は考えもしなかったのだろう。
ロランのために怒り、金を叩き返した1人の娼婦の顔が浮かぶ。
アンセルムの知る限り、彼女がロランに会ったのは、たった1度きりのはずだ。あの短時間の中で、一体ロランの何が彼女を惹きつけたのか、アンセルムには不思議でならなかった。
小さくため息をついて、アンセルムは羽ペンを手に取る。
ロランと違い、字も自由に書くことができれば、四則演算も滞りなくできる彼は、本来ならば重宝される存在だ。しかしながら、意気消沈している女将がそのありがたさに気付くことは今のところない。
インク壺にペン先を浸し、持ち上げたところで宿の扉が開く。まだ昼前のこの時間に誰だろうと顔を上げれば、そこには馴染みの少年がいた。
「シー坊」
「おはよう、アン!」
にっこりと笑って駆け寄ってくるシリルに、アンセルムは違和感を覚える。彼もまた、ロランが消えたことにより、落ち込んでいる人間の1人だったはずだ。
「やけにご機嫌だね。何か良いことでもあった?」
「うん、ちょっとね」
濁された言葉に言い得ぬ不安を覚えるが、敢えて追求することはしなかった。
子供の機嫌が変わりやすいのは、そこまで不審なことでもないだろう、とアンセルムは結論付ける。
「それよりさ、僕、手紙を書きたいんだ」
カウンターに身を乗り出したシリルの表情は期待に満ちている。果たしてこの少年は文字を書くことが出来ただろうか、とアンセルムは首を傾げた。
「紙とペンなら貸してあげるけど……。字は書けるんだっけ?」
「あのね、書けないから、アンに代筆して欲しいの」
そういうことか、とアンセルムは納得する。手紙の代筆くらいなら、断るような仕事でもない。
「誰宛だい?」
「ロラン」
その名前に、動きかけていた手が止まる。
アンセルムは数回、瞬きをした後、シリルの顔を見つめる。
少年は至って真剣な表情で手元に視線を落としていた。彼の期待を打ち砕くのは、とても心苦しかったが、アンセルムは正直に伝える。
「シー坊、悪いけど、ロランの行き先は僕も知らないんだ」
「でも、お手紙なら届くよね?」
「名前だけじゃなくて、その人がいる場所も知らないと、手紙は届かないんだよ」
突如として知らされた事実に、シリルは目を見開く。
しばらく動作が止まっていたかと思うと、がっくりを肩を落としてうなだれた。
「なんだ。ロランに教えてあげたかったのに」
「何をだい?」
「えっと……」
気まずそうに口ごもったのを見て、アンセルムは笑みを浮かべたものの、心が小さく痛む。
シリルがアンセルムよりも、ロランに信頼を置いていることを、見せ付けられた気がした。
「そうだ、シー坊。ロランの居場所が分かった時のために、字の練習をしようか」
話題を変えるための提案ではあったが、これは効果的だった。シリルの表情が目に見えて明るくなる。
「教えてくれるの?!」
「ボクでよければ」
「やったー! あのね、僕、自分の名前が書きたい!」
お安い御用だとばかりに、アンセルムは手に持ったペンで少年の名前を綴る。流れるように書かれた字に、感嘆の声が上がった。
「アンの字は、細くて綺麗だね」
「そうかい?」
「ロランのは、なんか不格好だもん」
その言い様に、アンセルムは苦笑する。そしてから、シリルが不格好だと言い切った、その字体で名前を綴った。
先程までとは異なる筆記に、シリルは思わず紙を手にとってまじまじと見つめる。
「これ、ロランの字だよね?」
「うん。人の字体を真似するのは、得意なんだ」
「ひえー! アンって本当に凄いね!」
素直に感心しているシリルに、アンセルムは紙を返すよう促す。
手渡されたそれに、ロラン、アンセルムの名前を続けて書いた。
「親方は?」
「こうだよ」
「じゃ、女将さんは?」
「ベレニスの綴りは、こうだね」
リクエストされた通りに書いてやれば、シリルは嬉しそうに再び紙に手を伸ばす。
何度も口の中で上から順に名前を呟き、ひとつ頷いた。
「これ、頑張って覚えるね!」
「また、明日おいで。次は、アルファベットを教えてあげるから。字が書けるようになったら、計算もやろうか?」
「難しくない?」
「シー坊なら、絶対にできるよ。ボクにもできるんだから」
アンセルムは肩を竦める。
もともと、やる気のなかった字の習得や計算を、嫌々ながら母親に叩きこまれたのだ。やる気を持って臨むシリルの方が、覚えは早いに決まっているだろう。
それに、ある程度の教養があることは、今後の役に立つはずだ。
成長し、身体が大きくなってしまえば、シリルが煙突掃除人として働くことは難しい。親方のように独立し、子供を雇うか、他の仕事を見つけるしか生きていく道はなかった。
その中で、字が書け、計算が出来るのであれば、代筆の仕事はもちろん、会計の仕事もできるだろう。
「ありがとう、アン!」
シリルは貰った紙にもう一度目を落とし、はにかんだ笑顔を浮かべた。
◆
シリル、ロラン、アンセルム、ティボー、ベレニス。
上から順にそう綴られているらしいが、シリルにはアルファベットの読み方がよく分からない。フランシーヌという名前の綴りは理解できるものの、自分で書くという行為をしたことが無かった。
それでも、アンセルムに字を教えて貰えるということは、この上なく嬉しい事だ。
帰ったら親方に報告して、目の前で名前を書いてあげようと、紙に書かれた字の形を必死で頭に叩き込む。
ふらふらと路地裏を歩きながら、手近に転がっていた石を手に取る。そのまま地面に引っ掻くように、見よう見まねで字を書いてみれば、歪な記号が薄っすらと石畳に浮かんだ。
アンセルムの美しい字はもちろん、ロランに似せて書いてある乱雑な字と比べてみても、遠く及ばない程に歪んでいた。
「難しい」
ぽつりと呟いて、手に持った石を捨てる。
親方に披露する前に、もう少し綺麗に書けるようになりたいとシリルは思う。もう一度、アンセルムの元へと戻ろうかと振り返るが、それよりも良い場所があることに気付いた。
紙も羽ペンも、彼女なら惜しげなく提供してくれるだろう。そして、ロランの失踪に関することも、知っている可能性が最も高い。
居場所さえ分かれば、手紙で、親方へのプレゼントの当てが出来たことを報告するのも可能になるはずだ。
シリルは手に持った紙を折り畳み、ポケットに突っ込むと、一気に路地裏を駆け抜けた。




