悪だくみ
時は少し遡り、アンセルムと雑貨屋の前で別れたシリルは、親方の元へと戻っていた。
アンセルムには強がりを言ったものの、シリルは落胆を隠せない。そこにいるのが当然だと思っていた相手が、急に姿を消したことに動揺せずにはいられなかった。
素直に謝れば、また一緒に親方のプレゼントを探してくれるだろうと思っていたのに。それがまさか、昨日の今日で旅立ってしまうとは想像すらできなかった。
アンセルムはすぐに帰ってくると言っていたが、その「すぐ」が、どれくらいの期間を指すのか見当もつかない。
粗末な布で口元を覆い、シリルは暖炉の中を登っていく。ともすれば、煤で手足が滑りそうになるのを必死に堪える。
煙突掃除人の仕事は、常に死と隣り合わせだ。背後に感じる暗闇の恐怖に、背中から真っ逆さまに落ちていく自分の姿が時折頭を過り、レンガに掛けた手に力が入った。
毎日同じ作業を繰り返そうとも、この恐怖だけは拭うことができない。
暗闇の中、空中に身体が放り出されて、まだ煙の燻る薪へと叩きつけられ、息が止まる。
小さく身震いをし、シリルは嫌な想像を頭から追い出す。
ロランがいなくなってしまったことで、気が滅入っているのか、その想像はいつもよりもしつこくシリルに付き纏った。
手を伸ばし掻き出すようにして、灰が詰まっている箇所を綺麗にする。暴れるように立ち上がった煤煙に、思わず目を瞑り、咳をするが、レンガに掛けた手だけは離さない。
しばらく作業を繰り返せば、煤は大分取り払われ、綺麗になった。
このまま下に降りれば、仕事は完了だ。けれども、シリルは目を上に向ける。
もう少し上れば、屋根の上に出られるだろう。シリルは、仕事の合間に屋根の上で景色を眺めるのが好きだった。
レンガに掛けた手を、上へと伸ばす。隙間から見える青空が、とても近く感じた。
◆
煙突から這い出た先に広がるのは、普段走り回っている見慣れた街並みだった。
視線を彷徨わせれば、屋根の端に梯子を見つけた。どうやら、庭からも登ってくることが出来る構造になっているらしい。
誰が何の目的で設置したのかは分からないが、再び煙突を辿って下へと降りるよりは、こちらを使う方がよっぽど恐怖は薄れそうだった。しかし、暖炉の下で待っている親方と依頼人がいる手前、勝手に外から戻るわけにはいかない。
シリルは、改めて眼下に広がる風景へと目を向ける。
ここが貴族の屋敷であるせいか、いつもよりも高い場所から見下ろすことができた。
もしかしたら、まだロランがこの街の中にいるのではないかと、目を細めてその姿を探してみるが、到底見つかるはずもない。
何故、ロランがこの街で、自分や女将、アンセルム、親方、そしてフランシーヌと過ごすことを辞めて出て行ってしまったのか、理由が分からなかった。
フランシーヌと共に駆け落ちをしたことなど、微塵も知らない少年は、当のフランシーヌに同情を寄せる。紙くず同然のメモ書きすら、大切そうにしまっていた彼女が、ロランの出奔を知っているのか、それだけが気になった。
忙しなく動き回る人々の姿を、ぼんやりと視線で追う。
青い空の下、どこにいるとも分からないロランを思い、シリルはその小さな身体には似つかわしくない重い溜息を吐き出した。
◆
「遅い! 何をぐずぐずしていたのかね?」
暖炉へと、やっとの思いで降りてきたシリルを出迎えたのは、いつもの親方の優しい労わりの言葉ではなく、依頼人の叱責であった。
突然怒鳴られると思っていなかった少年は、驚いて身を竦ませる。その様子に、親方は眉尻を下げた。
「すみません。旦那様のお家の煙突が立派なもんで、掃除に時間が掛かったんでしょう」
「ふん。掃除のためとはいえ、こんな薄汚い餓鬼を部屋に入れるなど……」
真っ黒な髪を必要以上に撫で付け、ポマードを塗りたくって固めている依頼人が、鼻を鳴らす。揃えられた鼻下の髭が、嫌味なようにカールをしていた。
「さぁ、出てった出てった。仕事は終わったんだろう?」
無造作に放り投げられた銅貨が、床に散らばる。
これほどまでに、態度の悪い客を相手にしたのが初めてだったシリルは怒りに顔を歪ませて口を開こうとする。けれども、それを遮るように親方が言葉を挟んだ。
「ありがとうございます。では、私どもはこれで失礼します」
床に這いつくばり、投げられた銅貨を親方が拾い上げる。
依頼人はその姿を見て、歪んだ笑みを浮かべた。その表情に気付いたシリルが、煤で真っ黒に汚れた口元のあて布を、綺麗に掃除された絨毯に叩きつけてやろうと手を振り上げる。しかし、再びそれを見咎めた親方が、素早く手首を掴むと有無を言わさず外へと連れ出した。
廊下を小走りで駆け抜け、正門から外へと出た途端、シリルが怒りをぶちまける。
「親方! 悔しくないの?!」
「シリル、仕方がないんだよ」
「だって、あいつ! 僕だけじゃなくて、親方のことまで笑ってた!」
親方は困ったような笑みを浮かべて、煤で手が汚れるのも構わずにシリルの頭を撫でる。
「シー坊。時にはね、我慢をしないと」
「親方は悔しくないの?! 文句言うなら、自分で煙突を登って掃除すればいいんだ」
ぶつくさと文句を言い続けるシリルに、親方は銅貨を握らせる。いつもより、少し多めに渡されたことに気が付き、少年は口を閉ざした。
「さぁ、今日は特別だよ。好きなお菓子を買っておいで」
「でも……」
「私だって、腹が立たない訳じゃないんだ。シリルが頑張って掃除してくれたのに、あんなことを言われてはね。今日はもう仕事は終わりだから、遊んで来ると良い」
腹が立つと言っている割に、朗らかな表情をしている親方が、シリルには理解できない。
大人になるために必要な我慢というものが、少年にはまだ備わっていないのだ。
シリルは受け取った銅貨を強く握り締める。そして、くるりと背を向けると、そのまま屋敷の外まで一気に駆け抜けた。
◆
門の外へと飛び出し、路地へと続く角を曲がったところで、シリルは人にぶつかった。その拍子に、手に持った銅貨が転がり落ち、地面に尻もちをついてしまう。
「悪いな、坊主。大丈夫か?」
ぶつかられた方は、何ともなかったらしく平然と立っていた。転んでしまったシリルに手を貸し、立たせてやると共に、地面に落ちた銅貨を拾って返してやる。
「怪我は?」
問われて、シリルは首を横に振る。そして、恐る恐る、自分がぶつかった相手を見上げた。
褐色の髪に、真っ直ぐにこちらを見つめる黒い瞳。頬の上のそばかすが特徴的な、どことなく誠実そうな雰囲気を持つ青年だった。
背はそこまで高くないものの、一般の成人男性の平均はあるだろう。服装も、普段シリルやロランが着ている粗末な服よりは、行く分か高級な生地のようだった。
怖がっているシリルに気付いたのか、青年は笑みを浮かべた。その時に、白い歯が覗く。
「悪かったな。金は全部あるか?」
渡された銅貨をシリルは慌てて数える。
今日はお菓子を買わずに、親方のプレゼントのために貯金をするつもりだったのだ。
手の中に貰った銅貨が揃っていることを確認し、シリルは安堵の息をつく。これ以上、不用意に落としたりしないよう、ポケットへと仕舞いこんだ。
「大丈夫。ありがとう」
「おう。前見てなかった俺が悪いしな」
どことなく、青年のしゃべり方がロランに似ていることにシリルは気付く。途端に沸き起こる親近感に、自然と口が動いた。
「あの、お兄さん。名前は? 僕はシリルって言うの」
「シリルか。俺はレミだ」
レミは右手を差し出すと、シリルと握手を交わした。
「なぁ、シリル。お前、こっから出てきたのか?」
くい、とレミが親指で示した先は、いけ好かない主人のいる屋敷だった。
何故そのようなことを聞くのだろうと疑問に思いながらも、シリルは頷く。
「その格好……煙突掃除人だろ? 庭だけじゃなく、家の中まで入ったんだよな?」
「それがどうしたの?」
「実は……」
レミはシリルの視線まで膝を折って屈むと、耳元で囁く。
「俺の大事なもん、ここの主人に盗まれちまったんだ。それを取り返したくてよ」
「え?!」
「すれ違い様に、欲しいから寄越せってよ。で、そのまま召し上げられて、俺は泣きを見たって訳だ。貴族ってのは、勝手だよな。自分より下の身分からなら、何を奪っても許されると思ってんだ」
あの主人ならやりかねない。
そう思ったシリルは、素直にレミを気の毒に思った。もし、掃除をするより前に、このことを知っていたなら、屋敷の中を多少は探すことも出来ただろうに。
「ねぇ、レミ。僕、取り返すの手伝うよ!」
先程のことを思い出し、怒りが再び湧き上がってくる。
あの主人に一泡吹かせることが出来るなら、協力を惜しむつもりはなかった。何より、人のものを平然と横取りするなど、許されることではない。
「いや、でもなぁ。お前みたいな子供を巻き込む訳にはいかねぇし」
「大丈夫だよ! 僕なら、煙突からでも中に入れるもん!」
屋根に掛かっていた梯子の存在に、シリルは感謝した。おかげで、屋内への侵入は、道を歩くことと同じように容易だろう。
意気込むシリルにレミは苦笑して首を傾げる。
「ほんとに良いのか?」
「もちろん!」
しっかりと頷けば、レミは観念したのかおどけたように両手を上げる。
「そこまで言うなら、手伝ってもらうかね。まぁ、タダ働きさせる訳にもいかねぇし……」
レミはポケットへ無造作に手を突っ込むと、何かを取り出してみせる。
その手の平に乗っている、金色に光る硬貨にシリルは目を奪われた。
「上手く取り返せたら、こいつをお前にやるよ」
「えっ!? でも、これ、金貨だよ!」
「俺の盗られたもんは、こいつ以上に価値があるってことさ」
レミは金貨を握りこむと、再びポケットへと戻してしまう。その行方を追って、シリルの視線はレミのポケットへと釘付けになった。
もし、上手くレミの盗られたものを取り返せれば、親方へのプレゼントにシガレットケースを買うことができるようになる。レミも大切なものが手元に戻ってくるし、誰にとっても悪い話ではなかった。
「ね、レミ! どうする? 今から取り返しに行く?」
「ばっか。こんな昼間っから屋敷に侵入なんて、捕まりに行くようなもんだろが」
レミは軽くシリルの頭を小突く。
「決行は、5日後の真夜中だ。来れるか?」
「大丈夫。親方に見つからないように抜け出してくるよ」
「あと、このことは誰にも言うなよ。どこで、ここの主人にバレるか分かんねぇからな。貴族ってのは、耳が早くていけねぇ生き物だ」
「絶対に言わない! 約束する!」
「頼もしいねぇ。当日は、俺の仲間を連れてくるぜ。その方が、お前の負担も減るだろうからな」
仲間、と言われて想像したのはアンセルムのような優男だった。レミの友人というものが、どういうものか興味があるシリルは期待に胸を躍らせる。どうしてもロランと被って見えるレミに、知らないうちに心が傾いていく。
「絶対に取り返してあげるからね!」
レミは子犬のように懐いた少年に、小さく笑みを零した。
「頼りにしてるぜ、シリル」
この言葉が、どれほど少年の自尊心を擽ったかなど、改めて記す必要もないだろう。




