蛙の子は蛙
その日は、宿の酒場は臨時休業へと追い込まれた。
アンセルムが買い出しから帰ってきたにも関わらず、依然として女将は椅子に座ったまま、呆然と虚空を見つめているだけである。
宿の帳簿をつけることは出来るものの、調理はおろか包丁すら手に持ったことのないアンセルムには、酒場を女将の代わりに切り盛りすることは不可能だった。なんとか女将を元気づけようと声を掛けるものの、放っといてくれとばかりに、ついには宿から追い出される始末。
アンセルムは鼻先で閉められた扉を前に、大きくため息をついた。
外に出されてしまっては、カウンター業務ですら手伝うこともできない。いつも浮かべている人好きのする笑みはすっかり鳴りを潜め、沈痛な面持ちをしていた。
「ロランの馬鹿」
今はここにいない友人に悪態をついたところで、事態が好転する訳でもない。
たかが女と一緒にいるためだけに、これほどまでに心を痛めてくれている人々を捨てて姿を消すことの出来るロランが、とてつもなく薄情に思えた。
アンセルムにとって、女というのは替えの利く存在でしかない。情欲の篭った目で見つめてくる女たちは、全て同じものに見えた。
『メルクリオ……メル、愛してる』
耳にこびりついて離れない、蜂蜜のように甘ったるい声。ともすれば、鼻の曲がるようなきつい香水の匂いさえ漂っているような錯覚に陥った。
幼い日の記憶は、影のようにアンセルムに付き纏う。
「女なんて」
ロランのように、ただ一人の女性を求め、その他の一切を捨てるような行為は、アンセルムには到底理解出来そうにもなかった。
◆
用心棒が守る扉を抜けて、店内に足を踏み入れれば途端に黄色い声が上がる。アンセルムは人好きのする笑みを浮かべて、朗らかに手を振った。
「アン! 真っ昼間っから来るなんて、珍しいじゃない」
「今日はちょっとね。そういう気分なんだ」
細い腕を首に回してきた、名前も思い出せない黒髪の女性にキスを落とす。啄むだけに留めたそれに、相手は不満そうに頬を膨らませた。
「もっとぉ」
「仕方のない子」
アンセルムは顎に手を掛けると、再び唇を落とす。今度こそ舌を差し入れ、ゆっくりと歯列をなぞれば、我慢できないとばかりに、強請るように絡められる相手の舌を吸ってやる。
自分が満足したタイミングでアンセルムは唇を離すと、蕩けた顔でこちらを見つめている女性の髪を軽く梳いた。
「やっぱり、アンが一番ねぇ」
「ふふ、ありがとう」
人好きのする笑みを浮かべ、アンセルムは流れるように額に口付けてやる。
一人に構っているのも面白く無いので、他の子の相手もしようかと目を上げれば、物言いたげにこちらを見つめているライラック色の髪をした女と目が合った。自国の姫君とそっくりな容姿をした彼女の名前は、嫌でも覚えている。
「フランシーヌ」
そう口にすれば、つい先程までキスをしていた女性が露骨に嫌悪の表情を浮かべる。
「やーね。あんな子、放っときなさいよ」
「どうして?」
「人の真似してるだけのくせに、自分が本当のお姫様だと思ってるおめでたい子よ」
そう言われただけで、アンセルムの中に生まれた興味が払拭されるはずもなかった。逆に、ここまで仲間に嫌われている彼女と話してみたいという衝動に駆られる。
「ごめんね。ボク、ちょっとあの子と話してくる」
「えっ?!」
絡められた腕を解き、アンセルムは納得がいかないとばかりに目を釣り上げている女を宥めることもせず、背を向けた。そして、以前、フランシーヌと名乗っていた者の前へと進み出る。
「ボクに何か言いたいことがあるのかな? お嬢さん」
人好きのする笑みを浮かべて、問いかければ、話しかけられるとは思っていなかったのか、驚いたように目が丸くなる。そして、無理に口角を上げようとしているのか、不自然に引き攣った表情が浮かんだ。
「いえ……何でもありませんわ。不躾に見るような真似をして、ごめんなさい」
しかし、その視線が誰かを探すように彷徨ったことに、アンセルムが気づかないはずもなかった。意地が悪いと思いながらも、探しているであろう人物の名前を口にする。
「ロランに会いたかった?」
フランシーヌの真似をしている女は、図星を指されたことに居心地が悪そうに身体を揺するが、観念したのか小さく頷いた。
「ボクとお話しない?」
素早く彼女の手を取ると、その中に金貨を握りこませ、アンセルムは微笑む。女は嫌がるように手を引いたが、掴む手に力を込めれば、諦めたのか大人しく従った。
店の奥まった場所にある、木の椅子とテーブルが用意されている場所へ連れて行く。先に席につくように促し、その対面にアンセルムは腰掛ける。
実のところ、以前、出会った時から、好んで他人のふりをする目の前の女と話してみたいと思っていたのだ。
「あの……」
席に掛けたまま、微笑んでいるだけで言葉を発さないアンセルムに痺れを切らしたのか、女の方から口を開く。
「ロラン様は、今日はご一緒じゃないのですか?」
また、ロランだ。
アンセルムは胸中でため息をつく。こうも会う人間が、ロランのことを気にかけているという事実に、少なからず嫉妬心が芽生える。そのせいか、自然と悪意のある言葉が口を突いて出てしまった。
「ロランは、もう来ないよ」
「あぁ……このような場所は、好まれないのですね」
「ううん。愛した女と駆け落ちしちゃったんだ」
あからさまに、息を呑んで動きを止めた女を、アンセルムは相変わらず人好きのする笑みを浮かべたまま見つめる。
娼婦と言えども、まだ年頃の少女とも呼べる年齢。たった一度会っただけの青年に対して淡い恋心を抱いていたとしても、なんら不思議はない。
傷ついたような、複雑な表情を浮かべた相手の感情を踏み躙ったことに、アンセルムは奇妙な満足感を覚えた。
「馬鹿だよねぇ。わざわざ、逃げ出さないといけないような相手と恋に落ちるなんて。ロランって前から融通利かないとこがあったけど、今回ばかりは呆れちゃった」
「そんな……」
「本当に信じられない。何も考えずに飛び出すなんて、浅はかとしか言いようが無いよ」
「ローのことっ……悪く言うな!」
机に拳を叩きつけ、女が立ち上がる。その目には憎悪が溢れており、唇は怒りで震えていた。
直接怒りの矛先を向けられて、アンセルムは我に返る。いくら気が立っていたとは言え、八つ当たりのようなことをし、あまつさえもロランの悪口を口にするなど。
己のあまりにも感情的すぎる行動に、アンセルム自身が呆然とする。
「ごめん。酷いことを言い過ぎたね」
謝罪を口にしたところで、目の前の女の機嫌は直らない。立ち上がったまま、下唇を噛み締めて、悔しそうにこちらを睨んだままだ。
さすがに、言いすぎたと感じたアンセルムは、手を翻し何もないところから薔薇を取り出す。怒りに歪んだ顔に、一瞬だけ驚きが現れたが、すぐに元の表情へと戻ってしまう。
「ボクさ、手品が得意なんだ。これ、もし良かったらお詫びにどうぞ」
花を送られて、機嫌が直らない女はいないはずだ。今まで出会ってきた女性たちを宥めるのと同じ手を使い、アンセルムは薔薇を差し出す。けれども、ライラック色の髪をした目の前の女は必要ないとばかりにそれを払い除けた。
今度はアンセルムが目を丸くする番だった。
「ローのこと悪く言う奴から、何も受けとりたくない」
机の上に、手を取った際に握りこませた金貨すらも叩きつけられる。このような態度を女性に取られたことのないアンセルムは、大いに戸惑った。
思わず手を伸ばすが、女は背を向けると、そのまま奥へと引っ込んでしまう。行き場の無くなった手をそのままに、アンセルムは呆然としてその姿を見つめた。
仲良くしたい訳でもなければ、唇を重ねたい訳でも、ましてや抱きたい訳でもなかった。ただ、他人のふりをするということに関して、話をしてみたいだけだった。ところが、話をするどころか、本当の名前すらも聞き出せない。
意地の悪い気持ちが鎌首をもたげ姿を現し、その意に従うままにロランのことを悪しざまに言うなど。自分がこれほどまでに感情的な人間だったとは。
「所詮、蛙の子は蛙ってことか」
アンセルムは小さく呟くと、明かりを遮るように両目を片手で覆った。




