ロランの失踪
その日、アンセルムは気が狂ったかのような叫び声を耳にして、飛び起きた。丁度、階下にあたる食堂のあたりから、陶器が割れる音や怒声が響き渡っている。
寝起きと多少残っている昨夜のアルコールのせいで、頭の中は霞がかったようにぼんやりとしており、飛び起きたものの、アンセルムは再び横になり、目を瞑った。
宿泊客が喚いて暴れたところで、宿の般若、もとい、宿の女神が制裁を加えて、放り出してくれるだろう。昼ごろまで寝ていようとシーツを引きずり上げたところで、再び喚き声が響き渡る。
「馬鹿息子! こんな紙切れ残して何処行ったんだい!」
紛れも無い女将の声に、今度こそ目が覚めた。その言葉だけで、何が起きているのかを察したアンセルムは、手櫛で髪を整え、簡素なシャツを羽織ると、ブーツの紐を結ぶこともせずに騒音の元へと駆けた。
◆
そっと食堂に潜り込み真っ先に目に入ったのは、手にした紙を握り潰しながら、女将が喚き立ている姿だった。
数少ない宿泊客たちが、何が起きたのかと顔を覗かせているが、誰一人として声を掛けようとはしない。下手に刺激をすれば、逆鱗に触れることは間違いなかった。
ただ一人、何故こんなにも女将が自暴自棄になっているのか理由を知っているアンセルムは、呆然とその様子を見守る。
ロランが出て行ったことが、どこか人事のように感じられた。部屋に行けば、彼がまだベッドの上で丸まっているのではないかとさえ思える。まるで、ロランが駆け落ちしたという実感が湧いていない。
「女将さん?」
このままでは、今後の営業が困難になるくらい、物を破壊してしまうのではないかと危惧したアンセルムは、宥めようと呼びかける。周囲にいた客たちの、アンセルムを見る目に畏怖と尊敬の念が湧いた。
女将はぴたりと静止すると、ゆっくりと振り返る。その表情には、言い表しがたいくらいの怒りと悲しみが浮かんでいた。
「なんだい」
「何があったんですか?」
理由など明確だったが、念のために尋ねる。
女将は鼻息も荒く、手に持った紙をアンセルムに無言で押し付けた。皺が寄ってしまったそれを丁寧に伸ばし、文面に目を落とす。
乱雑ながらも、力強く書かれた文字は、紛れも無くロランのものだった。そこにはたった二言だけ「今までありがとうございました。さようなら」と記されている。そっけない程に短い文章であるが、彼にしては頑張った方であろう。
「部屋はもぬけの殻! こんな紙切れは落ちてる! あたしゃ、どうすれば良いんだい?!」
崩れ落ちるようにして、女将が椅子に座る。木の椅子が不吉な音を立てて、軋んだ。
アンセルムは手紙を畳むと、項垂れる女将の前に跪く。
「アンセルム、あんた、なんか聞いてないのかい?」
縋るような目に、掛けようとしていた慰めの言葉が引っ込む。
アンセルムは沈黙したまま、静かに首を横に振った。いくらアンセルムといえども、ロランが女と駆け落ちした、などという残酷な真実を今の女将に告げることは出来ない。
女将は絶望したように両手で顔を覆うと、呻き声とも取れるような泣き声を上げた。
「ロラン……一体、何処に……」
普段の気丈な態度からは想像できないくらい痛ましい姿に、目を向けることが出来なくなったアンセルムは、手紙を女将の膝の上に置く。
下手な慰めの言葉は、女将を余計に傷つけるだけだろうと考え、何も言わずに立ち上がった。
「女将さん、今日はボクが宿のことをやりますよ」
ロランが働いている姿を幾度となく見ていたアンセルムは、仕事の内容を完全とは言わないものの、それなりに把握していた。彼なりに気遣いをしたつもりだったが、女将はまるで聞いていないようで、ただただ涙を零している。
「買い出しに行ってきますね」
この調子だと、夜の営業のための仕込みの材料も用意していないだろう。そう踏んだアンセルムは、一言だけ声を掛けて、その場に背を向ける。
野次馬たちが、戦々恐々といった体で見守る中、玄関先まで追いかけてきた女将の泣き声に、耳を塞ぎたくなった。
◆
両手いっぱいに食材を抱えたアンセルムは、ぼんやりとしながら通りを歩いていた。
線が細いとは言えど、立派な成人男性ではあるので、特別荷物が重いと感じるようなことはない。ただ、生まれてこの方、家事の手伝いや自炊などをしたことが無いアンセルムには、買い出しというものは実に不可解な行為であった。
食事は注文すれば出てくるものだと考えていたせいか、このように丸々としたじゃがいもや、大きな肉の塊から料理が作られるという事実はある種の衝撃をアンセルムに与えた。
頭の片隅では、今朝方の落ち込んだ女将の姿が目に焼き付いて離れず、うっかりすると叫び声までが耳の奥でこだまする。
普段はロランのことをぞんざいに扱い、怒鳴りつける姿ばかりを目にしていたが、今回のことで、女将がいかに母親としてロランを大切にしていたかを見せ付けられたように思えた。
母親の愛情というものを知らずに育ったアンセルムにとって、それは羨むべきものであった。
シリルがそうであったように、女将もまた、ロランがいなくなるということに対して、涙を流している。
ロランの存在と自分の存在を天秤にかけてみた時、圧倒的にロランの失踪を悲しむ人間が多いことに気付き、アンセルムは虚無感に襲われた。
ここが居場所であると信じて帰ってきたものの、それは間違いであり、そのようなものは世界中の何処にも存在しないのではないかという暗い考えに囚われる。
通り沿いにある雑貨屋の前に差し掛かった時、見覚えのある顔を見つけてアンセルムは足を止める。眉根に皺を寄せながら、ショーウィンドウを睨みつけている姿は、普段の無邪気な姿とはかけ離れていた。
「シー坊。何してるの?」
声を掛けてやれば、シリルは弾かれたように顔を上げる。反射的にアンセルムの名前を呼ぼうとしたものの、美貌の青年に似つかわしくない、両手いっぱいに抱えられた食材を見て言葉を飲み込んだ。
「何、それ」
「んー? 女将さんの手伝い」
「アンが?」
失礼な程に目を丸くしたシリルに、アンセルムは苦笑を返してから、少年が睨むように見ていたショーウィンドウを覗きこむ。そこには、羽ペンや、インク壺、シガレットケースやミルク差しなど、多種多様な雑貨が飾られていた。その中でも、子供が好みそうなブリキの玩具を見つけ、これを欲しがっているのだろうかとアンセルムは見当をつける。値段を見れば、特別高いものでもない。
「買ってあげようか? そのブリキの玩具が欲しいのかな?」
「えっ……」
シリルは返答に詰まるように口を閉じる。普段、子犬のように吠え立てるシリルからは想像できないくらい大人しい様子に、アンセルムは首を傾げた。喜んで飛びついて来るくらいは想像していたのだが、どうやら予想が外れたらしい。
「あ、ううん。いいの。玩具は別にいらない」
「遠慮しなくてもいいのに」
はっきりと首を横に振ったシリルに、アンセルムは肩を竦める。少年はありがとう、と御礼を述べてから、すぐに話題を変えた。
「アンはこれから、宿に帰るの?」
「そうだよ。さすがに、この大荷物で遊びには行けないからね」
「僕も一緒に宿までついて行っていい?」
「いいけど、どうしたの?」
シリルは言いにくそうに下を向いた後、小さな声で呟く。
「あの、昨日のこと、ロランに謝ろうと思って」
アンセルムの表情が固まる。
ロランが今朝出発したことを、正直に答えれば、少年は女将のようにショックを受けるだろう。けれども、嘘をついたとして、それはその場凌ぎにしかならない。
アンセルムは不自然なほど間を開けた後、ゆっくりと口を開いた。
「シー坊、ロランのことだけど……。今朝方、旅に出たんだ」
シリルの目が大きく見開かれる。傍目に見ても分かるほど、少年の顔から血の気が引いていった。
そのような表情をさせてしまったことを後悔しながら、アンセルムは下唇を噛みしめる。両手が塞がっていなければ、きっと、抱きしめていただろう。
「うそ……」
「でも、きっとすぐ帰ってくるよ。ボクと約束したから」
咄嗟に口を突いて、シリルに希望を持たせるような言葉が出てしまった。
失敗して早々に帰ってくることを願ってる、などと、嫌味を投げかけたものの、ロランがすぐに姿を現すとは思えなかった。ほとぼりが冷めるまで、何年、何十年とかかるか分からない。
対してシリルは、アンセルムの言葉を純粋に信じ、悲壮さを漂わせた顔に小さく笑みを浮かべた。
「アンと約束したなら、大丈夫だよね?」
「もちろん。それに、ロランは約束を守る人でしょう?」
「うん。すぐ帰ってくるなら、寂しくないや」
自分を納得させるように、シリルが呟く。けれども、耐えるようにその手が煤だらけの上着の裾を掴んだのを、アンセルムは見逃さなかった。
「あのね、アン。僕、本当に寂しくないんだよ。ロランがいなくても、大丈夫だよ」
「そっか。偉いね、シー坊は」
心配させまいと、必死に言い募る様子に胸が痛む。
寂しいのは、アンセルムとて同じことだった。けれども、その寂しさはロランがいなくなったことから来るものなのか、ロランの周囲の人間が彼の失踪を悲しむ様子に疎外感を感じるからなのか、アンセルムには分からなかった。




