旅立ちの朝
薄い霧に包まれた街並みを見下ろしながら、ロランはフランシーヌを待っていた。
約束の時間よりも、1時間程早い。
会う前に心を落ち着けようと、ロランは努めてゆっくりと呼吸をする。肌寒く感じているはずが、緊張のせいで、手に汗をかいていた。
ぼんやりと景色を眺めていると、ふいに後ろから、足音がする。このような時間に、時計整備の人間が来るはずはない。
そうとなれば、答えは一つだった。
「おはよ、フラン」
振り返れば、思い描いていた通りの姿がそこにあり、ロランは微笑む。フランシーヌはロランの姿を認めると、唇を尖らせた。
「おはよう、ロラン。1時間も前に来たのだから、私が1番だと思ってたのに」
「ざまぁみろ、俺が1番乗りだ」
ロランとフランシーヌは、どちらともなく笑い声を上げる。
これほどまでに、穏やかな時間が、これからも続くのかと思うと、かつて無い幸福に畏怖の念すら湧いた。
腰元まで流れる、ライラック色の髪。今にも泣き出しそうな笑顔。こちらを見つめるコバルトブルーの瞳。
フランシーヌの全てが、愛しくてたまらない。気がつけば、ロランはその手をフランシーヌに伸ばしていた。
「ロ、ロラン?」
「わりぃ、少しだけ」
伸ばされた手に戸惑いを示しながらも、フランシーヌはされるがままになる。
ロランはそっと抱き寄せると、その身体に腕をまわした。
出会ってから9年間。いつも隣にいたけれども、このように直接触れることは一度としてなかった。
平民と、王族。その壁が、今この瞬間、取り払われたのだ。
「ふふ、ロラン。少し痛い」
「ごめん。でも、我慢してくれ」
「もちろん」
フランシーヌの手が、ロランの背中にまわる。甘えるように頬を寄せるフランシーヌの仕草に、ロランはこれ以上は歯止めが利かなくなると感じ、身体を離した。鼻先を掠めるフランシーヌの香りが、とても近くに感じられる。
「さぁ、せっかく早く来たんだ。とっとと、この街から出ようぜ」
「そうね。あ、でも、少し待って」
フランシーヌは胸元で指をくるくると回し始める。何か言いたいことがあるのだろうことを察したロランは、苦笑しながら尋ねてやる。
「どうした?」
「あの、このままの格好で出るのは、良くないかな、と思って……」
フランシーヌの着ているものは、いつもより大人しいデザインと言えども、見る人が見れば、とても高級な織物であることが一目で分かる。このような服装で出かけるのは、貴族だと大声で叫びながら歩いているに等しい。
ロランはどうしようかと悩みかけて、直ぐ様解決法を思いつく。
「俺の服、貸すよ。大きいかもしれねぇけど」
フランシーヌはロランの言葉に目を丸くすると、くすくすと笑い始める。何が面白かったのかさっぱり分からなかったロランは首を傾げた。
「なんだよ?」
「ううん。実はね、ロランに貸して欲しいってお願いしようと思ってたから、その、考えてること一緒だなって思って」
「なるほどな」
フランシーヌの言わんとすることを理解して、ロランも釣られるように笑う。
「ほら、これ。貧民街に行けば、サイズの合ってない服を来てる奴なんて、ごまんといるからな。そこまで目立たないだろ」
鞄から、唯一無二の着替えを取り出して、フランシーヌに手渡す。着替えが無いのは、諦めるしか無い。落ち着くまでは、無駄遣いも出来ないので、新しい服を買うわけにもいかないだろう。
「ありがとう。あと、ジャケットは返すわね」
「いいよ。ジャケットもフランが着とけ。寒いだろ?」
「でも、そしてら、ロランが……」
「大丈夫だ。真冬でも暖炉無しで過ごしてる身体だからな」
少なくとも、フランシーヌよりは過酷な環境に慣れている自信が、ロランにはあった。
「ごめんね、ロラン」
「いいって。今度、御礼してもらうから」
「私に出来ることなら、何でもいいわよ」
「何でも、ね」
ロランはフランシーヌの言葉に苦笑を零した跡、背を向けた。
フランシーヌその意図が分からずに、どうしたの? と尋ねる。
「ばーか。お前が着替えてるところ、見てていいのか?」
「だ、だめ! 絶対だめ! 私が良いって言うまで、後ろ向かないでね!」
「早くしないと、見るからな」
「意地悪!」
背中越しにフランシーヌの気配を感じながら、ロランは時計台の縁から景色を眺める。
そこに並ぶのは、変わることのない街並み。この景色が、この先、どのように変化するかは分からない。何百年先まで、このままかもしれない。
けれども、少なくとも、ロランとフランシーヌに変化は訪れた。平民と王族、という隔たれた壁は無くなり、個人として一緒にいられるようになるのだから。
「ロラン、もういいわよ」
「はいよ」
振り返れば、そこにはだぼだぼの服を着たフランシーヌがいた。あまりに似合わない様子に、ロランは思わず吹き出してしまう。
「全ッ然、似合わない」
「酷い」
「似合ってても微妙だろ」
これで出発できる、と思い、ロランは鞄を持ち上げるが、フランシーヌの手がそれを抑える。
不思議に思って、顔をあげれば、フランシーヌは再び胸元で指をくるくると回した。
「まだ何かあるのか?」
「あのね、私の髪のことなんだけど……」
「髪?」
ライラック色の美しい髪。腰元まで届く長い髪は、フランシーヌの目印でもある。
「切ろうと思うの」
「はぁ?!」
突然の申し出に、ロランの口から素っ頓狂な声が漏れる。
フランシーヌは、ロランが怒ったのかと誤解し、慌てて首を横に振った。
「あの、ロランがこのままが良いって言うなら、切らないんだけど!」
「いや、その、どうして急に」
「この髪、長くて目立つでしょ? もしかしたら、すぐにバレちゃうかもって思って」
「……そうかもな」
「それで、長かったのが、いきなり短くなったら、気付かれにくいかなって」
フランシーヌの言いたいことは、ロランには良く分かった。しかしながら、二の句が継げない。
帽子に入れて、隠すくらいのことなら分かるが、髪を切るなどといった思い切った決断をすることは予想していなかった。
「ね、ロラン。ロランは、私の髪が短くなったら嫌?」
「別に、フランはフランだし……俺は構わないけど」
「じゃ、切ってもいい?」
「フランがいいなら」
フランシーヌはにっこりと、今にも泣きそうなあの笑みを浮かべると、そっとロランの手を取る。
「ロラン、頼めるかしら?」
「俺が……切るのか?」
「えぇ。ロランにお願いしたいの」
ロランはしばし逡巡するが、フランシーヌの手をそっと外すと、鞄から万能ナイフを取り出す。
「後悔するなよ」
「しないわ」
ライラック色の、絹のように流れる髪を一房、手に取る。ナイフを入れようと手を持ち上げたところで、ロランは生唾を飲み込んだ。
「本当に後悔しないか?」
「しないって言ってるじゃない」
「俺、不器用だぞ」
「ロランが切ってくれるなら、どんな髪型でもいいわ」
「坊主でもか?」
「それは嫌」
フランシーヌが笑い、華奢な肩が小刻みに揺れる。それが収まるのを見計らって、ロランはもう一度声を掛けた。
「切るぞ」
今度こそ、躊躇わなかった。
ロランはナイフをざっくりと入れる。あっけないほど簡単に切れたライラック色の髪に、少しの不安を覚えた。
はらはらと、取りこぼした分の髪の毛が風に乗って飛んで行く。それらは、丁度顔を覗かせた朝の光を受けて、まばゆく輝き、まるで魔法にでもかかったかのようだった。
3度もナイフを入れれば、フランシーヌの髪は別人のような長さになっていた。肩につくか、つかないかくらいの長さ。
ロランはおそるおそる、フランシーヌの顔を覗き込む。
「出来たけど、鏡見て泣くなよ」
「もう、後悔しないって言ってるじゃない」
「あれだな、どっちかって言うと、少年みたいになったな」
「好都合よ。その方が、気付かれにくいもの」
フランシーヌが後ろを振り向き、ロランと向かい合う形になる。
しばらくの間見つめ合っていたが、今度はフランシーヌがロランに抱きついた。
「うおわっ!」
ロランは手に持ったナイフを慌てて手放すと、フランシーヌの背を抱きしめる。
「ロラン」
「なんだよ」
あやすように、その背中を叩いてやれば、フランシーヌはロランの胸に顔を埋める。そして、くぐもった声で話を続けた。
「大好きよ。本当に、大好き。これから、ずっと一緒にいられるなんて、夢みたいなの」
「お前な、そういう恥ずかしいこと言うなよ」
「ふふっ、ロラン、照れてる?」
「うっせぇ。それにな……」
ロランはフランシーヌの肩を押し、少しの距離を置くと、掠めるようにその唇に触れるだけのキスを落とした。
「俺のほうが、よっぽどお前のこと好きだよ」
途端に真っ赤になったフランシーヌに、ロランは声を立てて笑う。何かを抗議するように、数回口を開いたが、結局言葉は出てこない。
ロランは鞄を手に取ると、さぁ、と声を掛けた。
「ほら、もう行こうぜ」
朱に染まった頬のまま、フランシーヌは荷物を手に取ると、階段の前まで駆ける。そして、ロランの方を振り向いた。
「ねぇ、ロラン! 街の外まで、競争しましょうよ!」
「あぁ? 俺がお前に負ける訳ないだろ」
「やってみなくちゃ、わからないわ!」
フランシーヌは楽しそうに笑うと、よーい、どん! と声を掛けて、そのまま階段を駆け下りてしまう。
「あ、ずるいぞ! こら!」
「ハンデよ、ハンデ! だって、ロランの方が私より速いんでしょ?」
「このっ……絶対負けないからな!」
ロランとフランシーヌは、住み慣れた街を、後にする。
2人の心の中に、不安など微塵もなかった。一緒にいるだけで、何でも出来るような気分になっていたのだ。
どんなに辛い目に遭おうとも、2人が揃えば、乗り越えられると信じ、疑いすら抱かない。
柔らかな朝日に包まれて、彼らは今までの全てに別れを告げた。




