第九章:嘘の回転木馬
黄金は光を反射するが、その影には決して消えない汚れが潜んでいる。豪華絢爛な扉の向こう側で、死者は生者に仕え、生者は悪魔に魂を売る。地獄への入り口は、いつだって美しく飾られているものだ。
猛烈な逃走の末、サイラスの足には刺すような鈍い痛みが走り始めていた。皮肉なことに、その肉体的な不快感こそが彼を現実へと繋ぎ止めていた。汚染の悪臭、開いた下水道から漂う絶え間ない腐敗臭、そして死の刺激臭。それは彼にとってあまりに馴染み深く、もはや人生の香水と化していた。彼は周囲をさりげなく見渡し、自分を囲む泥と廃墟、そして住民たちの憎悪と嫉妬に満ちた眼差しを確認した。彼は「安全」だった。自分が熟知しているスラムという名の、相対的な安全圏にいた。
しかし、少女の高く澄んだ笑い声が、彼の意識を引き戻した。
「……楽しかったわね。これほどの効果を一度きりしか使えないなんて残念だわ」
少女は冷ややかな満足感を湛えて呟いた。その真意を説明するつもりは毛頭ないようだった。
「……ガキ! 一体何のつもりであの罪人共を爆破しやがった!? 俺たちまで殺す気だったのか、この魔女め!」
サイラスは、顔を両手で覆っている少女に向かって唸った。彼女の指の間からは、天からの呪われた贈り物のような、鈍く不気味な輝きが漏れていた。
「……あらゆる行動には結果が伴うのよ。だからこそ、動く時は計画的かつ計算高くあるべきだわ。あの場を麻痺させるほどの、巨大な『余興』が必要だったの」
少女は手に持っていた物体に頬を寄せた。それは所有欲に満ちた慈愛の仕草であり、同時に、元の持ち主の生々しい血が彼女の頬に薄汚い汚れを残した。
「……お前の演劇じみた愚行のせいで、俺たちのケツに槍をぶち込まれるところだったんだぞ! わけを話しやがれ、この毒蛇が!」
サイラスは詰め寄ったが、マルタは相変わらず自分の行動の理由を明かさなかった。
「……すべては、運命が用意した難題を解決する能力にかかっているのよ。あんたも、あの神学的なデタラメで時間を稼いだ時は、いい飼い犬っぷりだったわね。お陰で早く抜け出せたわ」
少女は歪んだやり方で、サイラスの本質を侮辱しながらも、氷のように冷たい賞賛を与えた。
「……だがもっと自覚を持て! お前の一族は、陰謀だの超自然的なゴタゴタだのを専門にしてるんじゃねえのか!? もっと脳みそを使えよ!」
サイラスが彼女の自称する優越感を無視し、乱暴に吐き捨てると、少女は不自然なほど大声で笑った。その拍子に、指の間から「それ」が露わになった。くすんだ金の太い鎖に、闇のような宝石が埋め込まれたネックレスだ。
「……あんたの無知さは本当に愛らしいわ! 最高の従者だわ、サイラス!」
少女は甘い声で言った。砂糖に包まれた残虐。彼女はサディスティックな喜びを浮かべ、満面の笑みで顔を上げた。
「……何を言ってやがる……お前、マルタ、まさか……」
サイラスの口の中に、冷たい予感と不快な味が広がった。
「……なんて純粋で可愛らしいのかしら。家長は私に、あんたをペットとして飼うことを許してくれるかしらね。あんたのその頑丈さは、魅力的な従者になるわ……あの愚かなウラカが『悲劇的な死』を遂げたと知った後なら、ね」
少女は目に見えて興奮していた。彼女は子供っぽく、しかし禍々しい足取りで飛び跳ねながら遠ざかっていった。
「……待て……死? ウラカがだと?」
サイラスは怪訝に思い、答えを求めて素早く少女を追いかけた。
「……待てよ! あいつは一族じゃなかったのか? 血の繋がった同じ血統だろ。血筋に対する敬意ってもんがねえのかよ!」
サイラスが投げかけた部族的な道徳心は、マルタを心底怒らせたようだった。
「……そんな退屈なことを言わないでよ、脳なしのヘルナンデス。いつまで世界を白と黒で考えてるの!? 血筋なんて財産を相続するための道具であって、涙を流すためのものじゃないわ!」
フェルナンデス一族の冷酷で計算高い性質が、少女の言葉の端々に刻まれていた。
「……気取ったガキの説教なんか聞きたかねえよ。海の掟は知ってる。海賊に港を襲わせたかと思えば、判事に捕まり、親父を殺した犯人に仕立て上げられて世界中に追われる……道徳なんてクソ食らえだ!」
サイラスは指を指して激しく言い返した。演じることに疲れ果てていた。
「……卑しい無知な不届き者ね。最初から私の話を聞いていれば、私に簡単に騙されて、結果的に私を助けてしまうような無様な姿を晒さずに済んだものを」
少女は割れたビンの破片のような鋭い眼差しで言い返した。
「……だから何だよ! 俺が……」
サイラスが少女の欠陥や、その首飾りに込められた裏切りを指摘しようとした瞬間、彼女の圧倒的な気圧に言葉を封じられた。
「……馬鹿馬鹿しい! 当然でしょう! 私たちは違う家系であり、このサメ共の町で生きる人間なのよ。助け合いだの善行だのといった試みは……すべて『危険』なの!」
少女はまるで立場が逆転したかのように、残酷な真実をサイラスに突きつけた。
「……『弱点』だろ。口にするのが恥ずかしい言葉はそれだ」
サイラスは苦々しい表情を浮かべ、通りの先にそびえ立つ歪な多層建築の屋敷へと歩き出した。それは重厚でこれ見よがしな建築の塊であり、港に溢れる無数の船を冷たく見下ろしていた。
「……この怠け者! 私が話してるでしょうが!」
マルタは唸りながらサイラスを追いかけた。彼は精巧な装飾が施された大きな扉へと向かっていた。それは節一つない黒い木材でできており、完璧な木目がその卑猥なまでの富を誇示していた。
「……ここでは誰もが殺し合っているのよ! 私をすぐに始末しなかったからって、聖人にでもなったつもり!? 善人の居場所なんてどこにもないわ!」
マルタは、若者が堕落の社会通念を理解していないことに苛立っていた。
「……あんたを消そうとしなかった奴が、後で平気で背中を刺す。体がまともなうちに片付けるのが正解なのよ。まさか、この町から逃げ出すつもり? この人生から自由になれるとでも? 逃げ場なんてないし、自由もありはしないわ! どこの町、都市、どの一片の土地でも……海の上ですら、待っているのは同じ裏切りと死よ!」
サイラスは少女の執拗な追求に足を止め、重い扉に寄りかかった。少女は彼の内なる葛藤などどこ吹く風で、磨き上げられた階段を上っていった。
「……若い頃にはいろんなことから逃げ切ったが、大人になった今、自分の将来を考えてこなかったことが悔やまれるぜ……」
彼は大仰なため息をつき、苦い実存主義を漂わせた。そして振り返り、少女に不敵な笑みを向けた。
「……だが、お前は俺より何年も長く生きてるんだろ? お前のそのメロドラマの深さは、俺には理解できそうにないな。そうだろ?」
マルタは困惑した。若者の自虐的な風刺を理解できなかったのだ。
「……いいか、俺は二十数年という長い人生の中で、数え切れないほどの修羅場を潜り抜けてきた。……冒険者になって、世界を発見するような重要人物になると思ってたんだがな。……まさか、ゴミ共の下僕になるとはよ」
サイラスは、目的のない千の戦いを振り返り、深い悲しみの表情を浮かべた。
「……何を言ってるの? 私の見てないところで何かキメた? あの狂信者のデカブツ共に変な薬でも飲まされたの!?」
実利的なマルタの知性は、サイラスの実存的な彷徨を処理しきれなかった。
「……結局のところ、すべては『カニの不老不死(無意味な思考)』に行き着くんだよ、マルタ。海を漂う者は、自分の行動に責任を持たなきゃならねえ。その一歩一歩が、陸地に辿り着かせるか、あるいは海のまやかしの自由の中に留まらせるかを決めるんだ」
「……あんたの言ってることは一文字も理解できないわ。黙りなさい、この無学な乞食」
少女はサイラスの哲学よりも、家長──正確には、優秀な見習いであるマルタに毒々しい恨みを抱いているウラカの娘──がこの事態をどう受け止めるかを懸念していた。
「……お願いだから黙って、この不潔な文盲。解決策を考える邪魔よ……」
少女がこめかみを押さえながら吐き捨てた時、彼女はあることに気づいた。サイラスの背中には、岩に叩きつけられた時の生々しい傷が開いたままだ。それにも関わらず、彼はこの惨状を耐え抜いている。もし家長が、先代が長女に残した首飾りを探しているなら、彼女にはアリバイが必要だ。
「……そろそろ入ったらどうだ、若者たちよ」
背後から声がした。それは、冷酷で計算された威厳を纏った、整った制服に身を包んだ長身の男だった。
「……だからこそ、潜る時には考慮すべき……って、カレウチェと判事の旦那のお出ましじゃねえか……」
サイラスは少女をからかうための独り言を唐突に切り上げた。
「……やあ。大峡谷の連中の若者よ、挨拶させてもらおう。それから、行方不明になっていたお嬢さんも。君の失踪で、あの売春宿は大騒ぎだったよ」
男は優雅かつ落ち着いた口調で言ったが、その眼差しはサイラスの肉体を通り越し、骨まで貫くようだった。この隙、強制的に作られた一瞬の油断を少女は見逃さなかった。彼女はサイラスの背中の傷口の一つに手を突っ込み、彼が感じた表層的な痛みを利用して、その貴重な首飾りを「隠した」のだ。
「……どうも。マウリシオ。知った顔に会えて嬉しいぜ……」
サイラスは力なく、敗北を認めたような呟きを漏らした。その言葉に、マウリシオの表情が厳しく一変した。
「……貴様にとってはエスカランテ次尉補だ、この不潔な市民が……気をつけ(アテンション)!」
マウリシオは軍人特有の冷徹な声で一喝した。その声に呼応するように、芸術品のような木製の扉がひとりでに開き、中からお香と磨かれたワックスの清潔な空気が流れ出してきた。通りの不快な感覚をすべて洗い流すような空気だ。
「……黙れ、マウリシオ。貴様の正しい在り方だの愚かな階級制度だのという演説を聞いている暇はない」
別の男の声が響いた。その深く威圧的な声を聞いたサイラスの表情は、さらに絶望に染まった。
「……今日は俺の厄日だな。完全な屈辱の日だ」
サイラスは、判事の右腕であり処刑人でもあるズビン一尉補の姿を見て呟いた。ズビンはサイラスを掴んで中へと突き飛ばし、巨大な扉の先に広がる壮大なロビーを露わにさせた。
「……失礼しました、一尉補……」
エスカランテ次尉補は、ズビンを見ると硬直した軍隊式の敬礼を捧げた。
「……興味はない。さっさと入れ。そこの不遜なガキもだ。また迷子になろうが知ったことではないが、入った方が身のためだぞ」
ズビンは二人を中へ入れさせ、屋敷の中を忙しなく動く「幻影の従者」たちに目を向けた。それは誰もが目にすることができる幽霊たち──死してなお屋敷に縛り付けられ、奉公を続ける者たちだった。
「……フェルナンデス家長は相変わらず謙虚なことで。死んでからすら、給料を払わずに労働力を使い潰しているとはな」
エスカランテ次尉補が皮肉混じりに言った。サイラスは、今日何度目か分からない転倒と打撃からようやく身を立て直した。
サイラスは、巨大なシャンデリアの下で輝く大理石の床に自分の姿が反射しているのを見た。顔を上げると、そこにはこの町の富と秘密、そして腐敗のすべてが凝縮されているかのような光景が広がっていた。壁は異国の珍しい木材で覆われ、金箔の壁紙が退廃的な光を反射していた。
「……誰か説明してくれよ、この悪趣味な成金趣味は何なんだ? ここが金持ち共のクソったれなパラダイスか?」
サイラスが口を開いた瞬間、ズビンの正確な蹴りが叩き込まれた。彼は磨かれた床を滑っていき、そこをエスカランテ次尉補の冷たく大きな手に引きずり起こされた。
「……今のは何だ? 俺が不敬な質問でもしたか?」
ズビン一尉補の拳がサイラスの腹部に沈んだ。
「……ああ、分かった。もう聞かねえよ。沈黙が最善の答えだな」
そう言った直後、さらに二発の殴打が顔面に叩き込まれた。メロディカルなまでに規則正しい処罰のリズム。
「……了解だ。再教育は完了した」
若者は沈黙した。エスカランテ次尉補が微笑んだ。
「……その通りだ。この『受動的な教化』という手法は非常に効果的で、報告書のインクも節約できる」
マウリシオ・エスカランテの言葉に、サイラスは皮肉の一つでも言ってやりたかったが、今は黙ることを選んだ。生存が最優先だ。
「……さて、私を救出し、この謙虚な我が家まで送り届けてくれたことに感謝するわ」
少女が割って入った。毒に包まれた礼儀正しさを振りまき、大袈裟な感謝の仕草をしてみせる。
「……それでは失礼して、グティエレスの哀れな下僕さんたち。私は自室で清めの入浴の準備をさせてもらうわ。通りの汚れと、下等な連中との接触を洗い流さなきゃならないもの」
少女は表情を氷のような優越感へと戻し、豪華なロビーを支配する大階段へと歩き出した。
「……残念だが、家長たちがお二人を呼んでいる。両名ともだ」
ズビン一尉補が言った。その声は、二人の首に目に見えない縄がかけられたかのような、純粋な恐怖の震えを呼び起こした。
サイラスの肉体は再び「教化」という名の暴力に曝され、マルタの指は彼の傷口に裏切りを埋め込んだ。二人が辿り着いたのは、富と死が同居するフェルナンデス家の深淵。家長たちが待ち構える広間で、どのような嘘の宴が始まるのか。




