第六章:サーカスの遺恨
記憶とは、魂を繋ぎ止めるための「錨」である。だが、肉体が異形へと変じ、かつての自分が崩れ去る時、その錨は重荷となり、我々をさらなる深淵へと引きずり込んでいく。
すべては闇に包まれていた。その中から、記憶が形を成していく。自らの生、母の死、そしてスラムでの日々。老人との出会い、一人の小さな泥棒をエリアスに託したこと、過酷な世界で生き抜くためにエリアスから教わったこと。情熱、怒り、喜び……そして、自分をこの最下層へと突き落とした数々の過ち。
「……」
今の彼は、自分が何者であり、何を経験してきたかを自覚していた。何も感じない空白の時間。だが、やがて「何か」が彼の中で作用し始めた。最初は、自分が生きていることを実感させる激痛。次いで、埃と血の匂いが鼻を突き、冷気が厚かましく肌を舐め上げた。
闇のどこかで、くぐもった声が判別不能な議論を交わしている。サイラスは、まだあの場所にいること、あるいはそこから一度も逃げ出せていないことに恐怖を感じた。意識は混濁し、苛立たしいほど繰り返されるライトの点滅が、彼の神経を逆なでた。
「……なぜ……?」
病的な囁きのような問いが聞こえ、時折、光が顔に近づくのを感じた。ある瞬間、その閃光が彼の顔に固定され、皮膚をじりじりと焼き始めた。
「……そのライトを顔から離せ……」
虚ろな男の声が囁いた。
「……間抜けめ……死んでるさ……」
もう一人の声が応えた。高い声をした若い男だ。そいつはライトを引くと、サイラスのこめかみを乱暴に叩いた。
「……早く……しろ……」
無能な男からの打撃を受けるたび、サイラスの中に怒りが再燃した。だが、痺れた体は好機を待つことを強いた。生き残るためには、耐えねばならない。
やがて、白い意識の膜を突き破って、外の世界の音がはっきりと聞こえ始めた。サイラスが薄く目を開けると、そこには二人の「ジロン(ボロ布)」、すなわちヘルナンデス家の空腹に喘ぐ下っ端たちがいた。一族の使い走りとはいえ、こんな深層に彼らがいるのは異様だった。
「……だから言ったろ、何もないって」
包帯で顔を覆った男がいら立ちを隠さずに言った。癩病が彼の肉体を蝕んでいた。
「……臆病者が! 奴らは食い物を持ってるはずだ!」
もう一人の男が叫んだ。体中に斑点があり、薬物中毒によって顔がひどくやつれている。二人とも、異なる絶望に突き動かされていた。
「食い物……食い物……。何かあるはずだ……」
男は胃袋を満たすものを求めて呟いた。サイラスは、一族が事あるごとに駆り出すこの無能な連中に対し、激しい嫌悪を覚えた。
「……どこを探してもねえ。なら、この死体を食おうぜ!」
癩病の男がサイラスを指差した。
「……こいつがあれば、次が見つかるまで凌げる……」
包帯の男がサイラスを覗き込み、彼が目を開けていることに気づいて凍りついた。サイラスは怒りに任せて飛び起きたが、体は思うように動かず地面に崩れ落ちた。しかし、鋭い動きで癩病の男の脚を払い、絶叫と共に転倒させた。
二人は地面でもつれ合い、殴り合った。包帯の男は必死に逃れようとし、サイラスは意識が朦朧としながらも、相手の厚い皮膚と腐った肉に的確な打撃を叩き込んだ。
中毒者の男が柄の付いた金属片を引き抜き、サイラスを仕留めようと振り下ろした。サイラスは最初の一撃、二撃目を辛うじてかわしたが、三撃目が彼のボロ布を切り裂き、その胸部に刻まれた悍ましい傷跡を露わにした。
「……貴様を殺して、極上の宴にしてやる!」
男が再び襲いかかろうとした。だが、薬物で黄色く濁ったその瞳が、若者の胸にある奇妙な「傷」の動きを捉えた時、動きが止まった。
その傷跡は、まるで意志を持つかのように皮膚と肉を食らい、剥き出しの骨が馬の毛のように太く長い縫合糸の間から逆流を吐き出す、壊れた「顎」のような異形を成していた。
「……なんだ……!? 一体、何なんだその化け物は!」
男は恐怖と嫌悪の混ざり合った声を上げた。彼が次の行動に出る前に、サイラスの拳が彼の鼻を粉砕した。
「……この、薄汚い底辺のクズ共が!」
サイラスは獣のように咆哮した。男は武器を落とし、顔を押さえて悶絶した。
「……お前、何なんだ!? 異常者め!」
癩病の男が叫んだ。サイラスはその隙を見逃さず、さらに数発の打撃を浴びせた。
「……ま、待て……」
鼻を壊された男が、血と鼻水にまみれて命乞いをした。
「……待つわけねえだろ」
サイラスは無骨な武器を拾い上げた。
「……助けるから……今、外は混乱してるんだ。俺たちの camarillaが蜂起して……」
男が怯えながら言うと、もう一人が背後から古い短刀を抜き、サイラスに必殺の一撃を放とうとした。サイラスは冷たい目で見下ろした。
「……情けない奴らだ。港の人間なら、他人のカマリリャの縄張りを奪おうなんて卑しい真似はしねえ」
サイラスは地面に唾を吐いた。
「……まあ、実際のところは……」
中毒者の男が頭を下げた。だがそれは、癩病の男がサイラスの背後に回り、その脇腹の下に深く短刀を突き立てるための伏線だった。
「……この野郎……裏切りやがったな」
サイラスが呟く間にも、男は狂ったように何度も、何度も刃を突き立て、抉った。
「……死ね、死ね、死ね……!」
男はバイオレンスの恍惚に浸り、サイラスを刺し続けた。サイラスは重みに耐えきれず、辛うじて立ち続けていた。その盲目的な苦痛の中で、異質な思考が彼の脳裏をよぎった。機械的な声──昆虫学者の怒りが響く。
『……検体 004……あの赤毛の女は獲物ではない、彼女は……。ソロモンは知っていた、感染こそが上昇への唯一の道だと……違いは……殻で遊んでいるだけ……』
その声はドリルのように骨を穿ち、髄まで浸透していった。
「……フジツボ野郎! こいつ、死んでるぞ! 死んでる!」
癩病の男が恐怖に駆られて短刀を放り出した。サイラスの脳内の痛みは消え、彼は現状を把握した。
「……死んでるだと!? ふざけるな!」
サイラスは自分の背中を確かめた。そこには無数の深い傷があったが、血は流れておらず、皮膚はまるで硬い革のように変質していた。
呆然とする二人に対し、サイラスは癩病の男の股間を蹴り上げた。
「……貴様らをバラバラにしてやる!」
サイラスは男を掴み、もう一人に投げつけた。二人は勢いよく扉に激突し、それを突き破った。
外には、灰色の光と混沌が広がっていた。
「……カレウチェ(幽霊船)に連れていかれそうだ……ジロン共が群がっていやがる……」
数十もの憎悪と飢えに満ちた瞳が、サイラスを射抜いた。運命という残酷な見世物の駒にされた彼にとって、ここで命を捨てるのは本意ではなかった。サイラスは全速力で走り出した。腐敗したゴミの山をすり抜け、狭い路地を駆け抜ける。
「……ワタリガニに臓物でも食われてろ!」
サイラスは崩れかけた壁の隙間に滑り込み、地滑りで生じた亀裂へと這いつくばって進んだ。
「……頼む、通してくれ……」
弱りかけた壁が、サイラスの力に抗うように軋んだ。彼が無理やり通り抜けると、壁は崩壊を始めた。
その隙間を狙って、狂った獣のような男たちが雪崩れ込んできた。
「……消え失せろ!」
サイラスは一人を蹴り飛ばしたが、追手は執拗だった。
「……俺を仕留めるのがそんなに簡単だと思ってんのか、この肉袋どもが!」
男たちの暴力的な熱狂が、皮肉にも脆弱な構造に最後の一撃を与えた。壁が完全に崩落し、追跡者たちを次々と押しつぶした。サイラス自身も巻き込まれそうになったが、地面が大きく揺れ、彼を外へと弾き飛ばした。
「……カレウチェに連れていかれる!」
サイラスは家々の屋根を突き破りながら落下した。薄い屋根を突き抜け、梁に体を打ち付けられ、最後は乾いた板張りの床に叩きつけられた。
「……俺の家で何してやがる!」
シャベルを持った老人がサイラスに詰め寄った。
「……あんた、馬鹿か……?」
サイラスは激痛に顔を歪めながら言った。
「……俺の床が! このボロ布野郎、家を壊しやがって!」
老人が物を投げつけてくる。サイラスは中指を立てて応えた。
「……くたばれ、ジジイ。頭を叩き割られないだけ感謝しな」
サイラスが横を見ると、そこには疲れ果てた一家が、壊れた窓から彼を凝視していた。
「……何を見てやがる! ……いや、何でもねえ」
脅す気力もなく、サイラスは立ち上がった。
「……気持ち悪い……怖いよ……」
年上の娘が、この場所には不釣り合いなほど澄んだ青い瞳で彼を見つめ、震える声で囁いた。彼女の美しさは汚れに覆われていた。
「……ママ、パパ……あれ、何?」
幼い息子が、恐怖を隠そうともせずに尋ねた。
サイラスが立ち上がると、体内の骨──あるいは骨に代わる何かが、異様な音を立てて軋んだ。
「……来るな! 近寄るな、怪物め!」
父親が必死に叫んだ。
「……怪物だと!? 誰が怪物だ、この座礁したマッコウクジラ野郎!」
サイラスは怒鳴り散らしたが、自分の体に何が起きているのか、自分自身が一番分かっていなかった。
「……一体……俺に何をした……?」
彼はシロアリに食い荒らされた扉を抜け、外へと出た。そこはヘルナンデスの縄張りですらない。
グティエレス一族──他とは比べものにならないほど強大で複雑な影響力を持つ一族が支配する、ゴーストタウンのような衛星地区だった。
「怪物」と呼ばれた瞬間、人間としてのサイラスは死んだのかもしれない。だが、痛みも血も失い、硬い革のような肌を手に入れた彼は、もはや誰の「獲物」でもない。グティエレスの影の中で、新たな悪夢が産声を上げる。




