第五章:針と披見台の聖域
文明とは、剥き出しの野性を覆い隠すための「薄布」に過ぎない。その布が破れた時、我々は気づくことになる。かつて愛した言葉も、守ろうとした誇りも、暗闇の中ではただの空虚な「音」に変わるのだと。
存在しないかのような時間が過ぎた後、サイラスは朦朧とした意識の中で目を覚ました。視界は濁り、世界は不快な眩暈と共に回転していた。胆汁、焼けた金属、そして甘ったるい膿の臭気が鼻を突く。
「……クソ、甲殻類にかけて……」
若者は、止まらない吐き気と格闘しながら呟いた。彼の周囲には、歪み、打ち砕かれた異形たちの影が無数にうごめいている。頭上の巨大な照明が、僅かな視界を焼き切るように照らし出し、再び世界を暗転させた。彼は金属製の診察台の上で、錆びついた革ベルトによって拘束されていた。
「……諦めるな。そいつは死んだも同然だ」
「……黙れ、俺たちが一番乗りで柔らかい肉にありつけるんだ」
「……お前こそ黙れ。そいつを眠らせて、光の方へ送ってやれ」
サイラスの耳に、死肉漁り(スカベンジャー)として知られる結合双生児たちの声が届いた。
「……他にやることはないのかよ。集まるたびに、不愉快な連中だぜ」
サイラスの言葉は、危うく全てを焼き尽くす火種となるところだった。彼の周囲を、金属と肉と骨を継ぎ接ぎした、三人の「壊れた女たち」が囲んでいた。
「……言ってろ、この野郎! お前の体、紫色に変えてやるからな!」
姉妹の脅迫に、サイラスは冷笑を返した。目を凝らすと、彼女たちの他にもう一組の姉妹が見えた。彼女たちは上半身で結合し、三本の脚と二本の腕を共有していた。
「……あいつら、意見がまとまらないのか?」
聞き覚えのある、しかし以前とは似ても似つかぬ調子の声が響いた。
「……この私生児を切り刻もうぜ。腹が減って死にそうだ、助けるだけ無駄だろ!」
イナゴが再び咆哮し、サイラスが横たわる台を叩いた。
「……あの馬鹿がやっと食い気に走ったか! さあ、バラしちまおう。ゴキブリどもに肉を残したくないんだ!」
死肉漁りたちの合唱に、女たちが抗議の声を上げ、黄色い歯──そのいくつかは金属部品に替えられていた──を剥き出しにした。
「……この糞虫どもめ! 次にそんな口を叩いたら、そのケツを薄切り(ラミネート)にしてやる!」
闇の中から暴力的な気配を纏った影が立ち上がり、死肉漁りたちを指差した。その間、サイラスの頭の中では、音が蜂の針のように突き刺さる羽音へと変わっていった。
「……顔面のパズルを叩き潰される前に、自分の穴へ戻りやがれ、薄汚いゴキブリが!」
姉妹が声を荒らげ、イナゴは興奮のあまり唾液を撒き散らしながら、ゴキブリと呼ばれた連中と罵り合いを始めた。サイラスはその「ゴキブリ」たちの、切断され、混乱した接合部で繋ぎ合わされた前肢を辛うじて視界に捉えた。
「……お前らみたいな害獣のせいで、こんな状況なんだ!」
フードのようなボロ布を纏った女が唸った。若者の焦点は定まらず、目にする光景がぐるぐると回り続ける。彼は必死に理解しようとイナゴに目を向けたが、そこで恐ろしい真実に直面した。彼女の生身の肉には数匹のウジが這い回り、古く乾燥した皮膚は至る所で裂けていたのだ。
「……どこだ……何が……なぜ、裸なんだ……?」
サイラスは断片的な言葉を漏らすのが精一杯だった。毒のように広がる激痛が、彼の肉体を蝕んでいた。
「……見ろ、壊れちまった! 切り刻むしかない。温かくてジューシーなうちに食っちまおうぜ!」
イナゴは食欲に身を任せて涎を垂らし、自らの腹部を──まるで何かが刺さっているかのように──押さえた。しかし、その時、背後から衝撃が走った。
「……待て、馬鹿野郎。これ以上面倒を増やすな。主がこいつを探してるらしい」
乾燥した硬い声だったが、どこか聞き覚えがあった。
「……知るか、私は……」
苛立つイナゴの口に、巨大な肉の塊が押し込まれた。
「……これで満足か? 慎め」
「……最高だ!」
口いっぱいに肉を頬張ったイナゴが歓喜した。彼女は出所不明の肉を堪能し始めた。
「……お前さん、欲求を満たす方法は至ってシンプルだが、もう少し……洗練された野心を持つべきだわ」
背後から蝶の女の声が響いた。
「……下品な言い方だけれど、それが一番分かりやすいわね……」
「……つまり、肉を食いたいというサイコな本能に抗えと? もっと欲しいという欲望に屈するなと?」
イナゴが別の肉片を取り出すと、蝶の女は一瞬、答えに詰まった。
「……お前のそういう、分かりやすくて大胆なところ、大好きよ!」
蝶の女は拍手をして、イナゴの即答を称えた。
「……そんなことより、ノミどもは何も返さないと言っているわ。盗んだものは正当な権利で手に入れたものだと……」
冷徹な声の女が、不一致を説明するように苛立ちを見せた。
「……なら、とっとと終わらせようぜ」
イナゴがグループを煽るように言った。
「……おい! 処置の準備はいいか? また色が変わってきてるぞ……」
その声に、サイラスは蜘蛛の一人だったような記憶を呼び起こしたが、確証は持てなかった。女たちが道を開けると、そこにある「何か」が姿を現した。
「……ああ、もちろんだとも……」
それは、男の声だった。信じられないほど老いさらばえた、乾燥した機械的な響き。サイラスには、潤滑油の切れた歯車が噛み合う軋みと、言葉が混ざり合っているのが分かった。
「……脚の毒は致命的ではないが、ハエトリグモの仕業にしては厄介だな……」
喘鳴のような呼吸音と金属的な引きずる音が、サイラスへと近づいてくる。
「……な、に……?」
サイラスは意味をなさない呻きを漏らした。
「……蜘蛛の牙だ。安い手品だが、個体によっては壊滅的な結果を招く……。通常、組織は壊死によって崩壊するのだ……」
男──いや、「医師」の、冷酷で軋むような声が近づく。サイラスの体は、言葉にできない激痛によって麻痺していた。
「……検体は倦怠感、体温調節の異常を呈している……言語能力の喪失を確認できる徴候もあるな……」
彼女(医師)は冷徹に観察を続け、軋むような音を立てた。
「……確実を期すために、いくつかの生検を行うべきだわ」
切り傷だらけの女が、期待に満ちた目で医師を見つめていた。
「……ええ、推奨されるわ。毒の挙動は非致死的だが、多神教的な症状を引き起こしている……脚を切断し、分析する必要があるわね……」
医師がサイラスの脚について語るのを聞き、彼は恐怖に襲われた。脚が動かない。片方の脚だけが異様に熱かった。
「……何が……起きた……俺の脚は……?」
若者は辛うじて言葉を絞り出し、痛みに叫びながら視線を下ろした。そこには、異常に腫れ上がり、黒い筋が浮き出た青白い太ももがあった。
「……気づいてなかったみたいね」
イナゴが肉を頬張りながら嘲笑した。
「……なぜ……言わなかった……!」
サイラスは脚に触れようとしたが、そこには新しい止血帯が食い込み、腫れた部分を隔絶していた。しかし、赤い斑点と浮き出た血管は、ゆっくりと確実に上方へと侵食していた。
「……一体、何が起きたんだ!」
彼の叫びに、周囲の視線が一斉に集中した。
「……お目覚めね、お姫様。ご機嫌麗しゅう、陛下」
深い切り傷に覆われ、四肢が粗末な金属義肢に挿げ替えられた女が皮肉った。彼女はフードを被った「ゴキブリ」の一人だった。その顔は「ウナギ」を彷彿とさせた。彼女が食卓に並ぶはずだった彼を救ったのだが、サイラスは、この脚で死ぬのが先か、彼女たちの餌食になるのが先か、絶望的な天秤にかけられていた。
「……起きてるさ……ただ……目が回るんだよ、ウナギ野郎」
サイラスが毒づくと、ウナギ面の女は金属と骨の義歯を剥き出しにして笑った。彼女には海の言葉は通じなかったが、目の前の「肉の塊」が必死に抵抗する様が可笑しくてたまらなかったのだ。
「……この死にかけの肉、面白いわね」
彼女は若者の脚を嘲笑うように指差した。
「……こいつを食べたがってたのは、あんたでしょ?」
彼女は青紫色に変色した長い舌で唇を舐め、濃濁とした涎を垂らした。
「……はぁ? 私のこと? 私は大人しく食事を楽しんでるだけよ」
イナゴは心外だと言わんばかりの滑稽な仕草で応えた。
「……嘘が下手ね。お前の冗談はつまらないわ」
死肉漁りの姉妹が罵り合った。
「……死肉漁りも、ゴキブリも! そんなに意地悪しないで。新入りのどこかを味見しようなんて、これっぽっちも思ってないわよ」
イナゴは、肉のない胸に手を当てて言った。
「……お前自身、その嘘を信じちゃいないだろう」
医師が無理やり声を絞り出した。彼女は慎重に傷口を見つめ、前触れもなくナイフを引き抜いた。
「……この、海ネズミ野郎……! 鱈みたいな口で……!」
サイラスは激痛に絶叫したが、その痛みそのものが彼の声を奪った。
「……かつての港湾労働者は、もっと辛抱強かったものだがね……」
医師は真剣な眼差しで、クリスタルの義眼にサイラスの苦悶を刻みつけた。
「……患部の抽出と洗浄を開始し、解毒剤で処置を行う……」
彼女は、脚から溢れ出す黒い血の質感を確かめるように呟いた。
「……悪くないわ。単なる事故のようね……。ゴキブリ、吸血ヒル(サングイフエラ)を持ってきなさい」
女が金属脚を鳴らして抗議した。
「……ですが先生、あれを呼ぶ必要があるのですか?」
医師はクリスタルの瞳で、幼子のような女を睨みつけた。
「……こいつ、女なのか? その声、死にかけの爺かと思ったぜ……」
サイラスが言うと、数人の女たちが必死に笑いを堪えた。
「……」
医師──「マタサノス」は、軽蔑の眼差しを向け、警告として顎を大きく開いた。その口内には、機械的な歯車と骨の歯が複雑に組み合わされていた。
「……やりなさい、ゴキブリ。披見台を使って腹部を確認するわ。内臓はまだあるはずよ。溶け出していないならね」
彼女は肉と金属、骨が融合した悍ましい歯列を見せつけた。
「……よかった! 先生は本当にお優しい。綺麗にしてあげますからね!」
ゴキブリは歓喜し、医師に感謝の仕草を見せた。
「……何を……するつもりだ! クソッ!」
サイラスが悶え苦しむ中、ゴキブリは歪んだ口内に隠された金属と骨の突起を伸ばし、感染した肉を喰らい始めた。
「……皆様、遠慮は要りませんわ。力一杯押さえつけて。後で私が縫合しますから」
医師が告げると、異形の手、鉤爪、蹄が、暴れるサイラスを強引に押さえつけた。ゴキブリが彼の傷口を啜り、噛み砕き、その「獲物」を堪能する中、サイラスは引き裂かれるような激痛と、傷口に走る猛烈な熱を感じた。
彼は断末魔のような叫びを上げた。悪夢の中に閉じ込められ、骨が軋み、皮膚が弾ける音を聴いた。
「……死にたく……ない……こんな……」
風の囁きのような、力ない声だった。
「……坊や、先生を悪く思わないで。彼女は自分の仕事を分かっているわ。何かに刺されたら、毒を抜き、必要なら腐った部分を取り除かなければならないのよ……」
蝶の女は穏やかに言ったが、医師の狂気じみた笑い声とサイラスの絶叫の前に、一瞬沈黙した。サイラスは目を閉じ、数メートル先にあるランダルの脈打つ脳を思い出した。
「……彼女だけが、お前を救えるわ。地上に戻っても、この病を治せる者はいない。脚を失うだけでは済まず、無惨でゆっくりとした死を迎えることになるでしょうね」
蝶の女は、屠殺場のような惨状の中に調和を見出そうとしていた。医師は、サイラスの脚から引き抜いた蜘蛛の牙を、まるで価値の分からない者に宝物を与えるかのように、蝶の女へと手渡した。
「……失礼ですが、先生。この『部品』をどうすればよろしいのかしら?」
蝶の女が尋ねたが、返答はなかった。医師は既に次の切断に取り掛かっており、サイラスの絶叫は、さらなる高みへと昇っていったからだ。
「……この男、実に不愉快ね。麻酔をかけなきゃ」
医師は吐き捨てると、サイラスの頭部へ強烈な一撃を見舞った。激しい衝撃音と共に、彼の頭が大きく揺らぐ。
「……この、淡水の船乗り野郎! それが、殴ってる、つもりか……!」
サイラスは咆哮したが、続く二撃目が彼の視界をさらに濁らせた。それでも若者は、意識を失うことに抗い続けた。
「……お前の忍耐力、見誤っていたわ。ゴキブリ並みの生命力があるようね」
医師は金属の四肢を振り下ろし、ついに三撃目でサイラスを沈黙させた。
「……麻酔って大好き。確実で、何より楽しいもの」
結合双生児の背後にいた若い女が呟いた。
「ええ、麻酔に文句を言う奴なんていないわ。大抵は忘れちゃうか……誰も何も言いたくないだけか」
前方にいた姉妹が声を揃えた。
蝶の女は、横たわったサイラスを検分した。これほど小柄な個体を見るのは久しぶりだった。彼女にとって、彼は単なる「玩具」に過ぎなかった。
「……可愛いわ。ヘルナンデスの雑種にしては、ね」
彼女は一瞬、闇の奥を見つめた。長く生き、慣れ親しんだ暗闇を。
「……取り巻き連中と楽しそうだな、グレタ」
背後から、荒っぽく、乾いた皮肉に満ちた声が響いた。
「……教えてあげるわ、不潔なクモさん。私は謙虚で、それでいて気品ある『蝶』。……私たちは『文明人』なのよ!」
蝶の女──グレタは、予期せぬ来訪者に対し、最大限の流暢さで凛として答えた。
「……相変わらず退屈な女だ。お前と話すと欠伸が出る」
上方の闇から、蜘蛛が声を落とした。彼女は何かを見定めるように沈黙を守った。
「……餌を求めて来たの? カートならあそこよ」
蝶の女は深い蔑みを込めて言った。
「……心外ね。新入りを分け合おうと思って来たのに。どうやらそいつ、あの医師を苛つかせる『重要』な役回りらしいじゃない」
蜘蛛の女は、多数の肢を器用に使い、静かに舞い降りた。
「……バイオリニスト。……隅っこで憎しみを募らせ、他者を拒絶し続けることに飽きないの? 自分が優れていると思い込むことに」
蜘蛛は近寄ろうとする蝶に、いら立ちを込めて牙を剥き出しにした。
「……戯言を。お前たちは、その馬鹿げた『姉妹愛』だの『共存』だのという幻想に縋り付いているだけだ。だが、そんな絆は奴隷の鎖に過ぎない! 何の役にも立たなかったじゃないか!」
蜘蛛は、女たちのやり方に激昂し、叫んだ。
「……なんですって!? お前たちは永遠に『捕食者と獲物』という残酷な円舞曲の中にいたいというの? 私たちは、狂気の中でさえ自由だったはずよ!」
蝶の声は、感情の昂ぶりによってその語調を歪ませた。
「……自由のままでいられたはずだ。それを、お前たちはヘルナンデスやサーカスの主に頭を下げたんだ!」
「……理性を失った獣に成り下がるくらいなら、私は虚飾を選び、他者にチャンスを与えるわ。お前は、自らの『野性』という本性に屈したのよ!」
蝶は、言葉の乱れを抑えるように冷静さを取り戻して言った。
「……獣と呼ぶな。やってることは同じだろうが! お前とあの間抜け共は、自分たちのやり方で抗おうとして、結局何も得られなかった。化粧と仮面に縋って生きる……お前こそが、その敗北の象徴だ!」
蜘蛛は逆上し、思い出に浸っていた蝶を突き飛ばした。
「……言ってみろ! 外に出ようとして何を手に入れた!? ヘルナンデスやあの主に逆らって、何が得られたというんだ!」
蜘蛛の叫びは悲痛だった。だが、蝶は何も答えず、ただ静かに顔に手を当て、沈黙の中で記憶を反芻した。
「……私は……!」
蜘蛛は突如として口を閉ざした。蝶の背後にいた「ハエトリちゃん」の視線に気づいたのだ。
「……いいわ。新入りが餌をくれたし、少しは楽しめた。……ただ、この子を護衛しに来ただけよ。ハエやカマキリ、アリどもに、この子が食われないようにね……。周りはクズばかりだから」
蜘蛛は落ち着きを取り戻し、天井の永遠の闇へと戻っていった。
「……さようなら、と言っておくわ」
蝶が悲しげな声で呟いた。
「……こんにちは」
小さな声が響いた。多くの問題を引き起こし、かつて「主」の前に跪かされたあの少女だった。蝶の女は演劇的なポーズをとり、少女に優雅な礼を捧げた。少女の瞳に宿る悲しみに気づいたからだ。
「……ごきげんよう、親愛なるお嬢様。この暗闇の果てに、どのようなご用件で?」
「……こんにちは。私、ハエトリ。……お嬢様じゃない」
少女は誇らしげに胸を張った。
「……いいえ、私が言いたかったのは……」
蝶が言葉を切った。蜘蛛の少女は、周囲の女たちの小競り合いに気を取られていたからだ。
「……あのような無教養で失礼な女たちのことはお気になさらず」
少女は再び蝶を見つめ、言うべき言葉を探した。
「……私の『牙』、どこにあるか知ってる?」
少女は全ての瞳で蝶を凝視した。
「……ええ、ここに」
蝶は躊躇いがちに、小さな短剣を差し出した。
「……ですが、次は誰かの牙ではなく、自分自身の牙を使いなさい」
少女は恥ずかしそうに頷いた。微かな光の下で繰り広げられる絶叫と争いは、観客への寓話のようだった。絶対的な闇の中、誰の目にも留まることなく、異形たちは静かに、そして確実に這いずり続けていた。
自由か、それとも生存のための隷属か。仮面の裏側に隠された涙を拭う者は誰もいない。サイラスの意識が戻る時、彼は自らが、この美しくも醜悪な「生態系」の新たな歯車になったことを知るだろう。宴はまだ、終わらない。




