第四章:朽ちた仮面の間に
トラウマとは、過去の遺物ではない。それは現在を侵食し、肉体を書き換える「寄生虫」である。かつての栄光も、誇り高き姓名も、暗闇の中では異形を飾るための無意味な装飾に過ぎない。
サイラスがカートを離すと扉が閉まったが、何かが天井の裂け目や剥き出しの構造にしがみつき、うごめいていた。湿った小さな鳴き声がその動きに付きまとう。若者は挫折感から拳を握りしめ、際限のない罵詈雑言を吐き散らした。
「……可愛い馬鹿さんね」
甘く旋律的な女の声が響いた。その口には、引きちぎられた逞しい前腕の肉が咥えられていた。サイラスは「ダニ(吸血虫)」だと思ったが、すぐにその考えを捨てた。彼女の青白い肌は湿り気を帯びて光り、ドア枠の裏側に逆さまにしがみついていたからだ。微かな光が、包帯の下に隠された病に冒された容貌を際立たせていた。白い睫毛に縁取られた巨大な深紅の瞳が、捕食者特有の好奇心で彼を観察していた。やがて女は遠くへ跳躍し、闇の高みへと消えた。
「……どいつもこいつも無能な老いぼれ共め! この古びたサンゴ(扉)を閉めろなんて、誰も言わなかったぞ! この波止場のガキどもが!」
彼は仲間への怒りを爆発させ、あいつらを叩きのめして縦穴に放り込んでやりたいと呪った。
「道理で、あの羅針盤のないボロ船は、相棒がやるべき仕事をやりたがらなかったわけだ……」
サイラスが毒づいている間、茶色の胆汁と血が混ざり合った粘着性のある液体が彼の足元にまとわりついた。床には、自分のものではない足跡が増えていることに気づく。
「……信じられん。ヘマを続ければ、俺の方が先に板歩きの刑(処刑)だ。あのエビ頭のガスパールというイカ野郎を見つけて、交渉するしかねえ」
サイラスは責任転嫁の方法を求めて呟いた。ふと、彼は躊躇した。扉へと続く足跡は、二、三を除いて非常に小さかったからだ。まるで子供の足跡のようだった。だが、この縦穴にいる子供といえば下水ネズミくらいなもので、「穴の子供」など聞いたことがない。
「集中しろ、集中……」
若者は自分を落ち着かせたが、新たな新鮮な死骸の山がハッチから落ちてきて、血が彼に飛び散った。
「……ガザミの呪いか! 急がなきゃならん。あの小さな害獣どもが戻ってくる前に!」
サイラスはカートの中身を最適化するため、マシな部位とゴミを分け始めた。ひどく損傷した胴体を手に取ると、それがまだ微かに体温を保っていることに気づき、奇妙な感覚に襲われた。
急ぐあまり、彼は頭上で動く影に気づかなかった。小さく、静かに、機会を伺う者たちの存在に。
「よし、これで十分だ。仕分けた分で大半の腹を満たせるだろう。前菜にされる前に戻るぞ」
新鮮な食料を積み込むと、彼は無理やりカートを押し出した。カートは悲惨な生涯を嘆くように軋んだ。扉に凹んだ先端をぶつけると、ハッチと天井から無数の赤い目が降りてきて、新入りを観察した。クスクスという忍び笑いが漏れる。
「……イタズラ! イタズラだ!」
闇に消えたはずの異形が戻ってきた。跳躍するたびに、その後ろで一本の索がピンと張られた。
小さな者たちの間で、跳ねたり宙返りしたりする「遊び」の合唱が始まった。一人が扉を塞ぎ、他の者たちが役立ちそうなものを次々と盗んでいった。壊れたベッドや、コンロのような武器までも。その混沌は巨大でありながら、迅速かつ巧妙だった。それを見た者は、既に「献立」の中にいたからだ。
闇の中で、サイラスは永遠に続くかのような罰、カートを引きずっていた。目がシルエットに慣れてくると、視界に入らなくとも、さらに多くの「ハエ」が集まっているのが分かった。
「……どけ! これが全部だ、全部食おうなんて思うなよ! 下がれ、害獣ども!」
サイラスは棍棒を構えて叫んだ。だが、群れのリーダーらしき一際背の高いハエが影の中から立ち上がり、若者の動きを不気味に模倣した。
「……ドケ!」
それだけを口にすると、後は支離滅裂な音の羅列に変わった。
「……おかしな奴だ」
サイラスは低く呟き、カートの中身を見た。この無知な連中に何をやるべきかは分かっている。彼は全身の力を込めてカートを動かした。
「……そんなに賢いなら、これを手伝え。押せよ、間抜け!」
女が言葉を理解しないことにサイラスは苛立った。
「来い! 役に立つことをしろ! これを運ぶんだ。それとも……動けと言ってるんだ!」
サイラスの態度は威圧的だった。近づけというジェスチャーを見た彼女は、それを戦いの合図と受け取ったのか、距離を詰めてきた。サイラスは応戦するように足を突き出した。
「手伝えと言ってるのに、そんな馬鹿な真似をしやがって」
若者は、彼女が自分のキャラメル色の肌の脚に噛みついた痛みに歯を食いしばった。女は歪んだ鋭い歯を剥き出しにして、猛烈に叫んだ。鼻は折れ、目の上下には無数の傷跡があった。闇の中の近距離で辛うじて見える彼女の容貌は、凄惨そのものだった。
「……ぶち殺して……やる……」
血の流れる脚を引きずりながら、若者は血と泥にまみれて滑った女を突き放した。彼女が地面に倒れた隙に、サイラスはカートから死骸の胴体を放り出した。それが女の上に重なり、重苦しい沈黙が流れた。サイラスは自らのボロ布を引き裂き、傷口を縛って止血した。
「……強いマンボウ(脳なし)だな……だが、結局はただのマンボウだ!」
サイラスは息を切らしながら毒づき、近づいてくるハエどもを呪った。しかし、異変に気づいた。
「……おい、大丈夫か?」
胴体をどけると、悲しい真実が露わになった。女は瞳孔を見開き、虚空を見つめていた。鼻と目から細い血の筋が流れている。
「……クソ! 嘘だろ……ソロモンに殺される。エリアスには二回殺されるぞ!」
首の縄が締まるような感覚に襲われ、彼は胴体を放り出した。脈を確認したが、命の鼓動は感じられない。それでも彼は彼女の胸に手を当て、微かな拍動を探した。
「……ナマコ野郎! 生きてる、生きてるぞ!」
サイラスは安堵の息を漏らしたが、その瞬間、さらなる影が周囲の縄のように彼を締め上げた。ハエたちが一斉に下がり、何者かのために道を開けた。背が高く、屈強な影……ルーファスかと思った。
「……誰でもいい、間抜けが来てくれて助かったぜ……」
しかし、若者はそれ以上何も言えなかった。自らの甘さを呪った。そこにいたのは女性のシルエットだった。巨大な鬣を持ち、青い金属光沢を放つ「皮の仮面」を被っていた。その仮面は模造品ではなく、金属と骨、そしてなめし革が彼女の顔面に直接溶け込んだ「融合体」だった。
「……お前は……ここの……サーカスの幹部か?」
彼の声は震え、あまりの威圧感に体が萎縮した。だが思考だけは回転していた。配管を伝う噂の主。彼女が手に持つ、金属と骨を組み合わせた長い道具──「葬送の錫杖」で、ハエどもを家畜のように追い払うのを見た。
仮面の奥には、異常なまでに丸く、白い瞳があった。
「……」
サイラスが凝視していると、彼女はゆっくりと、しかし圧倒的な威厳を持って近づいた。彼女の手が降り、倒れていたハエの女の手を掴んで引きずり上げた。ハエの女は押し殺したような、恐ろしい呻き声を上げた。
「……俺は……わざとじゃ……」
仮面の女は足を止め、軽蔑するように彼を横目で一瞥した。その時、サイラスは理解した。この場所では全員が見世物なのだ。囚人も看守もいない。影の中にいる者は皆、同じ「背徳のサーカス」の一部なのだと。
「……だが……一体、誰が……」
若者が呆然と呟くと、仮面が怒りに満ちた表情のように歪んだ。しかし、サイラスの背後の影の中に、自分以外の「気配」を感じ取ったのか、彼女は痙攣する女を引きずりながら、光すらも忘却された方向へと去っていった。
「……繁栄の海にかけて。……一体、今の化け物は何なんだ!」
彼は叫び、激しく鼓動する胸を押さえて呼吸を整えた。
「……二度と、あんなのは見たくない……」
圧倒され、彼はその場にへたり込んだ。ハエたちは、何事もなかったかのように、しかし先ほどよりは静かに、手に入れた獲物を切り裂き、群れの中で分け合い始めた。
「……これで全部だ。……たぶん」
サイラスは呟いたが、何かが決定的に狂っていることに気づいた。「ハエ」たちが慎重に動き、常に一匹がサイラスを監視している。彼女たちは、背後に「何か」がいない限り、これほど臆病な獲物のような振る舞いはしないはずだ。
「……手伝おうか?」
サイラスは振り返らずに言った。背後に、静寂を切り裂くような圧倒的な存在感が現れたのを感じた。それは先ほど女を連れ去った者とは別の、生命の熱を根こそぎ奪い去るような威圧感だった。背後で紫色の金属光沢が鈍く放たれ、キノコの胞子が肩の上で舞い踊る。それは、その「怪物」が数ミリの距離にまで迫っていることを示していた。
「……」
若者は前を見つめたまま、震える口を開けていた。叫ぶことすらできず、額からは冷や汗が溢れ出す。ハエたちは霧のような闇の中へと静かに遠ざかっていった。仮面の怪物は、凄惨な「顎」としか形容できない口を開き、サイラスの髪の匂いを深く吸い込んだ。そして吐き出された息は、硫黄と錆びた金属が混ざり合った、死の臭気そのものだった。
「……」
サイラスは身を縮めることしかできなかった。怪物は逞しい腕を伸ばし、地面から肉の塊を拾い上げた。肉が引き裂かれ、軟骨が粉砕される音が響く。彼女は時折、発作的な動きを見せながらも、冷酷な沈黙を守り、サイラスに腐敗した吐息を吹きかけ続けた。
やがて彼女は立ち上がり、巨大な「葬送の錫杖」を地面に打ち鳴らした。骨の鳴る音と金属の衝撃音。杖を引きずる鋭い不協和音が、闇の歪みの中へと消えていった。
「……腰が抜けるかと思ったぜ」
サイラスは硬直した体を解きほぐそうと自分に言い聞かせた。
「コシガヌケル……カリウドノキョウフ……デモ、オマエ、アマイネ……」
声が繰り返された。ハエのようだが、振る舞いが違う。何より、サイズがずっと小さかった。
「……いい加減にしろ。カサゴのケツにでもキスしてやがれ」
魂が抜けかけたサイラスが毒づくと、小さな影が近づき、幼い少女のような姿を現した。
「……よお、ガキ」
少女は彼をじっと見つめていた。奇妙な形の瞳をしていたが、他の連中のような窒息するような威圧感はなかった。サイラスは立ち上がろうとして、自分がどれほど滑稽に見えるかを悟った。
「挨拶するなら『こんにちは』だけでいい。『ガキ』って呼ぶのは俺の役目だ」
サイラスが言うと、少女は少し理解したようだった。
「やるべきことがあるんだ。遊んでる暇はない」
彼はカートを押し、残りの連中に餌をやるために歩き出した。しかし、何かが彼に警鐘を鳴らしていた。
「アソビジャナイ! エモノ、ツカまえた! エモノ、スキ!」
少女が声を張り上げた。サイラスが振り返ると、背後にいた少女にぶつかってしまった。尻餅をついた少女は打った鼻を押さえ、涙を堪えながら不満げな声を上げた。
「……強がってるつもりか。ほら、食うか?」
その問いに、少女は目を見開いた。いや、元からあった目だけでなく、蜘蛛のように無数の「複眼」が顔中に開いたのだ。
「何がいい? 肉か、パンか。それほど悪くないもんもあるぜ」
サイラスは戸惑いながらも、普段の彼とは正反対の「親切」を演じた。自分を観察しているのかいないのかも分からぬ無数の瞳に、彼は言い知れぬ不快感を覚えた。
「アマイ……アマイ、アル?」
少女が尋ねた。サイラス自身、人生で一度も口にしたことのないものだったが、彼はあさり、甘い香りのする半開きの缶を見つけ出した。
「……甘いぞ。嘘と砂糖の匂いがする」
少女は缶を慎重に受け取り、舌の先で舐めた。瞳のいくつかは缶を、端にある二つの瞳はサイラスを射抜いていた。
「アマイ! アマイ!」
彼女は喜びのあまり、人間離れした跳躍を見せた。
「……ハエトリグモ、か。物を盗み回ってるのはお前だな」
少女は動きを止めた。口元には糖蜜の「髭」ができていた。
「……俺は――」
名前を名乗ろうとしたサイラスを、少女が遮った。
「エモノ! クモの、エモノ!」
サイラスは凍りついた。気づけばハエも、カゲロウも、誰もいなくなっていた。
「……ああ、そうか。丁度いい、全員分の食料はあるぞ」
彼は精一杯の虚勢を張り、カビの生えたパンを差し出した。だがその時、頭上から女の声が響いた。
「ハエトリちゃん、そんなに親しくしちゃダメじゃない」
サイラスは一生分に相当する罵詈雑言を心の中で吐き散らした。
「……ああ、どうも、クモの奥さん。何をお召し上がりで?」
「……新鮮なものがいいわね。例えば、生きた獲物とか」
女が戯れるように言うと、サイラスは素早く「代わり」を探した。
「……お探しのものは、ここにありますよ」
女は美しい円を描いて舞い降りた。漆黒の肌に、燃えるような紅い瞳が際立っていた。サイラスは自分より二回りも背の高い女の手に、新鮮な肉の塊を押し付けた。二人は、好奇心と恐怖の間で視線を交わした。
「……あばよ」
サイラスは無理やり笑い、カートを光の方へと突き飛ばした。
「……奇妙な子。まだ生きているなんて驚きだわ」
女は興味深げに彼を見送った。
サイラスは逃げ出した。自分が安全かどうかなど分からなかったが、餌やりはもう十分だった。彼は苛立っていた。自分より下の階層にいる異形どもに、なぜこれほど気を遣わねばならないのか。スラムの上層にいた頃のように、恐怖を与える側でありたかった。
しかし、光の差す場所へ辿り着いた瞬間、その安寧は消え去った。
「……俺は、マンボウ以下の大馬鹿野郎だ」
目の前の檻の奥には、忘れ去られた「化粧室」のような光景が広がっていた。そこでは異形の女たちが、腐りかけた自らの肉に、かつての自分たちの残骸──睫毛やほくろを模したものを針で刺し込み、化粧を施していた。
「……餌だ。誰か食う奴はいるか?」
全員の視線が彼に注がれた。
「……坊や! 時間がないのが分からないの? マンティス(カマキリ)やワスプ(スズメバチ)より間抜けね!」
二人の女が同時に怒鳴り散らした。彼女たちの手足は互いに争い、一つの物体を動かそうと必死だった。
「……何て言い草だ、この……スポンジ野郎ども!」
女たちが呆気にとられていると、背後から肉を頬張りながら別の女が現れた。
「……みんな、落ち着いて! 糞虫同士、仲良くしなきゃ!」
女は満面の笑みを浮かべ、肉片を撒き散らした。
「……新鮮な肉は最高ね。よくここまで来れたわ、可愛い獲物ちゃん。お前の恐怖の匂い、極上だわ」
「……新鮮な肉!? なぜ言わなかったの、役立たず!」
女たちが争いながら餌に群がる中、サイラスはその異常な光景に圧倒されていた。女が笑うたび、彼女の顔の皮膚から小さな「ウジ虫」が零れ落ちるのを見たからだ。
「……よろしく。……カマキリ、さん?」
「……カマキリ!? 私は……『蝗』よ!」
女は顔を押さえて高笑いした。彼女に伴われ、最後に行き着いたのは、巨大な鏡台のある場所だった。
「……愛しの『蝶』様。お友達を連れてきましたわ」
鏡台の前に座る女が、手を挙げてイナゴを黙らせた。イナゴが笑い止むと、その皮膚からは再びウジ虫が這い出した。
女は、二人の従者に顔を「構築」させている最中だった。顔面にボルトで固定された金属パーツの上に、最高級の陶器と絹で作られた「仮面」が被せられた。それは葬儀の儀式のような、この場所で唯一、無傷で美しいものだった。
蝶の仮面を被った女が立ち上がった。
「……ごきげんよう。ヘルナンデス家の方をお迎えできて光栄ですわ」
サイラスは凍りついた。逃げ場のない包囲網を感じた。ふと、鏡台の方を見ると、そこには無数の針を刺されたランダルの剥き出しの脳が、拍動しながら助けを求めていた。彼の瞳だけが、絶望に満ちて動いていた。
「……お友達が気になるのかしら?」
「……いえ、視線を感じただけです」
「……私たちは常に監視されているの。観客、すなわち真の家族にね」
蝶の女は、従者の少女が運んできた肉を愛でながら言った。
「……ありがとう、宝物。お礼に、あのお客様と遊んでいいわよ。とても頑丈そうだから」
「……この男と、何か因縁が?」
サイラスが尋ねると、少女は楽しげに脳に針を刺し込み始めた。
「……私の『過去の自分』に無礼を働いた一族の方々とは、何かしらの歴史がありますわ。それが今の私を形作っているの」
蝶の女は、鏡の破片に映る自分を見つめた。
「……お前……俺に……何を……」
サイラスは激しい頭痛に襲われ、膝をついた。体が灼熱のように熱い。
「……お前……まさか……一族の……」
「……ええ。悲しいことに、私はかつて高貴な血筋の一員でした。……腐敗は、姓を選びませんのよ」
蝶の女は誇らしげに言った。サイラスは冷や汗を流しながら、この貴族たちが拷問を「退屈しのぎのエチケット」として楽しんでいる事実、その底知れぬ深淵に絶望した。
「……ヘルナンデス家の方が、これほど見事な礼節(跪き)をご存知だとは思いませんでしたわ。感謝します」
サイラスの意識は遠のいていった。糖蜜と血、そして純粋な恐怖の匂いが彼を飲み込み、世界は暗転した。
貴族の優雅さと、獣の貪欲さ。その境界が消失した時、真の地獄が幕を開ける。サイラスが失ったのは意識か、それとも人間としての尊厳か。壊れた脳が刻む拍動だけが、この狂った宴の終焉を拒んでいる。




