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第三章:昆虫学者の餌

壊れた玩具のように、我々は自らの本質を暗闇の中に置き忘れていく。記憶は腐敗し、言葉は意味をなさなくなる。残されるのは、かつて人間であったという事実を呪う、飢えた本能だけである。

ガスパールが金属の扉を開くと、そこには先ほどまでいた場所と瓜二つの部屋が姿を現した。同様に傷んではいたが、壁紙だけが異なっていた。色褪せ、引き裂かれた花柄の模様は、この下界に似つかわしくない外の世界への嘲笑のようだった。部屋には、壊れかけた道具といくつかの手提げ灯が置かれていた。

「……居心地がいいじゃねえか、ジジイ。惨めさは同じだが、カビの色だけは新調したってわけか」

サイラスは周囲を見渡し、軽く口笛を吹いた。

「口を閉じろ。さもなきゃ俺が縫い合わせてやる。ここが俺たちの新しい拠点だ。あの飴売りや、司会者マスター、あるいはどこの誰とも知れぬ奴から連絡があるまではな」

ガスパールは緊張した声で答え、絶えず死角を警戒していた。サイラスはそれを無視し、部屋の細かな違いを観察し始めた。

「……どうやら、同じ内装業者を使ったらしいな」

パニックを隠すための、中身のない冗談を口にした。しかし、彼の視線はより重要なものへと引き寄せられた。破れたマットレスのベッドの脇に、一枚の紙片が落ちていた。

「……何が書いてある? 家族の宣伝か……あるいは、あのグティエレスの薄汚い老いぼれが見せびらかす類のものか。相変わらずの傲慢さだ」

サイラスは忌々しげに言った。あの男に捕らえられそうになった記憶が、彼を不快にさせた。

「それは『雑記』だ。かつてここにいた誰かの持ち物だ。ランダルなら名前を知っていたんだろうがな。……そいつはもう、ずっと・・だ。中央の縦穴の底か、どこか知らねえ場所にな」

ガスパールは、木炭の欠片で描かれた多くのスケッチの一枚を手に取った。そこには、地下の異形たちの姿が解剖学的な正確さで描かれていた。

「……俺もいくつかはこの目で見たが、残りは狂気の産物か、それとも俺たちが本当に……」

ガスパールは、詳細な図解が次第に何事かを伝えようとする狂乱的な殴り書きへと変わり、最後には支離滅裂な独白で終わっているのを見て、居心地悪そうに囁いた。

「……どうでもいいさ、ジジイ。それにしても、このサーカスの連中は多すぎやしないか? どいつもこいつも、ふざけた名前ばかりだ」

サイラスは、男たちの描かれた画像を手に取って言った。

「……ここには何て書いてあるんだ?」

紙に記された文字についてサイラスが尋ねた。

「知るかよ。ランダルの相棒の、そのまた相棒が『読める』奴だったらしいが、読み書きなんてのは、役立たずだけが持つ能力だ。分かるか?」

男は記憶を辿るように、頬を掻いた。

「ランダルはそいつを『退屈な私生児』と呼んでいた。そいつの部下に、四六時中本を読み、書かれていることを喋り散らす奴がいたらしい。……自称『昆虫学者』だ。影の中に潜むものに憑りつかれ、惨めな化け物どもを分類していたのさ」

サイラスは唇の端を掻いた。この地獄で本を読む男。一体どんな種類の狂気だろうか。

「……そんな奴ら、とっくに死んでるだろうな。己の分類カテゴリーに飲み込まれてさ」

若者の冷笑的な言葉に、ガスパールは薄笑いを浮かべた。

「……この長い間、誰もこれほど深くまでは降りてこなかった。グティエレスもルイスも、ヘルナンデス一族ですら、ここに足を踏み入れることはできまい。これこそがソロモンの秘密。誰も目にすることのない、真の汚物クソだ」

ガスパールは、掃除用と思われる道具を準備し始めた。それらはひどく汚れ、錆びついていた。

「……そんなので掃除するのか? その錆びた鉄屑で? それとも何かの儀式か?」

サイラスが尋ねた。掃除には疎い彼だったが、そのガラクタで何かができるとは思えなかった。

「……俺の仕事を盗むつもりか? これは俺の職務、俺の贖罪ペニテンシアだ。お前はバケツを持ってあの部屋へ行け。次にするべきことくらい、頭がなくても分かるだろう」

ガスパールは片手に工具箱を提げて言った。

「……待て、淡水の海賊め! 説明も方法もなしかよ!」

サイラスは混乱し、いら立ちを見せた。何も理解できぬまま一人残されることに、強い不安を感じていた。

「……どうやって自分の手を食われずに『ハエ』どもに餌をやるか、か? 痛い目を見て覚えるか、運良く覚えるか。二つに一つだ」

ガスパールは出発の準備をしながら忌々しげに唸ったが、若者は命じられたことに納得せず、居座る構えを見せた。

「……ソロモンの命に背く裏切り者め! それがヘルナンデス一族の紋章を背負う者のやり方か? 恥を知れ、この恥晒しが!」

サイラスは、あの女たちにどう餌をやるか分からず、何とか情報を引き出そうと大げさに叫んだ。ガスパールは道具箱を置き、不快そうにこめかみを押さえ、苦い溜息を吐き出した。

「……あの扉を通れ。ボタンを押せば、カートに餌が落ちてくる。お前はそのカートを押し、出会った奴らに餌をやるんだ。餌が尽きる前に残りを投げ捨てて、走れ。喋るな、見るな。……お前は、あいつらの友人じゃないんだ」

ガスパールは若者に毒づきながら去り、扉を半開きにしたままにした。扉はゆっくりと、重々しく揺れ戻った。

「……馬鹿野郎が」

サイラスは低く唸った。エリアスや他の連中への憎しみだけが、今の彼の唯一の熱源だった。それは新天地の冷気に抗うために、肉体が自ら築き上げた防衛本能だ。彼は部屋へ入ろうと背を向けた。その刹那、何者かの手が繊細な手つきで扉を掴んだ。

サイラスはこれから仕事に取り掛かる場所を忌々しげに眺めた。賢くなくとも、状況は一目で理解できた。部屋は殺風景で、剥き出しの汚れた壁には、乾いた血、茶色の体液、骨の破片といった「残留物」がこびりついていた。不潔さこそが、この部屋の装飾だった。

「……ま、やるしかないか。カートを探そうぜ」

彼は独り言を漏らし、ボタンの付いたハッチの下にあるカートへと歩み寄った。

「……この『海藻ゴミ』の臭い、反吐が出るな」

悪い予感ではなく、単にそこから漂う異臭のせいで彼は毒づいた。ハッチの縁からは、化学物質と有機物が混ざり合ったような、茶色く粘着性のある汁が滴り落ちていた。

迷うことなく、サイラスは早く終わらせようとボタンを押し込んだ。すると、ゴミや排泄物、そして判別もつかぬほど無残に解体された様々な動物の死骸──あるいは、それ以上の「何か」の残骸が、無造作にカートを満たした。

「……驚きゃしないさ。もっと最悪なのを期待してたが、現実はただのゴミ溜めだ」

彼は静かに言った。シニシズムという鎧を纏ったサイラスにとって、この程度の光景は日常だった。だが、自分なら迷わず捨てるような「役立たず」の山を運ばねばならない事実に、苛立ちを隠せなかった。

他のことを考えようと務めながら、若者はカートを押し出した。放置され、汚れきった年月を恨むように、カートは静寂を切り裂く断末魔のような軋み声を上げた。彼は凹んだカートの先端を、これまでの報われない労働の傷跡が刻まれた金属の扉にぶつけるようにして外へ出た。

「……近寄るしかないよな。食堂なんて洒落たもんはなさそうだしよ」

彼は無意識に独白を続けていた。嫌悪する作業を前に、そっと息を整え、手提げ灯を手に闇の中へと足を踏み入れた。それは影の深海に餌を運ぶ、一筋のしるべだった。打ち捨てられた重い扉が、自重で背後を閉ざした。

陶器の人形のように細長く骨張った幾つものシルエットが、微動だにせずそこに佇んでいた。この「新しい出し物」がどれほど持つのかを見定めるように。だが一つだけ確かなことがあった。……「宴」の時間が始まったのだ。

「……おい、誰か食いたい奴はいるか? 餌が来たっていうのに、誰も寄ってこないのかよ」

サイラスは大声を出した。あの痩せこけたランダル一人の肉では、全員の腹を満たすには到底足りないだろうと思ったからだ。しかし、先ほどとは違い、誰も近づいてこない。群れ(ハエ)は警戒するように、彼の周囲をうごめいていた。

「……最高だな。ハエどもまで食わず嫌いかよ」

サイラスは闇を凝視した。さっきまでの闇とは違う。今の脅威は抑制され、何かを「期待」しているようだった。

「……いいか、見ろ! これがどれだけ美味いか分かるか? ゴミじゃない、ソロモンの馳走だぞ」

若者はカートから、少しカビの生えた動物の腿肉ももにくを取り出した。そして、土のような後味が残る酸っぱい肉を、思い切り噛みちぎった。この悍ましいものを食う行為は、彼なりの抵抗だった。自分はエサではなく、捕食者プレデターであると証明するための。

「……悪くない味だぜ」

だが、そのパフォーマンスも何の反応も引き出さず、彼をいら立たせた。

「……恩着せがましく食わせてやるよ、この間抜けども」

彼は鼻を鳴らし、先ほどと同じような肉の塊を探し出すと、選別した残飯をハエどもに投げつけた。攻撃的なその仕草に唸り声が上がったが、同時に好奇心を刺激したようだ。それは石ころでもゴミでもない、足元に転がっているのは「食料」だった。

「……そんなに馬鹿じゃなかったみたいだな」

一匹のハエが肉を拾い上げるのを見て、サイラスは髪を掻いた。最初の一口が、猛烈な野性を呼び覚ました。仲間が食事を楽しむ姿を見た途端、彼女たちは我先にと群がり、極上の残骸を奪い合った。

一瞬、サイラスは混沌を支配したような達成感を覚えた。しかし、次の瞬間、群れが自分に向かって突進してくるのが見えた。彼は身構えたが、大きな手が彼の頭に触れたため、動くことができなかった。影の群れは彼を通り過ぎ、カートへと襲いかかった。

「……お前……新入り……か。……私……は…………の……一人……。……名……前……は……長い……の」

途切れ途切れで、かすれた低い声が響いた。サイラスの頭を掴むその力は万力のように強靭だったが、驚くほど丁寧だった。

「……ああ、どうも。名前は何て言うんだ?」

女がためらいの声を漏らすと、頭を掴む力が少しだけ緩んだ。

「……ここ……には……名前……など……ない。……お前……にも……。……ある……のは……役割……だけ……だわ」

混乱が収まっていく中、女はゆっくりと言った。

「……でも……こう……呼ばれて……いる……」

彼女が静かに付け加えた。その時、サイラスは一匹のハエのような影が、ガラスが砕けるような音のする何かを吐き出すまでむせ返るのを目撃した。

「私たちは『蜻蛉カゲロウ』と呼ばれているわ。気に入らないけれど、『トンボ』よりはマシね」

少し高めの、鋭い女の声が淀みなく響いた。先ほどの女の遅さと対照的なその早口は、見るに堪えないほどの精神的な不調和を露呈させていた。一人は現在を拒絶し、もう一人は必死に現在に縋り付いている。

「……感謝するよ、二人とも」

サイラスは、ハエたちが巨大な残骸を奪い合っているのを見ながら言った。

「……邪魔……しないで……間抜け……な……子。……選ぶ……の……は……私……なのだから」

遅い方の女が、もう一人のカゲロウに抗議した。

「そんな風に言わないで。悲しくなるじゃない。でも、最後に言ったことが聞こえなかったわ。もう一度言ってくれる? 早すぎて分からなかったの」

「……バカ……私が……こう……話す……のは……」

彼女は自分の言語障害をなじるように、忌々しげに声を漏らした。

「あの数年前の『事故』のせいでしょ。私を怒らせるたびにいつもそれを言うんだから。私が転んだことを思い出させるのはやめて!」

姉妹は自分たちの欠点について、ゆっくりと、そして不条理な口論を始めた。その隙にサイラスは慎重に身を引き、空になりかけたカートへと戻った。その口論は、彼女たちの捕食者としての本質とは裏腹に、人間性の残骸を感じさせる「虚飾」だった。

「……ちっ、もっと餌を持ってこなきゃな」

彼が振り返ると、背後のぼやけた影の中に、微かな逆光に照らされた細長い人影が幾つも直立していた。

「……あいつらも『蚊』なんだな。ハエどもがほとんど食い尽くしちまったが、すぐに代わりを持ってきてやるよ」

サイラスは、誰の足かも分からぬ細長い脚の間を通り抜けようと試みた。

「……異質……奇妙……好奇……飢え……。……まだ……行か……ない……で……」

女たちの囁きが重なり合い、闇の死の重圧に共鳴した。

若者が周囲を見渡すのを止めた時、彼の目の前に、眠りから覚めたような長い手が、不自然な関節の音を立てながら降りてきた。その肌は透き通るほどに白かった。

「……お前も何かが欲しいんだろ? カートの中身は連中が持っていっちまったが、部屋にまだある。取ってくるよ」

彼の説明に応えるのは、コンクリートの巨大な牢獄に漂う、重苦しい沈黙だけだった。

サイラスは彼女をディアス一族の元へ送り飛ばしてやりたい衝動に駆られたが、ランダルの二の舞は御免だった。彼はカートの底をあさり、ゴミの中から、売春宿の不浄なレシピによって保存された、カビの生えた硬いパンの塊を見つけ出した。

「……売春宿のパンみたいだな。ほら、これを食え……もうこれ以上はないぞ」

若者が腕を伸ばしても、彼女は近づこうとはしなかった。儀式のような一定の距離を保っている。彼が素早く、しかし力強くパンを差し出すと、彼女はそれを上方へとひったくった。暗闇の中で、彼女の膝が軋む微かな音が響いた。

「……もっと取ってくる」

それ以上は何も言えなかった。枯れ木のような数十本の手が、己の分け前を求めて一斉に降りてくるのを見たからだ。

彼は溜息をつき、この化け物どもがパンを受け取り、満足してくれることを願った。

「……クソ、これで全部だ」

サイラスは毒づき、周囲を確認してから扉へと急いだ。アドレナリンは既に諦念へと変わっていた。もし餌がなかったら、あるいはあの長い虫どもの一匹に捕まっていたら……。想像するだに恐ろしかった。

彼はカートを扉にぶつけて開け、ハッチを開けっ放しにしていたミスに気づいた。通路の光が、そのハッチこそが「この階層」と「地下」を繋ぐ唯一の接点であることを冷酷に照らし出していた。

救済とは、時に死よりも残酷な形をとる。この場所では、誰もが自らの「正気」を担保に、明日という名の毒を啜る。果たしてサイラスが見たのは、怪物の姿か、それとも鏡に映った自分たちの未来か。

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