表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/25

第二十一章:開演前の惨劇(カタストロフ)

開演のベルは、断末魔の叫びと共に鳴り響く。

サイラスは自らの内にある「毒」に気づき、兄の影をその目に焼き付けた。

鉄と肉、そして電気が交差するこの場所で、彼に残された唯一の救いは、狂気という名の仮面だった。

「……それで、セルキブ(Serkib)のことを『物売り』と呼んでいるのかい?」

明かりの灯った階にたどり着いた時、調教師ドマドールがサイラスに興味深げに尋ねた。

「……まあ、そんなところだ。だが、あれはセルキブじゃない。本物のセルキブはもっと小さいんだ。あれは陸に適応した別の種類だ。エリアスの爺さんに会えたら聞いてみるよ。あの人はそういうお伽話に詳しいからな」

サイラスは、この怪人が思考に問題を抱えているのか、それとも見た目以上に愚かなのかを疑いながら答えた。調教師の表情に目立った変化はなかったが、その内面は空虚なようで、何かが彼の精神に深い傷を刻んだようだった。彼は何に対しても、ただ機械的に手を拭うような動作を繰り返していた。

「……お伽話がお伽話でなくなる日が来るとはな。変なことが起きるとは思っていたが、これは次元が違う……」

サイラスが言葉を添えたが、相棒からの返答はなく、ただ慎重に様子を窺うアヌンナキたちの微かな気配だけが周囲に漂っていた。

「……さて、移動しよう。何が起きているのか知りたい……。それに、あの余所者たちが主催者と何を企んでいたのかもな」

調教師はサイラスの言葉をなぞるように静かに言ったが、その衣装の質感が、どこか不安げに波打っていた。

「……ああ、長い道のりになりそうだ。何か新しい話でも聞きたいか?」

サイラスは、前の階で浴びた不快な液体の感触を振り払いながら、笑いを交えて尋ねた。

「……正直に言えば、上の世界のことなど見たくもない。迷宮ラビリンス……いや、君の言う『竪穴ポゾ』こそが私にとってのすべてだ」

調教師はやる気なさそうにシルクハットを直し、サイラスは自分の足の感覚を確かめるように何度か足踏みをした。

「……何をしている?」

怪人が若者の奇妙な挙動に不審の目を向けた。

「……何がだ?」

サイラスは困惑して答え、同時に両手を数回振った。

「……私をからかうな。何をしているのか言え」

若者の不可解な動きに、調教師はいらだちを見せた。

「……あんたにとって何が奇妙なのか知らないが、俺はただ立っているだけだ。ほら、見えるだろ?」

サイラスは自分の姿を改めて見つめた。そこにあるのは、かつての肉体のパロディ――人間のような形をした、丸まった「クエロ」の塊だった。

二人の間に、ホルムアルデヒドに浸された包帯のような、重苦しい沈黙が流れた。サイラスにとって、建築物そのものが狂い始めているように感じられた。階を越えるたびに、かつて下りてきた階層が何十倍にも膨れ上がって飲み込まれていく。闇に散らばる品々は静止しておらず、彼の記憶から再配置された断片のようだった。彼がつまずいたのは瓦礫ではなく、忘れ去られた階段の亡霊や、数階下で捨ててきたはずの残骸だった。現実は捻じ曲がったループと化し、崩壊した彼の精神を嘲笑っていた。

「……あいつはもっと下にあったはずだ! つまり……論理的じゃないんだ、この場所は」

彼の喉から笑いが漏れた。それは彼自身のものではなく、感じることのできない痛みによって研ぎ澄まされた、神経質で鋭い異質な音だった。調教師が呼び出した光が周囲を照らす。

「……君の絶望など理解できんし、痛みなど興味もない。その振る舞いは不愉快だ」

調教師には慈悲も共感もなく、ただ解剖学者のような冷徹な好奇心があるだけだった。彼が投げ与えた白い光球は、フィラメントのない電球のようであり、光というよりは、冷徹な星の輝き――邪魔な小動物に投げ与えられる骨のようなものだった。しかしサイラスにとって、その光は新たな執着の対象となり、崩壊する周囲からの逃避場所となった。

「……それだけか? 『だが』とか……何かないのか。あんたが言ってたことと矛盾しないか?」

若者は光球を手に、怪人の後を追った。

「……その光を貸してやったのは、私の荷物がある場所へ行くためだ。着いたら君は好きなところへ行け。私はショーを続ける」

「……どうやって……? 動け……動くべきだ」

サイラスは光の輝きに陶酔しながら呟いた。

「……二度と転ばないようにしろ。その光があれば、無様な姿を晒さずに済むはずだ」

調教師は、手に触れることなく動く光と対話しているかのようなサイラスの様子を、冷ややかに見つめた。

「……私の声が聞こえているか? 蛾のようだな、君は。もっと『クエロ』らしく、あるいはその化け物らしく振る舞ったらどうだ」

光に導かれるように歩くサイラスの壊れた精神を見て、調教師は鼻を鳴らした。それは彼が与えた単なる光球に過ぎなかったが。

道中、サイラスはずっと独り言を漏らしていた。調教師はその様子を蔑み、注意を引くために光球を取り上げては辛辣な批評を浴びせた。それに対し若者は船乗りの罵詈雑言で応えた。その罵倒の激しさに、調教師は若者が語る「海」がいかに荒々しい場所であるかを想像せずにはいられなかった。

「……ここか? 扉を見たというのは」

調教師が階全体を照らし出すと、そこには忘却と衰退、そして悲哀に満ちた空虚な空間が広がっていた。

「……こんなのは見てない。だが、奴らはあっちへ歩いていって……あの扉だ」

サイラスは、衛兵たちがいたのと同じような扉を指差した。

「……何か妙か? 違う扉なのか?」

調教師が実体化して近づこうとした時、サイラスが彼を制止した。

「……待て、もし……」

サイラスが言い終える前に、調教師は彼の手を振り払い、扉に顔をぶつけるようにして突き進んだ。

調教師から甲高い笑い声が漏れ、彼は厚かましくサイラスを指差した。

「……滑稽だ! 実に滑稽だよ! 今の姿を見たら、お前を獣の一匹として飼うわけにはいかないな。ピエロとしては理想的だが、見世物としては醜すぎる!」

調教師の高笑いに、サイラスの笑いも重なった。

「……この、救いようのないドブネズミめ。なんでマンボウ頭ってのは、どいつもこいつも騒がしいんだ!」

サイラスは毒づきながら立ち上がり、前方を見据えた。

「……お前のどん臭さこそ騒々しいわ!」

しかし、調教師の声は止まった。サイラスの知っていた部屋は、異様な光景に塗り替えられていた。

「……こんなの、見たことがない……」

金属製のテーブル、得体の知れない液体に浸された無数の瓶。若者はその光景に圧倒された。

「……これは新しいな……。奴ら、今はこんなことをしているのか?」

調教師は怪訝そうに部屋の中を調べ始めた。

まず襲ってきたのは、匂いだった。酸化した銅と、煮え立つ生体液が混ざり合った、重く甘ったるい蒸気。そこは部屋ではなく、工業化された死体安置所モーグだった。冷たく汚れたステンレスのテーブルの上には、濁った粘液の中で得体の知れない恐怖を保存した瓶が、果てしなく並んでいた。空気はパチパチと音を立て、金属の箱がストロボのように点滅し、動脈のように太い黒いケーブルが青い火花を散らしながら部屋を縦横に走っていた。

サイラスは最初のテーブルに近づいた。そこに横たわっていたのは単なる死体ではなかった。湿って温かい肉と、磨き上げられた金属が融合した、グロテスクな彫刻だった。

「……『ゴキブリ』たちだ。……なんて数だ」

その既視感に彼は凍りついた。蝿、蜘蛛、蝶……「興行主マエストロ」が操っていたサーカスの団員たちの成れの果てがそこにあった。しかし、どの個体にも不可解な改造が施されていた。神経を金属のノードに繋がれた小さな蛾から、トラバサミのような金属の顎を移植された油圧式の脚を持つイナゴまで。彼らは皆、テーブルに釘付けにされていた。頭部には外科用の釘が深く打ち込まれ、そこから伸びるケーブルが、未知の電気的な恐怖を注入、あるいは吸引していた。静寂の中に、機械化された心臓の強制的な鼓動だけが響いていた。

「……だが……こいつらは……マエストロの『虫』たちだ」

サイラスは、そこにいるのが蝿、蜘蛛、蝶、そしてイナゴであることを確認した。

「……虫だと? あのチビは、自分の背が低いからっていつも妙な仇名をつけおる……」

第一演目を担当していた男について、調教師は不満げに言った。

「……何とかしなきゃならない。ケーブルを抜くとか、何か……そう思わないか?」

サイラスは神経質な笑いの中に不安を滲ませながら提案した。こいつらがもし自分の予想通りに動き出したら、という恐怖があった。

「……なぜ私がそんなことを? 死んで、切り刻まれて、金属を埋め込まれている。何の問題がある……」

調教師は無関心に答えたが、サイラスがそれを遮った。

「……こいつらは誰の命令も聞かない。俺は見たんだ、ゴキブリたちがどう動くかを。奴らはあんたたちの言うことなんて聞いちゃいない。少しは考えろ。あんた自身が奴らの『玩具』になりたいのか?」

サイラスは大声で詰め寄り、危機を訴えた。その時、背後の闇から黒い影が立ち上がった。

警告もなく、音もなく、黒い影は肉とゴムの波となって襲いかかってきた。調教師は軽やかな動きでそれをかわしたが、ラテックスに包まれた衛兵たちの波は、サイラスへと殺到した。

乱戦が始まった。衛兵たちは砂と金属を詰め込んだ袋のような重々しさで動き、ラテックスの下から乾燥したクリック音を漏らしていた。彼らの動きは正確ではないが、圧倒的だった。関節を砕き、一撃で無力化しようとする冷徹な精度を持った、脳のない打撃が繰り出される。

「……なっ!?」

ゴムと銅の匂いのする打撃をサイラスは回避した。彼は一人の胴体に膝蹴りを叩き込んだが、返ってきたのは鈍く、手応えのない音だった。

数が多すぎる。鋭い蹴りの嵐が彼を動けなくする。その戦い方は、かつて死んだ(あるいは溶けた)兄ユスフの技術の暗いエコーだった。冷徹で実利的、即座に降伏を強いるスタイル。サイラスはそんな馬鹿げた考えを振り払おうとした。ユスフはもういない。これは単なる「課題」としての戦いだ。

周囲では、調教師の笑い声が危険をどこか他人事のように楽しんでいた。彼は近づきすぎる者の肢を折る時だけ動いた。骨の砕ける音ではなく、被膜の下にある粘り強い何かが圧縮される音が部屋に響く。

しかし、部屋に響くのは調教師の笑いだけではなかった。サイラスの、あの神経質で鋭い高笑いも、打撃を受けながら止まらなかった。それは超自然的な唸り声へと変わり、瓶を震わせる液状の、かすれた響きを帯びていった。

絶望的な状況で、サイラスはガラスの破片とテーブルから剥がした金属片を掴んだ。しかし、それらはラテックスの表面に突き刺さることなく飲み込まれ、効果をなさなかった。ラテックスは盾であり、衝撃とダメージを吸収して彼のエネルギーを奪っていった。攻撃が外れるたび、彼の力と冷静さが削られていく。

調教師は依然として、執拗な「分類」に没頭していた。どの種の組み合わせでこれらが作られたのか。衛兵たちは金属音を立てて壊れ、ゴム人形のように折れ曲がっても、なお再構築されて殲滅を狙ってくる。

「……床を開けろ! 開けるんだ!!」

サイラスは頭突きを食らわせながら叫んだ。一人の頭蓋を凹ませたが、衛兵は怯まない。ラテックスの袋が歪んだだけだ。

その執念に、別の衛兵の頭を握り潰していた調教師がようやく目を向けた。握り潰された衛兵は、水を含んだ袋のように痙攣しながらも、なおサイラスを捕らえようとしていた。

「……この部屋の床のことかい?」

調教師は興味なさそうに尋ねた。彼にとって、この状況など取るに足らないことだった。

「……違う! マンボウ野郎! エスペランサ通りの地面のことだよ!!」

サイラスが咆哮した。複数の衛兵が彼を抑え込む。摩擦で熱を帯びたラテックスが、彼の上で溶け始めた。化学的なプラスチックの味と、乾いた胆汁の匂いが鼻を突く。

「……そんな態度を続けるなら、焼き尽くしてしまえばいいだろう。私は気まぐれに動くし、人を愉しませる能力を見せつけたいとも思うが、何より自分のために動くのだ」

調教師は、自分を狙う数人の衛兵をあしらいながら、真面目に憤慨してみせた。

サイラスはただ、激しい嫌悪感を露わにするしかなかった。

「……出してみろ。体の中にある液体を解放するんだ」

怪人は観覧席にいるかのように、空中で脚を組んで座りながら蔑むように言った。

サイラスに考える余裕はなかった。「どうやるんだ?」 彼は尿意のような、何かを放出したいという切実な感覚をイメージした。力を込め、踏ん張り、調教師が言う「液体」の源を探り当てようとした。そして、疲労の果てにふっと力を抜いた。

その結果、彼の丸まった皮の体から、酸性の汗が滴り始めた。

「……ほら、簡単だろう? まあ、そんな顔でやられると、糞でもしてるみたいで見栄えは良くないがね」

調教師は、自分に縋り付いていた衛兵たちをラテックスの群れの中へ放り込みながら嘲笑った。

「……いいから助けろよ!!」

ラテックスの味は、焼けるような熱さを帯びて強まった。サイラスの耳に、ゴムが焦げる音が聞こえてきた。内側から沸騰した液体が弾け出すような感覚。それは現実だった。

「……おぞましいぜ!」

サイラスは叫んだ。衛兵たちから溢れ出す泡立つ液体の味と匂いに耐えながら。彼の酸性の汗がラテックスを融解させていたのだ。被膜が溶け落ち、その正体が露わになった。歪んだおぞましいゴキブリのような何かが、サイラスの化学的な胆汁に焼かれ、悲鳴を上げて崩れ去っていった。

「……ふむ、人間であるより、クエロである方が君には合っているようだな」

生物学的な地獄絵図を前に、調教師は笑った。

サイラスにはその声は届かなかった。目の前で溶けていく残骸の一つが、拷問され、剥き出しになった異常な姿を晒していた。……溶けかかったラテックスのシルエットに、彼は見覚えがあった。それは、かつての兄、ユスフの面影を宿していた。

調教師は、無視されたことへの不快な軋み声を上げ、サイラスの恐怖を遮った。

「……やめろよ。何なんだ?」

サイラスは、頭部が液状化した衛兵に一撃を浴びせながら絞り出した。その衝撃がとどめとなり、衛兵は化学物質の飛沫を散らして動かなくなった。

「……こうすれば止まるって知ってたのか?」

サイラスは困惑して尋ねた。調教師がようやく真面目になり、悶え苦しむ昆虫たちが二度と立ち上がらないよう確実な処置を始めたからだ。

「……さあね。ただ、『クエロ』が水中で狩りをする時は……」

調教師は知識をひけらかすように言った。

「……獲物を巻き込み、底へ引きずり込んで……溶かすんだな……」

サイラスは驚きと共に言った。再び話を遮られた調教師が不機嫌そうに毒づくのを無視して。

その時、溶け落ちた衛兵の一人が死に際に痙攣し、操作パネルに激突した。飛び散った液体がボタンやレバーを叩いた。

「……何だ、あれは!?」

調教師が驚愕の声を上げた。

機械が振動し、爪で金属を引っ掻くような鋭い悲鳴を上げた。次の瞬間、部屋中に強烈な放電が放たれた。テーブルの上で解体されていた遺体や、溶けかかっていた衛兵たちが、混ざり合った体液を導体として激しく痙攣し始めた。工業的な死体安置所は、今や電気を帯びた屠殺場へと変貌した。

「……ふむ、これは実に愉快なショーだ」

調教師は手を叩き、その笑い声は純粋な歓喜を帯びた鴉の鳴き声のように響いた。

サイラスは、痙攣と歪んだ笑いの中で、顔の仮面を外した。そして無言のまま、それを調教師へと差し出した。

調教師は怪訝そうな顔をした。この下等な生き物からの、不可解な贈り物。彼は、これがこの小さな「見世物」の最後の演目なのだろうと考え、それを受け取ろうとした。

「……理解できんが、受け取っておこう……」

昆虫たちの悲鳴と放電の音が階全体に響き渡り、竪穴を揺るがす恐ろしい地震となって、まだ感覚を残しているすべての者たちに警告を発した。

酸性の汗でラテックスを溶かし、衛兵たちを殲滅したサイラス。

しかし、その先に見た兄ユスフの幻影(あるいは現実)が、彼の心をさらに深く抉ります。

制御不能となった実験室で、放電の嵐に包まれる二人。

サイラスが差し出した「仮面」は、調教師への皮肉か、それとも共犯者の証か。

竪穴全体に鳴り響く振動は、新たな惨劇の序曲に過ぎません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ