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第13話:純と咲良

「それじゃあ、行こうか。母さんもご飯を作って待ってるから」

 純の父、角谷清が鞄を手にそう言った。中年らしい小太りの体型だが、ここしばらくで白髪が増えている。

「よろしく、父さん。」

 純も応えて立ち上がる。顔の傷は既にふさがっていたが、未だに顔中に包帯を巻いている。同じように人の視線を集めてしまうなら、まだしもこちらの方がマシだった。

 清の車で3人が向かうのは純と咲良の住んでいたアパートではなく、純の実家だ。二人が住んでいたアパートは既に引き払ってある。

 他の居住者からと思われる匿名の手紙、ドアへの落書き。いずれも二人の退去を求める内容だった。そして、管理会社からも少額の違約金と引き換えに退去を求められた。

 そのことを、咲良は純に伝えてある。包帯をとった姿を見た時の様に、突然事実を突きつけるよりはよいと考えてのことだった。


 純にとっても、咲良にとっても久しぶりの玄関をくぐる。車の音で到着が分かったのだろう。そこには既に純の母、聖子が立っていた。ついさっきまで台所に立っていたのか、シンプルな緑のエプロンを身に着けている。。

「いらっしゃい。待ってたのよ。さあ、あがって。」

 挨拶もそこそこに食堂に通されると、早速昼食が始まった。朝から腕を振るったと思われるメニューが並んでいる。

 サーモンといくらの入ったちらし寿司。豚汁にローストビーフと肉じゃが、それに和風大根サラダ。純の好物ばかりだ。それも山盛り。

「母さん、作りすぎだ。こんなに食えないよ。」

 純はそんな苦情を口にしたが、表情は明るい。応じる聖子もおおらかに笑っている。

「いいのよ。残ったら夜食べれば。晩御飯の準備が楽になっていいわ。」

 たわいのないお喋りに混じりながら、咲良は久しぶりに純が心からリラックスしている様子にホッとしていた。


 それからしばらくは穏やかな日が過ぎていった。顔のことを気にして、引きこもりがちな純を咲良は理由をつけては連れまわした。主に人目の少ないところへ。たとえば、映画のレイトショーや、夜の海浜公園など。

 外へ出るとき、純は必ず咲良の手を握った。以前は、手をつなごうとするのは咲良で、純はいつもそれを照れくさがった。

 今は、人とすれ違うたびに、相手の目が包帯の巻かれた顔に注がれるたびに、縋るように力の籠められる手を、咲良は優しく握っている。


 そんな身を寄せ合い、息を潜めるような生活が2か月ほども続いただろうか。

 珍しく、というよりも退院してからほとんど初めて、咲良は純を置いて外出した。どうしても、外せない用事があったのだ。

 夕方近く、家に帰るとカーポートに車がなかった。恐らく夕飯の買い物にでも行ったのだろう。

 純も笑顔を見せることが増えてきて、父母もそれに安心したのか、最近は短い時間に限って出かけることがちょくちょくあった。

 ひょっとしたら、純も一緒に出掛けているかも。と、思いながら玄関のドアを開けるとそこには純の靴がそろえて置いてあった。どうやら留守番をしているらしい。

「純、いるの?」

 大きめの声で屋内に呼びかけながら、靴を脱ぐ。台所で水を飲んだ後、着替えのために寝室へ。

 そこに純はいた。レースのカーテンが引かれた室内は、既に薄暗い。その中でベッドの隅に片膝を抱えるようにして座っていた。顔に包帯は巻かれていない。

「お帰り。思ったより早かったね。」

 純の目がやけに静かに、まっすぐ咲良を見つめていた。

「どうしたの、電気もつけないで。目が悪くなるわよ。それとも、昼寝でもしてたの?」

 何故か生じた動揺を巧みに隠して、咲良はのんきな声を出した。電気のスイッチを押し、そのまま壁際のクローゼットにスーツの上着を片付ける。

 普段なら何も言わずとも着替え中は部屋を出ていく純が、今日はいつまでも背後に留まっている。咲良は一声かけようと振り向き、気が付いた。

 ベッドの上、純の脇に置かれた手紙。

 特徴のない茶色の便箋は丁寧に破られ、折りたたまれた中身が1センチほどとび出している。そんな、なんの変哲もない手紙だ。

 しかし、咲良はそれが何なのか、瞬時に理解していた。まだ、純が入院していた頃に着替えなどをとりにアパートへ帰ると、同じ種類の手紙が郵便受けに挟まっていたものだった。その経験が咲良に直観を与えた。

 手書きのもの、ワープロソフトで印字された無機質なもの、中には新聞紙を切り貼りした気味の悪い手紙もあった。

 文字の形も文面も様々だったが、そこに込められた気持ちは基本的に一致する。

 純の目には触れないように気を使っていたはずだ。よりにもよって今日、純が独りでいるときに、留守と勘違いした誰かが投函していったとしか思えなかった。

 引っ越してきてからは少なかったし、それも最近はなかったので油断していた。

 咲良の手に汗がにじんだ。

「ずっと、言おうと思っていたんだけど、勇気がなくて。」

 そんな風に純が言った。一瞬、手紙に視線が向き、すぐに咲良の顔に舞い戻る。

「でも、ようやく決心がついた。」

 聞きたくない。と、咲良は言いたかった。この場から離れてしまいたかった。それでも、純の方が速かった。


「咲良、俺と別れてくれないか。」


 純の声は意外なほど穏やかで、その分だけ硬かった。

「なん、で」

 咲良が何とか口にできたのはそれだけだった。純は少しだけ目を細めると、口を開いた。

「君には、本当に感謝しているよ。君が支えてくれなければ、俺はきっと今日まで生きてこれなかったと思う。でも、もう十分だ。俺はもう大丈夫だから、君も楽になってくれ。」

 目のくらむような思いがして、気が付けば咲良はクローゼットの扉に背中を持たれていた。純はそんな咲良に視線を注ぎながら、言葉を続ける。

「君はまだ若いし、それに美人だ。今からでも、新しい人生が歩けるんだから、俺に付き合うことはない。」

 医師から先日された話も、純の決断に影響しているのだろうか。

 顔の爛れたような傷跡と不気味な痣は、現在の整形技術では直すことができないという。正体不明の『毒』のようなものが頭部深くまで及んでおり、たとえ皮膚を移植したとしても遠からず同様の痣が出現するとのことだった。

 あの時も、そして今も。純の目はどこまでも静かだった。

「いやよ。」

 動揺しながらも、咲良は精一杯の抵抗を示す。気を抜けばへたり込んでしまいそうな足に活を入れ、こぼれそうな涙を必死でこらえる。

 そんな咲良の様子に、純は小さく息を吐いた。

「頼むよ。別に君のために言ってるんじゃない。俺が、辛いんだ。」

 顔をしかめる純。咲良は急に体が重くなったように感じた。気が付けばいつの間にかクローゼットの前の床に座り込んでいる自分がいる。

「俺はこんな風になっているっていうのに、君は元のまま綺麗だ。ツラいんだよ。一緒に歩いていてもすれ違う人は君を見て微笑み、俺を見て青ざめる。その反応が嫌でも俺に自覚させるんだ。家の中でさえ、君を見るたびに自分の醜さが付きまとう。君には感謝している。でも、もう耐えられない。」


 息が詰まるような、重々しい数秒間。

 その後、咲良の心中に涙とともに湧き上がってきたのは意外な感情だった。

 湧き上がってきたのは怒り。それに背中を押されて咲良は立ち上がっていた。

「ふざけんな!!」

 言葉が、時に思考を置き去りするスピードで噴き出ることを、咲良は初めて知った。

「なにが、『感謝してる』よ。なんで逃げようとしてるのよ。ちょっと顔に傷がついただけでしょう!!」

 強張った純の顔が間近にあった。その襟首をつかみ、押し倒したような体勢。青黒い痣が縦横に走る純の顔に、咲良の涙が熱く当たった。

「一生かけて幸せにしてくれるって言ってたじゃない。もう、諦めるの?わたしは、」

 咲良の声が次第にかすれ小さくなっていく。最後はほとんど囁くようになった。

「私は、まだ純と幸せになれると、信じてるよ。」

 そこから先は言葉はなく、ただ純の胸に顔を埋めていた。涙がぽろりぽろりと流れていく。

 純の手が恐る恐る持ち上がり、何度ものためらいの後に咲良の肩に置かれた。筋張った手からほのかな温度が伝わっていく。

「ごめん」

 言葉は小さく、短かった。純の目も涙に濡れていた。


 純は気が付いた。事件以降、強く頼もしかった妻。自分を支えてくれた咲良の弱さに。自分も咲良の支えになれるのだと。

 だから、純は口にすることにした。あの日の言葉を、もう一度。

「咲良、聞いてくれ。」

 君を、一生かけて………。

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