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第12話:鏡

「なあ、鏡を貸してくれないか。」

 純が咲良に向かってそう頼んだのは、事件から1週間と少し経った日のことだった。

 節々の痛みから解放され、顔の傷の痛みも和らいできて、少し落ち着いてきたころだった。

 咲良は自分のハンドバッグの中から小さな手鏡を取り出すと、純に渡した。

「この病室。洗面台にも鏡がないんだけど、なんか聞いてるか。」

 受け取りながら尋ねる口調。かすかに不安がにじんでいるようだった。自分の容体を確認できないのがもどかしいのだろう。答える咲良の口調はことさらに穏やかだ。

「前の患者さんが割っちゃったんだって、今修理の手続き中って聞いたわ。」

 純は受け取った鏡を覗き込む。そこには顔中に包帯を巻かれた男が映っているはずだ。目覚めてすぐのころ、医師が説明しながら鏡を見せたはずだが、あの時はゆっくり見る余裕はなかったはずだ。

「何だこりゃ。まるでミイラだな。傷は左頬からこめかみまでなんだから。右側はいらないだろう。」

「先生の話を聞いてた?傷は浅いけど、大きいからしっかり固定する必要があるって言ってたじゃない。」

「それは覚えてるよ。でも、限度ってあるだろ。」

 純は肩をすくめると、鏡を咲良へ返した。咲良は鏡をバッグにしまいつつ、ホッとしている自分に気が付いた。

「大体、いつまで入院なんだ。傷は少し痛むけど、もう退院してもいいんじゃないか。」

 体が動くようになった分、焦りが募るのか。そんな純の気持ちとは裏腹に、医師はCAMP被害は何が起こるかわからないからと退院を先に延ばしていた。

「でも、万が一なにか起こったら大変よ。病院なら安心だわ。」

 純も分かっているのだろう。咲良の言葉を否定するでもなく、ふてくされたようにベッドに転がった。

「そう言えば、今日は課長が来るんだよな。」

 思い出したように言う純に、咲良は肯いた。

「ええ、夕方ここに来るって。」

 被害に遭った直後と、目を覚ました時。住宅メーカーの営業部である夫の職場には何度か連絡をした。

 必ず課長に取り次がれ、純の容体を事細かに聞かれ、答えた。夫のことを心配してくれていると思ったのだ。

「そっか、課長かあ。どうせなら同期の連中でも来てくれれば、退屈もまぎれるのにな。」

 目が覚めてから、一週間余り。純の容体が思わしくなく。遠慮していたせいもあるが、その間に見舞いはほとんどなかった。それも純の不機嫌の一因には違いなかった。


 純は寝転がったままテレビをつけた。ちょうどニュース番組がやっていたが、リモコンを操ってすぐにチャンネルを切り替えた。あちこち見回した後、結局バラエティ番組の再放送に落ち着く。

 事件以降、ニュース番組を嫌がるようになった咲良に気を遣ったのだ。事件直後は現場の映像などが頻繁に使われて、事件のことをいやでも思い出してしまったらしい。

 純のその気遣いに気が付いたのだろう。咲良が微笑みを浮かべる。それを見て、純も満足した。


 純の上司、課長の島田晋作は約束通り夕方の6時にやってきた。妙に大仰な挨拶を咲良にし、随分と遠慮深げに病室に入ってきた。

 ミイラ男のようになった純を見た時は、大柄な背中がビクリと震えるのが分かった。それを見た時、咲良の心中にわずかな不安が渦巻いた。

 純がベッドに入ったままの不調法を詫び、イスを進める。島田は礼を言って腰かけた。

 膝の上に鞄を置いたまま、島田は話し始めた。体の調子を含めた見舞いの定型文から始まり、職場の面々の話へ。

 しかし、どうにも歯切れが悪かった。同じところを行ったり来たり、目的地ははっきりしているのに、なぜかその周りをグルグルと回っているような歯がゆい時間が流れていく。

 二人がいぶかしんでいるのが分かったのだろう。島田は意を決したように切り出した。

 口から出てしまえば、話は簡単だった。


 一つ、顔面に大きな傷を負った状態では営業の仕事は困難であること。

 二つ、現在、会社の各部署の人員は充足しており、異動の必要性は薄いこと。

 三つ、一部職員がCAMP被害者と職場を共にすることを不安視していること。


 早い話がクビだ。

 CAMPの最初の発生からまだ3年も経っていない。一部では感染病説もまだ根強く、被害者が化け物の様に扱われることは珍しくなかった。

 余談になるが、被害者の実名報道が法によって規制されるのは翌年のことになる。


 島田は書類の一式を置いて、逃げるように帰っていき、後には放心した純と咲良が残された。

 純は、島田に食ってかかろうとした咲良を制すると、何も言わずに書類を受け取った。今はベッドにあおむけになっている。両手で顔を覆い、表情はうかがえなかった。

 咲良は長椅子の端に座り、手の震えを必死にこらえていた。島田の話でCAMP被害者を取りまく社会の目を改めて突きつけられた気持ちだった。

 随分と時間が経ってから、純がぽつりと言った。

「仕事、辞めていいか?」

 か細い、心もとない声だった。咲良はベッドに腰かけると、純の手に自分の掌を重ねた。言葉はなかったが、気持ちは伝わったらしい。

「ありがとう。」

 夫の涙には気が付かないことにした。



 なにか、物音を聞いたような気がして、付き添い者用の簡易ベッドに寝ていた咲良は目を覚ました。寝起きのぼんやりとした視界と頭で、半ば無意識に夫の姿を探す。

 ベッドは空だった。急速に覚醒する意識。うめき声を聞いた瞬間、咲良は跳ね起きた。

 不吉な確信に背中を押されて手洗いのドアを開けるのと、手鏡が床に落ちて耳障りな音を立てるのとはほぼ同時だった。

「あ、あぁああ」

 手洗いの中で、純は呆けたような声を出していた。今しがた砕けた鏡は手に持っていたのだろう。見れば咲良がバッグに入れていたものだ。純の両手は震え、その顔には包帯が巻かれていない。

 昼間のことが切っ掛けになったのか、純は咲良に黙って自身の顔を見てしまった。


 左頬からこめかみまで走る傷。その傷は赤黒く爛れ、さらにはまるで奇怪な軟体動物が触手を伸ばすように顔中に醜悪な痣が這っていた。痣は傷を中心に縦横に走り、場所により死肉を思わせる紫や青黒を示している。範囲は頭部の反対側、右後頭部まで及んでいた。

 既に頭髪はない。まだ純が目覚る前にすべて抜け落ちていた。純には治療のために剃り上げたと説明していたが。


 病室に鏡がないのはこれを見せないため。咲良がニュース番組を嫌がったのは、全身に痣を浮かべて、爛れた死体となった他の犠牲者の情報を純が得ないようにするため。新聞も関連記事のページは事前に抜き取っていた。

純が精神的にもう少し落ち着いてから話すつもりだった。


「あ、ああ。嘘、だ。お、俺の!俺のか、顔がぁああああ!!あ、あああああ」

 純は絶叫した。これは俺じゃない。こんな化け物は俺じゃない。俺は、角谷純は。こんな。

「純!!」

 夫の名を呼び、駆け寄ろうとした咲良の頬を、純の手がしたたかに打った。予期せぬ衝撃に咲良は思わずたたらを踏む。

 意図した打撃ではない。混乱のまま振り回した手が、急に近づいた咲良の顔にあたったのだ。

「さ、さくら。お、俺は」

 その時になって、初めて純は咲良に気が付いた。全身を震わせながら妻の方を見、そして自分の醜悪さを思い出したのか。両の掌で顔を覆おうとした。

 今にも崩れそうな純の体を、咲良はそっと抱き留めた。まだ痛みの残る右頬を夫の顔に柔らかく押し付ける。

 咲良の体温が伝わるうちに純の体から震えが、続いてこわばりが解けていく。気が付けば純は声をあげて泣いていた。

 咲良は純の耳に口を寄せてささやいた。

「大丈夫。貴方がどんなに変わっても、私はあなたの奥さんよ。嫌だって言っても放してあげないから。」

騒ぎを聞きつけた看護師が駆け付けた時、二人はまだ抱き合ったままだった。


 一応の落ち着きを取り戻した純だったが、以来、それまでに増して沈み込むようになった。咲良や見舞いに来た両親が話しかければ薄く笑って受け答えをするものの、それ以外では何かを考えるようにむっつりと黙っている。

 それは退院の日になっても変わらなかった。

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