囲い込むクズ
ラナがドムとキヤボに自分だけが残ることを伝えに行った時、誠二はあえて距離を取った。小川の傍で三人が何を話しているのか、声はところどころ聞こえるが意味までは拾えない。怒鳴り合いにはならなかったが、穏やかな話でもなさそうだった。ドムは何度か首を横に振り、キヤボは座り込んだまま顔を伏せている。ラナは二人に背を向けることなく、短く、何度も言葉を重ねていた。仲間思いというほど綺麗なものではないにせよ、見捨てることに慣れている女ではなさそうだった。
誠二はその様子を駅舎の前から眺めながら、ラナの価値を再評価していた。あの女は情がある。情がある人間は弱いが、扱い方を間違えなければ利用しやすい。仲間を助けたい、借りを返したい、約束を守りたい。そういう感情は、鎖になる。逆に、最初から自分の得しか考えない人間は、こちらの得とぶつかった瞬間に裏切る。誠二自身がそういう人間だからこそ、よく分かっていた。
しばらくして、ラナが戻ってきた。顔は硬いが、迷いは消えている。ドムとキヤボも後ろからついてきた。二人とも不満と安堵が混ざったような顔をしていたが、武器に手を伸ばす気配はない。話はついたらしい。ラナは誠二の前で足を止め、「三十日だ。三十日だけ残る。あいつらは帰す」と言った。
こういう時に余計な慰めや称賛は要らない。取引相手には、感情よりも条件を確認させた方がいい。
誠二は東屋へ二人を呼び、帰路のための食料を並べた。日持ちを最優先にして、エナジーバーを数箱、ビーフジャーキーを数袋、ペットボトル入りの水を六本。見た目の異質さはあるが、調理不要で軽く、腹持ちもそこそこ良い。二日分と言ったが、節約すれば三日は持つだろう。キヤボにはその場で鎮痛剤を飲ませ、追加分を紙に包んで渡した。薬について細かく説明しても仕方ないため、痛みが強い時だけ飲め、酒と一緒に飲むな、一日に何度も飲むな、と繰り返した。
ドムはエナジーバーの包装を不審そうに眺めていた。誠二は一つ開けて、食べ方を見せる。硬めの甘い棒を一口齧ると、ドムとキヤボはようやく理解したらしい。キヤボは恐る恐る齧り、目を丸くした。甘味はこの世界でも存在するだろうが、加工食品の均一な甘さと食感は珍しいのだろう。ドムも続けて食べ、すぐに残りを大事そうに袋へ戻そうとした。誠二は包装ごと保管するよう指示したが、同時に町へ入る前には必ず処分しろと念を押す。
特にペットボトルは危なかった。透明で軽く、割れにくく、水を保存できる容器など、この世界では十分に高級品か珍品になり得る。持ち込めば余計な目を引く。誠二はキャップを開け、飲み、閉める動作を実演してから、真顔で言った。
「使い終わったら燃やせ。町へ入る前に必ずだ。誰にも見せるな。もしこれが原因で面倒を連れてきたら、次は食料どころか水も渡さない」
ラナが横から説明を足すと、ドムとキヤボは神妙な顔で頷いた。
「三十日後に迎えに来い。今日を一日目として数えるな。三十日経った翌朝だ。お前らだけで来い。人を増やすな。場所を他人に喋るな。破ったら取引は終わりだ」
誠二はそう告げた。ドムは一瞬だけ顔をしかめたが、ラナに何か言われて黙った。キヤボは足を押さえながら、何度も礼を言った。誠二は礼そのものには興味がなかったが、相手がこちらを恩人として認識することには価値がある。恩は請求書と同じだ。すぐに回収しなくても、後から使える。
出発の時、ラナは二人へ短く言葉を掛けた。ドムは何かを言い返し、最後にラナの肩を軽く叩いた。キヤボは申し訳なさそうな顔で頭を下げ、ラナはそれを見て少しだけ表情を緩めた。三人の関係は恋人や家族ではない。だが、命を預ける程度の仲間ではあるのだろう。ドムとキヤボが森の奥へ消えていく間、ラナはずっとその背中を見送っていた。誠二は何も言わなかった。感傷に付き合う気はないが、ここで急かすほど愚かでもない。
しばらくして、誠二は「寂しいか」とだけ聞いた。ラナは視線を外し、「別に。冒険者はそういうものだ」と答えた。強がりだとすぐに分かったが、誠二はそこを突かなかった。
「ならいい。あいつらは足手まといだった。怪我人を抱えてここに残っても、食料を食いつぶすだけだ」
ラナは少しだけ睨んだが、否定はしなかった。冷たい言い方だが事実だったからだ。誠二は、事実を突きつけて相手の反応を見るのが嫌いではなかった。怒るか、飲み込むかで、その人間の扱い方が分かる。
まだ昼には早い時間だった。駅舎へ戻ると、やかんへ水を入れて薪ストーブへ掛けた。飲み物は紅茶でいい。コーヒーは苦みが強く、ジュースは甘味と容器が目立ちすぎる。缶飲料など論外だ。今はまだ、現代文明を見せすぎる段階ではない。ティーバッグの紅茶を二つ用意し、茶請け代わりに丸くて塩味の効いたクラッカーを皿へ並べる。ラナは待合室のベンチに座り、目の前の皿を警戒と興味の混じった表情で眺めていた。
湯が沸き、マグカップに紅茶を注ぐと、ラナはその香りに眉を動かした。「茶か」と言うので、誠二は少し意外に思った。茶を飲む文化はあるらしい。もっとも、ティーバッグを見た時の反応は完全に未知の物を見るそれだった。ラナは紐のついた小袋を不思議そうに眺め、「葉が袋に入っているのか」と呟いた。「細かいことは気にするな。飲めればいい」と返す。ラナは一口飲み、熱さに少し顔をしかめた後、ゆっくりと息を吐いた。
「まずは指輪の話だ」
ラナは自分の指に残った翻訳指輪を見た。
「これは魔道具だ。国ごとに言葉が違うから、商人や冒険者には重宝される。仕組みまでは知らない。魔道具職人でもないしな」
本人も原理は理解していないらしい。ただ、各地を渡り歩く冒険者稼業では必須級の装備であり、翻訳指輪一つで大人一人が一か月程度暮らせる価値があるという。これを自力で買えるようになれば一人前、と言われる程度には高価な道具だった。
「なら、誰でもこれを使うのか」
ラナは首を横に振った。
「いや、普通は二つか三つの言葉を覚える。指輪は高いし、壊れたら困る。最初にあんたへ話しかけた時も、母国の言葉と隣の国の言葉で試した。それでも駄目だったから指輪を使った」
共通語はなく、国境付近では複数言語を話せる者が多い。商人、冒険者、傭兵は言葉を覚えるか、魔道具に頼る。誠二は聞きながら、自分がどれほど危うい立場にいるか再認識した。指輪がなければ、ただの不審な男で終わっていた。
会話はどうにかなる。しかし文字は別だった。ラナが示した革片に書かれた文字は、誠二には絵にしか見えない。逆に、誠二のノートに書いた日本語をラナは読めなかった。これは都合が良くもあり、悪くもある。ノートを見られても情報は漏れない。だが、街へ出た時に看板も契約書も読めないのは致命的だ。誠二は内心で舌打ちした。四十を過ぎてから異世界の文字を学ぶ羽目になるとは思わなかった。だが、必要ならやるしかない。
話を聞きながら、ラナの寝床について考えた。会って一日も経っていない女を、自分の事務室へ入れるつもりはない。そこは寝室であり、物資置き場であり、能力の記録を置いている場所でもある。ラナがどれほど弱っていようが、他人は他人だ。一方で、野外に寝かせれば不満と不信が残る。取引相手には、最低限こちらの庇護を実感させる必要がある。誠二は東屋を寝床にすることを決めた。屋根があり、扉と窓を閉めれば風もかなり防げる。薪ストーブの熱も届く。
駅舎の裏手へ回り、ラナから見えない位置で折り畳み式のソファーベッドを生成した。生成能力についてはまだ話していない。事務所や物陰から取り出すふりで誤魔化しているが、そのうち気付かれるだろう。何もない場所から物が出てくるなど、隠し続けるには無理がある。しかし、最初からすべて明かす必要はない。情報は小出しにする。相手が知りたがった時に、必要な分だけ値段を付けて渡す。それが誠二のやり方だった。
ソファーベッドを二人で東屋へ運ぶと、ラナはその構造に強い興味を示した。金属の脚が折り畳まれ、背もたれが倒れ、寝台になる。こちらでは珍しい機構なのだろう。彼女は何度も手で触れ、どう動くのか確かめようとしていた。誠二は「壊すなよ」とだけ言い、構造の説明はしなかった。実際には壊れてもまた出せるが、それを教えれば物の価値が下がる。人は簡単に手に入る物を大事にしない。希少だと思わせておく方がいい。
薄いマットレスしかついていないタイプだったが、ラグを敷き、毛布を三枚重ねれば十分だった。ラナは毛布に触れ、指先で生地を撫でた。
「この布も、昨日の服と同じ場所の物か」
誠二は「ああ」とだけ答えた。ラナはそれ以上追及しなかったが、目は明らかに値踏みしていた。彼女も馬鹿ではない。この布が街で売れることくらい分かっているのだろう。誠二はその視線を見て、やはりラナは使えると判断した。価値を理解できる人間は、商売の話ができる。
寝床が一段落したところで、ラナの荷物を見せてもらうことにした。革袋の中身は少なかった。着替えが一組、小型のナイフ、火打石、薬草が数束、乾いた硬いパンの欠片、それに硬貨の入った小袋。遭難で多くを失ったという話は本当らしい。誠二は硬貨に最も興味を示した。銅と思われる丸形と四角形の硬貨、銀色の四角い貨幣。ラナによれば、他にも丸形の銀貨や三角形の金貨があるという。円形や四角形は分かるが、三角形となると文化的な意味でもあるのだろうか。
貨幣価値について聞くと、ラナは少し考えながら説明した。銅貨は日常の買い物に使い、銀貨は宿代や装備の修理、金貨は大きな取引や貴族相手の支払いで使う。地域によって形や重さに差があるため、商人は秤を持ち歩くことも多いらしい。誠二は面倒な世界だと思った。統一規格の貨幣に慣れた現代人からすれば、不便極まりない。だが、不便な世界だからこそ、そこに付け入る余地がある。正確な秤、均質な金属、保存性のある物資。現代では安物でも、この世界では価値を持つ可能性が高い。
試しに、ラナから借りた銀色の四角い貨幣を手に取り、同じものを生成しようとした。質感、重さ、表面の模様を意識する。しかし何も起こらない。何度か角度を変え、指先で縁をなぞり、再度試したが駄目だった。ラナのナイフでも同じだ。自分の所有物ではないからなのか、この世界の物だからなのか、それとも触れた時間が短すぎるのか。現時点では判断できない。顔に出さず硬貨を返した。焦る必要はない。いずれ検証すればいい。
ラナはその様子を怪訝そうに見ていた。「何をしていたんだ」と聞かれ、「重さを見ていただけだ」と嘘をついた。完全な嘘ではない。実際、重さも見ていた。ラナは納得しきっていないようだったが、追及はしなかった。彼女も、自分がまだ客人ではなく取引相手であり、立場が強くないことを理解している。そういう空気を壊さないよう、あえて穏やかな口調を保った。支配は怒鳴って作るものではない。相手に自分から従う理由を積ませるものだ。
昼が近づくにつれ、ラナが所在なさげにしていることに気付いた。男二人が去り、寝床が決まり、荷物も確認され、次に何をされるのか分からない不安があるのだろう。誠二は「昼飯にするか」と言った。ラナは一瞬だけ身構えたが、すぐ頷いた。食事への期待が警戒を上回っているのが分かる。昨日のパンとスープだけで、現代食品の破壊力は十分伝わっていたらしい。餌付けというには早いが、第一段階としては悪くない。
レトルトカレーを二袋用意した。自分用にはパックご飯を温め、ラナにはパンを添える。米は説明が面倒だし、見慣れない主食は抵抗があるかもしれない。カレーを皿へ盛ると、ラナは明らかに嫌そうな顔をした。茶色いどろりとした液体に、見慣れない具材。初見なら泥か薬のように見えても仕方ない。しかし、湯気とともに立ち上るスパイスの香りが届いた瞬間、彼女の表情が変わった。鼻先がわずかに動き、目が皿へ吸い寄せられる。
「これは食べ物なのか」
誠二は自分の皿から一口食べて見せた。
「カレーだ。毒じゃない」
ラナは恐る恐るパンをちぎり、カレーを少しだけ付けて口へ運んだ。次の瞬間、目を大きく見開く。辛さに驚いたのか、旨味に驚いたのか、しばらく黙ったまま咀嚼し、慌てて水を飲んだ。だが手は止まらない。二口目、三口目と続き、やがてパンを皿に押し付けるようにして食べ始めた。食文化の差はあっても、油と塩と香辛料は強い。
「こんな味は初めてだ」とラナは呟いた。額に少し汗を浮かべながら、それでも皿を空にしていく。少しだけ満足した。料理を褒められたからではない。相手が何に反応するかを確認できたからだ。辛味への耐性は低いが、強い味には惹かれる。甘味もおそらく効く。脂と肉も使える。ならば、食事は十分な交渉材料になる。人間は空腹だけでなく、快楽でも縛れる。風俗店で働いていた誠二には、その構造がよく分かっていた。
デザート代わりにバナナを生成して渡すと、ラナは黄色い果物をまじまじと見つめた。皮ごと齧ろうとしたため、誠二は思わず止める。「剥け。外は食わなくていい」実演して見せると、ラナは少し恥ずかしそうに真似をした。ひと口食べた瞬間、今度は本当に子供のような顔になった。甘い、と小さく呟き、すぐに残りを食べる。二本目も渡すと、遠慮らしい遠慮を見せながらも結局すべて平らげた。誠二はその表情を見て、バナナは女や子供相手の交渉に使えるかもしれないと考えた。
食後、ラナは少し落ち着いた様子で椅子に背を預けていた。警戒は残っているが、昨日ほど刺々しくはない。温かい飯、甘い果物、柔らかい寝床。人間の警戒心を削るには十分だ。皿を片付けながら、「腹も膨れただろうし、お前には早速働いてもらう」と言った。ラナの肩が分かりやすく強張る。視線が一瞬だけ下へ落ち、それから誠二を睨むように上がった。何を想像したのかは、聞かなくても分かる。
わざと少し間を置いた。相手が勝手に身構える時間を与える。こういう沈黙は、言葉よりも相手の内心を引き出す。ラナは唇を引き結び、椅子の縁を握っていた。その反応を眺めてから、淡々と言った。
「整地を手伝ってもらう」
ラナは一瞬、意味が分からないという顔をした。「……整地?」と聞き返す声には、拍子抜けした響きがあった。
「この家は傾いてる。もう少しまともな建物を置きたい。地面を平らにする」
ラナはしばらく黙った後、少しだけ顔を赤くした。誠二は気付いたが、気付かないふりをした。実際、女を目的の一つとして残したことは否定しない。だが、今すぐどうこうする気はなかった。狭く傾いた駅舎、足りない設備、臭いの残る衣服、外には男たちが去ったばかりの不安。そんな状態で焦るほど飢えてはいない。堪能するにも環境がいる。生活レベルを上げ、逃げにくい状況を作り、相手が快適さに慣れてからでいい。誠二の中では、欲望すら段取りの一部だった。
新しい建物の候補は二つあった。一つは、以前キャンプ場で見たコンテナハウス。もう一つは、実家の敷地にあった古いプレハブ小屋。どちらも記憶はある。内部にも入ったことがある。駅舎ほど思い入れはないが、生成できる可能性は十分あった。問題は設置場所だ。森の地面は苔と根と石で凹凸が多く、水平な場所が少ない。駅舎を出した時のように傾いた建物を増やすのは避けたい。基礎部分だけでも平らにする必要がある。
シャベルを二本生成し、水準器、巻尺、木杭、ロープも用意した。重機が使えれば楽だが、触ったことがなければ生成できないし、仮に出せても操作できない。そもそも燃料や整備の問題もある。ならば人力だ。ラナはシャベルを受け取り、刃の形と金属の質を確かめるように眺めた。
「ずいぶんいい道具だな」
「壊すなよ」
道具の良さを理解できるのも悪くない。労働力としての期待値が少し上がった。
作業場所は駅舎の横、少し開けた場所に決めた。小川から近すぎず、薪置き場からも遠すぎない。周囲の木を数本切れば、日当たりも多少は確保できる。誠二は杭を打ち、ロープでおおよその範囲を示した。ラナは最初こそ半信半疑だったが、土を掘り返し始めると意外なほど手際が良かった。冒険者として野営や穴掘りに慣れているのだろう。体もよく動く。細く見えるが、腕や背中には実用的な筋肉があった。
誠二はそれを見て、労働力としても当たりだと判断した。もちろん、体力そのものは若いラナの方が上だろう。四十代の誠二は、無理をすればすぐ腰にくる。だが、作業の段取りを考えるのはこちらの役目だ。高い部分を削り、低い部分へ土を運び、根を切り、石を除ける。水準器で傾きを確認しながら少しずつ整える。素人作業ではあるが、何もしないよりは遥かにましだ。ラナは水準器の泡を不思議そうに見つめ、「これで傾きが分かるのか」と感心していた。
「便利な道具が多いな、あんたの故郷は」
「便利だから人間が怠ける。怠けるためにまた便利な物を作る。その繰り返しだ」
「悪いことみたいに言うんだな」
「悪いとは言ってない。怠けたいってのは大事な欲だ。欲がない奴は工夫しない。工夫しない奴は一生泥を掘って終わる」
ラナはその言葉をどう受け取ったのか、しばらく黙って土を掘っていた。
作業は地味で、すぐに終わるものではなかった。根は予想以上に厄介で、土の中には大小の石が埋まっている。途中で軍手を追加し、汗拭き用のタオルも渡した。ラナはタオルの吸水性にまた驚いていたが、今度は何も言わずに使った。少しずつ、現代の道具に慣れ始めている。それを見て、内心で満足した。驚きは最初だけだ。慣れれば、ない生活に戻る方が苦痛になる。囲い込みは、もう始まっている。
夕方近くになる頃には、予定地の一角だけがどうにか平らになった。全体から見ればまだ半分にも満たないが、初日としては十分だろう。ラナは額に汗を浮かべ、肩で息をしていた。誠二も腰に鈍い痛みを感じている。だが、疲労には妙な充実感があった。森に放り出された初日とは違う。今は自分の意思で土地を変えている。小さな範囲ではあるが、世界を自分の都合に合わせて削っている感覚があった。
誠二は作業を切り上げ、ラナに水を渡した。ペットボトルではなく、木目調のカップに入れた水だ。余計な物を外で見せる必要はない。ラナは一気に飲み干し、深く息を吐いた。
「まさか、こんな森の奥で土木仕事をすることになるとは思わなかった」
少しだけ沈黙が落ちる。妙な共同作業の後だからか、ラナの警戒は昼よりさらに薄れていた。疲労は人間の余計な思考を鈍らせる。これも悪くない。
夕食は簡単に済ませることにした。パンとスープ、少しだけ焼いた肉、そして甘い菓子を一つ。ラナは肉よりも菓子に強く反応した。甘味は明確な報酬になる。今後、作業後に小さく与えれば、訓練にも似た効果があるだろう。自分でそこまで考えて、誠二は少し笑いそうになった。まるで犬の躾だ。だが、人間も大差ない。褒美があれば動き、罰があれば避ける。違いは言い訳が上手いかどうかだけだ。
夜、ラナは東屋のソファーベッドに腰掛け、毛布に包まっていた。薪ストーブの熱が届き、外の冷気はかなり和らいでいる。彼女はまだ落ち着かない様子だったが、野宿より遥かに快適なのは明らかだった。誠二は事務室の入口から様子を見て、「明日も整地だ。早く寝ろ」と言った。ラナは少し迷った後、呼び止めた。誠二が振り返ると、彼女は毛布の端を握りながら言った。
「あたしは、あんたを信用したわけじゃない」
「それでいい。俺もお前を信用してない」
ラナは一瞬だけ驚いた顔をし、それから小さく笑った。綺麗事を言われるよりは、その方が楽なのだろう。
「信用なんて後でいい。今は取引だ。お前は情報と労働力を出す。俺は飯と寝床と報酬を出す。それだけだ」
ラナは静かに頷いた。その反応を見て、誠二は少なくとも初日の交渉は成功したと判断した。
事務室へ戻った誠二は、ノートを開いて今日の記録を書き込んだ。翻訳指輪の価値。言語事情。貨幣の形と種類。ラナの体力。甘味への反応。カレーへの反応。現代布と寝具への反応。整地予定地の広さ。コンテナハウスまたはプレハブの生成候補。項目は多い。だが、その一つ一つが、この世界で生きるための足場になる。誠二はペンを止め、窓の外を見た。東屋ではラナが毛布に包まり、まだ眠れずにいるようだった。
人間を一人囲い込むのは、建物を建てるのと似ている。まず地面をならす。次に土台を作る。急いで柱を立てれば歪む。焦って屋根を乗せれば崩れる。飯、寝床、安心、報酬、秘密、弱み。そういうものを一つずつ積み上げていけば、いつの間にか相手は外へ出る方を恐れるようになる。誠二は自分の考えが歪んでいることを理解していたが、直す気はなかった。綺麗な心で生き残れるなら苦労はない。
翌日からの作業計画を書き終えると、誠二は指輪を外して机の上へ置いた。異世界の言葉を理解させる小さな魔道具。これ一つで、この世界への扉が開いた。だが同時に、ラナという女も扉になった。街へ出る前に必要な知識を吸い上げる。金になる物を見極める。危険な権力者や組織を避ける。そして、利用できる相手を選ぶ。誠二は薪ストーブの火が小さく揺れるのを眺めながら、静かに笑った。
森で孤立していた生活は、今日で終わった。だが、誰かと手を取り合う生活が始まったわけではない。始まったのは、取引と利用と、少しずつ相手の退路を狭めていく共同生活だった。ラナはまだそれに気付いていない。あるいは、薄々気付いていながら、気付かないふりをしている。どちらでもよかった。重要なのは、彼女が今夜この場所で眠り、明日もここで飯を食い、誠二の作業を手伝うという事実だけだった。




