ノンデリのクズ
森の奥から現れた三人を見た瞬間、誠二は反射的に身を低くした。助かった、とは思わなかった。ようやく人間に会えたという感動もない。最初に頭へ浮かんだのは、あいつらは敵か、使えるか、どちらだという判断だった。気の強そうな顔つきの女、背の高い痩せた男、小柄で太り気味の男。三人とも薄汚れた革と布を重ねたような服を着ており、腰には短剣か鉈のような武器を下げている。疲労の色は濃い。足取りも悪い。だが、武装している相手を見て無警戒に出ていくほど、誠二は善人でも馬鹿でもなかった。
女が先頭だった。二十代前半ほどに見えるが、顔つきは若さよりも険しさが勝っている。髪はくすんだ茶色で、汗と土で固まり、頬には細かな擦り傷があった。背の高い男は肩で息をしながら周囲を見回しており、小柄な男は片足を庇うように歩いている。遭難者か、盗賊か、冒険者か。見た目だけでは判断できない。少なくとも、三人とも腹を空かせているのは間違いなかった。頬はこけ、唇は乾き、こちらの駅舎を見つけた瞬間の目には、警戒よりも飢えた獣のような光があった。
誠二は駅舎の陰から鉈を握り、三人の動きを観察した。逃げる選択肢もある。だが、拠点を捨てるには惜しすぎる。一か月かけて作った生活環境だ。食料も道具もある。ここを奪われれば、また森の中で一から始めることになる。そんな面倒は御免だった。かといって、いきなり攻撃するのも早計だ。相手は情報を持っている可能性が高い。この世界の言葉、国、貨幣、集落、危険な生き物。喉から手が出るほど欲しい情報を、三人は持っているかもしれない。
女が駅舎の前で立ち止まり、何かを叫んだ。声には力がないが、威嚇ではなく呼びかけに近い響きだった。しかし誠二には一語も分からない。言葉の形からして日本語でも英語でもない。聞いたことのない発音が連なり、意味を結ばずに耳を通り抜けていく。誠二は眉をひそめた。人間がいるのはいい。だが言葉が通じないのは致命的だった。身振り手振りで多少は伝えられるかもしれないが、交渉となると難しい。食料を寄越せ、出ていけ、武器を置け。その程度すら正確に伝えられないのは危険だった。
女はもう一度何かを言った後、ゆっくりと両手を上げた。敵意はない、という意思表示だろう。背の高い男もそれに倣い、小柄な男は膝をつきそうになりながら同じように手を上げる。誠二はしばらく迷った末、駅舎の陰から姿を現した。ただし距離は詰めない。右手には鉈を持ち、左手は腰のナイフに近い位置へ置く。三人の視線が誠二の服装へ集まった。黒いパーカー、ジーンズ、スニーカー。彼らから見れば相当奇妙な格好なのだろう。
女が早口で何かを言う。誠二は首を横に振り、「分からん」と日本語で返した。通じていないことはすぐに伝わったらしい。女は苛立ったように唇を噛み、腰のポーチを探った。誠二は鉈を構え直す。取り出したのは武器ではなく、小さな指輪だった。女はそれを自分の指にはめ、再び口を開く。すると、先ほどまで意味不明だった言葉が、奇妙な遅れを伴って頭の中で意味を持った。
「あんたは、この家の主か。頼む、食料を分けてくれ。五日まともに食べていない。こいつが怪我をして、もう歩けない」
誠二は表情を変えなかったが、内心では舌を巻いた。翻訳の魔道具か何かだろう。異世界らしいと言えば異世界らしい。女はさらにポーチからもう一つ指輪を取り出し、地面へ置いてから足でこちらへ滑らせた。
「これをつけて話してくれ。こちらにもあんたの言葉が分かるはずだ」
罠の可能性はある。指輪をはめた瞬間に呪われるような展開も、漫画ならいくらでもある。だが、言葉が通じないままでは何も始まらない。誠二は拾い上げる前に棒でつつき、特に変化がないことを確認してから指輪を手に取った。
指輪は大きかった。人差し指にはめても緩いほどだったが、次の瞬間、金属が生き物のように収縮し、指にぴったりと合う。誠二は思わず顔をしかめた。気持ちが悪い。外そうとすると普通に外れたため、拘束具ではないらしい。再びはめ直し、女へ向かって口を開く。
「これで分かるか。食料は分けてやってもいい。だが、条件がある。俺の質問に答えろ。それと、その指輪を代金にするなら考える」
女は一瞬目を見開いた。こちらの言葉が通じたのだろう。背の高い男も何かを言いかけたが、女が手で制した。
「指輪は高い。食料一食分と釣り合うものじゃない。だが、こっちは本当に限界だ。二、三日分の食料と、水、それからキヤボの手当てをしてくれるなら渡す」
女の声は切迫していたが、完全に弱っているわけではなかった。交渉する気力は残っている。誠二は小柄な男へ視線を向けた。キヤボと呼ばれた男は、右足を庇いながら地面に座り込んでいる。血は見えない。骨折なら厄介だが、捻挫程度なら湿布と固定で十分だろう。誠二は少し考え、頷いた。
「いいだろう。ただし武器は置け。勝手に家へ入るな。食わせる場所はこっちが決める」
三人は顔を見合わせた。背の高い男は不満そうだったが、女が短く何かを言うと、渋々腰の武器を地面へ置いた。誠二はそれを確認してから、東屋の前にある焚火場を指差した。
「そこで待て。妙なことをしたら、次は飯じゃなくて別のものを出す」
脅しとしては曖昧だったが、声の調子だけで意図は伝わったらしい。女は警戒を残したまま頷き、男二人を連れて焚火場へ移動した。誠二は駅舎へ戻りながら、心の中で計算を始めていた。食料の原価は実質ゼロ。対価は翻訳指輪と情報。悪くない取引だった。
食わせる物は慎重に選ぶ必要があった。ハンバーガーやカップ麺をそのまま見せれば、あまりに異質すぎる。こちらの手札を無駄に晒す必要はない。誠二は駅舎の中で、丸パンに近い食感のロールパンをいくつか生成し、さらにインスタントスープの素を鍋へ入れた。具材が多すぎると説明が面倒なので、粉末タイプの簡単なものにする。水は大型タンクから鍋へ注ぎ、薪ストーブで温めた。器も必要だ。百円ショップで買ったことのある木目調のプラスチック皿と椀を人数分出す。見た目だけなら異世界の木工品に見えなくもない。
鍋と皿を持って焚火場へ戻ると、三人の視線が一斉に食べ物へ吸い寄せられた。飢えた人間の目だった。誠二はパンを一人二つずつ配り、スープを椀へ注ぐ。女はまず匂いを嗅ぎ、毒を疑うように誠二を見た。誠二は自分用の椀を取り、一口飲んで見せる。
「毒なんか入れてない。殺す気なら食わせる前にやってる」
そう言うと、女はようやくパンを齧った。次の瞬間、目の色が変わった。男二人はさらに露骨だった。ほとんど噛まずに飲み込み、スープをすすり、熱さに顔を歪めながらも手を止めない。
三人が食べる様子を見ながら、誠二は内心で評価を更新した。少なくとも、彼らは本当に飢えている。芝居ではない。食料を奪う余裕があるなら、ここまで必死にはならないだろう。女は食べながらも周囲へ目を配っているが、男二人はほとんど食欲に支配されている。統率しているのは女だ。交渉相手としては女だけを見ればいい。男二人は荷物持ちか、壁役か、あるいはたまたま組んでいる仲間程度だろう。誠二はそう判断した。
食事が一段落すると、女は深く息を吐き、改めて誠二へ向き直った。「助かった。あたしはラナ。こっちの背の高いのがドム、小さいのがキヤボだ。あんたの名前は」誠二は一瞬迷った。本名を名乗る必要はない。しかし、この世界で使う名前は決めておいた方がいい。店では周囲からセージと呼ばれていた。誠二という名前をそのまま異世界人に発音させるのも面倒だ。「セージでいい」と答えると、ラナは小さく頷いた。
「セージ。変わった名だな。あんた、どこの国の者だ。どうしてミコの森の奥なんかに、こんな家を建てている」
ミコの森。誠二はその単語を頭の中で繰り返した。ようやく地名が得られた。知らない国の知らない森の中で、自分の現在地に名前があるというだけで一歩前進だった。
「質問するのは俺が先だ。ここはどこの国だ。近くに町はあるのか。お前らは何者だ。答えろ」
誠二がそう言うと、ラナは不満そうに眉を寄せたが、食料と指輪の取引を思い出したのだろう。渋々説明を始めた。彼女たちは冒険者で、薬草と魔獣素材を求めて森へ入ったが、予想外の群れに遭遇し、逃げるうちに深部へ入り込んだらしい。
ラナの話は、誠二にとってほとんど異世界の教科書だった。人間、獣人、エルフがいる。魔法を使える者は珍しくないが、誰でも使えるわけではない。国家は複数あり、言葉もそれぞれ違う。共通語は存在せず、国境付近では複数の言語を話せる者も多い。ミコの森は寒冷地に広がる巨大な針葉樹林で、まともな街道から外れた奥地は滅多に人が入らない。最寄りの集落までは、彼女たちの感覚で歩いて数日。誠二の見立てでは三十キロ前後だろう。近いようで遠い。森の中なら十分に死ねる距離だった。
話を聞きながら、誠二は何度も質問を挟んだ。貨幣、食料の相場、鉄の価値、布の値段、治安、税、身分制度。ラナは最初こそ怪訝な顔をしていたが、やがて諦めたように答えるようになった。どうやらセージという男が、世間知らずなのか、隠し事をしているのか、判断しかねているらしい。誠二はわざと曖昧な説明に終始した。遠い場所から来た。事情があってここにいる。家のことは答えない。便利な道具はあるが、見せる気はない。嘘をつく時は、細部を増やさない方がいい。風俗店で客や女を相手に学んだ基本だった。
問題は臭いだった。食事中は距離があったため我慢できたが、会話を続けるうちに三人の体臭が鼻につき始めた。汗、土、獣脂、血、湿った革、洗っていない布。いくつもの臭いが混ざり、焚火の煙でも誤魔化しきれない。誠二は顔をしかめた。元の世界の基準で考えれば、かなりきつい。もちろん、遭難していたなら仕方ない部分もある。だが、ラナの反応を見る限り、彼女たちはそこまで自分たちが臭うとは思っていないらしい。文化として、清潔の基準が違うのだろう。
「他にも色々聞きたいことはあるが、お前ら臭すぎるぞ」
誠二が率直に言うと、ラナの顔が一瞬で赤くなった。怒りと羞恥が同時に浮かぶ。ドムは意味が分からないという顔をし、キヤボは気まずそうに自分の服の匂いを嗅いだ。ラナは低い声で「遭難していたんだ。水浴びする余裕なんてなかった」と言い返したが、誠二は鼻で笑った。
「二週間でその臭いになるなら、元から大して洗ってないだろ。話を続けたいなら、せめて洗え。俺は汚物と同じ部屋で飯を食う趣味はない」
言い方が悪いことは分かっていた。だが、わざとだった。相手が弱っているうちに上下関係を作っておく必要がある。優しく扱えば、要求は増える。最初に不快なものは不快だと突きつけ、こちらの基準を飲ませた方が後で楽だ。ラナは怒りを押し殺した顔で誠二を睨んでいたが、食料と暖かい寝床を前に強く出られないことも理解しているようだった。誠二は駅舎の方を指差した。
「女のお前だけなら、中で湯を使わせてやる。男二人は小川で洗え。最低限、泥と臭いを落とすまで近づくな」
ラナはしばらく沈黙した。警戒しているのは当然だった。見知らぬ男の家で体を洗えと言われて、素直に頷く女なら逆に危ない。誠二は肩をすくめる。
「嫌ならそのままでいい。飯の追加と暖かい部屋での話はなしだ。外で焚火に当たりながら質問に答えろ。俺は窓越しに聞く」
その言葉で、ラナの表情が変わった。寒さ、疲労、空腹、そしてこの家への興味。それらを天秤にかけているのが分かった。しばらくして、ラナは小さく息を吐いた。
「分かった。ただし、変な真似をしたら殺す」
「元気があるのは結構だ。だが、今のお前が俺を殺せると思ってるなら、食い物より先に頭の薬が必要だな」
ラナは再び睨んできたが、反論はしなかった。誠二は彼女の武器を焚火場へ置かせ、男二人には毛布と追加のパン、鍋に入れたミネストローネ、それから安物のワインを一本渡した。涙ぐむほど喜んでいる二人を見て、誠二は内心で冷めた笑みを浮かべた。安い。飢えた人間は本当に安い。だが、その安さを責める気はない。自分なら同じ状況で、もっと早く頭を下げているかもしれないからだ。
駅舎の中へ入ったラナは、見るものすべてに警戒と驚きを示した。床、窓、薪ストーブ、LEDランタン、金属製の鍋、プラスチックの器。彼女にとっては見慣れない物ばかりなのだろう。特に窓ガラスと鏡への反応は大きかった。脱衣所代わりにしている小部屋へ案内した時、壁に掛けた手鏡を見たラナは足を止めた。誠二はその反応を見逃さなかった。鏡は高い。少なくとも、この世界では希少品だ。売れる。あるいは、交渉材料になる。頭の中の商売帳簿に、また一つ項目が増えた。
風呂と言っても、まともな浴槽ではない。大型タンクの湯を塩ビパイプで引き、簡易シャワーのように使うだけだ。湯量も限られているため、長時間は使えない。誠二は使い方を説明したが、ラナにはほとんど伝わらなかった。蛇口をひねれば湯が出るという発想自体がないらしい。仕方なく、誠二は扉の外から手順を説明し、必要なものだけ渡した。石鹸、シャンプー、タオル、替えの服。服は目算でサイズを選び、過去に扱ったことのある下着とTシャツ、ジャージを生成しておいた。見た目は異質だが、汚れた服を着直されるよりはましだった。
しばらくして、風呂場から怒声と驚きの声が何度か聞こえた。湯が出たこと、泡が立つこと、石鹸で汚れが落ちること、そのすべてが珍しいらしい。誠二は事務室で待ちながら、外の男二人を窓越しに確認した。ドムとキヤボは東屋で毛布に包まり、鍋の中身を取り合うように食べている。ワインの瓶を見て何か言い合っているが、争うほどの元気はない。しばらくは放っておいても問題ないだろう。むしろ今は、ラナからどれだけ情報を引き出せるかが重要だった。
ラナが着替えて出てきた時、誠二は素直に見違えたと思った。汚れが落ちるだけで印象は大きく変わる。髪はまだ濡れていたが、肌の色も表情も先ほどよりはっきりしていた。元の服では分からなかった体格も、現代の衣服を着るとよく分かる。鍛えられているが、細すぎない。顔立ちも悪くない。気が強そうな目つきは相変わらずだが、商品として見れば十分に見栄えがする。誠二は風俗店員時代の癖で、無意識にそう評価していた。もちろん口には出さない。言えば面倒になるだけだ。
ラナは渡された服の袖を引っ張り、落ち着かない様子で立っていた。「これは何の布だ。伸びる。縫い目も細かい。金持ちの服でもこんなのは見たことがない」誠二は適当に肩をすくめた。
「俺の故郷の服だ。汚い服を着られると臭いが戻るから、話が終わるまではそれを着てろ」
ラナは何か言いたげだったが、着心地の良さには逆らえないようだった。誠二はその表情を見て、服も売れると判断した。大量に出せるかは分からないが、少量を高く売るなら十分だろう。
その後の情報収集は、夜遅くまで続いた。ラナは冒険者として各地を移動しているらしく、一般人よりは世情に詳しかった。近隣国家の名、最寄りの町、ギルドの仕組み、貨幣単位、身分証の扱い、魔法使いの価値、スキルと呼ばれる特殊能力の存在。誠二は分からない単語が出るたびに説明させ、ノートへ書き込んだ。ラナは文字を見て驚いたが、読めないようだった。この世界の文字とは違うらしい。誠二にとっては都合が良い。ノートを見られても内容が分からないなら、情報管理が楽になる。
特に重要だったのは、魔法とスキルの扱いだった。この世界では魔法を使える者が三割ほど存在し、特殊な技能を持つ者も珍しくないらしい。つまり、誠二の能力も完全にありえないものではない。ただし、物を無から生み出すような力は聞いたことがないとラナは言った。物理現象を起こす魔法は存在するが、食料や道具を生成する能力は極めて異質だろう。誠二は表情を動かさずに聞いていたが、内心では警戒を強めた。やはり能力は隠すべきだ。少なくとも、誰かに管理される立場になるのは避けなければならない。
ラナたちの事情も見えてきた。彼女たちは大きな組織に属する上級冒険者ではなく、日銭を稼ぐ下級から中級程度の一団らしい。今回の探索では薬草と魔獣素材を狙ったが、群れに襲われ、荷物の多くを失った。キヤボが足を痛めたことで移動速度が落ち、食料も尽きた。帰還できても大赤字で、しばらく暮らす金にも困る。ラナは強がっていたが、かなり追い詰められているのは明白だった。誠二はその弱みに興味を持った。困っている人間は、条件次第で動かしやすい。
深夜近く、誠二は話を切り上げた。ラナには待合室のベンチを使わせ、男二人は東屋で寝かせる。毛布と食料を渡しておけば、少なくとも今夜は暴れないだろう。もちろん完全には信用しない。誠二は事務室の扉に簡易的なつっかえ棒を置き、手元に鉈とナイフを置いて眠る準備をした。ラナはベンチの上で毛布に包まりながら、まだ警戒した目でこちらを見ている。「セージ。あんたは何者なんだ」そう聞かれ、誠二は扉を閉める前に笑った。
「今のお前に必要なのは、俺の正体じゃなくて明日の飯だろ」
扉を閉めると、駅舎の中に静けさが戻った。外では男二人の寝息が聞こえ、薪ストーブの中で火が小さく爆ぜている。誠二は机の上のノートを開き、今日得た情報を整理した。ミコの森。最寄りの集落。冒険者。翻訳指輪。貨幣。魔法。スキル。鏡や服の価値。どれも重要だった。そして何より、ラナという女には利用価値がある。土地勘があり、言葉が通じ、ある程度の判断力があり、しかも今は弱っている。誠二はペン先で彼女の名前を丸で囲み、しばらく眺めた。
助ける理由はある。だが、善意ではない。ラナを通じて街の情報を得られる。翻訳指輪の使い方も分かる。彼女がこの世界の常識を教えれば、誠二は無知を隠せる。さらに、鏡や服を売る際の仲介役にもなるだろう。問題は、どうやって縛るかだ。金か、恩か、食料か、安全か。あるいは、その全部か。誠二は口元を歪めた。人を縛る鎖は鉄でなくてもいい。飢えた人間には飯が鎖になる。貧しい人間には金が鎖になる。疲れた人間には暖かい寝床が鎖になる。
翌朝、ラナが目を覚ました時、誠二は既に朝食を用意していた。パン、温かいスープ、焼いた加工肉、薄い茶のような飲み物。現代日本の食事としては粗末だが、この世界の遭難者には十分すぎるらしい。ラナは昨夜よりも落ち着いた顔で食事を取り、外の男二人にも同じものを運んだ。ドムとキヤボは何度も礼を言い、特に足を痛めたキヤボは湿布と包帯の効果に驚いていた。大した治療ではないが、痛みが和らいだだけでも神の奇跡のように見えるのだろう。
食後、誠二はラナだけを駅舎の外れへ呼んだ。男二人には追加の食料と水を渡し、帰還の準備をさせてある。ラナは警戒を隠さずに誠二を見た。「何の話だ」誠二は小川の方を見ながら、淡々と言った。
「男二人は街へ帰せ。お前はしばらくここに残れ。三十日だ。その間、この世界のことを俺に教えろ。言葉、金、町、法律、冒険者、魔法。知っていることを全部だ。対価として、あいつらには帰るだけの食料を渡す。お前にも、最後に売れば当面暮らせる品を渡す」
ラナはすぐには答えなかった。怒るかと思ったが、表情に浮かんだのは迷いだった。誠二は続ける。
「今回の探索は失敗したんだろう。手ぶらで帰れば詰む。だが、俺が渡す鏡や服を売れば、少なくとも赤字は埋められる。男二人には、森の別方向で拾ったとでも言わせろ。俺の場所を喋られると困る。もし余計な連中を連れてきたら、次は助けない」
誠二の声は冷たかった。脅しではあるが、本音でもあった。強欲な連中が押しかけてくる未来は、絶対に避ける必要がある。
ラナは唇を噛んだ。「あたしだけ残れってことか。女だからか」その問いに、誠二は否定しなかった。
「それもある。だが、一番はお前が一番話が通じるからだ。あの二人は使えない。怪我人と腹を空かせた男を置いても邪魔なだけだ。お前なら情報を持っているし、判断もできる。俺にとって価値がある」
露骨な言い方だったが、ラナはむしろ少し冷静になったようだった。綺麗事を並べられるより、欲望と損得を明示された方が信用できる。そんな顔だった。
誠二はさらに条件を足した。
「無理にとは言わん。嫌なら三人で帰れ。食料は二日分渡す。指輪はもらう。それで終わりだ。ただし、次にここへ来ても同じ対応をするとは限らない。残るなら三十日分の食事と寝床を保証する。服も貸す。最後に、鏡を一つと、街で売れそうな品を渡す。お前の損にはならんはずだ」
ラナは沈黙した。森の音だけが周囲に満ちる。誠二は急かさなかった。人間は選ばされていると思うと反発するが、自分で選んだと思えば意外に従うものだ。
やがてラナは小さく息を吐いた。
「三十日だけだ。あたしの仲間に手を出すな。あたしにも、無理なことはさせるな」「条件次第だな。ただ、約束した分の飯と報酬は出す。俺は慈善家じゃないが、取引を壊すほど馬鹿でもない」
ラナはその言い方に不快そうな顔をしたが、否定はしなかった。彼女も理解しているのだ。今の自分たちには、誠二の条件を完全に拒めるほどの余裕がない。
こうして、誠二の拠点に初めての同居人ができた。善意で保護したわけではない。恋物語が始まったわけでもない。飢えた冒険者に飯を与え、弱みと欲を見抜き、情報と労力を引き出すために囲い込んだだけである。ラナは誠二を警戒し、誠二はラナを値踏みしていた。それでも、取引は成立した。異世界に来て一か月。森の中で孤立していたが、ようやくこの世界とつながる一本目の糸を手に入れた。




