出せないクズ
翌朝、誠二はいつもより少し早く目を覚ました。事務室の小さな窓から差し込む光はまだ弱く、薪ストーブの火もほとんど灰になっている。外は冷えているが、駅舎の中は昨夜の熱がわずかに残っていた。東屋の方へ耳を澄ませると、ラナが起き出す気配はまだない。昨日は慣れない道具で半日以上土を掘ったのだから、疲れているのだろう。誠二も腰に重い痛みを感じていたが、作業は止められない。人間を一人囲い込むなら、まず生活環境を上げる必要がある。飯と寝床だけでは足りない。次は、便所だった。
朝食はコンビニのサンドウィッチとバナナ、それにミルクティーにした。最初は包装を剥いて皿に移し替えようと思ったが、いちいち面倒だった。透明なフィルムや印刷された袋を見せるのは避けたいが、相手はもうペットボトルもソファーベッドも見ている。隠し続けるには限界がある。誠二は妥協し、包装だけ外して中身を皿へ並べた。サンドウィッチは切り口が綺麗すぎて、これはこれで異質だが、食べ物としての警戒は昨日のカレーでかなり薄れているはずだった。
ラナは起きてくるなり、少し気まずそうに挨拶をした。髪はまだ乱れていたが、昨日渡した服と毛布のおかげで、初日に見た泥まみれの女とはかなり印象が違う。食卓代わりのベンチに座らせ、皿を出すと、彼女の目がすぐにサンドウィッチへ向いた。
「これはパンか」
「ああ。中に肉や野菜を挟んである」
ラナは一口食べ、すぐに表情を緩めた。パンの柔らかさ、具材の塩気、マヨネーズの油分。その組み合わせが気に入ったらしい。バナナも昨夜より手慣れた様子で皮を剥き、ミルクティーを飲んだ時には、何とも言えない顔で息を吐いた。
美味そうに食っている。誠二はその様子を見ながら、飯だけで手懐けられるなら楽なんだがな、と考えた。もちろんそこまで単純ではない。ラナは空腹を満たされ、暖かい寝床を与えられ、珍しい服を着せられている。それでも、まだこちらを完全には信用していない。むしろ、与えられる物が多いほど警戒する人間もいる。裏があると分かるからだ。実際、裏はある。善意ではない。だが、裏があろうと飯は美味いし、寝床は暖かい。その事実を毎日積み重ねることが大事だった。
朝食の後、二人は昨日の整地作業の続きを始めた。手押しの猫車とシャベルを使い、土を掘っては運び、低い場所へ均していく。ラナは意外に働けた。というより、誠二より明らかに力がある。見た目は女として細身に見えるが、腕や脚の使い方が違う。土を掘る動作に無駄が少なく、重い猫車も軽々とは言わないまでも安定して押す。冒険者という職業がどの程度のものかまだ分からないが、少なくとも現代日本の一般人よりは身体能力が高いらしい。
その事実は、誠二を少し冷静にさせた。もしラナに本気で殴られたら、負けるかもしれない。武道経験はないが、スポーツ全般はある程度できるという自負はあった。だが、それは元の世界の一般人相手の話だ。剣や魔獣が存在する世界で生きている冒険者を、同じ物差しで測るのは危険だった。彼女は昨日から弱っていた。飢えと疲労で本来の力を出せていなかっただけかもしれない。誠二は作業中も、ラナの手の届く位置に長く立たないよう気を付けた。信用など、まだ遠い。
昼頃には、予定していた整地の大部分が終わった。完全に水平とは言えないが、水準器の泡を見る限り、昨日よりは遥かにましだ。誠二は一度昼飯にしようかと思ったが、あと少しで一区切りがつく。食事を挟むと体が重くなる。ここは少し遅らせて終わらせた方がいい。
「もう少しやるぞ。昼は後だ」
ラナは汗を拭きながら頷いた。文句は言わない。昨日の食事と寝床が効いているのか、それとも元々働くことに慣れているのか。どちらにせよ、労働力としては合格だった。
作業を続けながら、誠二は別の問題を考えていた。トイレである。ラナがどこで用を足しているのか、誠二は知らない。ドムとキヤボも同じだ。森の中なのだからその辺で済ませているのだろうが、勝手に拠点近くでやられると困る。臭いも出るし、獣を呼ぶ可能性もある。不衛生でもある。最初はトイレ用の穴を掘ることを考えていた。場所を決め、土をかけさせれば最低限は何とかなる。しかし、そこでふと思い出した。生成した駅舎には、事務所の裏に汲み取り式のトイレがあったはずだ。
実際、駅舎の裏手を確認すると、地面に古いマンホールのような蓋があった。今まで完全に見落としていた。開ける勇気はなかったが、位置から考えて汲み取り槽だろう。つまり、駅舎を生成した時、地中部分まである程度は再現されている。ズレや傾きはあっても、地面の下に構造を作ること自体は可能らしい。ならば、小さなトイレを独立して生成することもできるかもしれない。これは試す価値があった。何より、まともなトイレがあるだけで生活の質は大きく変わる。
予定の整地が終わったところで、誠二は声を掛けた。二人とも汗をかき、腹も減っている。涼しい気候とはいえ、土木作業は重労働だ。東屋へ戻る途中、ラナは何度か整地した場所を振り返っていた。何をするつもりなのか気になっているのだろう。説明より先に飯だ。空腹の相手に大事な話をしても、半分は頭に入らない。腹を満たしてから、こちらの見せたいものを見せる方がいい。
昼飯は唐揚げ弁当と豚汁にした。ラナが米を食べられるかは分からないが、これも実験である。合わなければパンを渡せばいい。弁当容器はさすがにそのまま見せると異質すぎるため、皿へ移し替えた。白飯、唐揚げ、少量の漬物、付け合わせ。豚汁は椀へ入れ、フォークとスプーンを添える。箸は昨日の様子から見て無理だろう。ラナは皿の白い米を不思議そうに眺めたが、唐揚げの匂いにはすぐ反応した。
「俺の故郷の主食で、米というんだ。口に合うかは知らん」
ラナはまずスプーンで少量の米を口へ運んだ。何度か噛み、少し驚いたように目を動かす。
「似たものはある。雑穀を炊いた食べ物だ。でも、これはずっと柔らかくて甘い」
そう言いながら、次に唐揚げを食べる。瞬間、表情が変わった。衣の油、肉汁、塩気。どうやら完全に刺さったらしい。豚汁も同様だった。肉と野菜と味噌の旨味が、彼女の知るスープとは別物だったのだろう。あっという間に皿が空になった。
「おかわりはいるか」
ラナは一瞬恥ずかしそうに視線を逸らした。だが、断るほど意地を張る気はないらしい。小さく頷いた。誠二は唐揚げを少し減らした二皿目を出してやる。食わせすぎて動けなくなっても困るが、今日の作業量を考えれば問題ない。ラナは二皿目も綺麗に食べ、最後に豚汁を飲み干した。腹が満ちると、人間の顔つきは変わる。初日に飢えた獣のようだった目は、今では少しだけ柔らかい。誠二はそれを見て、食料はこの世界で最も強い武器の一つだと改めて確信した。
食後、二人は紅茶を飲みながら少し休憩した。ラナは腹を押さえ、どこか満足そうにしている。誠二はそのタイミングで切り出した。
「今日はお前に、俺の秘密というかスキルを見せる。口外するな」
ラナの表情がすぐに引き締まった。先ほどまでの満腹の緩みが消え、冒険者の顔に戻る。誠二はそれを見て、少しだけ評価を上げた。切り替えが早い。
「もし喋ったら、飯も寝床も報酬も全部なしだ。お前の仲間が戻ってきても助けない」
そう言うと、ラナは黙って頷いた。
誠二はラナを整地した場所の脇へ連れていった。まずは小さなトイレを生成する。水洗とはいえ、基本は汲み取り式だ。定期的に汲み出さなければならないが、少人数ならしばらくは何とかなるだろう。浄化槽を作って排水させるという考えも一瞬浮かんだが、そんな工事の知識はない。むしろ問題は、水タンクの設置だった。便器を出せても水がなければ使い勝手が悪い。とりあえずバケツで水を流す方式にすればいい。完璧を求めるより、使える形を先に作るべきだった。
頭の中で、小さな公衆トイレの記憶を細部まで思い浮かべる。コンクリートの床と壁、簡素な屋根、扉、個室が一つ、立ち小便用の便器が一つ、申し訳程度の手洗い場。どこで見たものだったか曖昧だが、駅や公園で似たような設備には何度も触れている。誠二は深く息を吸い、掌を前へ向けた。体の奥から熱が抜ける感覚が走り、目の前の空間が歪む。次の瞬間、整地した地面の上に、小さなコンクリート造りのトイレが出現した。
疲労はあるが、意識を失うほどではない。成功だった。少し傾きはあるが、使用には問題なさそうだ。ラナは絶句していた。目の前に突然、石でも木でもない滑らかな壁の小屋が現れたのだから当然である。彼女は口を開きかけ、言葉を失い、もう一度小屋を見た。扉、屋根、白い便器、銀色の管、手洗い場。用途すら分からないだろうが、精巧な建造物であることは理解できるらしい。ラナの顔には、恐怖に近い驚愕が浮かんでいた。
「これが俺のスキルだ」
「何でもというわけにはいかないが、こんな感じで物を召喚できる。そこの駅舎もそうだ」
ラナはゆっくりと誠二を見た。昨日から疑っていたことの答えを、いきなり目の前で見せられた形だ。彼女は何かを言おうとしたが、言葉にならない。誠二はその隙を逃さず続けた。
「だから言っただろ。口外するな。知られれば面倒になる。お前も巻き込まれる。俺を売れば得をすると思う奴はいるだろうが、その前にお前が消される可能性もある」
脅しを混ぜたのは意図的だった。秘密を共有させるだけでは足りない。秘密を喋るリスクも理解させる必要がある。ラナは顔色を変えたまま、ゆっくり頷いた。誠二はそれを確認し、さらに畳みかける。
「これから、もう一つデカいのを出す。俺は気を失うかもしれん。その時は、あの家まで運べ。変なことはするな。俺が死ぬと、お前への報酬も飯も消えるぞ」
返答を待たず、誠二は整地した広い場所へ向き直った。
今度は大物だった。駅舎より一回り大きいプレハブ小屋。実家の敷地にあったものと、キャンプ場で見たコンテナハウスの記憶を混ぜる。だが、混ぜるのは危険かもしれない。生成能力は記憶に依存する。曖昧なものを作ろうとすれば失敗する可能性が高い。ならば、実家のプレハブ小屋を基準にするべきだ。外壁、屋根、窓、引き戸、床、簡単な間仕切り。中に入った記憶はある。触れたこともある。いけるはずだった。
誠二は気合を入れ直し、頭の中で建物を組み上げた。次の瞬間、全身から一気に力が抜けた。トイレの時とは桁が違う。視界が白く染まり、耳鳴りがする。体の奥を根こそぎ引き抜かれるような感覚。まずい、と思った時には遅かった。膝が崩れ、地面が近づく。ラナが何か叫んだ気がしたが、意味を理解する前に意識が途切れた。
気が付くと、誠二は東屋のソファーベッドに寝かされていた。最初に見えたのは、薄暗い天井と毛布の端だった。体が重い。頭痛もある。口の中が乾いている。少し身じろぎすると、椅子に座っていたラナがすぐに立ち上がった。
「良かった。気が付いたか」
昨日までとは違う焦りが混じっていた。誠二は目だけを動かして周囲を確認した。東屋だ。ラナ用にあてがった寝床に寝かされている。少なくとも、放置はされなかったらしい。
「どれくらい気を失ってた」
ラナは少し困った顔をした。時間の数え方が違うのだろう。しばらく説明を聞いて、日が沈みかけていることから、一日未満だと判断した。半日近くは飛んだらしい。誠二は舌打ちしようとして、頭痛に顔をしかめた。無理をしすぎた。成功していればまだ納得もできるが、体の感覚からしてかなり危険な消耗だった。ラナが水を差し出してきたので、受け取って飲む。温い水だったが、喉にはありがたかった。
誠二は起き上がり、整地した場所へ目を向けた。そこには、何もなかった。いや、小さなトイレだけはある。だが、その隣に出現しているはずのプレハブ小屋は影も形もない。地面に焦げ跡があるわけでも、建材の破片があるわけでもない。完全に失敗したらしい。ラナが小さく言った。
「何も出てこなかったぞ。あんたが倒れただけだ」
「失敗だな。力が足りなかったみたいだ」
言葉にすると、悔しさよりも疲労が勝った。
日が完全に落ちる前に、誠二はトイレの説明だけ済ませることにした。立ち上がると少しふらついたが、ラナが支えようとした手を軽く払う。弱っている姿を見せすぎるのは良くない。トイレの個室、便器、手洗い、汲み取りであること、バケツの水で流すこと。説明するたびにラナは難しい顔をした。特に紙を使うと聞いた時には、「紙をそんなことに使うのか」と本気で驚いていた。
「草で拭くよりはましだろ。古布を使い回すより衛生的だ」
言ってから想像して少し嫌な気分になった。
紙と水をバケツに用意し、当面はこれで使うよう指示する。紙は便槽に入れすぎると詰まる可能性があるため、別の容器に捨てさせた方がいいかもしれない。そこまで説明すると、ラナは顔を赤くしながらも真剣に聞いていた。こういう話は恥ずかしがって避ける方が後で面倒になる。生活を管理するなら、排泄の場所もルールも決めなければならない。誠二は、自分が女を囲い込む以前に、まるでキャンプ場の管理人のようなことをしていると気付いて少し虚しくなった。
日が落ちると、急に気温が下がった。夕食は簡単にしようと思ったが、ラナが少し躊躇いながら
「昨日の茶色い辛い料理を、また食べたい」
カレーのことだ。気絶した自分を東屋まで運んだ礼もある。今日くらいは出してやってもいいだろう。パンと米の両方を用意し、レトルトカレーを多めに温める。ラナは最初こそ遠慮していたが、結局どちらも食べきった。辛さに汗を浮かべながらも、満足そうな顔をしていた。
介抱の礼に、誠二はビールを出した。冷蔵庫がないため冷えてはいないが、缶からマグへ移せば見た目の異質さは少し減る。ラナは泡を不思議そうに眺め、匂いを嗅ぎ、慎重に一口飲んだ。次の瞬間、目を見開き、喉を鳴らしてもう一口飲む。それから、まるで疲れた中年男のように深い息を吐いた。誠二は思わず笑いそうになった。酒の好みはあるらしい。
「飲みすぎるなよ」
ラナは少し不満そうな顔をしたが、マグを大事そうに両手で持った。
夜が深まる頃、誠二は事務室に戻り、ノートへ今日の結果を書き込んだ。小型トイレの生成は成功。中規模建物の生成は失敗。消耗大、意識喪失、半日近く行動不能。ラナは介抱し、逃亡も窃盗もしなかった。これは重要な情報だった。もちろん、信用するには早い。だが、少なくとも彼女は目先の利益だけで動くタイプではなさそうだ。誠二が気絶している間に逃げることも、物資を奪うこともできたはずだ。それをしなかった理由が、善意か損得か恐怖かはまだ分からない。
能力をもう少し鍛える必要がある。誠二は強くそう思った。トイレ程度なら出せる。駅舎も、歪みながら出せた。だが、より大きく、より精密な建物はまだ無理だった。もし今後、人を増やすなら住居が必要になる。倉庫も必要だ。風呂も改善したい。食料だけで人間を縛るにも限界がある。快適な生活環境そのものを握ることが、本当の支配につながる。そのためには、生成能力の上限を上げなければならない。
窓の外では、ラナが東屋の寝床で毛布に包まっている。今日、彼女は誠二の力を見た。小さな建物が無から出現し、大きな建物を出そうとして誠二が倒れるところも見た。恐れただろう。欲も出ただろう。逃げることを考えたかもしれない。それでも今夜、彼女はここにいる。誠二はその事実に満足した。秘密を見せた以上、もうただの客人ではない。ラナはこの拠点の内側へ一歩入った。本人が望んだかどうかは関係ない。
薪ストーブの火を調整しながら、誠二は薄く笑った。便所一つ出すのにここまで考える羽目になるとは、元の世界の自分なら想像もしなかっただろう。だが、生活とはそういうものだ。飯、寝床、水、火、便所。綺麗な英雄譚には出てこない部分を押さえた人間が、結局は場を支配する。誠二は勇者ではない。魔王を倒す気もない。ただ、自分が楽をするために必要な物を揃え、使える人間を囲い込み、少しずつ生活圏を広げていく。それだけだった。




