【Side:■■■】過去と向き合う
※本話には一部、暴力描写および精神的に重い描写が含まれます。
あの男……
あの男、完全に取り繕うのをやめたのね!
シェフィさんが堕ちた者になっていたのを見た時点で、あの男の仕業ではないかとは考えていた。
けれど、まさか今度は学生にまで手を出すとは思わなかった。
グリック、十六歳。紡いだ物語は【青ひげ(Bluebeard)】。一年C組の学生。
クリスから提供された情報によると、彼はクラス内に親しい友人がおらず、常に孤立している問題児だった。
もっとも問題なのは、かつて自分を助けた一年B組の生徒、キャロリンに対して、深い執着を抱いていること。
それだけではない。彼は以前、編織者の試験試合で、一年B組のエミールを斬首したこともある。
その後、その件が広まると、彼はすぐにクラスメイトたちから排斥されるようになった。そのため、よく一人で【仙境】に入り、経験を積み、自分が強くなったあとでエミールに復讐するつもりだったらしい。
彼が将来的に戦力となり得る編織者であることを考慮し、当時、彼が責任を問われなかった時、私はあえて彼を根絶やしにする選択をしなかった。
それ以降も、彼を重点監視対象に指定し、毎日その行動を観察するだけに留めていた。
まさか、あの時の私の情けが、他の普通の学生を危うく死傷させる結果につながるとは……
安逸で平和な場所に長く身を置きすぎたせいか、私は敵への情けが、自分への残酷さになるという冷酷な事実を忘れていたのかもしれない。
くそ……
あってはならない判断だった。
私が甘かった。
今、私は緊急通路を使い、最速で第百階層へ向かっている。
あの忌々しい裏切り者を、どんな代償を払ってでも殺すつもりだ。
けれど、その前に……
「みんな……“これから先、アルカディアの全員も……小隊のみんなも、私のことを忘れてください”」
これは戻れない道だと、誰よりも私自身が理解している。
エミール、キャロリン、そして小隊のみんなは、予定どおり毎日順調に強くなっている。
だから、私が彼らのそばを離れても、そこまで大きな影響は出ないはずだ。
頑張ってください、みんな……
私がいなくても、あなたたちは必ず強くなり続けてください。
あなたたち自身の世界は、あなたたち自身の手で守らなければならない。
……
今になって考えると、本当に皮肉な話ね……
あの時、数え切れないほどの犠牲を払ってまで地上へ逃げ延びたというのに、最後には私自身の意思で、またあの男の前へ戻ってきてしまったのだから。
——————
第七十階層。
周囲に敵影はなく、私の目の前にあるのは、巨大で豪華な別荘だけだった。
……
キャロリンは、ニッキーさんがここにいると言っていたわね。
「ただいま」
時間は、あっという間に過ぎていく。
あの出来事が起きてから、まだ数か月しか経っていないはずなのに、私にはまるで何年もの時が過ぎたように感じられた。
別荘の扉を押し開けると、客間の様子も、私が嫌というほど見慣れた調度品も、何一つ変わっていなかった。
ただ、誰も手入れをしていないせいで、ここはとっくにひどく荒れ果てており、あちこちに人形が無造作に放り捨てられている。
床にこびりついたまだらな血痕が、私の嫌な記憶を呼び起こした。
「みんな、帰ってきました……」
ここにいる全員の姿も、名前も、私は今でもはっきりと覚えている。
けれど……
彼らはもう、この世にはいない。
もう一度、直接みんなに「ただいま」と言いたかった……
うぅ……
忌々しい。
この数か月で、私も少しは成長できたと思っていたのに、結局、また泣きそうになっている。
あんなことさえ起きていなければ、みんなは今も私と一緒に、同じ目標のために戦い続けていたはずなのに。
でも、それでいいのかもしれない。
時には、死が必ずしも悪いこととは限らない。
生きていることのほうが、死よりもずっと苦しい場合もあるのだから。
シュッ――
シュッ————
背後から、鑿で木を削るような音が聞こえてきた。
コツ、コツ、コツ――
続いて、それは金槌で何かを軽く叩くような音へと変わる。
コツ――
「ニッキーさん……」
堕ちた者となったニッキーさんは、私が自分の目の前まで来ていることに気づくと、彫りかけの木製の人形を手元に残したまま、ゆっくりと小さな木椅子から立ち上がった。
腰に下げた小道具同士がぶつかり合い、かすかな音を立てた。
彼はそのまま静かにその場に立ち、私を見つめるだけで、何もしなかった。
この数か月、彼はずっと一人で、この薄暗い客間の中で人形を作り続け、日の光を見ることもなかった。
今の彼は、何を考えているのだろう。
自分の幸せな日々を奪った憎い女が、ようやく目の前に現れた。
それとも……
この悪夢を終わらせてほしいと、心の中で祈り続けているのだろうか。
「——————……」
彼がそばに置いていた鋸を手に取り、もう片方の手で小さな金槌を握ると、周囲の人形たちはまるで命を得たかのように、空洞の瞳に危険な赤い光を灯し始めた。
年老いた木工職人ゼペットは、すでに木製人形の軍勢とともに準備を整えていた。
私はまた……
自分の恩人と敵対しなければならない。
「あなたの息子さんは、この数か月、ちゃんと元気に過ごしていました。それに、彼のそばには可愛らしい女の子たちも何人か増えました。ですから、どうか心配しないでください」
「……」
「お二人の件については、本当に申し訳なく思っています。私が、あなたたち親子の大切な時間を奪ってしまいました。もしあなたやシェフィさんが私を罵倒したいのなら……あるいは、この命で償えと言うのなら、私は喜んで受け入れます」
「……」
「ですが、今ではありません、ニッキーさん。今の私は、まだ負けるわけにはいきません」
「ふっ……」
え……?
今、ニッキーさんが笑った……?
「なら来い。君は俺を倒さなければ、先へ進めないのだろう?」
「……!」
彼は、まだ自分の意識を保っている!
それなら、もしかすると話し合いで……
「無駄だよ、お嬢さん。俺の体は、もう自分の意思では動かせない。せいぜい、こうして口を動かして君と話すことくらいしかできないんだ」
意識は残っているのに、体は自分で制御できないのか……
「だから戦え。俺を倒して、それから君の敵を倒しに行くんだ」
忌々しい……
「失礼します、ニッキーさん」
私は液体窒素が手に垂れて凍傷を起こすのを防ぐため、黒い手袋をはめ、ニッキーさんに向かって戦闘態勢を取った。
「行きます」
「『風魔法・鎌鼬』!」
「『空気・停滞』!」
鎌のような形をした碧緑色の斬撃は、私の目の前まで到達したところで、空中に留まったままぴたりと動かなくなった。
「『人形軍団』、進撃!」
「「「「「「「————————!」」」」」」」
ニッキーさんは人形の軍勢を操り、私へ包囲攻撃を仕掛けてきた。
数十……
いや、百体以上はいるはずだ。近接型と遠距離型が混ざった人形たちが、同時にあらゆる角度から私へ襲いかかってくる。
これこそが、当時たった一人であってもBossを完全に制圧できた攻撃……
今なら、私にも少しは理解できる。
だが……!
「“殺し合いなさい”」
「……!」
「……!」
「「「「「「「「「——————————!」」」」」」」」」
場は一瞬にして混乱に陥った。
人形が、他の人形を攻撃し始めたのだ。
私へ襲いかかっていたはずの人形の大軍は、突如として内戦状態へと変わり、ニッキーさんは何が起きたのか理解する暇すらなかった。
「『空気・爆発』」
ドン―――!
突如として解放された気圧が、周囲にいたすべての人形、家具、そしてニッキーさんまでも、私を中心に強く弾き飛ばした。
「見事だ……」
「いいえ。私の持つスキルが、たまたまあなたと相性が良かっただけです……」
頭から血を流し、地面に座り込んだニッキーさんは、悔しそうには見えなかった。
むしろ、満足げに口元を緩めていた。
さっきの衝撃波で、誤って頭をぶつけさせてしまったのだろう。
「すみません。先ほどは、少し強く弾き飛ばしすぎました……」
「謝る必要はないよ、お嬢さん。君は今日、もう何度も謝っているじゃないか」
……
それでも、私は自分を許すことができない。
彼を堕ちた者にしてしまったことを、どうにかして償いたいと思っていた。
「君が責任感のある人で、安心したよ。エミールはね……同年代の子たちと比べれば大人びて見えるけれど、それでも案外無茶をしやすい。だから、君が私の代わりに彼を見ていてくれるなら、私も安心できる」
「ふふ……そうですね。おっしゃりたいことは理解できます」
時には真面目に小隊のみんなを導き、正しい選択をさせる。
けれど時には、遊びに夢中になった子どものように、コリンさんと一緒になって悪ノリすることもある。
大人びていると言うべきなのか、それとも幼いと言うべきなのか、本当に判断に困る人だ。
でも……
それも、ここまでだ。
数日前、私はすでに彼らとのすべての繋がりを断ち切った。
私が大切に思う人たちが、また私のために犠牲になるところを、もう見たくない。
もう二度と、誰かが私の前から消えていくところを見たくない。
だから、今度は……
私のほうから、先にあなたたちの前を去ることにする。
「この球……大切なものなんだろう?」
ニッキーさんは一つの球体を取り出し、私の前へ差し出した。
「はい。それはエミールの恋人の一人のものです。まさか、あなたの手元にあったとは……」
今となっては、宝玉の役目はすでに終わっている。
それらはもともと、各階層のBossを形作るための核だった。
Bossがすでに具現化された以上、宝玉がBossの体内に留まり続ける必要はない。
【仙境】から逃げる途中、私は【アリス(Alice)】の編織者と出会った。
だから私はその場で『言霊』を使い、階層Bossが死亡した時、それらを形作っていた宝玉を体外へ排出するようにした。
それだけではない。私はあえて規則を書き換え、【アリス】がBossに挑戦した時、宝玉が必ずドロップするようにした。彼女が本来持つスキルを、確実に完全な形で取り戻せるようにするためだ。
けれど、最後には少しだけ予想外の事態も起きた。
まさか、まったく関係のない他の編織者がBossを倒した場合でも、宝玉がドロップしてしまうとは……
「なるほど。ハートの女王を倒した時、邪魔なものだと思って捨てなくてよかったよ。この球は、君から彼らに渡してくれ」
私が宝玉を受け取ると、地面に座り込んでいたニッキーさんは、ほっと息をついた。
「もう頃合いだ。俺を殺して、先へ進め。君が俺を殺さなければ、この体はまた勝手に動き出す。下手をすれば、あちこちでさらに多くの人を傷つけることになる」
「それはできません、ニッキーさん」
私は彼の前まで歩み寄り、その場にしゃがみ込んだ。
「何……?」
「私はもうエミールのところへ戻りません。そして、あなたも今日ここでは死にません。必ず、もう一度エミールと会うことになります」
私は彼の顔にかかっている仮面を掴み、淡々とそう告げた。
「堕ちた者を救う方法は、あなたの息子さんが見つけたものですよ?ただ、あなたはこのあと昏睡状態に入るはずです。エミールたちは、きっとすぐにここへ到達するでしょう。だから、あなたは静かに待っていてくれればいいのです」
私が離れても、彼らはきっと、一刻も足を止めずに【仙境】の攻略を続け、強くなり続けるはずだ。
もしかすると、私が出ていった直後に、彼らがここへ到着するかもしれない。
ふふ。
「君は何をするつもりだ……」
「ゆっくり休んでください、ニッキーさん。以前、シェフィさんと一緒に私を守ってくれて、ありがとうございました」
ザシュラ——————
仮面を失ったニッキーさんは力なく頭を垂れ、周囲でざわめいていた人形たちも動きを止めた。
周囲は再び静寂に包まれる。
「だから今度は、私があなたたちを守る番です」
あなたたちを、エミールたちを、そしてアルカディアのすべての人を。




