【Side:アイリーン】救済
※本話には、家庭内暴力、死を連想させる描写、いじめ、心理的に重い描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。
ぱん。
「何度言わせるんだ!?味噌汁の塩気はもっと強くしろって言ってるだろ。毎回毎回、こんな薄味の飯ばっかり作りやがって。それなら白湯でも飲んでたほうがマシじゃねえか?ああ?」
味噌汁が薄かった。
ただそれだけの理由で、ママは父親に平手打ちされる。
「わ、私は……あなたに少しでも健康でいてほしくて……」
「余計なこと考えてんじゃねえよ。そんな無駄なことしてる暇があるなら、どうやって金を稼いで借金を返すかでも考えろよ。ああ、鬱陶しい!」
ぱん。
たとえ善意からだったとしても、ママはやっぱり父親に平手打ちされる。
「何見てんだ?親父が落ちぶれてて、哀れだとでも思ってんのか?」
ぱん。
当然、同じ屋根の下で暮らしている私も例外じゃなかった。
「あなた!子供に八つ当たりするのはやめてください!やるなら、私だけにしてください!」
「はっ……母娘愛ってやつか?いいぜ。そこまで言うなら、望みどおりにしてやるよ!」
その後、私を抱きしめたままのママは、父親に何度も殴られた。
もともと、私が十三歳になるまでは、家はずっと和やかで、他の家庭よりもずっと幸せだったと言ってもよかった。
けれど、父親が経営していた会社が倒産してから、すべてが変わった。
幸せだった家庭は見る影もなく壊れ、父親は会社が抱えた借金をどうにかするためにあちこちを駆け回り、ママは父親の怒りと苛立ちをぶつけられる相手になった。
そして私は……
そんな状況の中では、当然、二人にとっての足手まといになってしまった。
◇
「泣かないで、アイリーン」
「うううう……」
ママは強いな……
「ママ……どうしてあの人にあんなことをされても、怒らないの?」
「ふふ……それはね、ママはパパを愛しているからよ?」
「でも、あの人は毎日ママを殴ってる……」
「それでも、あの人は、私が心から愛した夫なの。昔はね、アルカディアで一番おいしいお菓子屋さんに連れていってくれたこともあるのよ?その頃のあの人はね……」
“でも、あの人はもう昔とは違うじゃない……”
けれど、その言葉を私はどうしても口にできなかった。
だって、ママの頬はもう赤く腫れ上がっていて、身体中も私を庇ったせいで痣だらけだったから。
それでも、ママは私に優しい笑みを向けてくれた。
「アイリーン、あなたはまだ小さいわ。大人になったら、きっとあなたにとっての白馬の王子様に出会える。その時になれば、あの人が変わってしまっても、私がどうして今もこんなにあの人を想い続けているのか、きっとわかるわ」
ママが昔、寝る前に読んでくれたあのおとぎ話みたいに?
……
わからないよ……
私はきっと、一生ママが何を考えているのか理解できないと思う。
◇
「あなた、これは……」
「うるせえ。俺が忙しいのを見てわかんねえのか?出ていけ!」
「はい……」
ある日、神社から帰ってきたママは、嬉しそうに何かを父親に渡そうとした。
けれど、パソコンの前で頭を抱えていた父親にすぐ蹴り倒され、そのままリビングから出ていくよう命じられた。
「はぁ……直接渡せなかったわ……」
「ママ!大丈夫?私が揉んであげる!」
「ふふ……アイリーンはいい子ね。そうだ、ママもあなたに渡したいものがあるの」
「……?」
「これを見て。綺麗でしょう?さっき神社であなたとパパのためにお祈りしたあと、いただいたのよ。これから先、あなたたち二人が何事も順調で、無事に過ごせますようにって」
ママはピンク色の可愛いお守りを、私の手のひらにそっと置いた。
白い猫が刺繍されたお守りの裏には、“開運御守”という四文字が書かれていた。
「……本当は、これをあなたのパパに渡したかったんだけど、結局追い出されちゃったわね」
ママは苦笑しながら、さっきのことなんてまるで気にしていないように、ポケットからもう一つ、水色のお守りを取り出して私に見せた。
……
どうして、あんなに乱暴にされても、あの人にそこまで優しくできるの?
どうしてなの?
「パパの分は、先にこの部屋に置いておくわね。いつか機会があったら、あなたが私の代わりに渡してあげて」
ママはそれを化粧台の上にそっと置くと、エプロンを身につけて、昼食の準備をするためにキッチンへ入っていった。
——————
翌日、時間はもう昼の二時になっていた。
けれど、買い物に出かけたママは、まだ帰ってこない。
ピンポーン————♪
「ちっ、うるせえな……お前もだ!座ってるだけかよ。ドアくらい開けに行けねえのか?」
いつものように書類を処理していた父親は、私がまだキッチンの椅子に座ったまま動かないのを見ると、腹立ちまぎれに私の頬を平手打ちした。
その後、ぶつぶつ文句を言いながら、“家”の玄関を開けに行った。
「え?嘘だろ……?」
次の瞬間、キッチンの外から、父親の呆然とした声が聞こえてきた。
続けて、玄関のほうから、どさり、という音も聞こえた。
外に出て見てみると、なぜか父親がその場にへたり込んでいて、玄関には二人の警察官が立っていた。
「おや、奥さんには娘さんもいたのか?これは可哀想に……」
「……?」
「すまないね、お嬢ちゃん。君のお母さんは……もう帰ってこない」
ママが、もう帰ってこない?
どうして?
「君のお母さんは、先ほど道で交通事故に遭って、病院へ搬送されている途中で亡くなったんだ」
「おい!どうして子供にそんな直接的な言い方をするんだ!?」
「え?ご家族に先ほどの件を説明しろとおっしゃったじゃないですか?」
「お前な、少しは家族の気持ちを考えろ!はぁ……だから俺は、新人を連れて勤務するのが好きじゃないんだ……」
もう一人の、年上に見える警察官はため息をつき、自分でも何を言えばいいのかわからない様子だった。
死……亡……?
ママは、もう……
その後のことは、もう覚えていない。
ただ、その時の私は“家”で一人きり、とても悲しくて泣いていたことだけは覚えている。
最後にはいつの間にか、時間はもう次の日の朝になっていた。
その時、父親はちょうど疲れきった心と身体を引きずるようにして、“家”に帰ってきたばかりだったらしい。
不思議なことに、その日、父親は私を殴らなかった。
だから、私は今しかないと思った。
「父親……」
「何だ?」
「これ……ママが私たちのために、わざわざ神社でお祈りしてからもらってきたもの」
「……」
私はそれを父親の前に置くと、すぐに自分の部屋へ逃げ帰った。
殴られたくなかったから。
——————
……
どうしてリビングが、妙に静かなんだろう?
この時間なら、父親はリビングで電話に追われているはずなのに。
「……?」
やっぱり、リビングには誰もいなかった。
外に出かけたのかな?
まあ、いいや。
これなら、今日はもう殴られずに済むよね。
◇
自分の分の夕食を用意して食べ終えても、父親が帰ってくる気配はなかった。
その時になって、私は主寝室のほうから、父親のスマホの着信音がずっと鳴り続けていることに気づいた。
……
うるさい。
けれど、私はそれを気にせず、そのまま二階へ上がって眠った。
——————
ピンポンピンポンピンポンピンポン————!
玄関のチャイムが大きく鳴り響いた。
あまりにもうるさいうえに、誰も出る気配がなかったので、私は仕方なく自分でドアを開けに行った。
がちゃ——
ひっ!
ドアの外には、スーツを着た大人の男の人が立っていた。
きちんとした身なりのその人は、手にブリーフケースを持ったまま、玄関先で私を見下ろしていた。
「な、何か……ご用ですか?」
「お嬢ちゃん、僕は君のお父さんに用があって来たんだ。彼は家にいるかな?」
優しそうに見えるその男の人は、私に微笑みかけながら、そう用件を伝えた。
「わかりません……昨日から、見ていません……」
「ちっ……こんな可愛い娘を置いて逃げたのか?本当にクズだな……」
その男の人は顔を覆い、重いため息をついた。
「お、おじさん……父親に何の用ですか……?」
少し怖かったけれど、私は小さな声でその男の人に尋ねた。
「ん?おじさんは君のパパと、ちょっと金のやり取りがあってな。だから、少し話をしに来たんだ」
彼は面倒くさがることもなく、すぐに事情を教えてくれた。
おじさんは……いい人みたい。
「はぁ……仕方ねえ。もう一度あいつに電話してみるか」
——————♪
「!?」
彼がスマホで電話をかけた瞬間、家の中から父親のスマホの着信音が鳴り響いた。
「家にいるのか……?お嬢ちゃん、悪いがちょっとどいてくれ。君のパパに会わせてもらう」
「うぅ……」
どうせ家にはもう、盗まれるようなものも残っていなかったので、私はあっさり道を譲った。
「おい、ユージン!出てこい!お前、いつになったら俺に借りた金を返すつもりだ?これが最後の警告だぞ。このままだと、俺たちはもう友達でも何でもなくなるからな!奥さんを亡くしたばかりなのはわかってる。けどな、せめて電話くらい出ろよ!」
ドンドンドン——!
彼は苛立った様子で父親の部屋のドアを叩いたけれど、部屋の中からは何の反応もなかった。
「ちっ……おい、お前な……え?」
おじさんは部屋の鍵がかかっていないことに気づくと、腹立ちまぎれにドアを押し開けた。
けれど次の瞬間、部屋の中の光景を見た彼は動きを止めた。
父親はてるてる坊主みたいに、天井からぶら下がっていた。
昨日からずっと鳴り続けていたスマホの音だけが、部屋の中に響いている。
おじさんは言葉を失ったまま、数歩後ずさった。
彼はすぐに警察署へ電話をかけた。
それからしばらくして、私の“家”は警察官たちに取り囲まれ、私は児童福祉センターの人に連れられて、近くの孤児院で暮らすことになった。
たった三日で、私はすべての身内を失った。
でも、それはママが私のもとを去ったと聞いた時とは違っていた。
父親の死は、私の心にほんのわずかな波紋すら起こさなかった。
どうしてなんだろう?
——————
孤児院で暮らすことになった、その翌日……
私は編織者の能力に覚醒した。
「え……?」
橙色の光とともに、枕を抱いて眠る少女が刻まれた紋章が、ゆっくりと私の太ももに浮かび上がった。
孤児院の職員たちはその光景を見ると、心から嬉しそうに私を祝福してくれた。
いずれは、編織者を受け入れている学校へ通えるように手配してくれるとも言っていた。
そして、私が自分の編織者スキルを確認すると……
パネルに表示されていた三つのスキルは、それぞれ『睡眠』、『目覚め』、そして『幸運』……
『幸運』?
ふざけないでよ……!
今まで、私の身にいいことなんて一つも起きなかった。
それなのに、私が持っているスキルの一つが、よりにもよって『幸運』なの?
神様は、私の境遇を笑っているの?
だからこそ、私は孤児院の一部の子供たちから【災いの星】とか、【家族の幸運を奪った悪魔】と呼ばれるようになった。
彼らはその意味を深く考えていたわけではない。
ただ面白がって、その耳障りなあだ名を口にしていただけだった。
孤児院の職員が彼らを叱り、そんなことを言ってはいけないと注意してくれたこともあった。
けれど、彼らはやっぱり気にしなかった。
——————
その後、私は中学校に進学した。
クラスの中で、私は過去の出来事のせいで、どんどん臆病になっていった。
クラスメイトたちも、そんな私の弱い性格につけ込んで、いろいろなことを無理やり私に押しつけるようになった。
簡単に言えば、いじめだった。
でも、私は耐えた。
ううん、耐えたというのも少し違う……
今の私には、自分の怒りを口にする勇気なんて、まったくなかった。
◇
そうして、日々は一日、また一日と過ぎていった。
高校に入ったある日、私は新人編織者として、新しく赴任してきた白髪の女性教師が率いる屋外授業小隊に編入されると、突然告げられた。
最初は信じられなかった。
この学校は対外的には編織者の学生を受け入れている学校だと言っているけれど、実際には、屋外授業に参加できる編織者の学生は精英班の生徒だけだったから。
けれど、あの女性教師が来てから、すべてが変わった。
普通班の編織者の学生も屋外授業に参加できるようになったと告げられ、私もようやく、自分に唯一ある長所を発揮できるようになった。
「あなたがアイリーンですか?これからあなたには、小隊の中で他の人たちと一緒に訓練を受けてもらいます」
「はい……」
「緊張しなくていいです。この小隊には、あなたを支えてくれる人がほかに二人います。彼らには私から、あなたを特に気にかけるよう、事前に伝えてあります」
「そ、そんなことをして、本当に大丈夫なんですか?迷惑になったりしませんか……」
「同じ小隊の仲間に、迷惑も何もありません。むしろ、こちらこそお願いします。これから、どうかよろしくお願いします」
見た目はとても若いのに、教師である彼女があまりにもあっさりと私に頭を下げたので、私は一瞬、どうすればいいのかわからなくなってしまった。
——————
探索委員会で試験を受けるその日、私は道中でも“幸運”なことに、大学生の集団に囲まれてしまった。
私が壁際まで追い詰められ、その場で呆然と立ち尽くしていた時……
「アイリーン、ごめん、遅くなった!」
少し離れたところから、男の子の声が聞こえてきた。
振り向いてみると、黒髪の男子生徒が先生と一緒に、こちらへ駆けつけてくるところだった。
私はそれ以上何も考えず、すぐに先生の背後へ隠れた。
けれど、次の瞬間に起きたことは、私をすぐに驚かせた。
「動くな」
「跪け」
「ここで跪いていなさい。明日の朝まで」
「黙れ」
彼女は短い言葉をいくつか放っただけで、その大学生たちを完全に片づけてしまった。
すごい……!
その瞬間、私の心に浮かんだのは、その一言だけだった。
それ以外に、目の前の光景を表せる言葉なんて、本当に何も思いつかなかった。
「先生……」
「すみません、アイリーン。遅くなりました。怪我はありませんか?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます。こちらの方は……?」
今、私を助けてくれたあの男の子の名前が、どうしても知りたかった。
さっき私を助けてくれたのだから、きっと怖い人ではない。
きっと、いい人に違いない。
「俺はエミール。隣のクラスの生徒で、指……先生が担当している生徒の一人だよ」
◇
エミールというこの男の子は、私にとても優しい……
私が加減を間違えてウサ耳スライムを破裂させ、その液体を彼の全身に浴びせてしまっても、彼は何も責めなかった。
今も彼は、泣き出してしまった私を、笑顔のまま何度も慰めてくれている。
それに、足の力が抜けた私が彼の胸の中に倒れ込んでも、彼はそのまま私の気持ちを受け止めてくれた。
あははは……
さっきの彼は、本当に優しかった。
ほんの一瞬だけ、私は彼の中に、幼い頃の私をいつも受け止めてくれたママの姿を見た気がした。
だから私は思わず、自分の弱いところをさらけ出して、彼に甘えたくなってしまった……
すると、彼は私の望みどおりにしてくれた。
職員から渡されたタオルを受け取ると、彼はすぐに私の髪を拭いてくれた。
えへへ……
ありがとう。
でも、ごめんなさいって言いたい……
だって私は今まで、編織者の能力を使ったことがなかったから。
彼に見下されたくなくて、こっそり小さな嘘をついた。
“先生から聞いたのですが、エミールさんも最近になって編織者能力に覚醒したばかりなんですよね?スキルテスト、不安じゃないんですか……?”
ごめんなさい。
どうか、私を見下さないで。
◇
その後、探索委員会にいる間にも、いろいろなことが起きた。
そしてキャロリンさんは最後に、エミールさんへ告白して、無事に彼の彼女になった。
いいな……
エミールさんみたいに優しい彼氏がいるなんて……
一瞬だけ、エミールさんが私の恋人だったら、どれだけよかっただろうと想像したことがある。
でも、想像するだけならできても、私はキャロリンさんみたいに、自分の気持ちを勇気を出して伝えることなんてできない……
だから……
——————
「教室の掃除、よろしくね。私たちは先に食堂でお昼食べてくるから」
「あ、それと黒板はちゃんと綺麗にしておいてね?じゃないと、あとであの潔癖症の担任に一日中小言を言われることになるし」
クラスの中でいつも仕事を私に押しつけてくる四人の女子は、今日もいつもどおりだった。
彼女たちは日直の仕事を私に押しつけると、そのまま食堂へ昼食を食べに行ってしまった。
うう、どうしてこんなことに……
私だってお腹が空いているし、お昼ご飯を食べに行きたいのに……
それでも、私は言われたとおりにするしかなかった。
もし断ったら、彼女たちにまたどんないじめをされるかわからないから……
「えい……!えいっ……!」
困った。
私は他の人より少し背が低いから、黒板の一番上にあるチョークの文字まで届かなかった。
「ん?手伝おうか?」
「え?エミールさん……?マリーさんも来たんですか!?」
その想像もつかない組み合わせの二人が、私のクラスの入口に立っていた。
「あ、ありがとう……ございます……」
エミールさんは私の手から黒板消しを受け取ると、すぐに黒板の一番上にあるチョークの文字を消してくれた。
よかった……
これで黒板を消す仕事は終わった。
本当に感謝しなきゃ。
「どういたしまして。リヤが俺たちに何か話したいことがあるみたいで、俺とマリーはお前を指導者さんのところへ呼びに来たんだ」
「あ……でも、まだ床を掃いていなくて……少し待っていただいてもいいですか?」
「待て。お前、黒板も担当してるのに、どうして床掃除までお前がやることになってるんだ?」
「あはははは……みんな、お腹が空いていたみたいなので、私が日直を代わることにして、先にお昼を食べに行ってもらったんです……」
いじめられていることは……
やっぱり、二人には言わないほうがいいよね。
二人に心配をかけたくないから……
「大丈夫です。私、まだあまりお腹が空いていないので、それで引き受けたんです……」
◇
そう思っていた。
けれど、セレイアさんの大事な話を聞き終えて、エミールさんとマリーさんと一緒に、クラスへ欠席届を用意しに行った時……
「え……?」
私の鞄の中身がひっくり返され、物が全部床に散らばっていた。
「あら、やっと戻ってきたの?私たち、教室の掃除を頼んだよね?」
「わ、私はさっき、黒板も消して、床も掃いたよ……」
「じゃあ、花瓶の水と、汚れた窓は?」
「あ……」
まずい……
さっき慌てて二人について出ていったせいで、まだこの二つの仕事が残っていることを忘れてた!
待って。
鞄のファスナーにつけていたはずのお守りがない……
ママが残してくれた、大切なお守りなのに!?
「ない……ない!?私のお守りは……?」
「ああ、あの薄汚れたお守りのこと?さっき、ついでに鞄の中のゴミを片づけてあげたから、一緒に捨てておいたわ」
「……」
私のお守りが、ゴミとして捨てられた……?
あれは、ママが生前に私へ残してくれた遺品なのに。
それを、彼女たちは価値のないゴミみたいに捨てたの……?
「お守り……私のお守り……」
だめ……
早く探し出さなきゃ……
「空っぽ……?」
え?
ゴミ箱の中は空っぽで、ゴミ袋すら見当たらない。
まさか……
「ああ、さっき私たちがあなたの代わりに日直の仕事を終わらせたあと、ついでにゴミ箱の中身も捨ててきたの」
「ああ……」
嘘でしょ!?
ゴロゴロゴロ——————
……
窓の外から、ゴミ収集車が遠ざかっていく音が聞こえた。
もう……
遅かった。
「ふざけないで……」
「もしかして、本当に大切なものだったの?ごめん……」
お前、本当にそれで懺悔しているつもりなのか?
「ふざけないでよおおおお!!!」
私はもう、心の中の怒りを隠さなかった。
その怒火に身体を突き動かされるまま、ただ前へ踏み出した。
この時、どうやら私も【武装化】を発動していたらしい。
あはは……
やっぱり。
私の【武装化】条件は、やっぱり【自分の怒りを表に出せるようになること】だったんだ……
キャロリンさんが昨日出してくれたあの考えは、やっぱり正しかったんだね……
“さあ、叫びなさい。あなたの怒りを、すべて吐き出しなさい”
頭の中に、突然誰かの声が響いた。
「『終わらない悪夢』!」
怒りに突き動かされるまま、私はクラスにいる全員へ向けて、【武装化】によって得た新しいスキルを発動した。
——————
私……
今、どこにいるの?
スキルを発動したあと、私はまるで深い水の底へ沈んでいくような感覚に襲われた。
それだけじゃない。
水面の光はどんどん私から遠ざかっていき、最後には周囲が闇に包まれた。
周りは真っ暗で、何も見えない。
もしかして……
これが全部、私の心の中にある闇なの……?
怖い……
怖いよ……
私は身体を丸めて、この虚無の空間にただ浮かんでいた。
“あんな悲惨な現実に戻りたくない”
私は、そう思っていた。
こんな現実を前にして、私にいったい何ができるというの?
ガキン——!
どうして……
戦っているような音が聞こえるの?
誰が戦って……
「あ……」
エミールさんと、マリーさんだ。
二人は、黒い煙をまとった影たちを相手に、必死に戦っていた。
それだけじゃない。
二人はその背後にいる、あの四人の女子を含めたクラスメイトたちまで、同時に守らなければならなかった。
その光景を見た瞬間、私の心の奥底から、どうしようもない怒りが込み上げてきた。
「どうして、そんな人たちを守るの……?」
私は今、何を言ったの?
「きゃあああああ!!!エミールさん、助けてえええ!!!」
「はっ……死ねばいいのに」
え……?
私、今、クラスメイトを殺したいと思ったの……?
「お前に人殺しなんてさせないぞ、アイリーン。『交換』!」
どうして……
どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして!
どうして私を止めるの!?
彼女を殺させてよ、エミールさん!
この瞬間、私は気づいてしまった。
自分はもう、昔の私とは違うものになってしまったのだと。
今の私は、あのクラスメイトたちを殺したい。
そして……
私の邪魔をする、目障りな人たちも。
◇
結局、物事は私の思いどおりにはならなかった。
私はそのために悲歌まで歌ったのに、それでも誰一人殺すことができなかった……
あと少しだったのに。
「ねえ、どうしてまだ自分の怒りを抑えているの?解き放ちなさい。一気にあなたの怒りを解き放って、すべてを壊してしまいなさい」
白髪の私が突然私の背後に現れ、誘惑するような声でそっと囁いた。
ふふ……
そうだよ。
どうして私は、まだ自分の怒りを抑えているんだろう?
「アイリーン!!!」
……!?
「お前が今、すごく悲しくて、自分には誰も頼れる人がいないって思っているのはわかる!」
エミールさんは突然、周囲に向かって……
ううん、彼は私に向かって叫んでいるんだ。
その言葉を、私に届けようとしている。
「でも、お前はいつだって俺たちを頼っていいんだ!苦しいなら、いつでも俺たちの前で思いきり泣いて、全部吐き出せばいい!」
ちっ……
せっかく私はもう、あいつらを消すって決めたのに……
どうしてあなたは、まだ私の邪魔をするの……
「俺たちは、ここでお前が戻ってくるのを待ってる!」
……
「どうするの?あなたはどうしたいの、私?いっそのこと、全部壊してしまったほうが楽になれるわよ?」
白髪の私は、私の耳元で悪魔のような囁きを続けた。
「いや……もう一度だけ、エミールさんに会いに行きたい。これで最後にするから。最後に、彼が何を言いたいのか聞いてみたいの……いいかな、私?」
「はぁ、本当にわがままね、もう一人の私。まあいいわ。あなたの望みどおりにしてあげる。ふふ、どうせその時になったら、あなたはきっと後悔するでしょうけど」
彼女が片腕を上げると、周囲の景色は美しい白い花畑へと変わった。
それと同時に、私の意識が彼女と一つに溶け合っていくのを感じた。
「あなたは私で、私はあなた。私が代わりに彼と会ってあげるから、あなたはただ静かに見ていればいいわ」
不思議な感覚だった。
身体が自然に動き出し、頭の中にはもう一人の私の声が響いている。
そっか……
ありがとう、もう一人の優しい私。
「エミール……あなたまで、あの人たちを庇うの?」
もう一人の私は、自信なさげに、遠くにいるエミールさんへそう問いかけた。
「アイリーン?お前はアイリーンなのか?大丈夫だ。ここにはもう、お前を傷つける奴なんていない!俺が今すぐ……え?」
“ほらね、アイリーン。彼は否定しなかったわ。今の彼は、邪魔者なのよ?”
もう一人の私は、私にそう言った。
……
そうして、怒りが再び私の心に込み上げてきた。
私がずっと信じていた人が、私の邪魔をする敵になってしまった……
それが、私には信じられなかった。
そして、たまらなく腹立たしかった。
「あなたまで……」
「……あの人たちを庇うのですか?」
意識が少しずつ同期していく。
その中で、もう一人のアイリーンと私は、まるで一つの声になるように、その言葉を交互に口にした。
「違うんだ、アイリーン……俺はただ、お前に人を殺してほしくないだけで……」
「嘘……嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘!!!」
もう一人の私と感情を共有したせいで、私は思わず、自分自身を傷つけてでも、胸の奥に渦巻くやり場のない悔しさを吐き出したくなってしまった。
ガァン――――!
もう一人の私は身体を操り、エミールさんへと駆け出した。
それから彼女は、長く鋭く伸びた爪を振り上げ、エミールさんの顔へ真っ直ぐ振り下ろした。
けれど、私たちの攻撃は、寸前で反応したエミールさんに、大剣で受け止められてしまった。
「うぅぅ……どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして!」
そうだ……
もう一人の私が言ったとおり、どうしてあなたは私たちの前に立ちはだかるの?
「どうして、あなたまでママみたいに私の前からいなくなろうとするの……」
この一言だけは、私が心の底から感じていた寂しさと未練だった。
堪えきれずに、私の口からこぼれ落ちてしまった。
エミールさんが私の味方だったらよかったのに……
感情を共有したことで、身体の主導権を握っているもう一人の白髪の私も、ついに堪えきれなくなった。
彼女はエミールさんの見るも無惨な胸元にもたれかかり、崩れるように泣き出した。
この時の彼が、どうか……
「アイリーン……」
「……!」
彼は力なく手を伸ばし、私たちを腕の中へ抱き寄せた。
その瞬間、私たちは驚いて、小さく身体を震わせてしまった。
どうして、あなたは私たちにそんなに優しくしてくれるの……
「俺は……ずっとお前のそばにいる。だから安心してくれ」
続いて、彼はまた、そっと私の頭を撫でてくれた。
懐かしい温もりが、私の心の奥底からゆっくりと湧き上がってくる。
彼の腕の中は温かくて、そっと撫でてくれる手も優しかった。
それと同時に、とても……
——懐かしかった。
そう。
本当に、あの頃のママの抱擁や、昔の父親が私の頭を撫でてくれた時みたいに、心が温かくなる感じがした。
「本当……?」
本当……?
もう一人のアイリーンも、私も、揺らぎ始めていた。
「ああ、指切りして約束してもいいぞ?」
私はおずおずと指を伸ばし、彼の小指に絡めた。
「本当に、本当にママみたいに、お守りだけ残して、急にいなくなったりしない……?」
本当に、本当にママみたいに、お守りだけ残して、急にいなくなったりしない……?
「うん、約束する」
それなら私、これからは一人ぼっちじゃないの?
「約束だよ……」
約束だよ……
「ずっとずっと……アイリーンのそばにいてくれる……?」
ずっとずっと……私のそばにいてくれる……?
「ああ、約束する」
そっか……
私の意識は突然、白髪の私の身体から抜け落ちて、本来の私の身体へと戻ってきた。
遠くでは、エミールさんの上に座っているもう一人の白髪のアイリーンの身体が、ゆっくりと透明になっていく。
私はもう一度立ち上がり、照れくさくて大きな声では言えなかったけれど、エミールさんに向かって言った……
「ありがとう、エミールさん……!」
ありがとう。
もうとっくに壊れてしまっていた私の心を、救ってくれて!
——————
ピッ——
ピッ————
目を開けると、私は病院のベッドの上に横たわっていた。
見慣れない天井と、心拍計の音……
私は、病院に運ばれたのかな?
「みんな、アイリーンちゃんが目を覚ましたよ!」
耳元で、キャロリンさんの声が聞こえた。
顔を横に向けると、そこには彼ら……小隊のメンバー全員が、病室のソファに座っていた。
エミールさんと、全身にたくさんの包帯を巻いたマリーさんは、疲れきって眠ってしまっていて、起きているのは他の数人だけだった。
「エミールさん、マリーさん……」
「心配しないで。二人とも無事よ。ただ、待っている時間が長すぎて、眠ってしまっただけだから」
セレイアさんは立ち上がると、すぐに私のベッドのそばまで来て、私を慰めてくれた。
「エミールはさっき、だいぶ無茶したからな。あいつの傷が……痛っ!おい、チビ!何で俺を蹴るんだよ!」
「だから、あんたは本当に空気が読めないバカだって言ってるの!アイリーンちゃんに、それで罪悪感を抱かせたいわけ?」
「うっ……悪い」
コリンさんは最後まで言い終える前に、レイさんに思いきり蹴られてしまった。
けれど、自分の言い方があまりにも直接的だったと気づいたのか、彼も素直に謝ってくれた。
あはははは……
「心配してくれてありがとう、レイさん。私は大丈夫です……」
「うん、大丈夫ならよかった!いやあ、さっきは私たちでも、あなたが展開した領域を破れなくて、本当にびっくりしたんだから……三人とも無事に帰ってこられたなら、それで十分よ!」
「領域の話ですが……」
レイさんが領域のことに触れると、先生も私のベッドのそばへ近づいてきた。
「アイリーン、さっき領域の中で何が起きたのか、覚えていますか?」
「見ました……もう一人の、白髪の私を。それに、あの時は心の中の怒りが勝手に爆発して、エミールさんとマリーさんを傷つけるようなことまでしてしまいました……」
さっき起きた出来事を思い出すと、とても怖くなった。
「よかった。どうやら覚えているようですね。その恐怖を、必ず心にしっかり刻んでおきなさい」
「はい……でも、さっきのあれはいったい何だったんですか?自分の感情も身体も、まるで制御できなくなったみたいで……」
「もう一人の自分を見た、と言いましたね?今ある情報から考えると、それはあなたが編み上げた物語なのでしょう。もちろん、あなたの潜在意識だと考えても構いません。あなたはさっき、自分が編み上げた物語にほとんど呑み込まれかけていました。あと少しで堕ちた者になるところだったのです」
先生の顔色が、少し暗くなった。
彼女は頭を下げ、その表情もどこか自分を責めているように見えた。
「実は、【武装化】の発動には危険が伴います……もし【武装化】を発動する時、編織者の精神が極度に不安定な状態だった場合、その人は堕ちた者になります。つまり、人間性を完全に失い、物語に身体を乗っ取られ、狂った怪物になってしまうのです」
ひっ……
じゃあ、私はさっき、もう少しで……
「エミールとマリーがその場にいてくれたおかげです。そうでなければ、あなたが完全に堕ちた者になった時点で、もう助からなかったでしょう。その時は……私たちはあなたを殺すしかありませんでした」
そんなに深刻なことだったんだ……
先生が教えてくれなかったら、私はただ、自分の精神がおかしくなって、ああなってしまっただけだと思っていた……
そうだ!
「エミールとマリーが守ってくれたおかげで、全員無事です。それに、あの生徒たちが学校側に嘆願してくれたため、学校はあなたが普通の人に編織者スキルを使った責任を追及しないことになりました。その代わり、今回の事件の主導者だった四人の女子は、六か月間の自宅謹慎処分を受けています」
ええええ!?
あの人たち、六か月も停学になったの?
「彼女たちが自分たちのしたことを悔いていると判断されたからこそ、学校側は処分を軽くしたのです。本来なら、彼女たちはこの件で退学になっていました」
私がそれを聞いて驚いていると、先生はさらにそう続けた。
そっか……
エミールさん、マリーさん、ありがとう……
「入院に必要な費用は、私が学校側の名義で支払っておきました。心配しなくて大丈夫です。医者の話では、あなたはおそらく明日の朝には退院できるそうです。今はゆっくり休みなさい」
「ありがとうございます、先生」
先生は私に頷くと、他の数人に目配せをして、眠っていたエミールさんとマリーさんを起こすよう促した。
最後に、ぼんやりと目を覚ました二人は私のベッドのそばまで来て、身体の具合を少しだけ気にかけてくれた。
それからもう少しだけ話をしたあと、彼らは先生に連れられて病室を出ていった。
そうだ。出ていく前に、エミールさんは私に笑いかけてくれた。
ふふ……
エミールさんが私を止めてくれたおかげで、私は人殺しにならずに済んだ。
どくん——
……
そっか……
ごめんなさい、キャロリンさん。
私も、エミールさんのことを好きになってしまったみたい……
ママ、私にも今ならやっとわかるよ。
どうしてあなたが、あんなにも父親を想い続けていたのか。
だって、私も自分にとっての白馬の王子様を見つけたみたいだから。
どうやら『幸運』は、私にエミールさんと出会う機会を運んできてくれていたみたい。
それだけじゃなく、彼との気持ちを少しずつ深めていくためのきっかけも、たくさん作ってくれていた。
『幸運』は、本当にちゃんと発動していたんだね……
【アイリーン – プロフィール更新】
アイリーン
紡がれた物語 - 眠り姫(Sleeping Beauty)
編織者スキル
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『睡眠』
『幸運』
『目覚め』
【武装化】発動条件 - 自分の怒りを表に出せるようになること *New!
【武装化】スキル - ???
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ようやく……翻訳が終わりました!!!
原文の時点で一万字ほどあったのですが、翻訳する際に文章を少し整えたりもしていたので、最終的には一〇五〇〇字前後になりました。
それを日本語にすると、やはり文字数が一気に増えて、ほぼ一万五千字近くまで膨らみましたね……
ふふ、終章のあとに、まさかもう一話、個人回が来るとは思いませんでしたよね?
こほん。
これが、私が全力で書き上げた個人回です。
少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。
この話から、物語はいよいよ本筋へと大きく動き出します。
そして内容はどんどん重くなっていきますが、そのぶん、さらに面白くなっていくはずです。
もしこの作品を少しでもいいと思っていただけたなら、ぜひ身近な友人にも勧めてみてください。
ただし、その時は「これはAI翻訳作品です」と、ちゃんと伝えておいてください。
読んだあとでそのことに気づいて、相手をがっかりさせてしまうのは、私としても本意ではありませんので。
信じてください。
この先の展開は、きっと皆さんの想像を超えていきます!




