第9章 かの御方
「それじゃあ、ゲーム・スリーを始めようか。ルールは簡単だ。お前たちは、俺の攻撃を受けながら、何としてでも生き延びればいい。あるいは……殺される前に、逆に俺を殺しても構わない。もっとも……それができればの話だけどね?」
まずい。
これは唯さん、ラミリス、ナセフィンが戻ってくる途中で予測していた、最悪の状況だった。
「ふふ……最後には、お前たちのうち何人が生き残っているのかな?楽しみにしているよ?」
俺たちはすでに、トレイズの二つの“ゲーム”によってかなり消耗させられている。
それなのに、今度は底すら見えないこの狂人と、続けて戦わなければならないなんて……
「それでは、ゲーム開始――」
「ところでトレイズ。殺し合いを始める前に、少し聞きたいことがある。どうして君は、そこまで俺とゲームをすることにこだわるんだ?」
「ん?」
唯さんは突然、俺たちに一度武器を下ろすよう合図すると、そのままトレイズへ話しかけた。
意気揚々と人の頭ほどの大きさの十二面ダイスを三つ召喚し、今にもこちらへ踏み出そうとしていたトレイズは、唯さんの予想外の行動に出鼻をくじかれた。
彼は一瞬だけ呆気に取られ、すぐに眩しいほどの笑みを浮かべる。
「伊藤唯。やはり、お前は俺の記憶にあるあのイソリオンだ……くははははは!お前は本当に変わった。けれど、何一つ変わっていないようにも見える」
「俺は俺だ。最初から何も変わっていない」
「いやいや、お前は欲張りになったよ。俺がまだお前を古い友人だと思っているかもしれない、その可能性に賭けるだけじゃない。あの手この手で時間を稼ぎ、仲間たちに息をつかせようとしている。そのうえで……俺の口から有益な情報まで引き出せるかもしれないと、図々しくも考えているんだろう?」
「……」
トレイズは、一目で唯さんの考えを見抜いた。
彼は笑いながら、唯さんの思考と答え合わせでもするように話し、内心を言い当てられた唯さんは、すぐに表情を沈め、トレイズの次の動きに警戒を強めた。
「昔のお前なら、そんな小細工にまで頭を回すことはなかったのにね。俺がその提案を無視して、そのまま戦いを始めるとは思わなかったのかい?」
「さっきエスギルで、君が俺を引き込もうとしていた態度を見る限り、話も聞かずにいきなり俺たちと戦い始めるとは思えなかったから。もちろん、最後にもう一度だけ警告しておくよ。ロロックは、もう俺たちが倒した。たとえ神様に助けを求めても、君を助けに来る者は誰もいない。だから、早めに投降した方がいいよ?」
唯さんも、もう取り繕わなかった。
彼が内心をそのまま明かすと、トレイズの笑みはさらに深くなった。
「いいねえ、いいねえ。少なくとも、その蛮勇だけは昔とまったく同じだ。そういうお前だからこそ、俺を退屈させないんだよ……いいだろう。なら、戦いを始める前に少し話をしてやる。ああ、それと、無駄な努力はしなくていいよ?お前たちの増援は、どう足掻いてもこの世界には入ってこられない。だから投降については、謹んでお断りさせてもらうよ~」
彼は、さっきからこっそり電話をかけ続けていたナセフィンへ視線を向けた。
そのせいで、彼女はびくりと肩を震わせる。
「まあ、忠告を聞かずに無駄骨を折りたいなら、好きなだけ試してみればいいさ」
「リリス!ひっ……!」
「もうそこまで回復したのかい?やはり【聖女】様の力は侮れないね」
「……!」
リリスのお母様が、村からこちらへ駆けつけ、俺たちと合流した。
その背後には、疲れ切った顔をしたアクィーナさんも続いている。
トレイズの姿を目にした彼女は、それでも内心の恐怖を押し殺し、リリスを自分の背中へ庇った。
「おや?今さらになって、ようやく母親としての本分を思い出したのかい?さっきまでは、あれほど自分の娘を拒んでいたくせに」
「す……少なくとも、今の私は本気で娘を守りたいと思っています!あなたみたいな最低な人とは違います!」
「ほう?随分と口が達者になったじゃないか」
「うぅ……」
トレイズは、ノクトゥナさんへ向けて凄まじい殺気を放った。
彼女からそう遠くない場所にいた俺まで、息が詰まりそうになる。
それでも、ノクトゥナさんは必死に背筋を伸ばし、その恐怖を真正面から受け止めていた。
「トレイズ、もういい」
「はいはい~」
唯さんが横からそう一言言っただけで、トレイズはすぐに身にまとっていた殺気を収めた。
そのおかげで、影響を受けていた俺たちは、ようやく息をつくことができた。
……
彼は、本当に唯さんのことを特別視しているらしい。
どうして?
たとえ彼が唯さんを古い友人と呼んでいたとしても、俺にはどう見ても、二人が同じ道を歩む人間には見えないのに……
「あの……」
「どうしたんだ、ナセフィン?何かあったのか?」
「はい。本部から……支援小隊はエスギルに入れない、とのことです……」
ナセフィンは緊張した面持ちで、唯さんにその悪い知らせを伝えた。
「……」
「だから言っただろう?無駄な努力はやめておけって。支援なんて来るはずがない。俺はさっき、異世界間を行き来するすべての移動手段を封じたんだからね」
つまり、俺たちはエスギルに閉じ込められたということだ。
トレイズは、俺たちを生きてここから帰すつもりなどまったくない。
「それじゃあ、俺たち二人はひとまず腰を下ろして、話の続きをしようじゃないか」
パチン――
トレイズが指を鳴らした。
次の瞬間、白いパラソル付きの小さなテーブルが、彼のそばに現れた。
続けて、彼はどこからともなく赤ワインの瓶を取り出し、テーブルに置かれた二つのワイングラスへ注いでいく。
「……君たちは先に休んでいてくれ。俺は彼と少し話してくる」
「唯さん、本当に大丈夫なんですか?」
いくら何でも危険すぎるだろ!?
「連戦で、皆はもう倒れそうなほど消耗している。どれだけ危険でも、俺は何とか時間を稼いで、君たちを休ませなきゃいけない。ほら、そんなに心配しないでくれ。俺に任せてくれればいい。加減は分かっている」
唯さんは、俺が立ち上がり、自分の代わりにトレイズの相手をしようとしているのを見ると、すぐに制止してきた。
そのうえ、“後輩に自分の代わりに危険を引き受けさせるなんて、先輩として格好がつかないだろ?”などと言って……
今はそんなことを気にしている場合じゃないのに、それでも唯さんは譲ってくれなかった。
「ナセフィン、その間にラミと相談して、どうすれば支援部隊をこの世界に入れられるか考えておいてくれ。ただし、あまり気負わなくていい。失敗したら失敗したで、また別の方法を考えればいいだけだ」
「分かりました。絶対に、気をつけてくださいね?」
「ああ。すぐ戻る」
そう言い残すと、唯さんは小さなテーブルへ向かい、トレイズと“友好的”に話し始めた。
◇
数十分が経過した。
トレイズが上機嫌に話し込んでいる一方で、ナセフィンとラミリスの二人は、難しい顔をしながら話し合っていた。
「やっぱりダメ。どうしてか分からないけど、内部からでも外部からでも、この世界につながる転移門を開けない。それにもっと理解できないのは、携帯の信号を外へ送る仕組みと、転移門を開く魔法はほとんど同じ概念のはずなのに、私たちは転移門だけを開けないってこと。これ、いったいどういうことなの……」
「ラミリス、世の中には、特定の魔法やスキルだけを封鎖したり、無効化したりする方法はありますか?」
「相手の魔法術式が分かっていれば、そういうこと自体はできるよ。でも、封鎖する側はずっと集中し続けて、魔法術式が構成された瞬間にそれを無効化しなきゃいけない。トレイズがそんなことをしながら唯と話せるとは思えない。注意力が分散するはずだから」
ラミリスは半透明のパネルを見下ろしたまま、悔しそうにリリスへ説明した。
「あの……すみません。少し、よろしいでしょうか……」
「あなたは……ノクトゥナさん、でしたね?何か心当たりがあるのですか?」
「私は……もし、あの男が魔道具を使って、転移門を開く魔法を無効化させ、その役割を代行させているのだとしたら……と思ったのです。そうすれば、もしかして……」
「……!確かに、その可能性はある!でも、魔法術式を無効化する方法はどれも複雑だし、普通はそこまで強度の高い処理に耐えられる小型の魔道具なんて、そう多くはないはず……それでも、ありがとうございます、ノクトゥナさん。新しい視点をくれました」
「お役に立てたのなら、よかったです……私は弱すぎます。今は何もできません。でも、何もしないままでいたくもありませんから……」
その時、それを聞いたリリスは、少し不満そうな顔をした。
「ママは弱くなんてありません!さっき私を守ろうと前に出てくれた時点で、あなたはもう弱者ではありませんでした」
「リリス……うぅ、ごめんなさい……」
「あ……ママ、泣かないでください!泣かせたくて言ったわけじゃないんです……」
「いいえ、大丈夫です。私はただ……嬉しすぎただけですから……」
リリスとノクトゥナさんは、これ以上互いに誤解しないよう、慌てた様子で自分の気持ちを説明し合っていた。
二人は相変わらず、見ているこちらがやきもきしてしまうほど不器用だった。
それでも少なくとも、ようやく互いに一歩を踏み出そうとしていた。
「エミール。やっぱり俺は、お前たちは避難民と一緒に村へ戻るべきだと思う」
唯さんとトレイズが話している間に、カズはまず、さっきまで俺たちと一緒に戦っていたものの、すでに限界を迎えていたエスギルの人々を村へ避難させていた。
もちろん、彼は俺にも、皆を連れて村へ戻るよう勧めてきた。
“今こそ、私たちが全力で戦うべき時のはずだよ。【群星の守護者】がトレイズに倒されたら、村に隠れている私たちが生き残れるわけないでしょ?戦おう、皆。私たちにはもう、退く道なんて残されていないんだから”
さっき、リンはそう主張した。
皆もそれを聞いて、次々と彼女の考えに賛同した。
だから俺たちは、全員一致でこの場に残って戦い続けることを決め、カズの提案を断った。
「彼女たちの安全は、俺が責任を持って守る。心配しなくていい……」
「はぁ……俺としては、ここは俺たち大人に任せておけばいいと思うんだがな。お前たちが未知の脅威と戦う必要はない」
「ふっ。まさか、お前がそこまで俺たちの安全を心配してくれるとは思わなかったな?それに、俺たちは自分の身くらい守れるよ」
「……俺は、自分のためにそう言っているだけだ。未来ある少年少女が、戦争で死ぬところをもう見たくない」
彼はズボンのポケットから、原形を留めないほどぼろぼろになったクマのぬいぐるみの欠片を取り出し、静かに目を伏せた。
「あのクマのぬいぐるみの欠片は……」
「さっき、俺たちが救えなかったあの少女のものだ」
「……」
さっきエスギルの路地を離れる前に、カズが現場で回収していた物は、あの惨たらしく命を落とした少女のクマのぬいぐるみだったのか。
……
パン――!
「「……!」」
突然響いた銃声に、俺たちは全員警戒して立ち上がり、それぞれ武器を抜いて戦闘態勢を取った。
「貴様……本当に、やってくれたな!?」
唯さんは、トレイズの頭へ向けて引き金を引いていた。
けれどトレイズは、落ち着き払った様子でほんの少し首を傾け、唯さんが至近距離から放ったその一発をかわしていた。
「全員聞け。最速で敵対目標を排除する!」
「りょ~かい!」
シェラさんは口角を吊り上げると、すぐに細剣を手に唯さんの動きに合わせ、彼と共にトレイズへ攻めかかった。
その様子は……まるで、ずっとこの瞬間を待ち望んでいたかのようだった……
他の【群星の守護者】たちも、事態がただならぬものだと見て取り、続けて戦闘に加わった。
「お前たちの武器では俺を傷つけられない。無駄な努力はやめておけ」
「知るか!」
唯さんは拳銃を構え、トレイズへ狙いを定めた。
それを見たトレイズは警戒し、何重もの障壁を展開する。
けれど次の瞬間、唯さんは異空間からあの大盾を引き抜くと、トレイズへ向けて投げつけ、障壁ごと彼を吹き飛ばした。
唯さんの奥さんたち、アイヴィさん、カズ、ヴィクトルさん、そしてアクィーナさんも、それぞれの魔法やスキルで畳みかけるように猛攻を仕掛けていく。
「唯さん、あいつはさっき何を言ったんですか?」
「さっきナセフィンが俺たちの世界へ連絡を取ろうとした時、あいつは魔力の痕跡を逆探知して、俺たちの世界の座標を割り出した。今は魔獣を操って、俺の家族がいる地球、君たちの地球、そして俺の最後の妻がいる異世界へ攻撃を仕掛けている」
なっ……
まずい。
今にも滅びかけている地球が、もう一度戦闘に耐えられるはずがない!
「俺たちは、あいつがそこへ次々と魔獣を送り込み続ける前に、完全に倒さなきゃいけない。それしか、俺たちの世界への攻撃を止める方法はない」
「くそっ……分かりました。俺たちも戦います!」
「……!ふん、まだ不意打ちのつもりか?」
三つのダイスが突然、煙塵の中から凄まじい速度で俺たちへ射出された。
けれど唯さんは片手を上げ、空中でそのダイスを掴み取るように制御した。
彼はダイスを空中で半回転させると、そのままトレイズのいる方向へ撃ち返す。
トレイズは二つのダイスをかわしたものの、唯さんが寸前で軌道を変えた最後の赤いダイスだけは避けきれず、左肩に直撃した。
「自分の攻撃を食らった気分はどうだ?」
「さてね……むしろ、お前の無知には感謝しているよ、伊藤唯」
「なっ……!?」
翼のような模様が刻まれた赤い術式が、トレイズの左肩に浮かび上がった。
彼は軽く跳躍して空中へ舞い上がると、自分へ襲いかかってきたアンナを片手で掴み、そのまま力任せに地面へ叩き落とした。
「アンナ!」
「うっ……アンナは平気!アンナのことは心配しないで!」
……普通の人間なら、とっくに全身が砕け散っていただろう。
竜族の身体能力は、やっぱり伊達じゃない。アンナは何事もなかったかのように起き上がっていた。
けれど、それよりも俺の注意は、あの三つのダイスに向いていた。
「皆、気をつけてください!あのダイス、何かおかしいです。あれはただ遠距離から敵を攻撃するためだけの武器じゃないはずです!」
「正解だ、角なしの人間。褒美として、お前にもダイスを一つくれてやろう」
「……!」
もう一つの青いダイスが、突然俺の死角に現れ、腰に激突した。
それだけじゃない。
その衝撃で、俺の身体はそのまま吹き飛ばされた。
青いダイスの一面が俺の身体に触れた瞬間、俺の身体にも青い魔法術式が浮かび上がる。
俺は……トレイズに、何か未知の効果を付与されたのか!?
その時、俺の視界の端で、羽根を集めている華恋の背後に、黒い影が突然現れるのが見えた。
「……!華恋、危ない!『交換』!」
「あ……?」
彼女を守るために、俺は彼女と位置を入れ替えた。
そしてすぐに大剣を構え、その黒い影へ向けて斬りかかる。
キィン――
その漆黒の影は、両腕が鎌のような形をした、顔のない怪物だった。
チッ。
一瞬で俺の攻撃を受け止めるなんて……!
「エミール、何をしているの!?今すぐやめて!どうして急に詩織を襲ったの!?」
「は?何を言ってるんだ、イヴ?これはどう見ても、顔のない鎌の怪物だろ?」
「……あなたこそ、何を言っているの?」
イヴは慌てて俺を止めようとしながら、怪訝そうな顔で俺を問い詰めてきた。
けれど、俺の答えを聞いた彼女は、さらに訳が分からないという顔になった。
「まさか……『浄化』!」
フローラさんの『浄化』のおかげで、その怪物の姿は少しずつ消えていった。
けれど、そこにいたのは――困惑したまま、その場で呆然と俺を見つめている姫川さんだった。
……!?
「おそらく、あのダイスはエミールに幻覚を見せる効果を付与したのでしょう。たぶん、そのせいでああなったんだと思います」
「さっき、俺の目には本当に君が怪物に見えていたんです。すみません。華恋が襲われると思って、それで……」
「大丈夫です。気にしないでください。私は怪我をしていません。それより……」
姫川さんは目を細め、戦場を飛び回る三つのダイスを見つめた。
「皆さん!まずはダイスの破壊を優先するべきだと思います!あのダイスは、命中した相手にさまざまな奇妙な効果を付与してきます!」
「待って、何それ?そんな武器、面倒すぎるでしょ!?」
魔王リリカは姫川さんの指示を聞くと、すぐにダイスへ向けて魔法を放ち、そのうち一つの黄色いダイスを粉々に砕いた。
しかし、次に起きた光景に、魔王リリカは信じられないという声を上げた。
黄色いダイスの破片が赤いダイスに触れた瞬間、その破片と、フローラさんの治療を受けていたアンナの身体に、まったく同じ赤い術式が同時に浮かび上がった。
そして次の瞬間、アンナの傷が癒やされていくのと連動するように、砕け散った黄色いダイスの破片も一つに集まり始めた。
「戻った!?」
「二つの物体の状態まで連結できるの!?皆、あのダイスが修復されたタイミングで、アンナの傷もフローラさんに治療され終わっていたように見えたよ!」
日向はずっと後方から戦場全体を観察していたため、すぐに俺たちへ注意を促してくれた。
「あああああっ!!!飛び回ってばっかりで、面倒くさいんだよ!」
ガキィン――!
陽葵は野球でもするかのように、再び俺たちへ向かって飛んできた黄色いダイスを、チェーンソーアックスで弾き飛ばした。
俺たちは、ダイスの次の効果が何なのか分からない。
だから、実際にダイスを受けてからでなければ、発動した効果を確認することができなかった。
しかし……
戦場で生身のまま、三つのダイスの各面にどんな効果があるのかを確認するなんて、あまりにも非現実的すぎる。
「唯一の朗報は……私たちが同時に相手にしなければならないダイスが、三つだけだということです。黄色のダイスは私が押さえます!皆さん、私が動きを止めている間に、何とか攻撃してください!」
「リリス、私も手伝います!今の私は弱いですが、それでもダイス一つを押さえるくらいなら、自信があります。青いダイスは私が引き受けます!」
「ママ……うん、一緒に頑張りましょう」
「はい」
「“重力よ、そのダイスをこの地に縫い留めなさい”」
「“念よ、鎖となり、そのダイスをこの世界に縛りなさい”」
二人のバンシーは力を合わせ、二つのダイスを制御した。
そして、それらを『言霊』によって、地面へ深く打ち込むように縫い留める。
「二つのダイスを押さえ込んだか……?発想は悪くない。だが、それだけだ」
「……!」
トレイズは背後から、漆黒でありながら、どこか紫紺の光を帯びた弓を取り出し、リリスへ狙いを定めた。
あいつ、まだ別の武器まで隠し持っていたのか!?
「幽影猟弓。なかなか優れた【神器】でね」
「『交換』!」
矢が放たれたその瞬間、俺は慌ててリリスと位置を入れ替えた。
だが、事態はまたしても俺の予想を超えてきた。
本来なら俺へ向かって飛んでくるはずだった矢は、不自然に軌道を曲げ、そのままリリスへ向かって飛び続けたのだ。
それだけじゃない。
矢はさらに数本へ分裂し、近くにいたアイリーン、マリーナ、リンへも襲いかかった。
「『無害化』!」
ぽふん――
矢は桃色の煙を噴き出し、美味しそうなケーキへと変わった。
けれど、その四つのケーキは、それでも真っ直ぐ彼女たちの方へ飛んでいく。
最後には、それぞれのケーキが彼女たちの顔に正面からぶつかり、上に乗っていたクリームまで全身に飛び散った。
「わっ!キャロリンにケーキに変えてもらっても、それでも私たちの方へ飛んでくるんですね?」
比較的運がよかったアイリーンは、とっさに腕で顔を庇ったため、ケーキが腕に当たっただけで済み、服にはそれほど多くのクリームがついていなかった。
「あの弓から放たれた魔力の矢は、標的に命中するまで止まらない!それに、さっき彼はあれを【神器】だと言っていた……?」
ラミリスは俺たちへそう注意を促すと、再び目の前の半透明のウィンドウへ視線を戻し、分析に没頭し始めた。
「シェラ!」
「おう!行くぞ!」
唯さんとシェラさんは互いの歩調を合わせながら、左右からトレイズへ挟み撃ちを仕掛けた。
唯さんはまず手にした盾を投げつけてトレイズにぶつけると、続けて片手剣を引き抜き、トレイズの喉元へ突き込んだ。
けれど、その一撃はすぐにトレイズの弓によって受け止められる。
……もちろん。
ここまでの攻撃は、すべて陽動だった。
「もらった!」
途中でふっと姿を消していたシェラさんが、唯さんの背後から飛び出した。
そして、手にした細剣を突き出し、トレイズの持っていた幽影猟弓を弾き飛ばした。
二人の狙いは、最初からトレイズの弓だったのだ。
たとえ視線を一度交わしただけであっても、二人はその場で、ほとんど完璧に近い連携を成立させていた。
「……」
「『浄化』!このまま、あなたの好きにはさせません!」
トレイズは空中から地面へ降り立つと、手の中に瘴気を集めて反撃しようとした。
けれど、それはすぐに遠くにいたフローラさんの『浄化』によって消し去られてしまう。
それを見た唯さんとシェラさんは、さらにトレイズとの距離を詰め直した。
「ゲームはここまでだ、トレイズ!俺たちはもう、君の神様から瘴気への対処法を学んでいる!」
唯さんは、自分の剣に水をまとわせた。
素早く体勢を整えると、再びトレイズの喉元へ向けて刃を振るう。
「はぁ……お前は相変わらず、無茶をするね」
キィン――
だが、トレイズはまたしても、獅子の頭が刻まれた豪奢な赤い盾を取り出し、その鋭い一撃を正面から受け止めた。
「弾き返せ」
「「……!」」
強烈な衝撃波と瘴気が盾からこちら側へ向けて爆発するように放たれ、二人まとめて吹き飛ばされた。
「唯、シェラ!二人とも無事ですか!?」
「げほっ……!動けない……」
さらに最悪なことに、二人は至近距離であの衝撃波による反撃を受け、揃って重傷を負ってしまっていた。
それだけじゃない。
二人の身体には、瘴気による傷まで刻まれている。
「お前は、俺がどれだけ手札を隠しているのか、何一つ知らないんだよ、伊藤唯。それなのに、そんなふうに無謀に突っ込んできて、あらゆる状況に対応できるとでも思っていたのかい?このままだと、本当に命を落とすよ?」
フローラさんがどれだけ『浄化』を使っても、二人の生命力を蝕み続ける瘴気を取り除くことはできなかった。
「ふふ……栄光の盾。お前は相変わらず、理不尽なほどに強力だね」
トレイズは手にしたその盾をそっと撫でながら、恍惚とした笑みを浮かべた。
あの言い方からすると、きっと彼にはまだ他にも、隠したまま見せていない【神器】がある。
ちくしょう!
俺たちは、あいつの底をまったく知らない。
そもそも、あいつがどこであれほど強力な装備をいくつも手に入れたのかさえ分からない。
「さっき……お前たちはもう瘴気への対処法を学んだと言っていたね。それは、ロロックを倒したから、という意味だろう?」
彼は瞬時に上空へ移動し、どうすることもできずにいる唯さんを、からかうように見下ろした。
「『浄化』!『浄化』!『浄化』!どうして……」
フローラさんが創り出した『極光聖域』も、半分ほどが灰黒色の瘴気に染まっていた。
彼女が全力を尽くしても、少しずつ広がっていく瘴気の速度を遅らせることしかできない。
今回は、聖女である彼女でさえ、瘴気を完全に浄化することができなかった。
唯さんとシェラさんの命が、瘴気によって少しずつ蝕まれていくのを、ただ見ていることしかできなかった。
「お前たちは随分と思い上がっているね。自分たちはもう、瘴気への対抗法を掴んだつもりでいるようだ。だが、考えたことはあるのかな……もしロロックが、瘴気本来の力をまだ発揮していなかったとしたら?」
「そ……そんなことが!?パネルの表示が変わった!」
ラミリスは信じられないというように目の前の半透明のパネルを見つめ、震える声でその事実を俺たちに告げた。
「改めて自己紹介させてもらおう。転生前の名はヴァリエン。そして、娯楽と混沌を司る……」
黒い棘と、瘴気を放つ柱が、次々と地面の下から突き出した。
最後には、空の半分までもが灰黒色の瘴気に覆われ始める。
瘴気は一つに集まり、俺たちの目の前でさまざまな魔獣の姿を形作ると、津波のように押し寄せてきた。
「一介の神である」
トレイズは、暗紫色の荊棘が絡みつき、黒い液体を滴らせる蔓を一本引き抜くと、それを俺たちへ向けた。
そして、正式に俺たちへ宣戦布告した。
【設定や用語の概要】
——————————
【神器】
原初時代に神々が所持していた特殊な道具。
形態は一定ではなく、必ずしも武器であるとは限らない。




