(七)
どれほど馬を走らせたのだろう。漸く辿り着いたのは、村から少しばかり離れた位置だった。そこに暁光は馬を止めると、その背から降りる。
「雅殿」
下から差し出される暁光の手に、雅は自分の手を重ねる。
「ありがとうございます」
「うむ」
雅が地面へ下りると、彼の手は雅から離れた。馬を近くの木に繋ぐと歩き始めた彼の背を雅は追う。そうしていると不意に暁光が口を開いた。
「雅殿は……」
「はい」
「……家族と、仲が良いか?」
唐突な問いかけに雅は、きょとん、とした顔をした。暁光は少し歩く速度を落とすと雅の隣に並ぶ。その彼の顔を見て、それから雅は視線を斜め上へ上げると考えながら言葉を紡いだ。
「父と母と仲が良いかはわかりません。乳母は……厳しいですが、わたくしのことを大切にしてくださいました」
「ヨネ、だな」
「はい、ヨネです」
確か以前に乳母の話を暁光としていた。そんなことを覚えていてくれたのかと、少し嬉しく思いながら雅は頷く。そして笑顔で続けた。
「二人いた兄とは仲が良かったと思います」
「……『二人いた』?」
「二番目の兄は、戦死しました」
二番目の兄であった誠士郎は他の者とは違い、雅を一人の人として見てくれたように思う。
「いつものように戦に行って、亡くなりました。遺体は持ち帰られることはありませんでした」
「……哀しかっただろう」
「家族ですから」
雅は努めて明るく喋る。
「その兄が、少しだけ剣術も教えてくれました」
だが当時のことを思い出せば、今でも胸は痛む。それは哀しみと寂しさだった。
亡くなった直後は、いつかは起こることだと覚悟していた所為か、それほどの衝撃は受けなかった。だがつらかったのは、その後だった。時が流れれば流れるほど、もう兄には会えないのだという、切なさが募っていった。喪失感というものは、時を重ねるほどに増していくものだった。
「大切な者はもう、失いたくありません」
「……ああ」
村に入ると、村人は暁光に笑顔を向けていた。どうやらこの島では彼はその瞳の色で恐れられることはないようだった。長く付き合うことで、瞳の色以外は人と殆ど変わらぬのだということを、分かってもらえていたようだった。
「そちらの方は?」
老婆の一人が雅を見て暁光に尋ねていた。暁光は半歩後ろに立っている雅を一瞥し、老婆に視線を戻すと告げた。
「妻だ」
「奥様!」
暁光の返答を聞いた人々が驚いた表情をしている。雅はどうして良いのか反応に困り、取り敢えず笑顔を浮かべておいた。
「変わったことはないか」
暁光は村人に尋ねながら、村を見回している。
「そういえば、正造さんのかみさんが最近具合悪いって言ってたな……」
一人の初老の男性がそう言うと、暁光は目を細めた。
「いつからだ?」
「五日くらい前だったろうかね」
「五日……」
ぽつりと反芻し、暁光は何かを考えるように口を閉ざした。顎に右手で触れた彼の顔を雅は見上げる。何かを思案していたようだったが、やがて暁光は老人に問うた。
「正造殿の家は、どこにある」
「それは――」
悲鳴が、空気を裂いた。
その声に暁光が動きを止めた。悲鳴が悲鳴を呼び、連なり、重なっていく。どこから初めの悲鳴が聞こえたのか、分からなくなるほどだった。その悲鳴で何かを理解したらしい、暁光の周りにいた人々が村の外へと逃げ出していく。
人の悲鳴は恐怖を呼び起こす。雅は身体を硬直させ、胸の前で手を重ねた。
「暁光様!」
それは断末魔に似た声だった。耳を殴りつけたその声は裏返っていた。自らの足に足を絡め取られそうになりながら暁光の前に飛び出してきたのは、一人の男性だった。三十代半ば程度の年齢だろう男性は十歳程度の少年の手を引いていた。その手を離した彼は暁光の前で頽れる。
「どうした」
暁光は冷静だった。男性の視線に合わせて地面に片膝をつく。
顔を上げた男性は焦燥した表情をしていた。土を爪の間に食い込むことも気にせず、強く手を握り締めた彼は乞うた。
「暁光様、」
その瞳を涙で濡らし、乾いた声を絞り出す。
「お願いします……ッ」
妻を救ってください。――そう、男性は叫んでいた。
悲鳴が、重なる。男性が飛び出してきた方から服も髪も振り乱した人々が走ってきた。何かから逃げている様子の、彼らを見た暁光が静かに立ち上がる。
「雅殿、」
彼は雅を見なかった。彼女に背を向けたまま、告げる。
「ここで待っていてくれ」
何が起こっているのか、雅には分からない。
だが。
「暁光さま」
雅は、暁光の手が腰に差してある刀の柄に触れたのを、見た。
「何をなさるのですか」
暁光は答えない。
答えぬまま、歩き出した。
「暁光さま?」
雅の声は、彼には届いていないのだろうか。足を止める様子がない彼に顔を顰めて、雅が一歩踏み出した、その時だった。
人々が逃げてきた方向に一人の女性がいた。ゆっくりとした足取りで、こちらに向かってくる。左右に身体を揺らして歩く、緩慢な動きが目立っていた。
その姿が、雅の記憶の中の光景と重なる。
地面に座り込んでしまっている男性は動かなかった。背後を見ることもなかった。だが、彼が連れてきた少年は違った。彼は女性を見ると、空気を破裂させるように叫んだ。
「母さん!」
あの女性は、少年の母なのだ。
それに気付いた雅は暁光に目を向ける。
「暁光さま」
掠れた雅の声は、きっと、彼まで届かない。
女性の目は、焦点が合わない。その口元は化粧にしては赤く、顎まで滴る赤い雫があった。
(待って)
雅は、記憶を辿る。
この島に来た初日、雅は襲われた。そこに現れた暁光に助けられた。その翌日に、見たものを思い出す。
(あれは)
見たのは、真新しく作られた三つの墓。その墓石の前で涙を拭う人々の姿。景時の、言葉。あの三人の行方を教えることを拒んだ、暁光。あの後も誰一人、雅に教えてはくれなかった。禁句だとでもいうように、揃って口を噤んでいた。――それならば。
暁光が、鯉口を切る。その顔は、真っ直ぐにこちらへ向かってくる女性に向けられている。
少年の目から涙が零れるのを、雅は見た。見た途端、身体が動いた。
「暁光さま!」
全てを悟るよりも早く、雅は声を放っていた。
駆け出した足は暁光を追い越し、女性と彼との間で止まった。雅は両手を広げ、暁光の行方を阻む。
今まで見たどれよりも鋭い双眸をした暁光がそこにはいた。それは人殺しの目だと、察すると同時に身体が怯んだ。だが、身体に力を込めて、耐える。
雅には、彼の抱えているものも、抱えなくてはならないことも分からない。何が正しいのかも分からない。暁光に頼んだ男性の行動は正しいのかもしれない。それでも、駄目だ、と思ってしまった。
子供が泣いている。
暁光がこれからするだろう行動にも、気付いてしまった。
雅は恐怖を殺そうと努めた。大丈夫だと言い聞かせる。だって自分は龍神だ。そう簡単に死んだりしない。
足を止めた暁光は雅を見ている。厳しい瞳で雅を捉え、言った。
「そこを退いてくれ」
「嫌です」
「雅殿」
「だって、」
駄目だと、思った。
雅は首を左右に振り、声を絞り出す。
「わたくしには、理解できません」
暁光の向こう側に少年の姿が見える。こちらに駆け出そうとしている彼の腕を掴んでいるのは、あの男性だった。涙を堪えているその姿を見てしまって、退けないと思った。
「間違っています」
「……雅殿、」
「子供の前で母親を殺すなんて」
「雅殿、」
「いくら正しいと言われても、そんなことはおかしいですッ」
雅は家族が死ぬ哀しみを知っている。正しいと言われた戦だった。だが兄は死んだ。死んだ者は帰ってこない。
「暁光さ――」
最後まで呼ぶことは、できなかった。
気付けば目前に立った暁光に強く腕を引かれた。そのまま抱き締められ、彼が身体を反転させる。その所為で、雅と彼のいた位置が入れ替わった。
「っ……!」
耳に聞こえた、彼の短い、何かを耐える吐息。
彼の腕が離れると同時に雅はその場に尻餅をつく。その耳に届いた、金属の擦れる音。それは肉を裂く音と重なった。
頬に感じた、熱は、誰のものだったのか。
顔を上げた雅が見たのは、赤、だった。他は何も見えなかった。目前に広がった暁光の背が全てを遮っていた。叫び声はなく、直後耳を打ったのは何かが地面に落ちた音。
「暁光さま……――」
「……雅殿」
振り返った彼の足元が雅から見えた。広がっていく赤。それが血だと気付く。彼の足元で、先ほどの女性が倒れていた。その首が胴から離れているのを雅が確信する前に、再び暁光の身体が彼女の視界を奪う。
雅と向かい合い片膝を地面につけた彼は、雅の顔を覗き込んだ。
「雅殿、怪我は?」
言われて、雅は自然と自分の身体に神経を走らせる。だが痛みはどこからも感じられない。敢えて伝わってきたものがあったとすれば、強かに打ちつけた尻くらいのものだった。
なぜ彼がそんなことを訊くのか。考えて、記憶を辿り、思い出す。
雅は暁光に抱き締められたのだ。何かから庇われるように抱きしめられ、その直後に彼は女性を斬っていた。気付かなかっただけで、女性は雅の後ろまで迫っていたのだ。それならば暁光に助けられなければ、自分は今頃傷を負っていたのだろう。
そこで、ハッと雅は気付いた。
「暁光さまっ」
彼の左肩。その部分の着物が破け、そこから血が流れていた。傷は深いのだろうか、傷があるのは肩の裏側のようで、雅の位置からはよく見えない。雅は身体を起こすと彼の左肩に触れるか触れないかの位置に手を添えた。
「どうして」
「これくらい直ぐに塞がる」
そんなこと、雅だって知っている。雅の傷も大抵は直ぐに塞がるのだ。だが、雅が気にしているのは、そのことではない。
(どうして)
なぜ、彼は雅を庇ってくれたのだろう。彼が怪我を負ってまで助けるほど、何か特別なことなどしたことなんてないのに。
「暁光さまっ」
「雅殿、落ち着いてくれ」
「だって――」
そこまで言い掛けた時だった。
雅の目が、何か異質なものを捉えた。人の肌にあるはずのない、光を反射する、何か、を見た。雅は息を止め、彼の左肩を注視する。
破れた、着物。
そこから覗いた、彼の肌。
そこに見たのは、雅の左腕にあるものと、同じ、もの。
――鱗だった。
一枚だけ存在する逆鱗を、雅は、暁光の左肩に、見た。




