(八)
暁光に支えられるまま屋敷に帰ると、雅の顔を見た志乃が小さく悲鳴を上げた。余程蒼い顔をしていたのだろう。気遣わしげな暁光の掌の温もりを、背中から感じていた。
暁光は志乃に村での件を話していた。人を目の前で殺された所為だろう、という彼と志乃との遣り取りを聞きながら、きっとそれだけではない、と雅は思っていた。鳩尾をぐっと押し込まれているように、気分が悪かった。それはきっと死体を目の前で見た所為だけではなかった。
(逆鱗……)
雅は、暁光の逆鱗を見付けてしまった。彼の左肩に光るそれを、見てしまった。
この島に来た目的を、雅は思い出す。そのために雅はずっと彼の逆鱗を探していた。龍神の弱点である逆鱗。それを肉体から取り去られてしまえば、龍神は人と同じ身体になる。寿命以外で失うことがないと言われている命を、短刀一つで奪われる。
雅は、彼を殺すために、ここに来た。――それなのに。
胸が痛かった。吐き気がした。どうしようもないほどに、ここから逃げ出したい、と思ってしまった。
「雅殿」
名を呼ばれ、雅は俯けていた顔を上げた。初めは目を合わせることを嫌っていた暁光の暁の瞳が雅を見詰めている。
彼は真剣な表情で、硬い声音で言った。
「説明をしよう」
「え?」
「……先ほどの、者のことを」
それから、と続ける彼は雅から視線を外す。
「この島に来た日出会ったあの三人のことも」
「……はい」
暁光に連れられるまま、雅は屋敷の居間へ足を運んだ。先に居間についた雅から少し遅れて着物を着替えて来た暁光が上座に座った。自然と視線を落とした雅の視界に、青い畳が映る。
どちらも、口を開こうとしなかった。
重い沈黙が室内を埋め尽くしていく。そこに茶を持った志乃が現れた。彼女は二人の前に湯呑を置くと、何も言葉をかけることなく部屋を出て行く。部屋の障子が閉められ、志乃の気配が去った頃、漸く暁光が重い唇を開いた。
「彼らは、古くから【餓鬼】と呼ばれている」
雅はその言葉でゆっくりと顔を上げる。紅い瞳と目が合った。
「がき……?」
「ああ」
頷いた暁光は目を細める。それが雅には痛みに耐えるように見えた。彼は静かに、けれどよく通る声で告げた。
「餓鬼とはこの島のみに発症する病だ」
「病、なのですか」
「ああ。……ある日、人間の血が欲しくて堪らなくなるらしい。理性を失い、人間を襲うようになる。――そうして、血に餓えた鬼と化す」
雅は焦点の合わない目をしていた彼らのことを思い出す。彼らは餓えて、求めて、彷徨っていた。あれが病の所為だというなら、あんまりだと思った。
「治療法は、ない。殺さなければ人を襲い続ける」
暁光の話を聞きながら、雅は先ほどの村での出来事を思い出していた。
あの男性は正造と名乗った。村に入った時に老人が教えてくれた具合を悪くしているという女性の夫だった。彼は死した妻の髪を撫でていた。愛しげな指先に、妻に向けられた彼の想いが痛いほどに伝わってきて、雅は目を逸らしてしまいたかった。だが暁光は真っ直ぐにその光景を眺めていた。目を逸らすこともなく、何か言葉をかけてやることもなかった。それが彼なりのやさしさなのか、どうかは雅には分からない。
正造は血に濡れた妻の髪を綺麗に梳くと、暁光を見上げた。見上げて、言った。
――ありがとう、ございました。妻の最期の願いが、叶いました。
そう言って頭を下げた正造の頬を涙が伝っていた。その顔を見ていられず、雅は背後にいる少年を見た。彼は母が死ぬ前からいたその場所から一歩も動いていなかった。だがその顔に怒りはなかった。彼は涙を流しながらも、雅と目が合うと頭を下げていた。
死の間際の、人の願いなど雅には分からない。だがもし自分があの女性の立場ならば、自分の夫や子供を傷つけたくはないだろう。治らぬものだと分かっているのならば、せめて人を傷つける前に息絶えたいと願うのかもしれない。
(餓鬼……)
人の血を欲する、病。それが蔓延る唯一の島。
「もしかして、この島が『鬼の島』と呼ばれる理由は……」
「ああ。餓鬼の存在からだろう」
消え入りそうな雅の声に、暁光はそう告げた。それを聞いた雅は後頭部を殴られたような衝撃を覚える。
(それなら、)
雅は悟った。
悟り、目を見開く。
(この島を領土にしても、何も利益はない……?)
病を持った人々をどうやって兵とできよう。感染するかも分からぬというのに、そのような者達を本島に連れて行くことも本島の者を島に住まわすことも、できるはずもなかった。
騙されたのだ、と気付く。
父や自分は、大寛に騙されていた。ただ持て余していた息子と島を一遍に処理するために、雅は利用されていたのだ。
雅は瞼を伏せると、項垂れる。無性に笑いたくなった。だが虚脱感に襲われるまま、ただ手を握り締めていた。掌に突き刺さる爪の鋭さが、せめてもの救いだった。
衣擦れの音がする。目を開けて顔を上げると、傍に暁光の姿があった。
「気分の悪いものを見せて申し訳なかった」
「暁光さま……」
「……あれが、あの者の最期の願いだった」
彼の目尻が、震える。
「餓鬼と化せば、誰とも構わず人を襲う。いつ自分の家族を襲うとも分からない。……だから、この島の者はここに首を刎ねてほしいと頼みに来る」
「……」
暁光は、龍神だ。忌龍と呼ばれても、龍神と同じ、丈夫な身体を持っている。だからもし餓鬼が感染することで伝染る病だとしても、彼が餓鬼と化すことはない。だから皆は暁光に頼みに来るのだろう。自分が大切な者を襲わぬように。
痛みに耐えているようだった。苦しさを飲み込んで、それでも断らないやさしさがある人だと、雅は思った。
彼の頬に手を伸ばしたのは、無意識だった。彼の頬に触れた右手から、温かさを感じる。その頬が涙で濡れていないことが不思議だった。哀しそうで、痛みを耐えているようなのに。涙を流すことのない彼の瞳は、どこまでも強い。
「暁光さまは、」
首を傾げた彼の手が、頬に触れる雅の手を包む。その温もりに一瞬言葉を奪われた。
重なった瞳。絡まった視線が、雅の声を嗄れさせた。
「つらくは、ないのですか?」
その雅の問い掛けに、暁光は何も答えなかった。
声の代わりに彼は、ただ、困ったように小さく笑っていた。




