タイトル未定2026/07/20 20:56
年が明け、正月三ヶ日が過ぎて、いつもの生活が戻っていた。
その日設計事務所では、新しく入って来た社員の紹介があった。
新しく入って来た社員は、流花と同じ設計事務所の社員だが、流花とは部所が違っていた。
新しく入って来た社員は、先輩社員の後を追って歩いて行った。
流花の隣に立っていた田中は、流花にそっと言った。
「驚いたな。中途社員って、あいつかよ。流花ちゃん、知ってた?」
「ううん、全く知らなかった」
年明け早々に入社した中途社員は、田中にとって因縁のアイドル顔の野田だった。
昼休憩の時、野田は流花の席に行った。
「流花ちゃん、久しぶり。また、よろしくね」
「まさか、野田君がこの事務所に入るなんて、びっくりした」
流花の隣の席の、安達が聞いてきた。
「知り合い?」
「同じ大学で、俺はIT科にいました」
「IT科ね、なるほど。パソコンに詳しい人材を欲しがっていたからなぁ。あっ、俺は安達」
「安達さん、よろしくお願いします」
安達に笑顔を振りまいた野田は、自分の部所へ戻って行った。
野田がいなくなると、安達は流花に言った。
「野田君か……アイドルみたいな顔立ちをした子だな」
「はい。大学の時から、爽やかでした」
「野田君に、田中君か」
安達は、意味ありげに言った。
「なんですか?」
「白田さん、彼氏がいるのに大変だな」
「田中君も野田君も、友達です。誤解しないでください」
「わかっているよ。青春していて良いなぁ」
流花は、うつむいてしまった。
仕事が終わったのは、既に九時を回っていた。
流花は雑貨屋でマスターに買ってもらった、マスターとお揃いのボールペンを布製の筆入れにそっとしまった。
流花は帰り支度をして、設計事務所から外に出た。
外は真っ暗で、駅までの道のりは街灯の明かりだけが頼りだった。
田中が急ぎ足で、流花を追いかけてきた。
「待てよ」
流花は立ち止まって、振り返った。
田中が流花の隣に立つと、一緒に歩きだした。
「野田の奴、最初からこの事務所に入るつもりでいたのかな」
「さぁ」
流花の素っ気ない態度に、田中は言った。
「なんだよ。その気のない返事」
流花は何も言わず、歩調を早めた。
田中は慌てて早歩きをして、流花に並ぶと、流花の手を掴んだ。
流花は立ち止まって、田中を睨みつけながら言った。
「離して」
「睨んだ流花ちゃんも、良いな」
田中は流花の手を引っ張り、流花を抱き寄せた。
「せめて、駅まで良いだろ」
流花は、田中を見つめた。
田中の手が、流花の頬に触れた。
「白田さん!」
野田の声に流花は振り向き、自然と田中から離れた。
走ってきた野田は背後から、流花と田中の肩を抱いた。
「こうやって、三人でまた会えるなんて嬉しいなぁ。大学の時に戻ったみたいだよ」
野田の言葉に、流花は笑ってしまった。
「白田さんの笑顔最高!俺、腹減ったぁ。なんか、食いに行こうよ」
「うん」
流花は、笑顔で頷いた。
「そうだ……俺の就職祝いに、田中君なんかおごってよ!」
「なんで俺があんたに、おごんなきゃいけないんだよ」
「いいじゃん、いいじゃん!」
流花と田中の背後から、二人の肩を抱きながら野田は歩いた。
診療所の勤務を終えたマスターは、マンションに向かって自転車を走らせていた。
マンションが見えると、マスターは自転車から降りた。
自転車を引きながら歩いていると、マンションの入り口に小柄な女性が立っていた。
女性の目の前を通り過ぎると、女性から声をかけられた。
「麻生さん」
突然名前を呼ばれたマスターは、振り向いて驚きの声を上げた。
「……朝倉さん」
しのぶは、マスターに近寄った。
「どうして、ここへ」
「麻生さんに会いたくて、来てしまいました」
「来てしまいましたって……何時だと思っているんですか」
マスターは、しのぶを叱るように言った。
既に、夜の十時を回っていた。
ため息をついたマスターは、背中に背負っていたリュックを降ろし、携帯を出した。
電源が入った携帯に、ほのかな明かりがともった。
マスターに寄り添ったしのぶは、携帯の待受画面をのぞき込んだ。
敢えてマスターは、隠そうともしなかった。
「この女性、麻生さんの彼女ですか?」
「はい。ボクの彼女です」
「……麻生さんの彼女、モデルみたい」
マスターは携帯で、タクシー会社に電話をした。
「三十分程で、タクシーが来ます。それに乗って、帰ってください。おやすみなさい」
マスターはリュックの中に携帯をしまい、リュックを背負って自転車を引いて歩きだした。
しのぶはマスターの服を掴んで、行こうとするマスターを引き止めた。
「せめて、タクシーが来るまで一緒にいてください」
「ちゃんと、言ったはずです。もう会うのはこれきりと」
「わかっています。会って、話をするだけです」
「ボクには、彼女がいるんですよ。そんなことは、できません」
「彼女を裏切ってください、なんて言っていません」
「勝手なことばかり、言わないでください!」
珍しく怒りをあらわにしたマスターは、しのぶを取り残して、自転車を引いて歩きだした。




