タイトル未定2026/07/20 20:58
少しずつ寒さが緩んできて、春を感じる季節となった。
診療所では受付の中で、朝の申し送りが行われていた。
「……では、本日も事故怪我のないように、お願いします」
看護師長の緑がしめると、あちこちで「お願いします」の声が聞こえ、それぞれの持ち場に散った。
「園田さん」
緑の声で、亜美は振り返った。
「先生今日は休みを取っているから、園田さん院長の診察室に行って」
「わかりました。先生が休みなんて、珍しいですね」
「私用でね」
そう言った緑は、亜美の側から離れた。
マスターが休んだ理由を緑は知っている。
しかし、亜美は知らない。
マスターと緑は、昔からの知り合いだった。
それだけで、マスターは緑に自然と甘えていた。
亜美は、緑に嫉妬を感じていた。
マスターと流花の二人の時間を亜美は見た。
それまで見たことがないマスターの顔を見た亜美は現実を知り、諦めた……はずだった。
診療所で毎日マスターと接している内に、側にいたい気持ちが強くなっていた。
……平日に休みを取って、先生何をしているの?
設計事務所の職場では、机の回転椅子に座っていた安達の側に、田中は立っていた。
「流花ちゃんが休み?」
「前々から、休みを取っていたんだよ」
安達の席の隣の、空っぽの流花の席を田中は見つめた。
「おはようございます!」
朝イチの爽やかな声で、田中と安達は振り向いた。
そこには、にこやかに微笑む野田がいた。
「おはよう。野田君、今日も元気だね」
安達が言うと、野田は流花が使う机を見つめた。
「あれっ、白田さんは?」
「今日は、休みだよ」
「休み?そうなんだ」
流花が休みだと知った野田は、田中に言った。
「白田さんがいないと、淋しいね。今日は、男二人で帰ろうか」
「なんで、あんたと帰らなきゃいけないんだよ」
ふてくされたように、野田に背を向けて、田中は自分が使う机の方へ歩いて行った。
そんな田中と野田に、安達は思わず吹き出した。
大門が通う小学校の正門で、黒いコートに身を包んだ流花が立っていた。
流花と同じようなモノトーンの服を着た、ママ友らしき数名の保護者から、夫婦で来ている保護者が流花の横を通り過ぎる。
居心地の悪さを、流花は覚えていた。
「おはよう」
聞き慣れたマスターの声に、流花は顔を上げた。
マスターの顔を見て安心した流花は笑顔になり、マスターの側に駆け寄った。
「今日は、流花を巻き込んですみません」
マスターの言葉に流花は首を横に振った。
マスターとブティックに行った時マスターは『流花、お願いがあるんですが』と言った。
知らない世界に飛び込み不安だった流花は、マスターが来てくれてやっと笑顔になった。
「マスター体育館って、何処ですか?早く行こう!」
大門小学六年生、今日は大門の卒業式。
ブティックに出かけた時流花に言ったマスターの願い事とは、『大門の卒業式に、一緒に出席してください』とのことだった。
マスターは、グレーのスーツ姿。
流花は、黒のワンピース。
ブティックで買ったお揃いのロングコートを着て、指にはペアリングをはめていた。
高身長のマスターと流花がお揃いのロングコート姿で体育館に入ると、周囲がざわついた。
用意された保護者席に、マスターと流花は並んで座った。
式が静かに始まった。
卒業生と在校生の歌。
卒業生の感謝の言葉。
在校生の贈る言葉。
式は静かに、流れた。
そして、いよいよメインの卒業証書を受け取る時間が来た。
静かな体育館に、大門の名前を呼ぶ声が響いた。
「麻生大門」
「はい」
静かに立ち上がった大門は、胸を張って堂々と歩いた。
……小さくて、いつもボクの後ろに隠れていた大門が、あんなに大きく成長して。
卒業証書を受け取り、ゆっくり一礼をする大門を、マスターは目に焼き付けていた。
そっと流花を見ると、両手で口元をあてた流花は涙ぐんでいた。
式が終わり外に出ると、マスターと流花は、游太の両親と会っていた。
大門と游太は、同じクラスの皆と記念撮影をしていた。
游太の両親は、初めて見る流花に驚いていた。
「麻生さんに、こんな可愛い奥さんがいたんですね!」
游太の父親が言うと、母親も驚きの声を上げた。
「私も全く、知りませんでした」
マスターは、何も言わなかった。
大門は別れを惜しむように、クラスメイトと話し込んでいた。
日が当たる暖かな離れた場所で、マスターと流花は大門を見守っていた。
「今日は、付き合ってくれてありがとうございます」
「大門君の卒業を、しっかり見ることができて良かった。誘ってくれて、ありがとう。それに……」
「それに?」
「親子に、なったみたいだった。疑似体験をした気分」
「ほんとはね。游太君の両親に、流花を紹介したかった」
「……マスター私は……大門君の母親にはなれない」
流花の気持ちは、痛いくらいわかっていた。
だからこそ、マスターは游太の両親に流花を紹介しなかった。
流花はマスターに、そっと寄り添った。
……今は、それでいい。流花が、いるだけで。
卒業証書を手にした大門が、笑顔で駆けてきた。
完




