タイトル未定2026/07/20 20:33
マスターの助手を務める看護師の園田亜美は、早朝自宅から車で職場の診療所へ、秋晴れの中車を走らせた。
診療所の駐車場に車を停めると、目の前には診療所が広がっていた。
車から降り車のロックをかけた亜美は、大きなバックを肩に下げ、診療所に向かって歩いた。
自転車に乗ったマスターが、診療所の玄関の側にある屋根付きの駐輪場へ入って行った。
駐輪場を囲うように、駐輪場には雨よけのパーテンションが貼ってあった。
自転車を降りたマスターは、自転車の鍵をかけると、背負っていた黒いリュックを降ろし、リュックから携帯を出して流花に電話をかけた。
「おはよう。今、大丈夫ですか?」
「おはようございます。大丈夫です」
流花は駅に向かって、歩いていた。
携帯から、街並みの騒音が聞こえる。
「今夜、会いませんか?」
「今夜……ですか?」
ためらう流花を跳ね除けるように、マスターは言った。
「今夜くらい、試験勉強は忘れてください」
「でも……」
「流花に、会いたいんです」
流花は携帯を、きつく握りしめた。
「マスター……。なるべく早く、仕事を終わらせるようにします」
流花の言葉に、マスターは静かに微笑んだ。
診療所に入ろうとした亜美は、マスターが電話をかけているのを知り、聞き耳を立てていた。
……携帯の相手、きっと彼女の流花ちゃんだわ。勤務を終えたら、先生は流花ちゃんと会うんだ……。
午後の診療時間が終わった後、亜美はマスターに、お茶を入れたことがあった。
流花のことを『モデル並みの背の高さだが、本人全く自覚なし』と、マスターは言っていた。
マスターが飲んでいた湯呑みを片付ける時、マスターが持っていた手と自分の手が偶然重なった。
亜美は、慌ててマスターに謝った。
『かまいませんよ』マスターが言った言葉が、亜美の胸の中でずっと響いていた。
パーテンション越しに微かに聞こえるマスターの電話の声で、亜美はあの時の淡い想いを思い出していた。
マスターと流花は、待ち合わせ場所を決めていた。
待ち合わせ場所が、亜美に聞こえた。
待ち合わせ場所が決まると、マスターは流花に聞いた。
「夕飯、何が良いですか?」
「私が食いしん坊だからって、朝からそんなこと決めれないです」
呆れて言う流花の言葉に、マスターは声を上げて笑った。
「だよね」
マスターが笑い声と一緒に言った一言が、亜美の胸に鋭く刺さった。
……先生『だよね』って、言った!普段の先生なら『ですよね』って、敬語で言うのに。
流花ちゃんだから、安心して?
我に返った亜美は、足早に診療所に入って行った。
休憩室で着替えを済ました亜美は、診察室の奥の窓際で備品の補充をしていた。
補充をしていた手が、いつしか止まっていた。
「亜美ちゃん、おはよう!」
院長助手の看護師の久保由美の、朝から元気の良い声が、亜美の背中に届いた。
「亜美ちゃん?」
由美の存在に気付いた亜美は、慌てて言った。
「……おはよう」
「ぼんやりして、どうしたの?」
言いながら由美は亜美の隣に立ち、備品の補充を始めた。
「なんでもないよ」
亜美は、何事もなかったように備品の補充の続きをした。
手を動かしながらも、マスターが笑いながら『だよね』と言った言葉が離れなかった。
受付の中で朝の申し送りが終わり、職員はそれぞれの持ち場に戻った。
亜美はマスターが務める診察室に戻る途中、申し送り前に備品の補充をしていた窓際で、マスターと看護師長の紫野緑が話をしていた。
マスターは腰に手を添え、緑は腕組みをして話をしていた。
いつもなら……先生と師長が、話をしているな……。
と、思うくらいだった。
数ヶ月前昼の休憩時間、診療所の待合室の長いベンチに、マスターと緑は並んで座っていた。
マスターは緑の肩に寄りかかり、緑はマスターの頭をやさしく撫でてていた。
そんな光景を、休憩室から出てきた亜美は、偶然目撃してしまった。
マスターと緑を見る亜美の目が、今までのように見れなくなっていた。
……前も少し疑った時があったけど、先生と師長は密かにできているの?
先生には、彼女の流花ちゃんがいるんじゃない。
先生は今夜、どんな顔をして流花ちゃんに会うのかしら……。
亜美はいつも以上に、流花に興味を持ち始めた。




