第87話 君を抱えて、炎の外へ
扉を開けて夏樹の姿を確認できた瞬間は、心の底から安心した。
だが、どうやら神様というやつは、ここで感動の再会をして終わらせてくれるほど親切ではないらしい。
「夏樹、大丈夫か?」
俺は床に倒れ込んでいる夏樹のそばまで行き、その身体を支えるようにして抱き起こした。
「……創ちゃん……」
「そうだ。イケメン高スペック幼馴染だ」
「……それ……まだ、言ってるの……?」
こんな状態でも突っ込めるなら意識はある。そこだけは安心したが、夏樹の状態は決して楽観できるものではなかった。
呼びかけには反応しているものの、目は半分ほどしか開いておらず、明らかに意識が朦朧としている。煙を吸い込んだせいだろうが、俺に詳しい状態まで判断できるはずもない。
「夏樹、立てそうか?」
「う……うん。たぶん……」
俺の肩に手を回させ、身体を支えながらゆっくりと立たせてみる。
しかし夏樹の身体が浮いた直後、膝から一気に力が抜けた。
「おっと!」
慌てて抱き止め、そのまま床へ戻す。
「……ごめん」
「謝るな。今のお前の仕事は呼吸して意識を保つことだ」
そのとき、夏樹の足に傷があることに気づいた。割れた窓ガラスで切ったのか、足には血の跡が残っている。出血自体はもう止まっているように見えるが、無理に歩かせていい状態なのか俺には判断できない。
「歩かせるのは……無理か」
だったら担いでいくしかない。
夏樹一人くらいなら背負うことはできるし、ここまで来るより帰りのほうが精神的には楽――。
そこまで考えて、俺は扉の向こうを見た。
「……マジかよ」
楽どころか、難易度が上がっていた。さっき俺が通ってきた廊下には、爆発で飛び散った備品や棚が無秩序に転がっている。割れたガラスも床一面に散らばり、煙のせいで足元を確認することすら難しい。
俺一人なら、まだ何とかなる。だが夏樹を背負えば視界も動きも制限され、足を取られたときに立て直せる保証がない。
しかも――。
「……階段」
来た方向を見た瞬間、胃の辺りが冷たくなった。
階段の下から、赤い炎がこちらへ向かって立ち上っている。俺が上ってきたときより、明らかに火が強くなっていた。煙もさらに濃くなり、さっき通った経路が黒煙の向こうへ消えかけている。
火の回りが早すぎる。
夏樹を背負って、あの足場の悪い廊下を抜け、炎の上がる階段を下りる?
無理だ。
少なくとも「頑張れば何とかなる」で選んでいい方法じゃない。
「創ちゃん……?」
「大丈夫だ。ちょっと考えてる」
不安そうな夏樹にそう答えながら、俺は必死に頭を動かす。
別の階段。記憶している限り、この建物で普段使われている階段は中央のあそこだけだった。
窓。二階なら高さはあるが、外へ出られる可能性は残っている。
ロープ。備品倉庫を探せば、それに近いものくらい見つかるかもしれない。だが、今の夏樹に自力でロープを使わせるのは無理だろう。
俺が身体へ巻いて下ろす?駄目だ。素人の俺が即席でやって、途中で外れれば取り返しがつかない。そもそも俺自身、ロープ一本で人間を安全に降ろす技術なんて持っていない。
「……使えない知識ばっかり出てくるな」
読書量には多少自信があるが、まさか高校生活で「燃える二階から幼馴染を脱出させる方法」が必要になるとは思わなかった。高校生活に必要な知識の範囲を、明らかに逸脱している。
「創ちゃん……」
夏樹の声が、さっきより弱くなった。
「夏樹?」
「……眠い……」
「寝るな」
反射的に強い声が出た。夏樹の瞼がゆっくり閉じかけるのを見て、俺は頬へ軽く触れる。
「夏樹、俺を見ろ。もう少しだけ起きてろ」
「……うん」
返事はある。だが、時間がない。
俺はもう一度周囲を見渡した。
周りには煙が立ち込めている。階段や窓の外からは炎が見える。廊下には散乱した備品。塞がれつつある階段。歩けない夏樹。
使えるものは何だ。
この建物の構造。外に集まっていた教師と生徒。グラウンド。部活動の設備。頭の中にある情報を、片っ端から引っ張り出していく。二人で階段を下りることだけが、脱出じゃない。
安全なんて、もうどこにもない。だったら考えるべきなのは、どの方法が安全かではなく、今残っている中でどの方法なら二人とも生きて外へ出られるかだ。
「考えろ……」
焦るな。いや、焦っていい。
この状況で焦らない人間がいたら、そいつはたぶん別の意味で病院へ行ったほうがいい。
でも、思考だけは止めるな。
「絶対にある……」
俺は夏樹を支えながら、煙に霞む部屋と窓の向こうを何度も見比べた。
何でもいい。ここにあるものでも、外にあるものでもいい。
夏樹を歩かせず、炎の上がる階段も使わず、二人で二階から脱出する方法。
「考えろ、俺……!」
残された時間が減っていく中、俺は頭の中にある知識を総動員して、その答えを探し始めた。
俺は夏樹を壁際に座らせると、割れている窓へ近づき、残ったガラスに気をつけながら外へ顔を出した。
二階とはいえ、こうして下を見ればそれなりに高さがあり、何もなしに飛び降りて無事で済むとは思えない。
「山神!!」
下から声が聞こえたので視線を向けると、柴田さんが少し離れた場所にへたり込むように座っていた。顔は真っ青だし、制服もあちこち汚れているし、どう見ても普段の柴田さんとは別人だった。
というか、スカートがドロドロじゃん。普段なら絶対に気にしそうなのに、今はそんなことを気にする余裕すらないらしい。
そして俺も、こんなときに女子のスカートの汚れを観察している場合ではない。脳という器官は、極限状態になると本当にどうでもいい情報まで拾うらしい。
「先生! 夏樹は無事だ!」
俺が叫ぶと、下にいた柴田さんが両手で口元を押さえ、周囲からも安堵するような声が上がった。
「でも、階段まで戻れそうにない! 火が上がってきてる!」
俺の言葉に教師たちが顔を見合わせたが、すぐに有効な案が出てくる様子はなかった。
無理もない。突然校内で爆発が起きて、燃えている二階から生徒が顔を出しているのである。教師の職務内容に、こんな状況への即興対応まで含まれているとは俺も思わない。
消防車のサイレンは聞こえ始めているが、到着して救助が始まるまで、あとどれくらいかかるか分からない。その間にも背後からは煙が流れ込み、部屋の温度も少しずつ上がっている。
何かないか。
そう思って周囲を見渡したとき、グラウンドに見覚えのある二人を見つけた。
「伊谷! 加藤!」
陸上部の二人が、驚いたようにこちらを見上げる。
「陸上部の高跳びマットを引っ張り出せるか!?」
「ま、マット!?」
伊谷が素っ頓狂な声を上げ、その隣で加藤も目を丸くしていた。
そりゃそうだろう。燃えている建物の二階から突然、高跳び用のマットを要求される人生なんて普通は想定していない。
「大丈夫だ!! すぐに準備する!」
加藤が叫ぶと、二人は詳しい事情を聞き返すこともなく、グラウンド脇の用具入れへ走っていった。
偶然残っていたのか、それとも騒ぎを聞いて戻ってきたのかは分からない。どちらにしても、今はありがたい。
俺は窓から身体を引っ込めると、夏樹のところへ戻った。
「夏樹、こっちに来られるか?」
「……うん」
もちろん、来られるわけがない。立つことすら難しい人間に聞いた俺が馬鹿だった。
俺は夏樹の身体を支えながら窓の近くまで移動させ、少しでも外の空気に近い位置へ顔を向けさせた。
「夏樹、大丈夫か?」
「創ちゃん……大丈夫だよ」
全然大丈夫そうに見えない。顔色は悪いし、目もまともに開いていないし、声にも普段の元気がなかった。だが、ここで「大丈夫じゃないだろ」と突っ込んでも何も改善しないので、俺は黙って周囲を見る。
別の部屋へ移動するか。
駄目だ。廊下はさらに煙が濃くなっているし、どの部屋が安全なのかも分からない。
階段へ戻るか。
もっと駄目だ。炎はすでに階段付近まで上がっていて、夏樹を抱えたまま突破するのは危険すぎる。
消防を待つか。
それが本来なら一番正しい。しかし夏樹は煙を吸い込んでいて、意識も徐々に弱くなっている。待てば安全になる保証がない以上、「待つ」という選択肢にも危険がある。
だったら、窓。
二階から外へ出る。
問題は、その方法だった。
さっき思いついた高跳び用のマットに飛び降りるという方法は、決して安全な脱出方法じゃない。
高さもあるし、着地の仕方を失敗すれば、夏樹も俺も大怪我をする可能性がある。
そもそも高跳び用のマットは、火災現場から人間二人が抱き合って飛び降りるために作られたものではない。製造会社だって、そんな使用方法を想定していないだろう。
それでも、他に方法が見つからない。俺は窓から何度も外を確認し、そのたびに室内へ戻って別の方法を考えた。
実際には、ほんの数分だったのかもしれない。だが今の俺には、一秒一秒が異常なほど長く感じられた。その間にも煙は濃くなり、廊下側から聞こえてくる炎の音も大きくなっている。
「……これしかないか」
安全だから選ぶんじゃない。残っている選択肢の中で、生きて外へ出られる可能性があるから選ぶだけだ。
窓から顔を出すと、ちょうど伊谷と加藤が大きな高跳び用マットを引きずってくるところだった。
「持ってきたぞ!!」
二人だけでは重いらしく、途中から状況を理解した教師たちも駆け寄り、マットを運ぶのを手伝い始める。
よかった。教師陣、復活。
できればもう少し早く再起動してほしかったが、今は文句を言っている場合じゃない。
数人がかりで運ばれたマットが、俺たちのいる窓の下へ近づいてくる。
「この辺りでいいか!?」
教師の一人が上を見ながら叫んだ。
「これ以上近づけると、火が燃え移るかもしれない!」
位置を見る。窓から真下ではなく、少し離れている。だが、飛び出す方向を合わせれば届く範囲だ。
「大丈夫だ! そこでいい!」
俺はそう答えると、室内へ身体を戻した。
「創ちゃん?」
夏樹がぼんやりとした目で俺を見ている。
「何するの?」
「何って……分かるだろ?」
俺が窓のほうへ視線を向けると、夏樹もゆっくりそちらを見た。そして数秒後、意味を理解したらしい。
「……え?」
俺は夏樹のそばまで行き、身体を起こす。
「ま、待って。まさか……」
「そのまさかだ」
「飛ぶの!?」
「他に出口がない」
「でも二階だよ!?」
「知ってる。さっき上ってきたからな」
俺は夏樹の腰へ腕を回し、その身体を正面から抱き上げる。
「わっ……!」
夏樹の身体が密着するが、今は恥ずかしがっている場合ではない。
俺が落下の衝撃を受ける。夏樹には可能な限り、直接マットへぶつからない姿勢を取らせる。
「夏樹、俺の首に腕を回せ」
「えぇ!?」
「できるだけ身体を密着させろ。絶対に途中で離すな」
夏樹は一瞬戸惑ったものの、すぐに俺の首へ両腕を回してきた。
「……こう?」
「もっと強く」
「く、苦しくない?」
「今は遠慮するな。落ちる途中で離れるほうが困る」
ぎゅっと、夏樹の腕に力が入った。
俺も夏樹の腰と背中をしっかり支え、その身体を自分の胸へ押しつける。
「創ちゃん……」
「大丈夫だ」
また根拠のないことを言った。
今日の俺はずいぶん無責任だ。
普段なら「絶対」「大丈夫」「何とかなる」なんて言葉には、条件や根拠を求める側なのに。
でも、今はそれでいい。
「俺が絶対に助ける」
夏樹が俺の胸元へ顔を埋めた。
「……うん」
その返事を聞いて、俺は窓へ向かった。
割れ残ったガラスを避けながら窓枠へ片手を置き、夏樹を抱えたまま慎重に足をかける。
下を見る。
高跳び用マット。
周囲には教師と生徒が集まり、全員がこちらを見上げている。
高い。当たり前だが、高い。
下から見る二階と、飛び降りる側から見る二階では、どうやら高さの単位が違うらしい。
「山神! 待て! 消防がもう来る!」
下から教師が叫んだ。
その声とほぼ同時に、遠くからサイレンが聞こえてくる。だが背後を振り返れば、黒煙はさらに濃くなり、廊下側には赤い光まで見え始めていた。
待てない。俺の本能がそう警笛を鳴らしている。
「夏樹」
「……なに?」
「絶対に離すなよ」
「うん……」
俺は夏樹を抱く腕に、さらに力を込めた。着地するときは俺が下になる。夏樹の頭を守り、できる限り俺の身体で衝撃を受ける。
これが正解なのかは分からない。正解なんて、もう考えている時間もない。
「行くぞ」
「え、ちょ、心の準備が――」
俺は窓枠を蹴った。
身体が宙へ投げ出された、その直後だった。
ドォン!!
背後で爆音が轟き、ついさっきまで俺たちがいた場所を膨れ上がった炎が呑み込む。
逃げる俺たちを追いかけるように灼ける熱気が背中へ叩きつけられ、俺は反射的に夏樹を胸へ強く抱き込んだ。
夏樹が俺の首へしがみつき、俺も絶対に離さないようにその身体を抱き締める。下にあるマットが、恐ろしい速度で近づいてきた。身体を捻り、夏樹を胸側へ抱え込む。
背中から落ちる。それだけを考えた。
次の瞬間。
ドスンッ!!
背中全体に、とんでもない衝撃が走った。
「ぐぇっ……!」
肺の中に残っていた空気が、一瞬ですべて押し出された。
痛い。ものすごく痛い。
高跳び選手の皆さんは、こんなものへ日常的に落ちているのか。尊敬するぞ。いや、たぶん落ち方が全然違うんだろうな。
視界が一瞬白くなり、何も考えられなくなった。それでも腕だけは、夏樹を抱いたまま離さなかった。
「創ちゃん! 大丈夫!!?」
耳元で夏樹の声が聞こえ、俺は止まりかけていた思考を無理やり動かした。背中には強烈な衝撃が残っているが、どうやら意識はあるし、手足の感覚もある。少なくとも、着地した瞬間に人生終了という最悪の事態だけは避けられたらしい。
それより夏樹だ。俺は自分の胸の上にいる夏樹を抱いたまま、まずその身体へ視線を走らせた。窓から飛び降りる直前と比べても、新しく血が出ているような場所は見当たらない。頭も俺の胸元へ抱き込んでいたから、マットへ直接ぶつけた様子はなさそうだった。
「夏樹……どこか痛いところは?」
「私は大丈夫! 創ちゃんは!?」
「質問したのは俺なんだが……」
どうして俺が問診される側になっているのだろう。だが、これだけ大きな声が出せるなら、少なくとも意識はさっきよりはっきりしているようだ。
「手は動くか?」
「動くよ」
「足は?」
「ちょっと痛いけど……大丈夫だと思う」
もともとあった切り傷は気になるが、飛び降りたことで新しく怪我をした様子はない。それを確認した瞬間、全身から一気に力が抜けた。
「……よかった」
本当に、それしか出てこなかった。
二階から人を抱えて飛び降りるなんて、冷静に考えれば二度とやりたくない。いや、冷静に考えなくても二度とやりたくない。人生で一度経験すれば十分すぎるし、二度目が必要になる高校生活なら転校を検討する。
「けほっ……けほっ!」
安心したせいなのか、今度は喉の奥から激しい咳が込み上げてきた。建物の中で吸い込んだ煙のせいだろう。呼吸をするたびに喉がひりつき、胸の奥まで妙な重苦しさが残っている。
「創ちゃん!?」
夏樹が俺の胸の上で身体を起こし、不安そうに顔を覗き込んできた。
「大丈夫だから……けほっ……近い」
「だって創ちゃん、すごく咳してるよ!」
「煙の中を走ってきたんだから、多少は咳も出る」
「多少じゃないよ!」
さっきまで意識を失いかけていた人間に心配されるのは、何とも釈然としない。とはいえ、夏樹がいつもの調子で俺に文句を言えていること自体は嬉しかった。
「夏樹!!」
そのとき、別の大きな声が聞こえた。俺と夏樹が同時に顔を向けると、柴田さんがこちらへ駆け寄ってくるところだった。
「直美……」
「夏樹!」
柴田さんの目からは、もう隠すつもりもないほど涙が溢れていた。普段なら人前でこんな顔を見せることなんて、ほとんどない人だ。それだけ心配していたのだろう。
「無事で……本当によかった……!」
「直美……ごめんね、心配かけて――」
夏樹が最後まで言い終わる前に、柴田さんは勢いよく抱きついた。
「夏樹!」
「わっ! 直美!?」
感動的な再会である。
俺も当事者でなければ、黙って見守ったことだろう。ただし、一つだけ問題があった。夏樹はまだ、俺の上にいる。そして俺も、二階から背中でマットへ落下した直後である。
つまり、現在の俺には女子高校生二人分の感動を受け止めるだけの耐久力が残されていない。
「ちょ、柴田さん――」
言うのが遅かった。柴田さんが抱きついた勢いで夏樹の身体が傾き、そのまま俺のほうへ倒れ込んでくる。当然、夏樹を抱き締めている柴田さんも一緒についてくる。
「えっ、ちょっ――」
俺の上に夏樹。その上に柴田さん。
完成した。
人間三段重ねである。
「ぐへぇ……」
さっき二階から落ちたときとは、また違う種類の衝撃が身体を襲った。
「直美ちゃん、待って! 創ちゃんが下にいる!」
「え?」
柴田さんが涙で濡れた顔のまま、ようやく下を見る。夏樹も慌てて身体を起こそうとするが、まだ足に力が入らないせいで上手く動けない。結果として二人とも、しばらく俺の上から退いてくれなかった。
「……あの」
「山神!? ご、ごめんなさい!」
「創ちゃん、大丈夫!?」
大丈夫かと聞かれれば、先ほどまでより確実に大丈夫ではなくなった。だが、目の前には泣いている柴田さんと、必死に俺を心配している夏樹がいる。
二人とも生きている。
だったら、まあ。
「……とりあえず」
俺はマットの上で潰されながら、どうにか息を吸った。
「感動の再会は……俺の上以外でやってくれ……」
ようやく遠くから聞こえていた消防車と救急車のサイレンが、すぐ近くまで迫ってきていた。




