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君の隣で僕は考える ~本を読めば大抵のことは分かる。平穏の手に入れ方以外は~  作者: マリセリソウ


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88/88

第88話 無事とは言ってない

 気がつけば校庭には複数の消防車と救急車が到着し、さっきまでとは別の意味で騒然としていた。消防隊員たちはホースを伸ばして消火活動を始め、教師たちは生徒を遠ざけながら、救急隊員の誘導に走り回っている。


 俺たちのところにも何人もの教師と救急隊員が集まり、夏樹と柴田さんはマットから降ろされ、その場で手当てを受けていた。


 夏樹はまだ咳き込んでいるし、柴田さんも軽い火傷を負っているらしく、二人とも救急隊員に囲まれている。そんな二人を眺めていると、今度は教師たちが俺の周りへ集まってきた。


「山神! お前、何を考えてるんだ! 火事の建物に入るなんて無茶にもほどがあるぞ!」

「すみません」

「消防が来るまで待つべきだったんだ! お前まで助からなかったらどうするつもりだったんだ!」

「はい。おっしゃる通りです」


 反論できるところが一つもないので、ここは素直に怒られておくしかない。俺自身、他人が同じことをしようとしていたら、全力で止めていたと思う。それでも一通り小言を言い終えると、先生は大きく息を吐き、俺の肩を軽く叩いた。


「……でも、よくやった。広瀬が無事だったのは、お前が助けに行ったからだ」


 少し間を置いてから、先生は困ったような顔で笑った。


「お前も無事で、本当によかった」

「……ありがとうございます」


 真正面からそんなことを言われると、どうにも居心地が悪くなる。怒られている間のほうが、まだどういう顔をしていればいいのか分かりやすかった。


「山神!」


 声のしたほうを見ると、伊谷と加藤がこちらへ歩いてきた。


「すごいじゃん! いやぁ~、二人とも無事で本当によかったよ」

「二人とも、ありがとうな。お前らがいてくれたから何とかなったぞ」


 あの状況で二人がすぐに動いてくれなければ、窓から脱出するという選択肢そのものが成立しなかった。


「いやいや、俺たちはマットを敷いただけだしな」

「そうそう。山神はすごいことをやってのけたよ。マジで尊敬する」


 二人とも冗談ではなく、本気でそう思っているらしい。そんな真っ直ぐな目を向けられると、今度は怒られるよりさらに困る。


「別に、そんな大したことじゃないぞ」

「いや、大したことだろ」

「普通は燃えてる建物に入って、女の子抱えて二階から飛ばないからな」


 それは俺だって知っている。普通の高校生の基準から外れている自覚くらいはあるので、これ以上詳しく説明しないでほしい。


 俺は話を終わらせるように、高跳び用マットからゆっくりと降りた。夏樹と柴田さんはすでに降りており、救急隊員から少し離れた場所で処置を受けている。

 そのとき、伊谷がマットを見ながら首を傾げた。


「……ん?」


 白っぽいマットの表面に、赤い染みがいくつも残っている。


「え? これ誰の血?」

「ああ。たぶん俺だ」

「たぶん!?」


 伊谷と加藤が同時に俺を見る。


「色んなところを怪我してるみたいでな。治療が終わったらちゃんと洗うから勘弁してくれ」

「いや、洗浄くらい俺たちがするからいいんだけど、お前大丈夫なのか?」

「……たぶんな」


 改めて自分の身体を見ると、制服はあちこち破れ、その下には細かな切り傷や擦り傷が増えていた。火の近くを通ったせいで腕や手には火傷もあり、特に両手は赤く腫れている部分が目立つ。


 ただ、指は曲がる。試しに一本ずつ動かしてみても、ちゃんと自分の意思通りに動いてくれた。感覚もあるので、少なくとも俺が心配していたような致命的な損傷ではなさそうだ。


 それより問題は、どこからこんなに血が出たのか自分でもよく分からないことである。煙の中で棚を動かしたり、割れたガラスの近くを通ったりしたので、心当たりだけなら多すぎる。


 夏樹の制服にも俺の血がついてるかもしれないな。……あとで怒られるだろうか。いや、さすがに今回は不可抗力ということで許してほしい。

 そんな呑気なことを考えていると、一人の救急隊員が俺のところへ歩いてきた。


「君も中にいた生徒だね? 煙を吸ってるなら、すぐに状態を確認――」


 救急隊員が俺の姿を上から下まで確認する。その顔が途中で止まった。


「……えぇ!?」


 なぜ驚く。


「だ、大丈夫かい!?」

「歩けてますし、意識もはっきりしてます」

「そういう問題じゃないから! そこに座って!」


 ものすごい勢いで肩を支えられ、その場へ座らされてしまった。どうやら専門家から見ると、俺の自己評価はまったく信用できないらしい。


「火傷もあるし、かなり出血してるじゃないか。煙も吸ったんだろう?」

「まあ、それなりには」

「それなりって……」


 救急隊員が絶句した。少し離れたところでは、夏樹までこちらを見ながら何か叫ぼうとしている。たぶん「創ちゃん!」だろう。あいつも自分の心配をしていればいいのに。


「とにかく君も救急車だからね。立たなくていいから、そのまま待ってて」

「……そんなにですか?」

「そんなにです!」


 即答された。どうやら俺が思っていたより、俺は無事ではなかったらしい。

 さっき先生から「お前も無事でよかった」と言われたばかりなのだが、あの評価は早くも訂正する必要がありそうだった。




 俺たち三人は到着した消防隊員と救急隊員に保護されると、そのまま救急車へ運ばれることになった。夏樹と柴田さんは同じ救急車に乗せられたが、なぜか俺だけは別の救急車へ連れていかれるらしい。


「創ちゃん!」

「大丈夫だから、おとなしく診てもらってろ」


 担架に座った夏樹が不安そうにこちらを見るので、俺は問題ないという意味で軽く手を上げた。その瞬間、火傷した部分が引きつるように痛み、ものすごく格好悪い顔になった気がする。


 夏樹は一時、意識を失いかけるほど煙を吸っていたものの、今は支えてもらえば何とか歩ける程度には回復している。


 ただ、足にできた切り傷だけは気になった。ガラスで切った傷だから、場所や深さによっては跡が残る可能性もあるのだろうか。別に傷跡があったからどうという話ではないが、できることなら綺麗に治ってほしい。


 柴田さんには目立った外傷はないようだが、当然ながら二人とも病院で詳しい検査を受けるらしい。


 幸いなことに、近くの総合病院が三人とも受け入れてくれることになった。

 ありがたい。実にありがたい。救急患者を三人まとめて受け入れるなんて、普通なら病院側も大変だろう。


 ありがとう、総合病院。

 今度健康な状態で前を通ったら、心の中で一礼することにしよう。


 そんなことを考えているうちに俺は救急車へ乗せられ、救急隊員が手際よく身体の状態を確認していく。酸素を投与されながら横になっていると、隊員の一人が無線か電話で搬送先へ状況を伝え始めた。


「18歳男性。火災建物内へ進入し、煙を吸入しています。意識清明、会話可能です」


 なるほど。18歳男性とは俺のことらしい。当たり前なのだが、自分の状態を第三者から説明されるというのは妙な気分だった。


「両上肢に複数の熱傷を認めます。一部に水疱形成あり。手指の運動と感覚は保たれています」


 水疱形成。ということは、少なくとも一部は表皮だけの軽い火傷ではなく、真皮まで損傷している可能性がある。いわゆるⅡ度熱傷というやつだろう。


 本で読んだ知識が、まさか自分の身体で答え合わせされる日が来るとは思わなかった。できれば一生、座学のままで終わってほしかった知識である。


「前腕、手背を中心に裂創と擦過傷が複数。出血は現在おおむねコントロールされています」


 やっぱり俺だったのか。高跳びマットに付いていた血について、これで犯人が正式に確定した。

 伊谷と加藤には悪いことをした。今度ジュースでも奢ろう。


「また二階からマット上へ落下した際、後頭部を打撲した可能性があります。意識消失はありませんが、頭痛と軽度のめまいを訴えています」


 ……ん?

 頭痛?そう言われてみれば痛い。

 めまい?そう言われてみれば、救急車へ乗る前から少し足元がふわふわしていた気もする。


 どうやら俺の身体は、持ち主より救急隊員のほうが正確に状態を把握しているらしい。


「頸部痛は軽度。四肢の麻痺なし。バイタルは現在安定しています」


 そこまで聞いて、俺は自分の身体を改めて見下ろした。火傷。切り傷。擦り傷。煙の吸入。頭部打撲。背中も痛い。こうして列挙すると、なかなか豪華な負傷内容である。


「……俺、結構怪我してます?」


 思わず聞くと、俺の処置をしていた救急隊員がこちらを見た。


「今さら気づいたの?」

「歩けてたので」

「歩けるかどうかだけで重症度を判断しないでね」


 もっともな意見だった。


「頭を打ってる可能性もあるから、病院で画像検査を受けると思うよ。火傷もきちんと診てもらわないといけない」

「手は普通に動くんですけど」


 俺は確認するように指を曲げようとして、すぐに止められた。


「動くのは分かったから、今は動かさなくていいよ」

「はい」


 怒られた。今日だけで教師、柴田さん、救急隊員と、色々な人に怒られている気がする。


 俺は酸素マスク越しに息を吐きながら、救急車の天井を見上げた。


 夏樹は大丈夫だろうか。同じ病院へ運ばれるなら、あとで様子くらいは聞けるだろう。そこまで考えたところで、また咳が込み上げてきた。


「けほっ、けほっ……」

「煙もかなり吸ってるからね。無理に話さなくていいよ」

「……はい」


 どうやら今の俺に許可されている仕事は、横になって呼吸することくらいらしい。


 本もない。スマホも触れない。

 何という拷問だ。


 救急車がサイレンを鳴らしながら走り出し、俺はようやく、自分も救助される側になったのだと実感した。




 病院へ到着した俺は救急外来へ運ばれ、そのままベッドの上で身体中の傷を調べられることになった。血圧や酸素飽和度を測られ、採血をされ、頭を打った可能性があるということで画像検査まで受けさせられた。


 幸い、頭の中に明らかな出血などは見つからなかったらしいが、煙もかなり吸っているので経過観察は必要だという。そして現在は、救急外来の処置室で女性医師が俺の腕や手にできた傷を確認している。


「うん。火傷は痛いだろうけど、今のところ深いものではなさそうね」

「……痛いですけど」

「でしょうね」


 何だろう、この会話。患者が痛みを訴え、医師が爽やかな笑顔で肯定するだけという、何の救いにもならないやり取りである。


「一部は水疱もできてるけど、範囲もそこまで広くないし、深いところまで焼けている感じではないわ。ちゃんと治療すれば大丈夫そうよ」


 それはありがたい。俺は自分の腕を見ながら、ようやく少し安心した。


「ただし、しばらくは清潔を保たないといけないから、状態を見ながら洗浄と処置を続けることになるわね」

「洗浄ですか」

「そう。痛いと思うけど」


 先生は綺麗な顔で笑った。


「そこは頑張ってね」

「…………」


 新手の拷問だろうか。

 しかも事前に「これから定期的に痛いことをします」と予告してくるあたり、精神的な攻撃まで計算されている。


 心理学の本で読んだ記憶では、先の痛みを予測すること自体が不安を増幅させる場合もあったはずだ。つまり今の説明によって、俺は治療開始前から余計に怖くなっている。


「先生。知らないほうが幸せだった情報ってありますよね」

「でも説明しないわけにはいかないからね」

「ですよね」


 正論だった。先生は看護師と確認しながら俺の手を洗浄し、傷の中に異物が残っていないかを丁寧に確認していく。これがまた、局所麻酔をしてもらう前の段階から普通に痛い。


「痛かったら言ってね」

「痛いです」

「うん、もう少しだから頑張って」


 申告制度がまったく機能していない。


 やがて局所麻酔をしてもらい、感覚が鈍くなったところで、先生が手の傷を改めて確認した。


「ここの傷は少し深いから、何針か縫っておこうか」

「縫うんですか」

「縫うわよ。開いたまま帰すほうが嫌でしょ?」


 それはそうなのだが、自分の身体について「縫う」という単語を聞くと、本で読むのとは印象がまるで違う。


「さっきも確認したけど、指は全部動かせてるし、触った感覚もちゃんと分かってるわね」

「はい」

「傷も診た限りでは、腱や大きな神経を損傷している可能性は低そう。そこは安心していいと思う」


 それを聞いて、俺はかなり安心した。本を読むにしても料理をするにしても、手が自由に動くかどうかは重要である。


「ただね」


 来た。医者が安心させた直後に言う「ただ」という接続詞には、たいてい嬉しくない情報が続く。


「今は問題なくても、腫れが強くなって痺れや感覚の違和感が出る可能性はあるから、何か変だったらすぐ教えてね」

「……はい」

「それと、傷はかなり汚れてたから綺麗に洗うけど、あとから感染する可能性もゼロではないわ」


 先生は俺の手を縫いながら、世間話でもするような調子で未来の危険性を次々と提示してくる。


「赤く腫れたり、膿が出たり、熱が出たりしたらすぐ確認するから。その場合は傷を開いて、もう一度しっかり洗うこともあるわね」

「……もう一回開く?」

「必要ならね」


 聞き捨てならない言葉が混ざっていた。せっかく今縫っているものを、場合によってはもう一度開くという。


 何という賽の河原。


「まあ、出たとこ勝負ね。若いし、たぶん大丈夫よ」

「医療現場で出たとこ勝負って言っていいんですか?」

「可能性を全部予測できるなら、お医者さんも苦労しないのよ」


 そう言って先生は楽しそうに笑った。

 理屈は分かる。分かるのだが、なぜ患者である俺より楽しそうなのだろう。俺には逃げるという選択肢もないので、結局ベッドの上でなすがままにされるしかなかった。


「……夏樹と柴田さん、大丈夫かな」


 思わず口から出た。別の救急車だったから、病院へ着いてから二人の姿をまだ確認できていない。

 すると先生は手を動かしたまま、何でもないことのように答えた。


「ああ、一緒に運ばれてきた女の子たち?」

「はい」

「あの二人なら大丈夫よ。少なくとも、今のところ君ほど怪我は多くないから」


 全身から力が抜けそうになった。


「……よかった」

「煙をたくさん吸っちゃった子は、しばらく酸素を使いながら様子を見るみたい。足の傷も処置してるけど、聞いた範囲では深刻なものじゃなさそうよ」


 よかった。傷跡がどうなるかまでは分からないが、少なくとも大きな問題にはならなさそうだ。


「もう一人の子も、軽い火傷や擦り傷はあるけど意識もしっかりしてるって」


 それを聞けただけで、ようやく病院まで来た意味があったような気がした。


「それにしても君、煙を吸った女の子を助けるために、燃えてる建物へ入ったんだって?」


 先生が俺の手を縫いながら尋ねてきた。


「まあ……成り行きで」

「成り行きで火の中に入る高校生なんて、そうそういないわよ」

「俺も今日まではそう思ってました」

「しかも女の子を抱えて二階から飛び降りたんでしょ?」

「下にマットはありました」

「そういう問題じゃないと思うけどなぁ」


 先生は感心したように俺を眺め、それから何やら楽しそうに笑った。


「若いっていいわねぇ~」


 その言い方が、妙に年寄りくさかった。見た目だけならかなり若そうなのだが、実際いくつくらいなのだろう。

 二十代後半。いや、三十代前半くらいか?


「…………」

「何?」


 先生が満面の笑顔でこちらを見た。


「いえ。何でもありません」


 危ない。

 今の笑顔は、年齢を聞いたら麻酔の効いていない場所を縫われそうな笑顔だった。

 もちろん医者がそんなことをするはずはないが、俺の生存本能が黙っていろと告げている。


「はい。じゃあ、あと少し縫ったら終わりね」

「お願いします」

「そのあと火傷のところも、もう一度綺麗にしておきましょうか」

「…………」


 忘れていた。新手の拷問が、まだ残っていた。



 診察や検査を一通り終えた頃、夏樹と柴田さんの母親が病院へ到着したらしい。二人とも連絡を受けて慌てて駆けつけたようで、まずはそれぞれ自分の娘のところへ向かったと看護師さんから聞いた。

 まあ、当然だろう。火事に巻き込まれて救急搬送されたなんて連絡が来れば、親としては生きた心地がしなかったはずだ。


 俺はというと、点滴を繋がれ、鼻には酸素を送る管までつけられた状態で、ベッドの上に転がされていた。

 しばらくすると処置室のカーテンが開き、見慣れた女性がこちらへ駆け寄ってくる。


「創ちゃん!? 大丈夫!?」


 そうだった。この人も俺のことを「創ちゃん」と呼ぶんだった。よく考えてみると、俺のことをそんな呼び方で呼ぶ人間は、夏樹を含めた広瀬一家くらいしかいない気がする。


「大丈夫だよ、 夏樹ママ」

「うふふ……。 そう呼んでくれるのは創ちゃんだけねぇ~」


 何を嬉しそうに言っているのだろう。そもそも俺がこの人を「夏樹ママ」と呼ぶことになった原因は、目の前にいる本人である。


 あれは俺たちがまだ小さかった頃、何も知らない純粋な少年だった俺が、この人を普通に「おばさん」と呼んだときのことだ。

 夏樹ママは怒らなかった。ただ笑顔のまま黙り込み、幼い俺をじっと見つめてきた。


『…………』

『え? え?』


 今思えば、あれが俺の人生で初めて経験した無言の圧力だったのかもしれない。困り果てた俺は、どう呼べば正解なのか分からず、とっさに「夏樹ママ」と口にした。

 すると彼女は満足そうに微笑み、幼い俺の頭を撫でながら言ったのだ。


『……まあ、私がいいと言うまでそう呼ぶなら、それでいいわ』


 あのときの俺は、それが救済措置だと思っていた。だが小学校高学年になっても、中学生になっても、そして高校生になった今でも、終了を告げる言葉は一度も聞いていない。


 中学生の頃、友人たちがいる前でうっかり「夏樹ママ」と呼ばされたときなど、本当に消えてしまいたかった。

 幼少期の何気ない選択が、その後の人生へ長期的な影響を及ぼすこともある。夏樹ママは、それを身をもって俺に教えてくれた偉大な教育者だった。


「創ちゃん?」

「いや、何でもない」


 余計なことを考えていたのが顔に出たらしい。この人の前では、過去の契約内容について異議を申し立てないほうが安全だろう。


「それより、夏樹を助けるために大怪我したんでしょう? ごめんね。それから、本当にありがとう」


 さっきまでの柔らかな笑顔とは違い、夏樹ママは真剣な顔で頭を下げた。

 こうして改めて見ると、本当に綺麗な人だと思う。現在もモデルとして活動しているだけあって、病院へ慌てて駆けつけたというのに妙に目立っている。

 夏樹は母親似なんだろうな。顔立ちもそうだが、笑ったときの雰囲気なんかは特によく似ている。


「いや、大したことはしてないよ。この通り、まあまあ元気だし」

「点滴して酸素までつけてる状態で元気をアピールされても、まったく説得力がないわよ」

「……確かに」


 言われて自分を見る。

 腕には包帯。手にも包帯。点滴。酸素。ついでに制服ではなく病院の服。客観的に見ると、元気な人間を構成する要素がほとんど見当たらなかった。


「それより、夏樹は大丈夫なのか?」


 俺が尋ねると、夏樹ママは安心させるように微笑んだ。


「ええ。煙をかなり吸ってるから今日は念のため入院するけど、今の状態なら明日には退院できるって、さっき先生から説明があったわ」

「足は?」

「傷はちゃんと処置してもらったわ。先生も大きな問題にはならないだろうって」

「そっか……それはよかった」


 ようやく胸の奥に残っていたものが、少し軽くなった気がした。

 夏樹が明日退院できる。柴田さんも大きな怪我ではないと聞いている。

 だったら、これで一件落着――。


「でも、創ちゃんはそういうわけにはいかないからね?」

「へ?」


 なぜそこで俺の話になる。


「先生から聞いてないの?」

「何を?」


 夏樹ママが少し呆れた顔になった。


「創ちゃん、一週間くらい入院するのよ?」

「…………はい?」


 初耳なんだが。


 どうやら俺は複数の火傷や裂創、擦過傷に加え、煙の吸入と頭部打撲まで重なっているらしい。特に手や背中、脚の傷には深めのものもあり、感染や腫れなどが後から出ないか確認する必要があるという。

 頭を打っている以上、遅れて頭痛や吐き気などが強くならないかも含め、しばらく経過を見たいらしい。


「点滴や傷の処置も続けるから、先生が大人しく入院してなさいって」

「……一週間?」

「一週間」


 夏樹ママが、実にいい笑顔で繰り返した。俺は点滴の袋を見上げ、それから包帯だらけになった自分の両腕を見る。


 夏樹は明日退院。柴田さんもおそらく大丈夫。


 俺だけ一週間。


「……本、持ってきてないんだけど」

「心配するところ、そこなの?」


 夏樹ママの呆れた声を聞きながら、俺はこれから始まる一週間の入院生活に、火災とはまた別の恐怖を感じ始めていた。


 入院が決まれば、当然ながら診察を受けて終わりというわけにはいかず、今度は色々な手続きが必要になる。問題は、俺がまだ高校生であり、その保護者である両親が現在日本にいないということだった。


「ご両親は、今どちらにいらっしゃいますか?」

「海外です」


 受付の人の手が止まった。


「……お二人ともですか?」

「はい。二人とも海外ですね」

「現在は、どなたと暮らしているんですか?」

「基本的には一人です」


 今度は受付の人の表情が止まった。


 まずい。何か答えを間違えた気がする。


 その後も両親がいつから海外にいるのか、普段の生活をどうしているのか、連絡は取れるのかなどを聞かれた。俺としては普通に質問へ答えていただけなのだが、話が進むほど受付の人の表情が怪しくなっていく。


 しばらくすると、今度は白衣を着た男性がやって来て、改めて俺の家庭について話を聞くことになった。受付の人との会話を聞いている限り、どうやら病院の相談員らしい。そして話を聞かれているうちに、俺にも何となく理由が分かってきた。


 どうやら、ネグレクトなどの虐待がないか確認されている。

 ネグレクトとは、簡単に言えば保護者が子供に必要な養育を十分に行わないことだ。食事を与えない、必要な医療を受けさせない、学校へ行かせない、長期間放置するといった育児放棄などが含まれる。


 当然、生活に必要な経済的支援を意図的に与えず、子供がまともに生活できない状態へ置くことも問題になる。


 …………あれ?


 両親が二人とも海外。

 高校生が一人暮らし。

 普段の食事は基本的に自分で用意する。

 家事も自分でする。

 何かあったとき、親はすぐには帰ってこられない。

 時々、生活費が滞ることがある。


 客観的に条件だけ並べると、思ったより不穏である。


 ……うちってネグレクトじゃね?


 一瞬、本気で不安になった。


 もちろん生活費滞ることはあってもきちんと送ってもらっているし、両親とは連絡も取れる。学校にも普通に通っているし、病気になれば病院へ行く金もある。放置されて困窮しているわけではなく、単に両親の仕事の都合と、俺自身が日本へ残ることを選んだ結果だ。


 それでも病院側からすれば、火傷だらけの高校生が救急搬送されてきたうえ、「両親は海外で普段は一人です」と言われれば確認したくもなるだろう。


 結局、その辺りの事情については夏樹ママがかなり助けてくれた。俺の両親とは昔から付き合いがあるので家庭の事情も知っており、病院側へ説明したうえで、両親のどちらかにも連絡を取ってくれたらしい。


 その後は病院の人とも直接話をしてくれたようで、とりあえず俺が親から見捨てられた哀れな高校生ではないことは理解してもらえた。

 入院に必要な細かな手続きについても、夏樹ママが病院側とのやり取りを手伝ってくれた。


 ……今度、何かお礼をしよう。「夏樹ママ」という呼称を強制され続けている件についても、今日だけは水に流していい。


 その後、俺は予定通り一週間ほど入院することになった。一方で夏樹と柴田さんは、検査の結果として大きな問題はなく、長期の入院までは必要ないらしい。夏樹は煙をかなり吸っているので、しばらく病院で状態を確認してから帰宅することになったようだ。

 柴田さんも軽い火傷や擦り傷の処置を受けたものの、幸い深刻な怪我はなかった。


 ただ、柴田さん本人は夏樹を巻き込んだことを、かなり気にしていたらしい。自分があの手紙を受け取ったから夏樹まで危険な目に遭わせた、と何度も謝っていたそうだ。


 それに対して夏樹が、「直美が悪いわけじゃないでしょ」と何度も説得し、ようやくしぶしぶ納得したらしい。


 ……まあ、納得してないだろうな。柴田さんはそういうところがある。


 俺は病室へ移されると、ようやく手元へ戻ってきたスマホを確認した。通知が大量に並んでいたが、その中には両親からの連絡も入っている。どうやら夏樹ママから事情を聞いたらしい。


 メッセージを開いてみると、怪我の状態を心配する言葉と一緒に、夏樹ママとも話をしたことが書かれていた。入院中や退院直後についても、必要なことがあれば広瀬家に頼めるよう話をしてくれたらしい。


 俺は病室のベッドに横になりながら、改めて今日一日を振り返った。


 朝は普通に学校へ行った。放課後は静かに本を読んでいた。それが数時間後には、火事へ飛び込み、二階から飛び降り、救急搬送され、手を縫われ、そして病院から家庭環境まで心配されている。


「……高校生活って、こんなに忙しいものだったか?」



 平和に本を読める世の中になってほしいものだ。

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