第86話 君なら、きっと来てくれる
苦しい。
どれだけ息を吸おうとしても、肺の中に空気が入ってこないような感覚がする。私はもう立っていることもできず、床に倒れ込むような姿勢で、なんとか意識を保っていた。
制服の袖で口元を覆っているけれど、部屋の中はもうほとんど煙で埋め尽くされている。目を開けているだけでも痛くて、涙が勝手に頬を伝っていった。
「ごほっ……ごほっ……」
咳をするたびに喉が焼けるように痛み、それだけで残っている体力まで削られていく。さっきよりも、部屋の温度が上がっているような気がする。床に伏せていても熱を感じるほどで、どこか近くまで火が迫っているのかもしれない。
怖い。
このまま誰にも気づいてもらえなかったら、私はここで死んじゃうのかな。そんな考えが浮かんだ瞬間、急に身体の震えが止まらなくなった。
「……いや……」
まだ死にたくない。お父さんやお母さんにも会いたいし、萌ちゃんや直美ちゃんとも、もっとたくさん話したい。食堂のアルバイトも続けたいし、明日の朝だって、いつもの坂道を文句を言う創ちゃんと歩きたい。
だから、まだ駄目。
絶対に駄目。
それに――。
創ちゃんなら、きっと来てくれる。
根拠なんてない。こんな火事の中へ入ってきてほしいなんて、思っているわけでもない。本当なら外にいてほしいし、危ないことなんて絶対にしてほしくない。
それでも、どうしてなのか分からないけれど、私はそう信じていた。
――創ちゃん……。
重くなっていく瞼を閉じかけた、そのときだった。
「夏樹! いたら返事しろ!」
遠くから、声が聞こえた。
「返事が出来ないなら、何かで音を出せ!!」
「……っ!」
聞き間違えるはずがない。
何年一緒にいると思っているの。少し低くて、普段は面倒くさそうで、私が話しかけると「んー」と適当に返事をする声。
創ちゃんだ。
本当に来てくれた。
「そ……!」
返事をしようと息を吸った瞬間、煙が喉に入り込んだ。
「ごほっ! ごほっ、ごほっ……!」
駄目。声が出ない。
ここにいるのに。
創ちゃんがすぐ近くまで来てくれているのに、私は自分の居場所すら伝えられない。
『返事が出来ないなら何かで音を出せ!!』
そうだ。創ちゃんは、ちゃんと次の方法まで言ってくれていた。私は床に手をつき、残っている力を振り絞って扉のところまで身体を動かした。もう腕にもほとんど力が入らないけれど、それでも拳を握って扉を叩く。
ドン。
ドン、ドン。
お願い。
気づいて。
「夏樹!?」
聞こえた。
「そこか!?」
もう一度、扉を叩く。
ドン、ドン、ドン。
「夏樹! 今助けるからな!」
その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていたものが一気に緩んだ。
「……創、ちゃん……」
涙が出そうになった。いや、目は煙のせいですでに涙だらけだから、今さら増えたところでよく分からない。でも、創ちゃんがいる。この扉一枚を挟んだ向こう側に、創ちゃんがいてくれる。
ガタガタと大きな音がして、扉の向こうで何か重い物を動かしている気配がした。どうやら扉が開かなかったのは、外側に何かが倒れていたかららしい。
「だーーーっ! くそっ! ってか何だこれ!」
ガタンッ、と何かが倒れる音がする。
「まめに片付けろよ!!」
こんな状況なのに、思わず少しだけ笑いそうになった。創ちゃん、怒ってる。たぶん、ものすごく焦ってる。
普段の創ちゃんなら、散らかっている場所を見ても、自分に関係なければ絶対に放っておくはずだ。むしろ「片付ける時間があるなら本を読む」とか、本気で言いかねない。
それなのに今は、誰が置いたのかも分からない荷物に、本気で悪態をついている。
「邪魔だって言ってんだろ! どけ!」
ガタン。
ゴトン。
また何かが動く音がする。扉の向こうから聞こえる騒々しい音が、今の私には何よりも安心できる音だった。
創ちゃんがいる。すぐそこにいる。
それだけで、さっきまで身体を支配していた恐怖が、ほんの少しだけ薄れていく。
「夏樹! もう少しだからな! 寝るなよ!」
寝るなって言われても、ものすごく眠いんだけど。そんな文句を言いたかったのに、やっぱり声は出てくれなかった。仕方がないから、私はもう一度だけ扉を弱く叩いた。
ドン。
ちゃんと起きてるよ。
だから創ちゃん。
早く来て。
私は扉の向こうから聞こえる創ちゃんの悪態を聞きながら、その音だけを頼りに意識をつなぎ止めた。
扉の向こうから、創ちゃんが荷物を動かしている音が聞こえ続けていた。声だけを聞けば、本当にすぐそこにいる。たぶん、この扉一枚を隔てた向こう側に、創ちゃんは立っているはずだ。それなのに、扉はいつまで経っても開かなかった。
「夏樹! 大丈夫か! 聞こえてるか!」
「……っ」
返事をしたかったけれど、もう声を出すだけの力が残っていない。私は代わりに拳を持ち上げ、扉を一度だけ弱く叩いた。
コン。
さっきまでの音とは比べものにならないくらい、小さな音だった。それでも創ちゃんには聞こえたらしい。
「よし! 聞こえた! そこにいろ!」
そこにいろと言われても、私は最初からずっとここにいるんだけど。いつもならそう言い返すところなのに、今は心の中で突っ込むだけで精一杯だった。
ガタガタと扉が揺れる。創ちゃんが外側から、荷物を動かそうとしているみたいだった。
でも、開かない。
もしかすると、さっきの爆発で扉そのものが歪んでしまったのかもしれない。私も煙が入ってくる前に、何度も押したり引いたりした。体当たりまでしたのに、ほんの少しも動いてくれなかった。
外側の荷物だけが原因じゃないのなら、創ちゃんがいくら頑張っても開かないかもしれない。そんな考えが頭に浮かんだ途端、安心しかけていた心が再び冷たくなった。
「夏樹! 頑張れよ! 絶対助けてやるからな!!」
扉の向こうから、創ちゃんの大きな声が聞こえてくる。普段の創ちゃんからは、ちょっと想像できないくらい必死な声だった。
いつもなら「頑張れ」なんて言うより、頑張らなくて済む方法を先に考える人なのに。絶対なんて言葉だって、創ちゃんはほとんど使わない。
「世の中に絶対なんてほとんどない」とか言いそうな人だから。
だからこそ、その言葉が嬉しかった。
嬉しかったけれど、それ以上に怖くなった。
創ちゃんは今、燃えている建物の中にいる。
私を助けるために、自分からここまで入ってきてしまった。
もし、この扉が開かなかったら。
もし、火がもっと近くまで来てしまったら。
私だけじゃなく、創ちゃんまで逃げられなくなるかもしれない。
「……創、ちゃん……」
逃げて。
そう言いたかった。
私は大丈夫だから、なんて嘘でもいいから言って、創ちゃんだけでも外へ戻したかった。でも、息を吸っただけで喉がひどく痛み、言葉の代わりに咳しか出てこない。
「ごほっ……ごほっ……!」
「夏樹!?」
創ちゃんの声が、さらに焦ったものへ変わった。
「大丈夫だ! すぐ開ける! だからもう少しだけ頑張れ!」
違うよ。そうじゃない。創ちゃんまで危なくなったら駄目なの。
私は扉に手をつきながら、もう一度声を出そうとした。
「そ……ちゃ……にげ……」
自分でも何を言っているのか分からないほど、かすれた音しか出なかった。たぶん、創ちゃんには届いていない。その間にも、扉の向こうでは何かを引きずる音が続いていた。
「くっそ! これを……こっちに……!」
ガガガ、と重そうな音が響く。
「うりゃぁああ!」
創ちゃんの声とは思えない。
普段、本を持つ以外では極力体力を使いたくない人が、ものすごく体育会系の声を出している。こんなときじゃなかったら、絶対に笑っていたと思う。
「うぉ! どわわっ!!」
直後だった。
ガラガラガラガラッ!
扉の向こうで、何か大きな物が一気に崩れ落ちる音がした。
「……っ!」
私は反射的に顔を上げた。
今の何?
創ちゃん、大丈夫?
「創ちゃん……!」
叫んだつもりだったのに、ほとんど声にならなかった。物が崩れる音は止まったけれど、今度は創ちゃんの声まで聞こえなくなった。
嫌だ。
お願いだから返事して。
私を助けに来て、創ちゃんが怪我をするなんて絶対に嫌だ。
扉を叩こうと手を持ち上げるけれど、腕がひどく重く感じられた。指先に力が入らない。呼吸も、さっきよりずっと苦しくなっている。息を吸っているはずなのに、身体が空気を受け取ってくれないような感覚がした。
視界の端から、ゆっくりと暗くなっていく。
駄目。
まだ寝ちゃ駄目。
創ちゃんが、もう少しだけ頑張れって言った。だから起きていないと。そう思っているのに、瞼がどんどん重くなっていく。
扉の向こうに創ちゃんがいる。もう、本当にすぐそこにいるのに。
「……創、ちゃん……」
私は扉に身体を預けたまま、その名前だけを心の中で何度も呼んだ。
「夏樹! 扉の前まで辿りついたぞ!! あとはこいつを動かせたら……!」
扉の向こうから、創ちゃんの声が聞こえた。さっきよりもずっと近くて、本当に扉一枚を挟んだ目の前にいるのだと分かる。
よかった。
さっきの大きな音で、創ちゃんまで何かの下敷きになったのではないかと心配していた。
ちゃんと無事だった。それだけで、胸の奥を締めつけていた恐怖が、ほんの少しだけ和らいでいく。
もしかしたら、助かるかもしれない。
もう少しだけ耐えれば、この扉が開いて、また創ちゃんの顔を見ることができるかもしれない。
けれど、その希望と一緒に、別の不安が頭の中へ浮かんできた。
もし、この扉が開かなかったら。荷物が邪魔をしているだけなら、それを動かせば扉は開いてくれるはずだ。
でも、さっきの爆発で扉そのものが歪んでいたら、荷物を退かしたところで開かないかもしれない。
私はさっき、何度もこの扉を押した。引こうともしたし、最後には身体ごとぶつかって、それでも少しも開かなかった。
創ちゃんでも、無理かもしれない。
そう思った瞬間、別の恐怖が身体の奥から込み上げてきた。
創ちゃんは、きっと諦めない。
私がこの部屋にいると分かっている限り、何があっても扉を開けようとする。火が迫っても、煙が濃くなっても、きっと私を置いて逃げようとはしない。
だからこそ、怖かった。
このまま扉が開かなければ、創ちゃんまで逃げ遅れてしまうかもしれない。
私だけじゃなく、創ちゃんまで無事で済まなくなったら。
最悪、二人とも――。
「夏樹! お前、今諦めそうになっていただろ?」
「……っ」
思わず顔を上げた。
どうして分かったのだろう。
扉があるから私の顔なんて見えないし、私は何も言っていない。
それでも、創ちゃんには分かってしまった。
昔から、そうだった。
私が平気なふりをしていても、創ちゃんだけは時々、何でもない顔で気づいてしまう。
私だって同じだ。創ちゃんが「別に」と言うとき、本当に何でもないときと、そうじゃないときくらい分かる。
ずっと隣にいた。だから、言葉にしなくても分かることがある。
――でも……。
「でももへったくれもねぇ!!」
扉の向こうから、すぐに声が返ってきた。
――このままじゃ、創ちゃんまで無事で済まなくなる。
言葉にできないまま、私は扉を見つめる。
「俺がここにいるんだ。そんなことになる訳ないだろ!?」
強い声だった。
根拠なんて、きっとない。
創ちゃんだって怖いはずだし、この扉が本当に開くのかも分かっていないはずだ。
それでも、私を不安にさせないために、迷いなんてないような声で言ってくれている。
「夏樹」
少しだけ、創ちゃんの声が優しくなった。
「俺を誰だと思ってる?」
その言葉を聞いた瞬間、涙が頬を伝った。
煙のせいなのか、それとも別の理由なのか、もう自分でも分からない。
でも、答えだけはすぐに浮かんだ。
――私の、自慢の幼馴染だよ。
小さい頃から、ずっと一緒だった。
楽しいときも、悲しいときも、何でもない毎日も、気がつけばいつも隣にいた。
だから信じられる。創ちゃんが大丈夫だと言うなら、私はもう少しだけ頑張れる。
「そうだろ?」
まるで私の答えが聞こえたみたいに、創ちゃんが言った。
「スーパーイケメンウルトラ高スペック幼馴染だろ?」
――うん。全然違う。
私は扉に額をつけ、ゆっくり目を閉じた。
怖くなくなったわけじゃないし、呼吸だって、もうまともにできないくらい苦しい。
それでも、さっきまでとは違った。
一人じゃない。
この扉のすぐ向こうに創ちゃんがいる。
それだけで、もう少しだけ耐えられるような気がした。
ガタガタと、再び扉の向こうで大きな音が鳴り始める。創ちゃんが、扉を塞いでいる何かを必死に動かしているのだろう。
「もう少しだ……!」
床を擦るような音が響き、扉そのものも少しずつ振動し始めた。
「夏樹、聞こえてるか!」
私は残った力を振り絞り、拳で扉を一度だけ叩いた。
コン。
「……よし」
それだけで伝わった。私がここにいることも、まだ意識があることも、きっと創ちゃんには分かっている。
「もう少しだけ待ってろ」
――うん。
待ってるよ。
今度こそ、ちゃんと待ってる。
「どりゃぁあぁ!!」
創ちゃんの声と同時に、扉の向こうで何かが大きく動いた。
ガタン!!
続いて、ガラガラガラガラッと、いくつもの物が崩れ落ちる音が響く。
「……っ!」
創ちゃん。
大丈夫?
さっきまで聞こえていた声が、突然途切れた。
扉の向こうが静かになる。
嫌な想像が、一瞬で頭の中を埋め尽くした。
創ちゃんが荷物の下敷きになったのかもしれない。
怪我をしたのかもしれない。
私を助けるために来てくれたのに、創ちゃんまで――。
「……創、ちゃん……」
ほとんど声にならなかった。
お願い。返事して。
私は大丈夫だから。
だから、創ちゃんも無事でいて。
もう一度扉を叩こうとしたけれど、腕はほとんど動いてくれなかった。
呼吸が苦しい。
身体から力が抜けていき、意識がゆっくりと遠くなっていく。
それでも私は扉を見つめ続けた。
創ちゃんは来てくれた。
だから、きっと大丈夫。
そう信じた、そのときだった。
ガチャ。
小さな音がした。
さっきまで何をしても動かなかった扉が、ゆっくりと開いていく。
黒い煙の向こうに、人影が見えた。
顔なんて、ほとんど見えない。
それでも、誰なのかは分かった。分からないはずがなかった。
そして、遠くなりかけていた意識の中へ、ずっと聞きたかった声が届いた。
「ごめんな? 待たせたか?」
その瞬間、張り詰めていたものが全部ほどけた。
涙が溢れた。
――うん。
ずっと待ってたよ、創ちゃん。




