第84話 15分だけの待ち時間
「うぅ〜、残念ですけど、私は食堂の準備がありますので先に帰ります! 絶対、どんな話だったか教えてくださいね!!」
萌はそう言い残すと、勢いよく教室を飛び出していった。廊下を走っちゃ駄目だよ、と声をかける暇すらない。
あっという間に小さくなっていく後ろ姿を見ながら、私は思わず笑ってしまった。そのうち足元から砂埃でも出るんじゃないかな。アニメだったら、萌がいた場所に人の形をした煙だけ残っていそう。
「相変わらず元気ね」
直美も呆れながら笑っている。私はもう一度笑ってから、教室の中へ視線を戻した。創ちゃんは自分の席に座って、もう本を読んでいた。
私たちが話している間に、いつの間に……。
相変わらず髪はボサボサだし、制服もちょっとよれている。顔は悪くないんだから、もう少し見た目に気を使えばいいのに。
髪を綺麗に整えて、制服もきっちり着て、爽やかな笑顔で「おはよう」なんて言う創ちゃんを想像してみる。
…………。
誰?
やっぱり今のままでいいのかもしれない。
「じゃ、行きましょうか? 夏樹」
「うん、そうだね!」
私は鞄を持って、創ちゃんのところへ向かった。
「じゃ、創ちゃん。行ってくるから、ちゃんと待っててね?」
「んー」
本から目すら上げない。もう。
「絶対だからね?」
「分かった、分かった」
すっごく面倒くさそう。でも、こういう返事をするときの創ちゃんは、ちゃんと待っていてくれる。
「じゃあ、行ってきます」
私は直美と一緒に教室を出た。向かうのは、グラウンドの端にあるサッカー部の部室。結局、あの手紙には何が書かれていなかったのか。
告白なのかな。それとも――。
まあ、行ってみれば分かるよね。
校舎を出ると、私は直美と並んでグラウンドの端へ向かった。
「本当に告白なのかな?」
さっきから気になっていたことを口にすると、直美は少し考えるように前を見た。
「どうかしら。 私があの手紙を書いたとしたら、って想像してみたの」
「直美が手紙を出すならってこと?」
「そうよ。 もし告白するなら、少しでも誠実に伝えたいと思うじゃない。 相手によく思われたいでしょうし、少なくとも時間を使わせるんだから、それに対する誠意くらいは伝えると思うわ」
「確かに……」
言われてみれば、あの手紙は驚くほどあっさりしていた。『放課後、サッカー部の部室に一人で来てほしい』それだけだった。
「だから、私は告白じゃないと思ってる」
「そうなんだ。 でも、緊張して上手く書けなかったのかもしれないよ?」
「もちろん、その可能性もあるわ。 情報が少なすぎるもの。 結局、行ってみないと分からないわね」
「そっかぁ」
恋愛の手紙一枚でも、直美が考えるとちょっとした推理みたいになる。創ちゃんなら、さらに昔の恋文の歴史とか、手紙を書く人の心理とかを語り始めそう。
……あれ?私の周り、普通に恋愛の話ができる人、少なくない?
そんなことを考えながら歩いていると、グラウンドの横に建つ部室棟が見えてきた。今日は部活が休みだから、たぶん誰もいない――直美はそう聞いているらしい。
静かな部室棟を見つめながら、私は隣を歩く直美に合わせて、そのまま足を進めた。森岡高校の運動部の部室は、グラウンドの端に建っている二階建ての建物だ。部室棟、とみんなは普通に呼んでいるけれど、私は部活はしていないから今までほとんど入ったことがない。
一階が各運動部の部室で、二階にはミーティングルームや備品倉庫があるらしい。
この辺りのことは、全部高原くんが直美に教えてくれた。
二階のミーティングルームは普段から鍵が開いていて、運動部だけじゃなく、先生たちがちょっとした打ち合わせや会議で使うこともあるそうだ。夕方になると先生が見回りをして、最後に施錠することになっているらしい。
建物の中央には二階へ続く階段があって、それを挟むように左右に三部屋ずつ、全部で六つの部室が並んでいる。その中で、サッカー部の部室は階段のすぐ左側。
だから建物の前まで来れば、探す必要もなかった。
「……誰もいないね?」
私は辺りを見回した。グラウンドからは遠くで話している生徒たちの声が聞こえてくるけれど、部室棟の周りには誰もいない。
いつもなら運動部の人たちが行き来していて、もっと賑やかな場所なのかもしれないけれど、今日は試験前で部活動は休みだ。
そのせいなのか、いつもより学校全体が静かに感じる。直美も周囲を確認してから、腕時計に目を落とした。
「放課後と書いてあっただけで、時間は指定されていないもの。 そうね…… 十五分待って誰も来なかったら帰るわ」
「そういえば、時間が書いてないって変だね?」
私は首を傾げた。
「放課後って言っても、結構長いよね?」
「そうなのよ」
「授業が終わってすぐなのか、三十分後なのか、一時間後なのかも分からないし……」
そこまで言って、私は改めて今朝見た手紙の文章を思い出した。
「なんだか、どんどんラブレターじゃないんじゃないかって思えてきたよ」
「でしょ?」
直美が少し得意そうに笑った。
「恋文とするなら、やっぱりちょっと違和感があるわ」
「でも、すっごく緊張してたのかもよ?」
「まだその可能性を捨ててないの?」
「だって分からないじゃん。書いた人が、直美に告白しようとして一晩中悩んで、書いては消して、書いては消して……最後には全部消しちゃって、待ち合わせ場所だけになったのかもしれないよ?」
「それ、もうラブレターじゃなくて待ち合わせのメモよ」
「あ……」
確かにそうだ。二人で顔を見合わせて、少し笑った。
笑いながら私はもう一度サッカー部の部室を見る。誰も出てこない。扉も閉まったままだ。
「じゃあ、私は二階にいるね」
「え?」
「ほら、手紙には一人で来てほしいって書いてあったでしょ? 私が隣に立ってたら、相手も出てきにくいかもしれないし」
もし本当に告白だったら、なおさらだ。勇気を振り絞って呼び出したら、なぜか友達まで一緒に立っていました、では少しかわいそうな気がする。
「近くにいるのが分かったら相手にも悪いから、二階で待ってるよ。何かあったら呼んでね」
「分かったわ。十五分経ったら帰るから」
「うん」
私は直美と別れて、建物の中央にある階段へ向かった。階段はまっすぐ二階まで続いているわけではなく、途中で一度折り返すコの字型になっている。
最初の八段を上がると、小さな踊り場。そこでくるっと向きを変えて、さらに七段。
……というところまでは、ごく普通の階段だった。問題は、その先だった。
「うわぁ〜……」
思わず声が出た。二階の廊下が、すごいことになっている。
汚いというより――物が多い。とにかく多い。
倉庫に入り切らなくなったのか、廊下の壁際には運動部が使うらしい備品が、これでもかというくらい並べられていた。
折り畳まれた古い得点板。カラーコーン。何本も束ねられたハードル。ボールを入れるための大きな金属製の籠。丸められたネット。ビブスが詰め込まれた透明なケース。空気入れ。ライン引き。ブルーシート。ストップウォッチやメジャーが入っているらしいプラスチック製の箱。さらに、何に使うのか私には分からない長い棒まで、壁に立てかけられている。
その横には「陸上部」と油性ペンで大きく書かれた段ボール箱が三つ積まれていた。一番上の箱は少し潰れている。
大丈夫なのかな、これ。
その隣にはサッカーボールが入った籠があって、さらに奥にはバスケットボールらしいものまで見える。
しかも、ちゃんと端に寄せてあるものもあれば、「とりあえずここに置きました」という感じのものもある。踊り場の隅には大きなマットまで立てかけられていた。
「これ、先生に怒られないのかな……」
私は誰に言うでもなく呟いた。
創ちゃんなら何て言うだろう。『災害時の避難経路として問題があるんじゃないか』とか、真顔で言いそう。
……いや、その前に。『なんで俺が二階まで来なきゃいけないんだ』って言うかな。そっちのほうが創ちゃんらしい。
私は少し笑いながら、床に置かれている物を踏まないように進んだ。途中、廊下にはみ出していたカラーコーンを避けようとして、反対側に置かれていた箱にぶつかりそうになる。
「おっと……」
危ない。障害物競走みたい。
これも運動部のトレーニングなのかな。
そんなわけないか。
階段を上がった先には左右に廊下が伸びていて、その両側にいくつか扉が並んでいた。扉の上には、それぞれ部屋の名前が書かれたプレートがある。
『備品倉庫』
そして、その隣が――。
『ミーティングルーム』
「ここだね」
倉庫には用事がない。というより、廊下がこの状態なのだから、中を見たらすごいことになっていそうで、ちょっと怖い。
私は迷わずミーティングルームの扉を開けた。
「あ、こっちは綺麗」
廊下とは全然違った。長机と椅子がきちんと並べられていて、正面にはホワイトボード。部屋の隅には折り畳み式の机が重ねて置かれているけれど、それも綺麗に揃えられている。床にも物は散らばっていない。
先生たちも使うから、ちゃんと片づけられているのかな。
窓際へ近づいて、外を見る。二階だから、グラウンドがよく見えた。その端に、直美が立っている。
「いた」
当然なんだけど、ちょっと安心する。直美はサッカー部の部室から少し離れた場所で、腕を組んで待っていた。時々、周りを見回している。
……暇そう。すっごく暇そう。立っているだけなのに、「私は今、待たされています」という雰囲気が伝わってくる。
私は思わず笑ってしまった。ここからなら直美の様子も確認できるし、もし何かあればすぐ下へ行ける。
うん。ここで待っていよう。
「十五分かぁ……」
スマホを見てもいいけれど、それもなんとなく落ち着かない。
私は部屋の中を見回した。壁にはいくつもの賞状が額に入れて飾られていて、棚の上にはトロフィーや盾が並んでいる。
森岡高校は運動部が結構強い。全国大会、県大会、地区大会。大会名や年度もばらばらで、かなり昔のものも残っていた。
「へぇ……」
こういうのを見る機会って、意外とないかも。
文化部の活動場所にはまず置いてないし、体育館の入口にもいくつか飾られているけれど、普段じっくり見ることなんてない。
私は一つずつ眺めながら、ゆっくり部屋の中を歩いた。
サッカー部。野球部。陸上部。バスケットボール部。年代の古い写真になると、制服もユニフォームも今とは全然違う。先生みたいな人が高校生として写っている写真もあった。
……当たり前なんだけど、ちょっと不思議。
そんな中、比較的新しい写真が何枚かまとめて飾られている場所を見つけた。
「あ」
見覚えのある光景だった。
今年の球技大会。クラスごとに撮った集合写真や、試合中の写真が何枚も飾られている。サッカー部の人が活躍したから、ここにも写真を置いているのかな。
私は自然と近づいていった。高原くんがいる。三浦くんもいる。川村くんも――。
そこで少しだけ胸が重くなった。今日も学校には来なかった。写真の中の川村くんは、今とは何も関係ないみたいに笑っている。あの頃は、こんなことになるなんて誰も思ってなかった。
私は少しだけその写真を見つめてから、隣の写真へ視線を移した。
そして。
「……あ」
いた。創ちゃんだ。
思わず顔を近づける。
写真の中央近くで、創ちゃんがボールを持っている。正確には、足元にボールを置いて、それを取られないように守っているところみたい。背中には川村くん。その周りにも相手チームの選手が何人もいて、みんな創ちゃんのボールを狙っている。
何これ。一人だけ包囲されてるように見える。あの時、創ちゃんはとにかく走って、ボールを盗られないようにして、相手チームがちょっとラフなプレーをしても耐えて…。
「…………」
私は写真の中の創ちゃんをじっと見た。いつものボサボサの髪。それは写真でも変わらない。だけど、表情は普段と全然違う。
相手の動きを見ているのか、少しだけ視線を横へ向けて、ボールを守るために体を入れている。
いつもの眠そうな顔でもない。本を読んでいるときの無表情とも違う。面倒くさい、帰りたい、本が読みたい――そんなことばっかり言っている人とは思えないくらい、一生懸命な顔をしている。
「ふふふっ」
なんだか、おかしくなって笑ってしまった。
「創ちゃん、やっぱり真剣な顔してるとかっこいい」
口にしてから、私は少しだけ周りを見た。
……誰もいない。よかった。
別に聞かれて困ることでも――。
いや。困る。直美に聞かれたら絶対にからかわれる。萌に聞かれたらもっと大変だ。明日には食堂のお客さんまで知っているかもしれない。
創ちゃん本人に聞かれたら?
「…………」
それは。
……一番困るかもしれない。
「っていうか、創ちゃん本人は絶対分かってないよね」
この写真を見せても、『たまたまそう写っただけだろ』とか言いそう。
あるいは、『前後がわからないとイジメられてるみたいだな』とか、どうでもいいところを気にしそう。
私はもう一度、小さく笑った。写真の中の創ちゃんは、やっぱり真剣な顔をしている。
こういう顔、たまにするんだよね。
誰かが本当に困っているとき。
何かを真剣に考えているとき。
それから――。私が困っているときも。
「……ふふ」
なんだろう。ちょっと得した気分。あとで創ちゃんに、この写真があったって教えようかな。
でも、教えたら見に来るかな。
……来ないだろうなぁ。『興味ない』で終わりそう。
じゃあ、スマホで撮って見せる?それもなんだか、私が創ちゃんの写真をわざわざ撮ったみたいで恥ずかしい。
……いや、実際そうなんだけど。
私はスマホを取り出しかけて――やめた。
「何やってるんだろ、私……」
一人で恥ずかしくなって、スマホをポケットへ戻す。そういえば、どのくらい時間が経ったんだろう。写真を見る前は、まだ直美が外にいた。十五分待つって言ってたけど――。
私は窓際へ戻った。
「直美、まだかな……」
さっき直美が立っていた場所を見る。
「……あれ?」
いない。
私は窓に近づいた。サッカー部の部室の前、少し離れたところにもいない。グラウンドのほうへ視線を動かしてみても、直美らしい姿は見つからなかった。
「直美?」
帰った?
いや、帰るなら私に声をかけるはずだ。それに十五分経ったかどうかも分からない。誰か来たのかな?
そうだ。手紙を書いた人が来て、部室の中に入ったのかもしれない。
「……そっか」
それなら邪魔しちゃ駄目だよね。もしかしたら本当に告白だったのかもしれないし。
でも。何だろう。胸の奥が少しだけざわついた。
直美は、何かあったら呼ぶと言っていた。もちろん、何もないから呼ばなかっただけかもしれない。それでも、さっきまで見えていた姿が急に消えていると、なんとなく落ち着かない。
私はポケットからスマホを取り出した。メッセージを送ってみよう。
『大丈夫?』
それだけなら、邪魔にもならないはず。画面を開きながら、私はミーティングルームの扉へ向かった。
念のため、下の様子を見に行こう。そう思って、ドアノブへ手を伸ばした。
その瞬間――。
―――轟音とともに建物が大きく揺れた。
「きゃっ――!」
何が起きたのか理解するより先に、建物全体が大きく揺れた。足元を突き上げるような衝撃に身体を支えきれず、私はその場に倒れ込む。手にしていたスマホが床を滑り、どこかへ消えた。
「……なに……?」
耳の奥で、甲高い音が鳴っている。身体を起こそうとしても、頭がうまく働かない。
地震――?
違う。それなら、さっきの音は何?
「スマホ……」
床に手をつき、周囲を探す。けれど、さっきまで整然としていた部屋は一変していた。椅子は倒れ、壁に掛かっていた額縁や賞状が床に落ちている。スマホがどこにあるのか分からない。
それより、外を確認しないと。そう思って窓へ視線を向けた瞬間、息を呑んだ。
「……うそ……」
窓ガラスが割れていた。細かな破片が部屋中に飛び散り、床の上で光を反射している。立ち上がろうとしたとき、足に鋭い痛みが走った。
「痛っ……!」
見ると、足から血が流れていた。飛び散ったガラスで切ったらしい。傷口を見た瞬間、心臓が強く脈打った。
でも、動かせる。足に力も入る。
大丈夫。まだ歩ける。そう自分に言い聞かせながら立ち上がった、そのときだった。
「……煙?」
黒い煙が部屋の中へ入り込んできている。何が起きているのか理解した瞬間、全身から血の気が引いた。
「火事……?」
煙は止まらない。むしろ、急速に濃くなっている。
「さっきの音……爆発? 何が起きたの……?」
答えてくれる人はいない。
直美は?直美はどこにいるの?
助けを呼ばないと。私は窓へ向かおうとした。けれど、割れた窓の向こうに赤い光が揺れているのが見えた。
炎だった。
「……っ」
熱気が流れ込んでくる。
近づけない。窓は駄目。だったら、出口から逃げるしかない。
私は制服の袖で口元を覆い、煙の中を進んだ。
目が痛い。息をするたびに喉が焼けるように苦しい。それでも、ようやく扉までたどり着いた。
ドアノブを掴み、押す。
「……え?」
開かない。
もう一度、強く押した。
動かない。
「なんで……?」
鍵はかかっていなかった。私はここから入ってきた。だから、開くはずなのに。
「開いて……!」
身体ごと扉へぶつかる。それでも、びくともしない。
「開いてよ!」
何度も押した。肩が痛くなっても、力を込めた。
「ごほっ……ごほっ……!」
激しく咳き込み、身体を折る。息ができない。
煙がどんどん濃くなっている。目から涙が溢れ、視界まで滲んでいく。
「お願い……開いて……」
声が震えた。
扉の向こうで何かが倒れているのかもしれない。そう思っても、私にはどうすることもできない。
押しても駄目。
引いても駄目。
何度やっても、扉は動かなかった。
「ごほっ……!」
怖い。
その感情が、はっきりと胸の中に浮かんだ。
怖い。
ここから出られない。
ほんの少し前まで、直美と普通に話していた。十五分待って、何もなければ帰るはずだった。その後は創ちゃんと合流して、みんなで食堂へ行くはずだった。それだけだったのに。
「……創ちゃん」
気づけば、その名前を呼んでいた。
教室にいる。私が、待っていてと言ったから。きっと今も、いつもの席で本を読んでいる。
『んー』
あの面倒くさそうな返事が、頭の中に蘇った。
「……創ちゃん……」
扉を押していた手から力が抜けた。
窓。窓まで戻らないと。炎が見えていたとしても、外に助けを求められるかもしれない。私は扉から離れ、振り返った。
「…………」
身体が動かなかった。
そこに、さっきまでいた部屋はもう見えなかった。黒い煙が視界を覆っている。
机も、椅子も、壁も。窓がどこにあるのかさえ分からない。どちらへ進めばいいのか分からなかった。煙の向こうで炎が揺れているようにも見える。でも、それがどれほど離れているのかも分からない。
一歩が踏み出せない。
間違った方向へ進んだら。
もっと火に近づいてしまったら。
煙を吸って、途中で動けなくなったら。
「……やだ……」
声が漏れた。
急に足から力が抜けそうになり、私は扉に手をついた。
息が苦しい。目が痛い。
怖い。
どうすればいいのか、分からない。
「創ちゃん……」
返事はない。
分かっている。ここに創ちゃんはいない。
私が待っていてと言った。だから、ここには来ない。
それなのに。
今、一番会いたい人の名前は、それしか出てこなかった。
「……助けて……」
涙が頬を伝った。
「助けて……創ちゃん……」
目の前には、何も見えないほどの黒い煙が広がっていた。




