第82話 普通なら
六月に入ったばかりの朝はまだ涼しく、住宅街を抜ける風には夜の名残のような冷たさが残っていた。東から差し込む日差しが家々の屋根を照らし、道沿いの植え込みでは葉に残った朝露がきらきらと光っている。俺と夏樹、柴田さんの三人は、学校へ向かう前に食堂やまもとへ寄るため、いつもの道を並んで歩いていた。
店に着き、玄関横のインターホンを押す。間もなく、ドタドタと騒がしい足音が近づいてきた。
「おっはようございまっすでーす!!」
勢いよく扉が開き、山本さんが満面の笑みで飛び出してくる。昨日までのしおらしさは一体どこへ消えたのだろう。心なしか顔までテカテカしている。
「だいぶ甘やかされたのね」
柴田さんが呆れたように言う。
「そうみたいだね」
夏樹も苦笑している。
昨日は夏樹の膝の上で餌付けされるチンパンジーの赤ちゃんと化していたが、一晩経って無事に人類へ復帰できたらしい。進化とはかくも早いものなのか。
「昨日は色々とご迷惑をおかけして、ごめんなさいです」
山本さんがぺこりと頭を下げる。
「え? そんな、いいよ」
「そうよ。萌が甘えん坊さんなのは今に始まったことじゃないわ」
「えへへ……」
反省しているのか褒められたと思っているのか、判別不能な笑みを浮かべている。まあ、機嫌が良さそうで何よりだ。昨日の弱り切った姿が頭をよぎり、俺は元気いっぱいの山本さんを眺めながら、胸の奥で小さく息を吐いた。
学校へ向かう道中、完全復活を遂げた山本さんのテンションは朝から天井知らずだった。夏樹と柴田さんの間に収まり、右を向いては夏樹に話しかけ、左を向いては柴田さんに話しかけ、そのたびに三人の笑い声が住宅街に響いている。昨日までのしおらしい小動物はいったいどこへ行ったのだろう。俺は一列後ろを歩きながら、その様子をのんびり眺める。まあ、元気ならそれでいい。
やがて学校へ到着し、四人で教室へ入ったところで、朝の空気が少し変わった。
「逮捕されたんだろ?」
「昨日のニュース見た?」
「川村の親父さんって……」
教室のあちこちから聞こえてくるのは、株式会社川村の社長が逮捕されたという話だった。どうやら俺たちのクラスだけではなく、学校中に広まっているらしい。当然だろう。息子である川村は、この学校の生徒なのだから。
俺は自分の席へ向かいながら、昨日見たニュース映像を思い出す。その逮捕に、俺が撮った映像も少なからず関わっている。必要なことだった。今でもそう思っている。それでも、胸の奥に残った重さまで消えてくれるわけではなかった。
席に座り、気持ちを切り替えるように鞄から読みかけの本を取り出すと、横から声をかけられた。
「山神、朝のニュース見たか?」
高原だった。
「朝のニュース?」
何のことかは予想がついたが、あえて聞き返す。
「あぁ。川村の親父さん、逮捕されたってやつだよ」
「……見たよ」
「あれから川村にも連絡してるんだけど、既読もつかないし、電話にも出ないんだ」
「今、大変な状況なのかもしれないな」
「それはそうかもな。でも、やっぱり心配なんだよ」
高原は困ったように頭をかいた。さすがサッカー部のキャプテン。部員が学校に来なければ、ちゃんと心配するらしい。
「まだ学校には来てないみたいだし、もしかしたら休むのかもしれない」
「かもしれないな……」
「ま、そうなりゃ広田と三浦を誘って、家に突撃してみるかな」
そう言って、高原は自分の席へ戻っていった。確かこいつ、日本代表でもキャプテンを任されていたはずだ。学校の部活だけでは飽き足らず、代表チームをまとめ、ついにはチームメイトの家庭訪問まで自主的に始めるらしい。キャプテンという役職は、俺が思っていたより業務範囲が広い。
俺には絶対に務まらないな。
そんなことを考えながら本を開いたものの、活字を追う前に、まだ姿を見せていないらしい川村のことを考えていた。
高原が去ったあと、俺はようやく本を開いた。朝からいろいろあったが、始業まではまだ時間がある。この貴重な十数分を無駄にするわけにはいかない。学校という場所は、授業さえなければ読書環境としてそこそこ優秀なのだ。
そんな学校の存在意義を根底から否定しかねないことを考えながらページをめくっていると、再び机の横に人影が立った。
「山神、おはよう。少しだけ話いいかい?」
顔を上げると山田だった。
「おっす。どした?」
本に栞を挟みながら、ほんの少しだけ身構える。このタイミングで山田がわざわざ俺を訪ねてきたとなると、株式会社川村のことだろうか。昨日の今日だ。農園とも無関係ではない以上、何かあってもおかしくない。
「昨日、夕方、うちの農園の調査があったんだ。で、その結果、水が原因だってはっきりと分かったみたいなんだ」
「やっぱり水だったか……」
思わず声が漏れた。
「うん。山神は結構早い段階でそれを疑ってたもんね?」
「あぁ。以前見せてもらった調査票や園長の話から、そうじゃないかと思ってた」
最初から水だと分かっていたわけじゃない。ただ、検査結果の出方が妙だった。同じ農園で採れた作物なのに、検査するたび必ず異常値が出るわけではない。問題のないものもあれば、ごく微量の異常が確認されるものもある。
しかも、すぐに健康被害が出るような高い数値ではなく、基準からわずかに外れる程度のものが不規則に混ざっていた。もし土壌そのものが広い範囲で強く汚染されているなら、もう少し継続的に似た傾向が出てもよさそうなものだ。
もちろん俺は農業の専門家でも地質学者でもないので、断定なんてできない。だから考えたのは、原因そのものではなく、何ならこんなふうに結果がばらつくのかということだった。
畑全部に常に存在するものではなく、外から断続的に入ってくるもの。
雨が降った日。
水を多く使った日。
畑ごとの取水状況。
そういう条件によって影響の程度が変わるものなら、検査結果が不規則になることにも説明がつく。
そこで浮かんだのが、農業用水だった。
まあ、俺の場合は推理というより、消去法で怪しいやつを端から並べただけだ。探偵なら格好よく「犯人は水だ」とでも言うのだろうが、水を逮捕するわけにもいかない。
「広場に埋められていた産業廃棄物が原因だろうっていうことだったよ。地質学に詳しい人も来てくれていて、その人曰く、『こんなところに、こんなものを埋めたら農地に影響が出るに決まってるじゃないか』って、だいぶ憤っていたらしいよ」
「なら、水脈とかがあったんだろうな」
「そうみたいなんだ」
山田が頷く。
「何年か前に一度、調査をするように依頼を受けたことがあるらしくて。そのときには何のために調査を依頼したのか分からなかったらしいんだけど、大量に雨が降ったりすると、あの辺りから農業用水に雨水が流れ込むってことは分かっていたみたい」
俺は一瞬、山田の言葉を頭の中で反芻した。
「……何年か前に調べていた?」
「うん。調査の目的までは聞いてないし、調査を依頼したのは株式会社川村じゃなかったって言ってたよ」
「川村じゃない?」
「うん」
山田はいつもの穏やかな顔で頷いた。
「流石に、その調査の内容を知ってたら、こんなことしないよね」
「……普通、そうだろうな」
「だよね。じゃあ、伝えたかったのはそれだけだから」
山田は人の良さそうな笑顔を浮かべると、自分の教室へ戻っていった。俺はその背中を見送り、閉じていた本へ視線を落とす。
何年か前。株式会社川村ではない誰かが、あの場所の地質を調査していた。そして、その調査では大雨によって周辺の水が農業用水へ流れ込む可能性まで把握されていた。
……まあ、だから何だという話ではある。
地質調査なんて、土地を利用する予定があれば行うこともあるだろう。依頼者が株式会社川村ではないというだけで、今回の件と関係があると考えるのはさすがに飛躍しすぎだ。
山田の言う通りだ。その調査結果を知っている人間なら、普通はそんな場所に妙なものを捨てようとは考えない。
――普通は。
世の中には、残念ながらその二文字が適用されない人間もいる。頭の中に一つ、あまり気持ちのよくない仮説が浮かんだ。だが、仮説は仮説だ。怪しいことと、事実であることは違う。俺はその考えをいったん頭の奥へ押し込み、再び本を開いた。
今のところ、考えすぎということにしておこう。せっかく確保した朝の読書時間まで、面倒事に侵食されてはたまらない。
長く、そして果てしなく退屈な一日の授業がようやく終わった。今日も俺はよく耐えたと思う。六時間も椅子に座り、人の話を聞き続けるという苦行を毎日こなしているのだから、そろそろ国から表彰されてもいい頃ではないだろうか。
そんな俺の願いを無視して、帰りのホームルームでは担任が教壇に立ち、今後の予定を説明していた。今日から定期テスト前の期間に入るため、部活動は基本的に休止。一部の部は今日まで活動するらしいが、それ以降は試験が終わるまで勉強に専念するように、とのことだった。
教室のあちこちから悲鳴とも歓声ともつかない声が上がる。俺としては部活動に所属していないので、生活に一ミリたりとも影響はない。実に平和である。
担任の話が終わり、帰り支度を始めながら、俺は何となく教室を見渡した。結局、川村は今日一日、学校に来なかったらしい。高原たちは、本当に家まで様子を見に行くのだろうか。
……無事ならいいんだけどな。俺は空席から視線を外し、鞄に教科書を放り込んだ。
帰りのホームルームが終わり、俺は机の中に忘れ物がないことを確認してから、教科書や読みかけの本を鞄に詰め込んだ。今日はこのまま食堂やまもとへ向かう予定だ。
さて、さっさと行くかと席を立ったところで、教室の入り口から見慣れた小柄な影が近づいてきた。
「山神君!」
「ん?」
山本さんだった。俺の前までやってくると、なぜか姿勢を正し、ぺこりと頭を下げる。
「昨日はごめんなさいです」
「なんだよ、突然……」
「いえ、色々取り乱してしまいましたので」
どうやら昨日、夏樹の膝の上で甘え倒したことをわざわざ謝罪しに来たらしい。
あれ?朝にも同じこと言ってなかったか?
「山神くんにお伝えできていなかったこと、今思い出しました」
何で山本さんは俺の脳内と会話ができるんだろう…。声に出してないよね?俺。
どうでもいいことを考えつつ、別に気にしていないということを伝える。というか、被害を受けたのは主に夏樹だ。俺は赤ちゃん返りした霊長類を遠くから観察していただけである。
山本さんは顔を上げると、両手をぐっと握った。
「でも、今日から元気百倍! いつも以上に頑張ります! 今日も食堂のアルバイトお願いしますね!」
「お、おう」
昨日までの弱々しさはどこへやら。満面の笑みでそう宣言すると、山本さんはくるりと反転した。
「では! 準備がありますので!!」
次の瞬間には走り出していた。
おぉー。早い早い。
廊下の向こうへ一直線に駆けていき、その後ろに砂埃でも見えそうな勢いで小さな背中が遠ざかっていく。今日の山本さんなら百メートル走で自己ベストを更新できるんじゃないだろうか。
「本当に萌が元気になってよかったわ」
「凄い勢いだったねー」
声がして横を見ると、いつの間にか夏樹と柴田さんも並んで山本さんを見送っていた。
「凄い砂埃だね〜」
「校舎内だから実際には出てないけどな」
元気になったようで何よりである。
「直美、送っていくから一緒に帰ろ?」
「ええ。よろしくお願いするわ」
二人がそんな話を始める。そういえば柴田さんについては、まだ一人で帰らせない方がいいという話になっていた。
なるほど。では、お二人ともお気をつけて。俺は鞄を肩に掛け、そのまま何食わぬ顔で一人教室を出ようとする。
あと三歩。
二歩。
一歩――。
「創ちゃんも行くの!!」
ぐいっ。
「ぐぇっ……」
突然、襟首を後ろから掴まれた。
首が締まる。死ぬ。幼馴染に殺される。
「……ちっ。見つかったか……」
俺が渋々振り返ると、夏樹が呆れた顔をしていた。
「当たり前でしょ? 目の前を通ったのに気づかないわけないじゃん」
「おかしいな。さっき印を結んで透明になったはずなんだが」
「本気で言ってるの? 病気?」
柴田さんから極めて冷静な診断が下された。失礼な。厨二病ならちゃんと完治しとるわい。
そもそも、本気で一人だけ先に行こうとしていたわけではない。どうせ柴田さんの家は食堂へ向かう道から少し迂回する程度だ。三人で送ったところで、アルバイトに遅れることもないだろう。
俺は夏樹に掴まれた襟を直しながら、小さくため息をついた。
「仕方ない。俺の隠密行動を見破った褒美として同行を許可しよう」
「なんで上からなのよ」
「さあ行くぞ、夏樹」
「誤魔化した!」
背後から抗議の声が飛んできたが、俺は聞こえなかったことにして教室を出る。その横では、柴田さんが肩を震わせながら笑っていた。
校門を出てしばらく歩いたところで、朝に山田から聞いた話を思い出した。
「そういえば山田が言ってたんだけど、農園の異常の原因、水だったってよ」
「水?」
柴田さんがすぐにこちらを見る。
「あぁ。株式会社川村が埋めていた産業廃棄物、つまり建設汚泥が悪さをしていたらしい」
「そうだったのね。それなら、水脈か何かがあったってことね」
「だろうな。今回、農園の検査に立ち会った人の中に地質に詳しい人がいて、数年前にもあの広場周辺の地質調査を依頼されてたらしいんだ。それで今回の件を知って、『こんなところにあんなものを埋めたら、農地に異常が出るに決まってるじゃないか』って、だいぶ憤ってたらしい」
「それは怒るでしょうね。その人には、こうなる可能性が見えていたんだから」
「まあな」
俺と柴田さんの間では会話が成立している。しかし、横を見ると夏樹が眉間に皺を寄せていた。
分かっていない顔だ。長年の付き合いなので分かる。あれは完全に分かっていない。
「……何?」
「いや」
「何よ」
「夏樹。今の話、分かったか?」
「分かってるし」
嘘つけ。
「じゃあ説明してみ?」
「……水が悪かった」
「最初の一行しか理解してねぇじゃねぇか」
「うるさい!」
肩を叩かれた。仕方がないので、俺は夏樹でも分かるように噛み砕く。
「山の方に捨てたものから、雨とかで良くない成分が流れ出した。それが農業用水の方に入って、畑まで来た可能性が高いってこと」
「あー! なるほど!」
「急に知能指数が回復したな」
「創ちゃんが難しく言うからでしょ!」
「柴田さんには通じたぞ」
「直美を基準にしないで!」
隣で柴田さんがくすくす笑っている。まあ、俺だって専門的な部分まで理解しているわけではない。詳しいことは専門家に任せればいい。重要なのは、山田農園で起きていた異常と、株式会社川村が広場に埋めていたものが、ようやく一本の線でつながったということだ。
ただ――。
「一応、藤嶋さんにもこのこと伝えておいてくれるか?」
俺が言うと、柴田さんはすぐに頷いた。
「分かったわ。由香姉にも伝えておく。それ以外に何か伝えておくことはある?」
そう言いながら、柴田さんがいたずらっぽく俺を見る。
……お見通しか。
別に隠していたわけではないのだが、自分から言う前に察されると少し負けた気分になる。
「じゃ、その数年前に調査を依頼したのが誰なのか調べてみてほしいって付け加えてくれ」
「やっぱり気になってたのね」
「そりゃな。それと、株式会社川村の社長が、なんであんなことをしたのか。そこも分かったら教えてほしい」
「分かったわ。それも伝えておく」
「頼む」
今のところ、何かを疑うだけの材料があるわけじゃない。数年前に地質調査が行われた。それだけだ。ただ、その依頼者が株式会社川村ではなかったという点だけが、どうにも頭の片隅に引っかかっていた。
そんな話をしているうちに柴田さんの家へ到着した。
「じゃあ、ここでいいわ。二人ともありがと」
「うん。また明日ね、直美」
「おう」
柴田さんが玄関を開け、家の中へ入るところまで確認する。
よし。護送任務完了。これで本日の重要ミッションの一つを無事に達成した。報酬として経験値の一つくらい入ってもいいと思う。
俺と夏樹は来た道を少し戻り、食堂やまもとへ向かった。
しばらく歩いて商店や飲食店が増えてくる辺りまで来たところで、俺はふと足を緩めた。
「……多いな」
「ん?」
道路沿いの店に足場が組まれ、作業服姿の人たちが出入りしている。少し先でも看板が外されており、その向かい側では店内の内装を丸ごと入れ替えているようだった。
一軒だけではない。
二軒、三軒……。
シャッターに新装開店を知らせる張り紙が出ているところまである。
「こんな一遍に店って変わるもんかね」
「たまたまじゃない?」
「かもな」
商売なんて入れ替わりがあるものだし、改装時期が重なることだってあるだろう。ただ、これだけ食堂の近くに新しい店が増えるとなると、少し面倒かもしれない。新装開店というだけで客は動く。そこへ割引やクーポンでも付けば、なおさらだ。食堂やまもとの客が戻ってきたばかりの時期に重なるのは、あまりありがたい話ではない。
何か対策くらいは考えておいた方がいいかもしれないな。そんなことを考えながら、隣を歩く夏樹の歩幅に合わせる。本人は俺の懸念など知る由もなく、機嫌良さそうに鼻歌を歌いながら歩いていた。
何がそんなに楽しいのだろう。
まあ、いいか。
俺は少しだけ歩く速度を落とし、その鼻歌を聞きながら食堂やまもとへ向かった。
食堂やまもとに着くと、店内はいつもの常連客で賑わっていた。
「「お疲れ様です」」
俺と夏樹が声を揃えて店に入ると、厨房から店長が顔を出す。
「山神君、夏樹ちゃん、今日もよろしくね!」
笑顔で迎えてくれた店長に挨拶を返し、それぞれ着替えを済ませて持ち場につく。カウンターでは、見慣れた大工さん二人がすでに出来上がりつつあった。まだ夕方なのだが、この人たちの体内時計では夜なのかもしれない。
「しっかし驚いたよ。まさか川村社長が逮捕されるなんて」
「僕も驚きました。ご家族のことも心配です」
店長が神妙な顔で答える。
「確か、あそこの息子さんって高校生くらいだったっけ?」
「たしかそうだな。制服着てるの見たことあるぜ」
「うちの娘と同級生なんですよ」
「え? そうなの? 萌ちゃんと同じ学校?」
その言葉を聞きつけた山本さんが、注文票を片手に会話へ乱入した。
「そうです。クラスは違うんですけど、イケメンで学校でも有名です。それにサッカーがすごく上手で、日本代表にも選ばれているんですよ」
「えぇ!? 日本代表!? すげぇじゃん!」
「ほえぇ。今度会ったら、今のうちにサイン貰っとくか?」
「確かに。スパイクとかくれねぇかな」
「お前、サッカーなんかしねぇだろ」
「ばっか。有名になったら高値で売れるかもしれないだろ?」
「せこいねぇ。相手は高校生だぞ? 純粋な気持ちで応援できないもんか?」
「確かに……そりゃそうだ! あっはっは!」
反省が軽い。とはいえ、二人とも川村本人まで悪く言うつもりはないようだった。罪を憎んで人を憎まず。昨日、夏樹や柴田さんと話した言葉を思い出す。
「川村社長もなぁ。無愛想だし強面なんだけど、話してみるとそうでもないんだよ」
「あぁ。仏頂面で気難しいけど、情には熱い人なんだよな」
「知り合いなんですか?」
俺が聞くと、大工さんが振り返った。
「仕事で何度かな。川村んところが元請けの現場に入ったことあるから」
なるほど。それならネットの噂話より、多少は実情を知っていそうだ。
「ここ何年か、あそこも大変そうだったけどな」
「そうそう。仕事はあるのに金がねぇって感じだった」
俺は料理を運びながら耳を傾ける。
「どういうことです?」
「俺らみたいなのは詳しい経営までは分からんけどさ。現場は増えてんのよ。特にここ最近、開発絡みの仕事がやたら多かった」
「なのに社長はいつも金の話してたな。資材も上がってるし、人も足りねぇし、外に頼めばその分金も掛かるって」
「へぇ……」
仕事が増えれば儲かる、というほど単純ではない。以前にも資金繰りに苦労している話は聞いていた。支払いが遅れたことがあるとも言っていた。あの時に始まったことではなく、数年前から苦しかったようだ。
「それに、ちょっと前から人の出入りも激しかったよな?」
「あぁ。若いのが入っても辞めるんだよ。社長、仕事には厳しいから」
「厳しいっていうか、怒鳴るからな」
「俺たちは外部の人間だからいいけど、社員はたまったもんじゃないだろうな」
二人が顔を見合わせる。
「でも、困ってる社員に金貸したとか、家族が病気になった社員を休ませて自分が現場回ったとか、そういう話も聞くんだよ」
「そうそう。だから嫌われるだけでもないんだ。面倒くせぇ親父なんだよ、あの人」
ずいぶんな評価だ。
口下手で、短気で、パワハラ気質。
それでも情には厚い。
だからこそ、追い詰められたときに何を選んだのか。まだ俺には分からない。
「きっと、いろんな事情があったんじゃないかって思うんだよな」
大工さんが酒を一口飲んだ。事情があったとしても、やったことがなくなるわけではない。ただ、事情を知ることと、罪を許すことは別だ。俺がそんなことを考えていると、もう一人が突然声を潜めた。
「それにしても、奥さんが超絶美人なんだよ!」
……急に話の品位が崖から落ちた。
「分かる! 夏樹ちゃんが年取ったら、あんな感じになるのかもな」
「えぇ! 夏樹ちゃんが人妻!? なんかエロい!」
「えぇ!? 何ですか突然!!」
ホールにいた夏樹が真っ赤になる。
「焦った顔もかわいいなぁ。夏樹ちゃん、ちょっとこっち来てお酌を――」
「辞世の句は読み終わりましたか?」
店長がいた。いつの間に。しかも手には大根おろし器が握られている。
「「ひぃぃっ!!!」」
「紅葉おろしを作っておくのを忘れましてね……」
にこやかである。恐ろしいほどに。
「「厨房で作ってください」」
大工二人の声が綺麗に揃った。こうなるに決まっているのに、なぜこの人たちは学習しないのだろう。俺は大根おろし器から逃げる大工二人を眺めながら、小さくため息をついた。
人間、学習しないといつか痛い目を見る。
……まあ、この店の場合は物理的に痛い目を見る可能性があるので、そろそろ本当に学習した方がいいと思う。




