第80話 幼馴染はお見通し
まったく予想していなかったわけじゃない。むしろ、こうなる可能性があると思ったから昨日あの場所へ行った。
立入検査が延期された。
もし俺が疑っている相手が本当にあの場所を利用していたのなら、その時間を無駄にはしないだろうと思った。だから山田農園から山へ入り、旧道奥の広場を確認した。
そこでは大勢の作業員が慌ただしく動いていた。
動画を撮った。黒い車が入ってきたから、写真も撮った。
そして藤嶋さんへ送った。何かの役に立つと思ったからだ。株式会社川村が俺の考えていたようなことを本当にやっていたのなら、責任を問われるのは当然だと思う。
山田農園は被害を受けた。食堂やまもとも被害を受けた。山本さんたちだって、散々苦しんだ。だから真相が明らかになることは望んでいた。そのために俺も動いた。
それなのに。
「…………」
胸の奥に、妙な重さがあった。
逮捕。
文字にすれば、たった二文字だ。けれど、その二文字によって一人の人間の人生は大きく変わる。
そして、それだけじゃない。川村にとっては自分の父親だ。
俺が昨日撮った映像や写真がどれほど影響したのかは分からない。それでも、こういう結果につながる可能性があることくらい、最初から分かっていた。
覚悟はしていた。
……つもりだった。
『……山神君』
藤嶋さんの声が聞こえて、俺はようやく電話中だったことを思い出した。
『大丈夫ですか?』
「……はい。大丈夫ですよ」
自分でも分かるくらい、一拍遅れて答えた。
「思っていたよりも早かったので、少し驚いただけです」
我ながら便利な言葉だと思う。
少し驚いただけ。
そういうことにしておけば、これ以上自分の中にあるものを説明する必要がない。藤嶋さんはしばらく黙っていたが、やがて穏やかな声で話し始めた。
『遅かれ早かれ、この結果になっていたのだと思います』
「…………」
『昨日、編集長にデータを見てもらった後、警察にも情報を提供したんですが、どうやら警察は以前から株式会社川村について調べていたようです』
「以前から?」
『ええ。もちろん捜査中のことですから、私たちにも詳しい内容までは教えてくれません。ただ、旧道奥の土地だけを見ていたわけではないようですね。株式会社川村が請け負った過去の工事、その工事で出た廃棄物の処理記録、運搬に使われた車両、それらをかなり広く調べていたようです』
俺はテレビを見たまま、藤嶋さんの話を聞く。
『行政側が調べていた情報もありますし、関係者への聞き取りも進んでいたのでしょう。山神君が撮影したあの場所についても、警察はすでにある程度把握していたようです』
「じゃあ……俺が撮ったものがなくても?」
『遅かれ早かれ、と言ったでしょう?』
藤嶋さんは、今度ははっきりと言った。
『ただし、誤解しないでください。山神君の動画や写真に価値がなかったという意味ではありません。むしろ逆です。昨日、本来なら行政の立入検査が行われる予定だった。それが延期された直後に、あの場所で普段以上の人数が動いていた。その様子が時刻の分かる形で映像として残っている。これはかなり重要な情報です』
「……黒い車もですか?」
『ええ。写真だけを見て、あの人物が誰なのか断定することはできません。ただ、警察には私たちが持っていない情報があります。周辺の防犯カメラ、車両の記録、関係者への聞き取り、会社側から押収した資料。そういったものと照合すれば、一枚の写真や数秒の映像が持つ意味はまったく変わります』
「なるほど……」
『例えば山神君の写真だけなら、「黒い車が来た」で終わります。でも別の場所の防犯カメラに同じ車が映っていて、その車の所有者や使用者が確認できているなら話は変わるでしょう?』
「……確かに」
『警察というのは、そうやって一つ一つ裏付けを取っていくんです。少なくとも、山神君が撮った動画一本を見て、「よし、社長を逮捕しよう」となったわけではありません』
当たり前だ。そんな捜査だったら、そっちの方が怖い。
『すでに積み上げられていた証拠や情報があって、そこに山神君の映像も加わった。そう考えるのが一番近いと思います』
「……そうですか」
『それに、逮捕するかどうかを判断したのは警察です。山神君は自分が見たものを記録して、それを提供した。それだけですよ』
分かっている。俺一人が事件を解決したわけじゃない。俺が川村の親父さんを逮捕したわけでもない。俺が警察に命令したわけでもなければ、証拠を捏造したわけでもない。もし何もしていなければ、株式会社川村が疑われることもなかった――なんて話でもない。
警察は警察で捜査していた。行政は行政で調べていた。藤嶋さんたちも情報を追っていた。俺が撮った映像は、その中に加わった一つに過ぎない。
分かっている。全部、理屈では分かっている。
『日本の警察は、私たちが思っている以上に優秀ですよ。一人の高校生が持ち込んだ動画だけで、人一人を逮捕したりはしません』
「高校生ってところ、強調する必要あります?」
『ふふふ。少し元気が戻りましたね』
「別に最初から元気ですよ」
『そういうことにしておきましょうか』
なんだ、その言い方は。
その後、藤嶋さんと二言三言話し、「朝早くからすみませんでした」ともう一度謝られてから電話を切った。
スマホを下ろす。
テレビでは、まだ株式会社川村のニュースが続いていた。画面には会社の建物が映り、次いで警察車両の映像へ切り替わる。俺はリモコンを持ったまま、その光景を見続けた。
藤嶋さんの説明は理解できた。俺の映像だけで逮捕されたわけではない。遅かれ早かれ、こうなっていた可能性が高い。それなら俺が罪悪感を覚える必要はない。
論理的にはそうなる。
俺が昨日やったことだって間違っていたとは思わない。もう一度同じ状況になったとしても、おそらく俺は同じことをする。
それでも。
「…………」
胸の奥に残った重さだけは、理屈通りには消えてくれなかった。ふと、自分がロードワーク用の格好をしていることに気づく。
そうだった。俺は走りに行くところだった。
時計を見ると、いつもならもう家を出ている時間を過ぎている。
靴を履けばいい。
玄関を開ければいい。
いつもの道を、いつもの距離だけ走って帰ってくればいい。
毎朝やっていることだ。なのに、なぜか足がそちらへ向かなかった。
ニュースが終わり、別の話題に切り替わる。天気予報が始まり、今日の最高気温が表示される。それでも俺はテレビを消さなかった。ロードワークにも行かなかった。
ただリモコンを片手に持ったまま、しばらくテレビの前に立ち続けていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ピピピピッ――。
「んぅ……」
枕元で鳴っているアラームを手探りで止める。
朝だ。分かっている。分かっているけど、あと五分くらいなら朝じゃないことにしてもいいんじゃないかな。
そんなことを考えながら布団に顔を埋めたものの、二度寝したら創ちゃんに何を言われるか分からないので、諦めてもそもそと起き上がった。
「……よし」
全然よくない。眠い。
それでもベッドから抜け出し、髪を軽く整える。この時間なら、創ちゃんはもうロードワークから帰ってきている頃だ。もしかしたら朝ご飯も作ってくれているかもしれない。
創ちゃんの作る朝ご飯って、結構美味しいんだよね。本人に言うのは照れくさいから、あんまり言わないけど。
今日は何だろう。卵焼きかな。お味噌汁もあるかな。
そんなことを少し楽しみにしながら部屋を出て、リビングへ向かう。
「創ちゃ――」
声をかけようとして、止まった。創ちゃんがテレビの前に立っていた。
「…………」
なんだろう。おかしい。
創ちゃんがテレビを見ること自体、そんなに多くない。ましてや、こんな朝早くから立ったままテレビを見ているなんて珍しい。しかもロードワーク用の格好をしている。
走りに行った後?
いや、違う。なんとなくだけど、分かる。
たぶん、行ってない。私は創ちゃんの後ろから、テレビの画面を覗いた。
『株式会社川村 社長を逮捕』
「……え?」
一気に眠気が飛んだ。
逮捕?
川村君のお父さんが?
画面には株式会社川村の建物が映っていて、アナウンサーが事件について説明している。
どうして……?
最初はそう思った。でも、まったく心当たりがないわけじゃない。
食堂にみんなで集まって話していた時にも、株式会社川村が何か悪いことをしているんじゃないかという話は出ていた。
直美も疑っていたし、藤嶋さんも調べていた。創ちゃんだって、その調査に協力していたはずだ。だから私たちの知らないところで、警察もずっと調べていたのかもしれない。
逮捕されたという事実には驚いた。でも、それ以上に気になったのは――。
「…………」
創ちゃんだった。
背中しか見えていない。
何も喋っていない。
いつもの無愛想な創ちゃんと言われれば、それまでなのかもしれない。
だけど、違う。
元気がない……?
落ち込んでる?
ううん。なんて言えばいいのか、うまく説明できない。
ただ、いつもの創ちゃんじゃない。長い付き合いだから分かる、なんて言ったら、また「超能力者かよ」とか言われそうだけど。
それでも分かってしまった。
テレビの前に立ってニュースを見つめている創ちゃんは――。
悲しんでいた。
何があったのかは分からない。創ちゃんが何を考えているのかも、全部分かるわけじゃない。でも、こういう時にどうすればいいのかは知っている。私は何も言わず、創ちゃんの背中に近づいた。
そして、そのまま後ろからぎゅっと抱きしめる。
「どわわっ!!」
創ちゃんの体が大きく跳ねた。
「ちょ、なんだよ! いきなり!」
振り返ろうとするけど、私は腕を緩めない。それどころか逃がさないように、もう少しだけ力を込める。
「寝ぼけてんのか?」
「寝ぼけてないよ」
「じゃあ何なんだよ……」
声はいつもの創ちゃんだった。
いつもの調子で、いつものように私へ軽口を叩いている。だからこそ分かる。きっと空元気だ。私に心配をかけないように、いつも通りに振る舞っている。
「創ちゃん」
「ん?」
「大丈夫だよ。私がついてるよ」
「憑いてる?」
「……え?」
「お前は怨霊か? いや、生きてるってことは生霊か?」
「『ついてる』の字が違うよ!!」
せっかくいいこと言ったのに!
「それに怨霊でも生霊でもないよ! 幼馴染だよ!」
「おぅ……朝からツッコミの切れがいいな」
「誰のせいよ!」
もう。こういうところは本当にいつもの創ちゃんだ。
でも、やっぱり違う。弱っている時ほど、創ちゃんは弱っている姿を見せない。昔から変わらない。いつだって穏やかで、落ち着いていて、冷静で。
それでいて、とっても優しい。
だからきっと今も、自分のことじゃなくて誰かのことを考えて心を痛めているんだと思う。
最初は私の腕を外そうとしていた創ちゃんも、今はもう諦めたらしい。されるがままになっている。
「ねえ、創ちゃん」
「なんだよ」
「今日は私も一緒に朝ご飯作っていい?」
「へ? それは別にいいけど、何でまた?」
「えへへ~。そんな気分なの」
「……ほーん」
「創ちゃん、もう興味なくしたでしょ……」
「え?」
この「ほーん」は知っている。創ちゃんが話題に対してどうでもよくなった時に出るやつだ。幼馴染を舐めないでほしい。
「いや、そうでもないぞ?」
「声ちょっと高くなってるよ?」
「気のせいだ」
分かりやすいなぁ。少しだけおかしくなって、抱きしめていた腕の力を緩める。
「……ありがとな」
「…………」
本当に小さな声だった。聞こえるか、聞こえないかくらい。
でも、ちゃんと聞こえた。
私は聞こえなかったふりをして、何も答えない。ただ腕をほどいて、創ちゃんを解放した。
それでいい。今は、それでいいと思った。
創ちゃんと二人でキッチンに立つ。さっきまでテレビの前で動かなかった創ちゃんも、料理を始めると少しだけいつもの調子に戻ったように見えた。
「だし巻き卵、甘いやつね」
「分かってるよ。弁当にも入れるからな」
「やった」
創ちゃんは卵を溶きながら、隣のフライパンでは鶏肉とピーマンを甘辛く炒めている。さらに、昨日の残りのひじき煮もお弁当に入れるらしい。朝ご飯のおかずにもなるので、まとめて作ってしまうそうだ。
私はその隣でサラダを作りながら、お味噌汁を担当する。
創ちゃんは時間があると出汁から取ったりするけど、私はそんなことしない。というより、朝からそんな余裕はない。なので我が家――じゃなかった、創ちゃんの家には、だし入りのお味噌が常備されている。
私が時々料理をするから買ってあるのだ。朝の忙しい時間には、とてもありがたい文明の利器である。そんなことを考えていると、テーブルに置いていた私のスマホが鳴った。
「あ、直美だ」
手を止めて電話に出る。
「おはよう! 直美! どうしたの?」
『おはよう、夏樹。今も山神の家にいるんでしょ? 山神は近くにいる?』
「…………」
そうだった。この前、直美には創ちゃんとほとんど一緒に暮らしていることがバレたんだった。もう取り繕っても仕方ない。
「うん。いるよ? 代わろうか?」
『……開き直ったわね? まったく。いえ、スピーカーにしてもらえば一緒に会話できるでしょ? それでいいわ』
「あ、うん。ちょっと待って」
スマホを操作してスピーカーへ切り替える。
『山神? 聞こえる?』
「えぇ?? その声は柴田さん?」
創ちゃんが卵焼き器を持ったまま振り返った。
『そうよ。 おはよう。 当たり前のようにこの時間に二人一緒にいるのね。 手を出したりしてないでしょうね?』
「ちょっと! 直美!」
「……手なんか出すかよ。 おはよう」
『ふふふ。 いつもちゃんと挨拶はしてくれるのよね。 悪態を吐きながら』
「で、どうしたんだ? こんな時間に」
『朝のニュース見た? 株式会社川村の』
創ちゃんの手が、ほんの少しだけ止まった。
「……あぁ。朝早くに藤嶋さんから連絡もらってな」
『……それならいいわ。 後は直接会った時に話す。 それより萌が心配だから、萌の家に寄ってから学校に行こうと思うの』
私も創ちゃんを見る。昨日の萌はかなり元気になっていた。なっていたというか、私を絞め殺しかける程度には元気だった。でも、今日のニュースを見たらどう思うか分からない。それに普段は、一人にできない直美を萌が迎えに行ってくれている。
「……分かったよ。 少し早めに出て、柴田さんの家に寄るようにするよ」
創ちゃんが私を見る。
「夏樹、ちょっと早めに出るけど準備間に合うか?」
「……おかわり我慢すれば……」
「あ~……ちょっと行儀悪いけど、おにぎりにしたら食べながら行けるか」
「さすがにそれはダメだよ。 行儀悪いし」
「いや、俺が食べながら行く分には別にいいだろ。 後は俺がやっとくから、夏樹は先に朝飯食ってていいぞ?」
「え?」
その瞬間だった。
ぐ~~ぅ。
「…………」
静かなキッチンに、私のお腹の音が響いた。
しかも。スマホはスピーカー通話中である。
「…………」
恐る恐る創ちゃんを見る。創ちゃんは何も聞こえなかったような顔で卵を巻いている。口元だけ半笑いだった。
「……創ちゃん」
「なんだ?」
「笑ってるよね?」
「気のせいじゃないか?」
『ふふふふっ。 夏樹、お言葉に甘えたら? 体は正直なものよ』
「直美までぇ……!」
顔が熱い。私は腹いせに創ちゃんの腕をぺしっと叩いた。
「痛っ。 なんで俺?」
「……そうする!」
「何が!?」
私は返事もせず、出来上がった朝食をテーブルへ運び始める。スマホの向こうでは直美がまだ笑っている。創ちゃんまで、私を見ながら微笑んでいた。
……もう。そんな顔できるなら、少しは大丈夫かな。
そう思いながら、私は朝ご飯をテーブルに並べた。




