第77話 青空と4人の昼休み。とりあえず昼飯にしよう
昼休み。午前中の授業という名の苦行を無事に乗り越えた俺は、机の横に掛けていた弁当を取り、いつものように屋上へ向かう準備をしていた。
今日は色々ありすぎた。朝からフェイク動画を見せられ、園長からは保健所が食堂やまもとへ調査に入ると聞かされ、その挙げ句、山本さんに抱きつかれて危うく絞め落とされるところだった。
まだ半日しか経っていないという事実に驚愕する。今日はもう帰っていいんじゃないだろうか。
「全力で力になるって言ったからには、何か手は考えているの?」
「んあ?」
弁当を持ったまま顔を上げる。
「柴田さんか。いや、具体的には何も」
「あなたね……」
柴田さんが呆れた顔をする。
「仕方ないだろ。あれからずっと授業だったんだから。授業中に別のこと考えてたら先生に失礼じゃないか」
「本を読んでいる人間が言う台詞ではないわね」
「…………」
痛いところを突く。相変わらず攻撃の精度が高い。
「まあ、ちょうどいいや。夏樹と山本さんも一緒に屋上で昼飯食わないか?」
「あら。珍しいわね。あなたから誘うなんて」
柴田さんが少しだけ目を見開いた。
「俺だって人を飯に誘うことくらいある」
「初めて見たわ」
「希少動物の繁殖行動みたいに言うな」
「で、どうしたの?」
「ちょっと聞いてほしい話もあるしな」
園長から聞いた話だ。旧道奥の広場で予定されていた調査が延期になり、代わりに保健所が食堂やまもとの調査へ向かうことになった。あの二人にも共有しておいた方がいい。
「そう。分かったわ。二人は今、席を外しているから後で合流するわ」
「トイレか?」
「…………」
なぜ黙る。
「あえてそれを言わなかったことが伝わらなかったのかしら?」
「生理現象なんだから、別に隠す必要もないだろうに……」
「あなたとは違うのよ」
「あっそ……」
何が違うのかよく分からん。人類である以上、等しく訪れる生理現象だと思うのだが、これ以上追及するとまた何か言われそうなのでやめておこう。
「ま、とにかく屋上に先に行っとくからな」
「分かったわ」
柴田さんと別れ、俺は一足先に教室を出た。目的地は普段使っている校舎の屋上ではない。実習室などが集まっている別棟の屋上だ。二階以上には校舎同士をつなぐ連絡通路があるので、一度外へ出る必要はない。
弁当を片手に渡り廊下を進む。昼休みだけあって向こうから何人か生徒が歩いてきたが、実習棟へ近づくにつれて人影は減っていった。
実習棟には普通教室がない。昼休みにわざわざこちらへ来る物好きは少ないのである。その物好き筆頭が俺なんだが。
屋上へ続く階段へ入り、一段ずつ上っていく。
「――だから……」
「ん?」
上の方から話し声が聞こえた。
珍しいな。先客か?
別に屋上は俺の所有物ではないので誰がいようと構わないのだが、なんとなく気になった。
なぜか俺は足音を立てないように階段を上り始めた。
……いや、なんでだよ。
自分でも分からない。別に悪いことをしているわけじゃないんだから、普通に上がればいいじゃないか。しかし、一度忍び足になってしまうと、途中から普通に歩き始めるのも妙な気がする。結果、弁当を持った男子高校生が昼休みの階段をこそこそ上るという、傍から見れば完全に不審者な状態になった。
あと数段というところで、踊り場に二人の男子生徒がいるのが見えた。見覚えのある後ろ姿だ。俺は思わず足を止める。そこにいたのは川村と西海だった。
なんとも珍しい組み合わせ――でもない。むしろ学校では大抵一緒にいる二人だ。ただ、こんな人気のない場所で話しているのは珍しい。
「お前の家、相変わらず資金繰りが苦しいらしいな」
西海の声だった。
「……そんな話をするために僕をここに呼んだのかい?」
川村の声が少し低くなる。
「いや、色々助言してやっているのに成果が出てないじゃないか。でもまさか、本当にあんなことまでするとは思わなかったぜ」
「……融資を受けるのに必死なんだろう。親父は」
あんなこと?何の話だ?
気にはなったが、今の会話だけでは情報が足りない。
「銀行からは総スカン喰らってるみたいだしな。確かに、経営資料を見るとあれじゃ銀行は金を貸さないだろう」
「僕は高校を卒業したら海外に行くつもりにしているから、家のことはどうだっていいんだよ」
「今のままの状態で契約まで持っていけたらいいけどな。未だにSNSでお前、炎上しているじゃねぇか」
「……次の試合で結果を出せば、みんな掌を返すさ」
「そうなればいいな」
「……」
俺は階段の途中で立ち止まったまま、弁当の入った袋を持ち直す。
盗み聞きするつもりはなかった。本当にない。ただ、今ここで「こんにちはー」と登場するのも、それはそれで気まずい。
進むも地獄、戻るも地獄。俺はただ平和に昼飯を食いたかっただけなのに。
「お前がカーストのトップから落ちてしまうと色々困るんだよ」
「……君も僕のおこぼれが目当てだったな。本当によく分からない感覚だよ。君たちのそういう考え方」
「……あぁ。お前みたいな奴はそうみたいだな。俺も俺以外の奴の感覚は分からんが」
「君は変わっているよ」
「とにかく、カーストのトップの位置を維持してくれよ。今日はそれを伝えたかったんだ」
……メールですりゃいいじゃねぇか。わざわざ人の少ない実習棟の屋上まで呼び出して話す内容か?
いや。できない理由があるのかもしれない。文字として残したくないとか。
……知らんけど。
それより、今の会話だ。何の話をしているのかは、正直よく分からない。分からないものを想像で補完しても仕方ないので、とりあえず聞こえた内容から事実だけを拾ってみる。
まず、株式会社川村は今も資金繰りに苦しんでいるらしい。銀行から融資を受けるのも難航している。ただし、西海がどうして株式会社川村の経営資料まで知っているのかは不明。
川村本人は卒業後、海外へ行くつもりらしい。何らかの契約を目指している。話の流れからすれば、サッカー関係だろう。そして現在、SNSでの炎上がその邪魔になる可能性がある。
ここまでは分かる。
問題は――。
『色々助言してやっているのに成果が出てない』
『まさか、本当にあんなことまでするとは思わなかった』
この二つ。誰が、何のために、どんな助言を行った?「あんなこと」とは何だ?
……分からん。
情報不足。なら、現時点では保留だ。想像だけならいくらでもできるが、それを事実の箱に突っ込むと後で面倒なことになる。最後に、西海は川村が学校内で目立つ立場にいることに何らかのメリットを感じている。川村自身もそれを認識している。これも事実。
以上。
……うん。やっぱり何の話か分からん。俺は心の中で小さくため息をついた。
それにしても俺、いつまでここにいればいいんだ?
弁当を食べに来ただけなのに、なんで昼休みに他人の家の資金繰りまで聞かされているんだろう。
俺は弁当の袋を握ったまま、階段の途中で静かに二人の会話が終わるのを待っていてもいいのだが、昼休みは有限である。しかも、夏樹たちには先に屋上へ行っていると伝えてしまった。
何より腹が減った。他人の家庭事情と学校内カーストについて盗み聞きしながら昼飯を抜くなんて、あまりにも割に合わない。
よし。俺は一度足を止め、それから今度はわざと上履きの踵を階段に当てた。
カツン。カツン。いかにも『今から人が上がっていきますよ』という足音を響かせながら階段を上る。
「――!」
二人の話し声が途切れた。
踊り場まで上がると、川村と西海がこちらを見ている。二人とも一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに何事もなかったような表情へ戻った。
「よう」
俺は軽く片手を上げる。別に二人に用事はない。そのまま横を通り抜け、屋上へ続く最後の階段へ足をかけた。
これで俺は昼飯を食える。
めでたし、めでたし。
「お前、どんな弱みを握ってるんだ?」
「ん?」
背後から西海に声をかけられ、振り返る。
「いつもあの三人と一緒にいるが」
「あぁ……またその話か。前も言ってたな? それ」
「不自然だろうが」
「何が?」
「広瀬に柴田、それに山本。学校でも目立つ女が三人揃って、なんでお前の周りにいるんだよ」
「知らねぇよ。俺自身が望んだことじゃない。向こうが勝手に寄ってくるだけだよ」
俺としては、静かに本を読める生活を望んでいる。
それなのに夏樹は幼馴染という特権を最大限に行使して俺の生活圏へ侵入してくるし、柴田さんには顔を見るだけで思考を読まれ、山本さんにはつい数時間前、物理的に生命を奪われかけた。
華やかな青春?
どこがだ。命懸けだぞ。
「でも、そのうち寄ってくることがなくなるからな。安心しろ」
「ん?」
妙な言い方だな。とは思ったものの、俺は深く考えず肩をすくめた。
「そうなるといいな」
「そうなるさ」
西海が薄く笑った。
「楽しみだな」
「…………」
楽しみ?何が?俺が一人になることを皮肉っているのか。それとも、別の意味があるのか。西海の表情を見てもよく分からない。こいつ、たまに会話が一人だけ三手くらい先に進んでいるんだよな。
俺は数秒その場に立ち、西海が続きを話すのを待ってみた。
「…………」
「…………」
何も言わない。終わりかよ。
「じゃ」
これ以上ここにいる理由もない。俺は再び屋上へ向かって歩き始めた。
その時、ふと視線を感じる。川村だった。西海と俺が話している間、一言も会話に入ってこなかった川村が、黙ったままこちらを見ている。
「……?」
何だ?俺の顔に何か付いてるか?いや、朝に柴田さんから難病の可能性を指摘された顔ではあるが、昼までに症状が悪化した覚えはない。
そんなに見てても何もやらんぞ。そう心の中で呟き、屋上へ続く扉へ向かう。頭の片隅には、さっき西海が言った言葉だけが妙に残っていた。
――そのうち寄ってくることがなくなる。
――楽しみだな。
何なんだ、あいつ。相変わらずよく分からん。
屋上へ続く扉を開けた瞬間、むわっとした空気が俺を出迎えた。
「……暑っ」
思わず声が漏れる。
空を見上げれば、雲はあるものの日差しは強い。吹き抜ける風にはまだ多少の涼しさが残っているが、直射日光の下にいれば普通に汗をかきそうだった。
もう夏が近いんだなぁ……。少し前まで朝晩は肌寒いと思っていたのに、季節が移るのは早い。屋上に設置されたベンチまで歩き、腰を下ろす。弁当の包みを開き、膝の上に置いた。
「…………」
腹が減った。非常に減った。だが、夏樹たちを昼飯に誘ったのは俺である。誘った本人が先に食べ始めているというのはいかがなものだろうか。別に食事は競技じゃないんだから、先に食べたところで問題はない。
「…………」
俺は弁当箱の蓋を開けた。美味そう。
閉じた。
何やってんだ、俺。いつもなら本でも読みながら待つところだが、今日は三人と話をするつもりだったので持ってきていない。
本がない。スマホをいじるほどの用事もない。
飯は食えない。……暇だ。
俺はベンチの背もたれへ身体を預けた。こうして何もせずに景色を眺めるなんて、いつ以来だろう。
校庭では何人かの生徒がボールを蹴っている。遠くには住宅街が広がり、その向こうには緑の濃くなった山々が見えた。青空の下で揺れる木々を眺めていると、午前中の騒ぎが嘘みたいに穏やかだった。
「……さて」
自然と、あの動画のことを考える。朝の時点では、コメント欄もかなり荒れていた。ただ、クラスメイトたちが協力してくれたことで状況は少し変わっている。
『この証言者、食堂やまもとで食べたとは一言も言ってないよね?』
『店の映像とインタビューをつなげてるだけじゃない?』
『食堂で食べた証拠は?』
そんな指摘が増えていた。クラスメイトから話を聞いた別のクラスの連中や、その友達まで書き込んでくれているらしい。ありがたい話だ。
ただどこまで効果があるのか。ネット上の情報なんて、一度広がってしまえば完全に回収するのは難しい。訂正された情報より、最初に見た刺激的な情報の方が記憶に残ることだってある。
それより気になるのは、保健所だ。もう立入検査は終わったんだろうか。本当なら昼休みになった時点で山本さんに確認しようと思っていた。
ただ……。今日の山本さんは、朝の一件以来ずっと元気がない。普段なら教室のどこにいても存在が分かるくらい賑やかな奴なのに、今日は妙に静かだった。
そんな山本さんに、『ところで保健所の立入検査が入るって聞いたんだけどどうだった?』なんて聞くのもなぁ。下手をすれば、また朝の号泣第二ラウンドが始まる。
そして俺の首が絞まる。藪をつついて蛇を出すどころか、山本さんをつついて俺が死ぬ。
……やめておいて正解だったな。
「はぁ……」
俺は空を見上げる。考えることが多すぎる。せめて昼飯くらい平和に食わせてほしい。
そんなことを考えていると――。
ガチャッ。
背後で屋上の扉が開いた。
「創ちゃ~ん!」
聞き慣れた声が青空の下に響く。振り返ると、夏樹を先頭に、山本さんと柴田さんが屋上へ出てくるところだった。
ようやく来たか。俺は三人の姿を確認してから、膝の上に置いていた弁当箱へ視線を落とした。
よし。これでようやく昼飯が食える。
「珍しいね? 創ちゃんが一緒にご飯を食べようなんて」
俺の隣に腰を下ろしながら、夏樹が楽しそうに言う。
「屋上で大丈夫かしら? 雨や雪だったら対処法を知っているけど、槍や弓が降ってきたらどうしようもないわ」
「……あのな」
柴田さんから、俺が人を昼飯に誘うことは天変地異の前触れだという辛辣な感想が届いた。降らねぇよ、槍も弓も。
……たぶん。
「まあ、山本さんも教室で飯食うより、天気のいい外で食った方が元気になるかと思ってな」
「私のためだったんですか?」
山本さんが少しだけ顔を上げる。
「ありがとうございます。山神君」
「お、おう……」
いつもの三割くらいの声量だ。
朝ならこの程度の距離でも鼓膜に直接届くくらい元気だったのに。俺は弁当箱を開きながら、努めて普段通りに言う。
「ほら、飯にしようぜ。せっかく持ってきたんだから、食わないともったいない」
「そ、そうだね! ご飯食べて元気出そ? 萌」
夏樹も明るい声で続く。
「そうね。お腹が空いていると元気も出ないから」
「……はい」
山本さんは小さく頷き、膝の上で弁当を広げ始めた。
俺は夏樹を見る。
夏樹も俺を見る。
それから二人で柴田さんを見る。柴田さんもこちらを見ていた。
「…………」
「…………」
「…………」
三者無言。
何とか元気を出してもらいたい。ただ、肝心の方法が誰にも分からない。
……困ったな。こういう問題は、俺が普段読んでいる本にも解決法が書いてない。俺たちは青空の下、ひとまず昼飯を食べることにした。
「それで? 私たちを誘って一緒にご飯を食べようと言った理由を教えてもらえる?」
「んぐ?」
出し巻き卵を頬張っていたところへ、柴田さんから質問が飛んできた。せめて飲み込むまで待ってくれ。
俺が黙々と咀嚼している横では、夏樹が自分の弁当箱から出し巻き卵を摘まんでいた。
「萌、これ食べる?」
「……はい」
「はい。あーん」
「あー……」
山本さんが素直に口を開け、ぱくりと食べる。
……何だろう。親鳥と雛鳥を見ている気分だ。
「美味しい?」
「……美味しいです」
「よかったぁ」
夏樹が嬉しそうに笑う。それ、作ったの俺なんだけどな。まあいい。食欲が全くないわけではなさそうだ。それだけでも少し安心した。俺は出し巻き卵を飲み込み、お茶を一口飲む。
「朝、あのフェイク動画が上がってすぐ、俺が山田に呼び出されただろ? その時の話をしておこうかと思って」
「あ、ちょっと気になってたんだよね。どんな話だったの?」
夏樹も箸を止めた。
「今日、旧道奥の広場の調査に行く予定になっていたようなんだが、それが急遽キャンセルになったみたいだ」
「キャンセル?」
夏樹が首を傾げる。対照的に、柴田さんの表情がすぐに変わった。
「もしかして……」
「あぁ」
やっぱり察しが早い。
「食堂やまもとに、保健所の立入検査が入っているようだ」
「「えぇ!!?」」
夏樹と山本さんの声が見事に重なった。さっきまで元気のなかった山本さんまで大声を出したので、俺は少し仰け反る。
元気あるじゃねぇか。……いや、そういう問題じゃないな。
「ほ、保健所って……お店にですか!?」
「あぁ。園長から聞いた話ではな」
「お父さんとお母さん、そんなこと何も……!」
「山本さん。店長や奥さんから何か連絡入ってないか?」
「あっ……!」
山本さんは慌てて弁当箱を横へ置き、スマホを取り出した。画面を点灯させ、メッセージを確認する。続いて着信履歴。何度か画面を操作してから、不安そうに俺を見る。
「……ないです。着信もないですし、メッセージも来てません。まだ保健所の人が来てないんでしょうか?」
「うーん……」
今回みたいに、飲食店で食事をした人間から複数の体調不良の申告が出ている場合、提供した食事や調理環境を確認する必要がある。
当然、状況によって対応は違うだろうが、営業中の混雑した時間にわざわざ厨房へ入るより、店側と調整できるなら営業前に確認する方が動きやすいはずだ。
食堂やまもとは昼営業がある。もう昼休みになっていることを考えると――。
「この時間まで何もしてないってことは、考えにくいと思うぞ。少なくとも店には何らかの連絡が入っててもおかしくない」
「じゃあ、もう終わってるってこと?」
「その可能性はあるな。ただ、俺も園長から聞いただけだから断定はできん」
変なところで推測を事実扱いするのはよくない。俺がそう付け加えると、柴田さんが顎に手を添えた。
「でも、それならどうして萌に何も連絡がないのかしら?」
「俺に聞くなよ……」
「じゃあ、何かあったのかしら?」
その言葉に、山本さんの顔がさらに曇る。
やめろ。ただでさえ元気がないのに、不安を追加するんじゃない。
「まあ、連絡がないってことは――」
大きな問題はなかったんじゃないか。そう続けようとした、その時だった。
ピロロロロ――。
「ひゃっ!?」
突然、山本さんの手の中でスマホが鳴った。四人の視線が、一斉にその画面へ集中した。
「萌、スピーカーで話してもらうことはできる?」
柴田さんに言われ、山本さんがこくこくと頷いた。震える指で通話ボタンを押し、スピーカーへ切り替える。
『萌かい? 今、電話大丈夫かい?』
聞こえてきたのは店長の声だった。思っていたより普段通りの声で、少なくとも切羽詰まった状況ではなさそうに聞こえる。
「お父さん! 保健所は大丈夫ですか!? またお休みしないといけないんですか!?」
『あれ? 知ってたんだね。山田君から聞いたのかな?』
「で、どうだったんですか!?」
話を進めろと言わんばかりに、山本さんがスマホを両手で握って叫ぶ。
『あ~……今日は念のため、臨時休業にしようかと思ってるんだよ』
「えぇ!?」
山本さんの顔がみるみる曇った。
「そ……そんなぁ……」
『いやいや、萌。営業停止を言われたわけじゃないからね? そこは勘違いしないで』
なるほど。俺は黙って話を聞く。
『うちで食事をした後に腹痛や体調不良があった、っていう相談が保健所に複数入ったらしくてね。それで今朝、詳しい聞き取りと店内の確認に来られたんだよ』
「じゃあ……やっぱりお店で何か……」
『それはまだ全然決まってないよ。保健所の人も、うちが原因だと決めて来たわけじゃないって何度も言ってたから』
「うぇぇぇぇええん!」
『ちょっと! 萌!?』
堪え切れなくなったらしい。
『まだ何かあったって決まったわけじゃないからね!? 大丈夫だから! お父さんの説明聞いてた!?』
聞いてはいる。ただ、感情が追いついていないんだろう。夏樹がすぐに山本さんの背中を撫で始める。
「萌、大丈夫だよ。ね?」
「うぇぇ……夏樹ちゃぁん……」
このままだと店長と山本さんで話が進みそうにない。
「山神です。店長、代わりに俺が話を聞きますね」
『え? 山神君? 近くにいたのかい?』
「はい。夏樹と山本さんと柴田さんと一緒に昼飯食ってました。スピーカーだったので今の話も聞いてます」
『そっか……。またみんなにも心配かけちゃうね』
「それはいいですよ。それより、現状をもう少し詳しく教えてもらえますか?」
『うん。保健所の人の話では、相談してきた人たちの症状や発症した時間、食べたものなんかを確認している段階らしいんだ』
「共通するメニューなんかは?」
『今のところ、はっきりしたものはないみたい。腹痛だけの人もいれば、吐き気を訴えている人もいて、食べた料理もバラバラらしいよ。だから現時点では、同じ原因による食中毒が発生したと判断できる状況ではないって』
「なるほど……」
そこは重要だ。同じ店を利用した複数人から申告があれば、保健所として確認する必要はある。ただ、申告があっただけで即座に「この店が原因」と決まるわけではない。
「厨房とか食材も確認されたんですか?」
『うん。調理場の衛生状態や食材の保管状況なんかも見てもらったよ。従業員の体調についても聞かれた。必要があれば、今後さらに詳しく調べることもあるって』
「何か問題は?」
『今日確認された範囲では、これが原因だってものは指摘されてないよ』
「じゃあ、今日休むのは保健所からの営業停止じゃなくて?」
『うん。こっちの判断。調査中に営業するのも落ち着かないし、お客さんだって不安だろうからね。今日は休んで、状況を整理しようと思ってる』
それなら話はだいぶ違う。
「食中毒の可能性が高いと言われたわけでもないんですね」
『そういうこと。むしろ今の情報だけだと、一つの原因で起きたものかどうかも分からないって。ただ、全員が「食堂やまもとを利用した」って申告してるから、念のため確認してるんだってさ』
「……全員が、ですか」
『そうみたい』
俺は少しだけ眉を寄せる。
症状も違う。食べたものも違う。発症状況にも一貫性が乏しい。それなのに、食堂やまもとを利用したという一点だけは共通している。
「もしかすると、あの動画を見たことで『あそこで食べたからかも』って結び付けてしまった人もいるのかもしれませんね」
『あぁ、あの仮面をかぶった人の動画だろ? 保健所の人にも話したよ。向こうも、動画の情報だけで店が原因とは判断できないって言ってた』
「そうですか」
『まったく、迷惑な話だよ』
店長は困ったように笑っている。
……それで済ませるのか?俺なら動画の保存くらいはしておく。内容次第では訂正を求めるとか、専門家に相談するとか、何か考えた方がいい気もする。まあ、今それを言っても話が広がるだけだ。
それより――。
「うぅ……お店ぇ……」
目の前では山本さんが夏樹に抱きついたまま、まだ泣いている。俺は小さく息を吐いた。とりあえず今は、こっちをどうにかする方が先らしい。
『萌が話を聞いて心配しているかもしれないからと思って連絡しただけだから。落ち着いたら心配ないよって言い聞かせておいてくれるかい?』
「わかりました」
そう言って店長との通話を終わる。
「でも、妙な話ではあるな」
俺がそう呟くと、柴田さんがこちらを見る。
「何が?」
「今回の流れだよ。詐欺とかマーケティングで使われる手法にちょっと似てる」
「どういうこと?」
夏樹に聞かれ、俺は弁当箱を横へ置いた。
「人間は先に強い情報を与えられると、その後の出来事を、その情報に沿って解釈しやすくなるんだ。心理学でいう『プライミング』とか『確証バイアス』に近い。今回なら、あの動画を見て『食堂やまもとの料理で体調を崩した人がいる』って印象を持つだろ?」
三人が頷く。
「その状態で腹が痛くなったら?」
「あ……」
夏樹が気付いた。
「食堂で食べたからかもって思っちゃう?」
「そういうこと。実際には食べ過ぎかもしれないし、別の食事が原因かもしれない。単なる体調不良かもしれない。でも、先に原因らしきものを提示されると、そこへ結び付けて考えやすくなる」
「じゃあ、保健所に連絡した人が嘘をついているとは限らないのね」
柴田さんの言葉に頷く。
「むしろ本人は本気で疑ってる可能性もある。さらに『何人も同じ症状を訴えている』って情報が広がると、社会的証明とか同調行動も働く。みんなが言ってるなら本当だろう、ってな」
「怖いですね……」
「実際、似たような集団心理が大規模な騒動につながった例はあるぞ。例えば、ある場所で『変な臭いで気分が悪くなった』って話が広がって、次々に頭痛や吐き気を訴える人が出たのに、調査しても原因物質が見つからなかった、みたいな集団性心因反応の事例がある」
「気持ちだけで体調まで悪くなるの?」
「気持ち『だけ』って言い方は正確じゃないけどな。不安や恐怖で吐き気、動悸、頭痛みたいな身体症状が実際に出ることはある。だから本人が仮病ってわけでもない」
山本さんが俺をじっと見ている。
「つまり……お店の料理が原因じゃなくても、動画がきっかけで騒ぎが大きくなった可能性があるってことですか?」
「可能性としてはな。まだ断定はできないけど」
そこは重要なので付け加える。
「フェイク動画で疑いを作る。『被害者が複数いる』という情報で補強する。それを見た人が自分の経験まで結び付ける。さらに投稿や口コミが増えて、『やっぱり本当なんだ』と次の人が信じる」
俺は指でくるくる円を描いた。
「こうなると情報が自家発電を始める」
「嫌な発電所ね」
「俺も建設反対だ」
柴田さんの一言にそう返してから、弁当を持ち直す。
問題は、この流れが偶然生まれたものなのか。それとも、誰かが最初の一押しをしたのか。今の俺には、まだ分からなかった。




