第75話 いつもの朝、その先に
昨日の夜、眠れないと言う夏樹のために、俺は善意から地質学の本を読み聞かせてやった。いや、本当に善意だったんだ。ちょうど読んでいた教授の論文が非常に興味深く、地層に含まれる鉱物と地下水の流れについての考察なんかは、思わず唸ってしまうほど面白かった。だから夏樹にも、その感動を分けてやろうと思ったのだが――。
『創ちゃん! 1ミリも興味が持てないよ! 地層の図はウエハウスにしか見えないよ!』
枕が飛んできた。解せぬ……。
この教授の論文は面白いんだぞ、と力説してみたものの、二個目の枕を構えられたので撤退。その後、食堂やまもとチャンネルの動画編集を始めたら、夏樹は興味津々で横から覗き込んできた。
内容は山本さんの肉じゃが作り。
ただ肉じゃがを作るだけのはずなのに、いくつもの不運が奇跡的な連携を見せた結果、なぜか一瞬だけ火柱が上がるというファンタスティックな映像が完成していた。
あれには俺も耐えられなかった。夏樹と二人でゲラゲラ笑い、一通り見終わってから編集作業を始める。最初は「あ、そこ面白いから残して!」なんて口を出していた夏樹だったが、そのうち静かになったと思ったら、俺の肩に頭を乗せて寝ていた。
眠れないんじゃなかったのか、お前。
仕方なくパソコンを置き、夏樹を抱き上げてベッドへ運んだ。ここ数日ですっかりお姫様抱っこに慣れてしまった気がする。こんな技能、どこで活用すればいいんだ。
布団を掛け、電気を消して自分の部屋へ戻った俺は、編集を切りのいいところまで進めてから就寝した。
そして翌朝。いつもの時間に目が覚めた俺は着替えを済ませると、念のため夏樹の部屋へ向かった。
コンコン、と扉を叩く。
「夏樹~、起きてるか?」
「あ、創ちゃん! おはよ!」
返ってきた声が昨日までとはまるで違った。扉を開けると、夏樹はすでに起きている。それどころか、すっかり元気そうだ。
「昨日、お風呂に入らなかったから、朝にお風呂に入ろうかと思って早起きしたんだ」
「そうか。熱はどうだ?」
「大丈夫。さっき測ったら三十六・五度だったし、昨日までのだるさが嘘みたいになくなってる。創ちゃんの看病のおかげだね!」
平熱か。顔色もいいし、声にも張りがある。ようやく一安心だな。
「店長の料理のおかげじゃねぇか? いよいよ店長の料理に病気を治す効果が付与されたみたいだな……。食堂を改めて医療機関として届け出るように提案してみよう」
「なんでそうなるの!」
「『食堂やまもと内科』」
「嫌だよ!」
「診察後に定食が出てくる」
「ちょっと行きたいかも……」
行きたいんかい。夏樹はクスクス笑ってから、少しだけ表情を柔らかくした。
「それもあるけど、一番は創ちゃんだよ。ありがとう」
「……大したことしてねぇよ」
病院に連れて行って、飯を作って、薬を飲んだか確認したくらいだ。人間一人が高熱を出していれば、そのくらいはする。
「じゃ、創ちゃん、ロードワーク行ってきていいよ? 私はお風呂に入って、創ちゃんが帰ってくるまでに朝ごはん作っておくね」
「え? いいよ。朝飯くらい俺が作るから」
「んーん。今日はそのくらいさせて? いっぱいしてもらったから、ちょっとでもお返ししたいんだよ」
「そんな、気を使わなくてもいいけど」
「じゃ、決まりね! ロードワーク行ってらっしゃい!」
「いや、まだ話が――」
「いってらっしゃーい!」
ぐいぐいと背中を押され、そのまま廊下へ追い出された。病み上がりとは思えない力である。
「無理すんなよ?」
「はーい!」
「しんどくなったらすぐ――」
「大丈夫だってば!」
バタン。
扉まで閉められた。
「……元気になったな」
俺は閉ざされた扉を見ながら苦笑する。
ここ数日は夏樹の体調が気になって、いつもの生活リズムも少し崩れていた。玄関でランニングシューズの紐を締める。外へ出ると、朝の少し冷たい空気が頬を撫でた。
「よし」
久しぶり――と言っても数日ぶりだが――の通常運転だ。夏樹が元気になった安心感と、いつものルーチンに戻れる妙な嬉しさを感じながら、俺は朝の街へ走り出した。
夏樹に半ば追い出される形で家を出た俺は、いつものコースを走り始めた。朝の空気は少しひんやりとしていて気持ちがいい。空は薄い青色で、東の方から差し込む朝日が住宅街の屋根を淡く照らしている。まだ交通量も少ない。時折、新聞配達のバイクが通り過ぎ、犬の散歩をしている人とすれ違う程度だ。
「おはようございます」
「おはよう」
いつも見かける爺さんと軽く挨拶を交わし、そのまま一定のペースで走る。最初は身体を起こすようにゆっくりと。温まってきたところで少しずつ速度を上げていく。規則正しく足音が響き、呼吸に合わせて腕を振る。額にうっすらと汗が滲んでくる頃には、ここ数日の微妙な生活リズムの乱れもどこかへ消えていた。
やっぱり朝はこれだな。夏樹も元気になったし、いつもの生活も戻ってきた。そう思うだけで、普段より足取りが軽い気がした。
一通りいつものコースを走り終えて自宅へ戻ると、玄関を開けた瞬間、何やらいい匂いが漂ってきた。
出汁……かな?
キッチンからはトントンと包丁の音も聞こえている。そういえば、夏樹が朝飯を作ると言ってたな。普段は俺が作る側だから、誰かが朝飯を用意してくれているという状況が妙に新鮮だった。
……悪くない。もちろん口には出さんが。
水分を補給して少し休憩した後、いつもの筋トレを始める。腕立て、スクワット、腹筋と一通りこなしていると――。
ちょこちょこちょこ。
何やら足音が近づいてきた。
「創ちゃん」
「ん?」
顔を上げる。そこには、お玉を持った夏樹が立っていた。
……なんだ、その装備。
「創ちゃんって腹筋割れてるの?」
「……何を言い出すんだ、突然」
病み上がり一発目の質問がそれなのか?
「だって、いつも鍛えてるからどうなのかな? って思って。筋トレしてる割に、あんまり身体大きくないでしょ?」
「まぁ……自重トレーニングがほとんどだし、機器も使ってないからな。身体を大きくするための筋トレではないな」
「ふ~ん」
夏樹が俺の前にしゃがみ込む。そして、お玉を持っていない方の手を伸ばして――。
「ちょっ、おい」
ぺろっ。
俺のシャツをめくった。
「うわぁ! 凄~い!」
現れた腹を見て目を丸くする。
「板チョコみたい!」
「食い物に例えるな!」
「本当に割れてるんだね~」
「あんまり見るなよ! 恥ずかしいだろ!!」
「何でよ~。減るもんじゃなし」
「減るかもしれんじゃないか……」
「何が減るの?」
「……腹筋?」
「どうやって?」
知らん。羞恥心によって筋繊維が分解されるかもしれないだろう。
「鍛えてると腹筋ってやっぱり割れるんだね~」
夏樹はようやくシャツから手を離すと、お玉片手にふんふんと頷いている。
「いや、厳密には違うぞ」
「え?」
恥ずかしさを誤魔化すため、俺の口から勝手に知識が流れ始めた。
「そもそも腹直筋っていうのは元から腱画で区切られてるんだ。だから、腹筋運動をすれば必ず割れて見えるってわけじゃない。見た目としては筋肉量だけじゃなく、皮下脂肪の厚さも大きく影響する。つまり体脂肪率を――」
「ふ~ん」
「……聞いてる?」
「聞いてるよ~」
絶対興味ないだろ。
「だから極端な話、腹筋運動を大量にしなくても体脂肪が低ければ――」
「なるほどね~」
「…………」
俺はそっとシャツの裾を引っ張り、完全に腹を隠した。
「創ちゃん?」
「もういい。朝飯作ってこい」
「は~い」
夏樹はお玉を振りながら、ちょこちょことキッチンへ戻っていった。
何だったんだ、今の時間は。
俺は妙に居心地の悪い気分でシャツの裾をもう一度確認する。
……よし。見えてない。
誰に見られているわけでもないのにしっかり腹を隠し、俺は何事もなかったかのように筋トレを再開した。
筋トレを終えて軽く汗を流し、キッチンへ向かうと、テーブルの上にはすでに朝食が並べられていた。
白ご飯に目玉焼き。レタスやトマトを使った簡単なサラダに、湯気の立つ味噌汁。そして、小皿には漬物。
派手さはない。だが――。
「……いい」
「何が?」
「素晴らしい朝食だ」
「えぇ?」
俺は和食が好きだ。朝からパンも悪くはないが、炊きたての白飯と味噌汁が並んでいれば、それだけで俺の中ではかなりの高得点になる。
それにしても……妙な感じだ。普段は俺が朝食を作ることがほとんどだから、席に座った時点ですでに飯が用意されているという状況に慣れていない。何というか……落ち着かん。
「さ! 温かいうちに食べて」
「お、おう。いただきます」
「どうぞ、召し上がれ」
向かいに座った夏樹に急かされ、まず目玉焼きに箸を入れる。ぷつっ、と白身が切れ、黄身に箸先を入れると、とろりと鮮やかな黄色が流れ出した。
「おぉ……」
「何で目玉焼き見て感動してるの?」
「半熟だ」
「見れば分かるよ」
分かってないな。半熟の目玉焼きというのは、白飯と組み合わせた瞬間に真価を発揮するのだ。薄く塩胡椒が振られているので、醤油はほんの少しだけ。黄身を絡めた白身を飯の上に乗せ、そのまま口へ運ぶ。
「美味い!」
「ほんと?」
「うん。美味い」
そのまま白飯をかき込む。
うむ。やはり日本人の朝はこれだ。
「そんなに急いで食べなくても取らないよ?」
「違う。これは目玉焼きによって白飯の摂取速度が強制的に引き上げられているんだ」
「何それ」
夏樹がクスクス笑っている。
次に味噌汁を一口。温かい汁が身体に染み込む。
「お、味噌汁も美味い」
「ほんとに?」
「ちゃんと出汁が効いてる。味噌も濃すぎないし、朝ならこのくらいがちょうどいいな」
「……創ちゃん、褒めすぎじゃない?」
「何でだよ。美味いから美味いって言ってるだけだろ」
漬物を挟んで、また白飯。そして味噌汁。何だこれ…完璧じゃないか!
俺が黙々と食べていると、向かい側から夏樹が妙に嬉しそうな顔でこちらを見ていた。
「創ちゃんには本当に感謝しなきゃだね」
「ん?」
「私はこれだけのものしか作れないけど、創ちゃんなら同じ時間でもテキパキといろんなもの作ってくれてるもんね」
「何言ってんだ」
俺は目玉焼きを指差す。
「目玉焼きだって立派な料理だぞ。しかも塩胡椒の塩梅が最高だ。黄身の火入れもちょうどいい。味噌汁もしっかり出汁が効いてるし、めちゃくちゃ美味いぞ?」
「も、もう! 大げさだよ! 目玉焼きとお味噌汁だけじゃん」
なぜか夏樹の顔がみるみる赤くなっていく。
「なんでだよ……」
「そんな真面目な顔で褒めなくてもいいの!」
「料理の感想を言っただけだろ?」
「だから、それが……もういい!」
「……?」
よく分からん。褒めろと言われたり、褒めると怒られたり。女心というものは、目玉焼きの火加減より難しいのかもしれない。
「……でも、ありがと」
「ん?」
「何でもない。ほら、冷めちゃうよ」
「お、おう」
俺は再び箸を動かす。窓から差し込む朝日がテーブルを明るく照らし、味噌汁から立ち上る湯気がゆらゆらと揺れている。
いつもと同じ家。いつもと同じ朝。ただ今日は、俺ではなく夏樹が朝食を作った。たったそれだけの違いなのに、妙に新鮮だ。
「夏樹」
「なに?」
「おかわりある?」
一瞬きょとんとした夏樹は、すぐに嬉しそうに笑った。
「あるよ!」
うむ。やっぱり今日の朝飯は最高だ。
家を出て学校へ向かう。昨日は少し歩いただけでも息を切らしていた夏樹だが、今日はその面影がほとんどない。
「ふんふふ~ん♪」
隣から、やたらご機嫌な鼻歌が聞こえてくる。何の曲なのかは知らない。というか、途中から明らかにメロディーが変わっている気がする。たぶん本人も適当に歌っているんだろう。
「ふふ~ん♪」
……まあ、元気なら何でもいいか。
顔色も昨日とは全然違う。足取りもしっかりしているし、呼吸が乱れている様子もない。ここ数日、しんどそうな姿ばかり見ていたから、こうして横で能天気に鼻歌を歌っているだけで妙に安心する。
朝の住宅街には柔らかな日差しが差し込み、俺たちと同じように登校する学生の姿もちらほら見える。車道を走る車もまだ少なく、時折、自転車が俺たちの横を通り過ぎていった。
その時だった。
ピロン♪
聞き慣れた通知音が鳴る。俺も夏樹もスマホの通知音を初期設定から変えていないので、音だけではどちらのスマホか分からない。
しかし――。俺は無反応。夏樹だけがポケットを探った。
「創ちゃんかもしれないのに、何で無反応なの?」
「あのな……朝早くから何で俺に通知が来るんだよ」
「あ……なんか、ごめん」
「そんな気を使われるほど友達がいないわけじゃないけどな!」
何だ、その申し訳なさそうな顔は。
確かに俺のスマホは静かだ。だが、それは交友関係が狭いからではない。俺が無意味な連絡をしない人間だから、相手も無意味な連絡をしてこないだけだ。
……たぶん。
「あ、私だった」
「ほらな」
「萌からだ」
「朝から?」
「うん。『体調はどうですか? 無理しないで、万全になってから学校へ来てくださいね?』だって」
夏樹が嬉しそうに画面を見ながら返信を打ち始める。
「歩きスマホは危ないぞ」
「大丈夫だよ~」
「大丈夫だと思ってる奴が電柱にぶつかるんだよ」
「創ちゃんがいるから平気」
「俺を衝突防止装置みたいに言うな」
とはいえ、何かあればすぐ手を出せる距離にはいる。昨日まで熱を出していた人間だからな。元気そうだからといって、完全に安心するのはまだ早い。
「あ」
夏樹が顔を上げた。前方を見ると、見覚えのある二人が歩いている。柴田さんと山本さんだった。以前の一件以来、山本さんは柴田さんと一緒に登校しているらしい。なんだかんだ言いながら、山本さんは面倒見がいい。頼りになる奴だ。
「あ! 夏樹ちゃん、山神君! おはようございますです!!」
こちらに気づいた山本さんが、元気いっぱいに手を振った。
……『おはようございますです』。
完全に定着したな。最初は言い間違いなのかと思っていたが、ここまで来ると山本語として認定してもいい気がする。
「おはよう」
「萌、おはよう! 直美もおはよう!」
「おはよう。夏樹、今日は顔色も良さそうね」
「うん! もう大丈夫だよ。萌にメッセージ返そうかと思ったんだけど、前歩いての見つけたから直接伝えようと思って」
「大丈夫ですよ!元気な顔が見れて私はとってもうれしいです!」
そんな二人のやり取りを見ていると、柴田さんが俺を見る。
「山神、どうでもいいこと考えているところ申し訳ないんだけど、おはよう」
「あのな……何で俺がどうでもいいこと考えてるって分かるんだよ。おはよう」
「顔に書いてあるわ」
「どうでもいいってか? それなら今すぐ美容整形外科に行くよ」
「そうした方がいいわ。難病かもしれないから」
「…………」
こいつ。あー言えばこー言う。
俺の顔面に現れる『どうでもいいことを考えている表情』は、美容整形で治療しなければならない難病らしい。
「創ちゃん、負けたね」
「勝負してねぇよ」
「山神君、元気出してください!」
「何で慰められてんだよ!」
柴田さんは涼しい顔のまま歩いている。
駄目だ。こいつと軽口で戦うのは分が悪すぎる。俺は早々に白旗を揚げ、何事もなかったかのように前を向いた。今日も朝から平和である。
「夏樹ちゃん、体調はもう大丈夫なんですか?」
四人で並んで学校へ向かっていると、山本さんが改めて夏樹の顔を覗き込んだ。
「うん! 心配かけてごめんね。もう大丈夫。昨日、一昨日に比べるとだいぶ楽だよ。店長と奥さんにもお礼言わなきゃ」
「食堂やまもと特製の病人食――通称エリクサーはよく効いたみたいだぞ。デバフもすべて治癒する魔法の道具だな」
「それは良かったです! 私もあれを食べるとすぐによくなるんです!」
山本さんが何の疑問も持たずに同意した。
「待て山本さん。そこは否定してくれ。俺が言うのもなんだが、エリクサーが実在するみたいになってる」
「でも、本当に元気になりますよ?」
「ほら、実証例まで出てきた」
これはいよいよ食堂やまもとの医療機関化を検討すべきかもしれない。そんなことを考えていると、柴田さんが涼しい顔で口を挟んだ。
「世の中にそんなものがあるの? ファンタジー世界のものだと思っていたわ」
「事実は小説より奇なりってやつさ。流石に身体が光り出すってことはなかったが……」
「そうなの……。光る成分だけ抽出して山神に飲んでみてほしかったのに」
「やだよ。俺は目立ちたくないって言ってるだろうが」
「あら、残念」
「残念じゃねぇよ」
ただでさえ目立ちたくないのに、登校中に発光する高校生になってたまるか。夜道なら便利かもしれないが。
「ふふっ。創ちゃんが光ってたら面白いね」
「山神君、暗いところでも本が読めますね!」
「お前ら、俺を何だと思ってる?」
照明器具ではない。
俺の抗議を聞いて、夏樹と山本さんが顔を見合わせて笑う。柴田さんまで口元に小さく笑みを浮かべていた。
まったく……。
まあ、昨日は夏樹のことを本気で心配していた二人だ。こうしてくだらない話ができるくらい元気になったことに、安心しているんだろう。山本さんなんて、さっきから何度も夏樹の顔を確認している。
「でも、本当に良かったです。昨日も心配してたんですよ?」
「ありがとう、萌」
「今日のお仕事も無理しなくていいですからね?」
「うん。でも、今日はちゃんと働くよ」
「無理そうなら俺が強制送還するから大丈夫だ」
「創ちゃん、過保護!」
「ぶっ倒れられるよりマシだ」
「それなら安心ですね!」
「萌まで!」
そんな会話をしながら、四人で朝の通学路を歩いていく。
そして――。やっぱり目立つ。
向こうから歩いてきた男子生徒が夏樹を見て、次に柴田さんを見て、山本さんを見て、最後に俺を見る。
……なぜ最後に俺を確認した?
女子生徒の集団もこちらをちらちら見ながら何か話している。夏樹、柴田さん、山本さん。学校でも有名な三人が揃って歩いているんだから、当然と言えば当然なのだろう。以前の俺なら、周囲から視線が飛んでくるたびに居心地が悪くなり、どうやってこの集団から自然に離脱するか真剣に検討していた。
だが最近は――……まあ、いいかと思える。慣れとは恐ろしい。俺の目立ちたくないアレルギーも、長期間の暴露によって耐性を獲得しつつあるらしい。
「山神、何か失礼なこと考えてない?」
「考えてない」
「即答なのが怪しいわ」
「俺の心に侵入してくるな!」
「創ちゃん、朝から元気だね~」
「山神君もエリクサーが効いたんじゃないですか?」
「俺は食ってねぇよ!」
三人の笑い声が朝の通学路に響く。
……うん。今日も平和だ。そして俺は、今日も目立っている。
もう諦めようか。
いや、諦めたらそこで試合終了だ。最後まで頑張るんだ。
え?何を?
教室に着いた俺は、いつも通り自分の席へ向かった。鞄を机の横に掛け、椅子に座る。そして昨日から読みかけになっていた本を取り出した。
うむ。これだよ、これ。
朝の教室。ホームルームまでのわずかな時間。周囲の雑音を意識から切り離し、本の世界へ潜っていく。
夏樹たちはというと、女子生徒の集団に混ざって談笑していた。昨日休んでいた夏樹に声をかける奴も多いらしく、あっという間に輪の中心へ吸収されている。
俺には関係ない。さあ、読書だ。
数ページほど読み進め、ようやく集中力が高まってきた、その時だった。
「えっ!? これ、食堂やまもとじゃん!」
「本当だ!」
「萌ちゃん! これ見た!?」
「え? なんですか?」
ざわざわざわ……。
「…………」
俺の集中力が霧散した。
誰だ。俺から至福の読書時間を奪った奴は。
若干の不満を抱えながら顔を上げると、教室の一角に人だかりができている。その中心にいたのは山本さんだった。
また何かあったのか?そう思って眺めていると、人垣から夏樹が飛び出してきた。
「創ちゃん!! これ見て!」
「近い近い。スマホが近い」
鼻先数センチのところに画面を突きつけられる。
「食堂やまもとのことだよ!」
「……何?」
仕方なく本に栞を挟み、夏樹からスマホを受け取る。画面に映っていたのは、仮面を被った動画配信者だった。
『――今回取り上げるのは、今ネット上で注目を集めている個人経営の飲食店、食堂やまもとです』
「……誰だ、こいつ」
「知らない。でも事件とかニュースを解説してる有名な配信者みたい」
「へぇ」
再生数を見る。
「……めちゃくちゃ見られてるじゃねぇか」
「だから騒ぎになってるの!」
動画は、これまで食堂やまもとに起きた出来事を時系列で解説したものだった。
発端は、食堂が仕入れていた野菜から基準値を超える有害物質が検出されたこと。その野菜を生産していたのが、長年食堂と取引を続けてきた山田農園だった。当然、食堂やまもとは安全性を最優先して営業を休止。問題となった食材だけではなく、仕入れや管理体制を含めて確認を行うことになった。
『注目すべきは、ここからの対応です』
仮面の配信者が続ける。
食堂側は問題を曖昧にせず、自分たちの言葉で利用客に状況を説明した。さらに、休業中も情報発信を止めなかった。もともと始めていた動画配信を利用し、店長や奥さん、山本さんたちが普段の店の様子を伝えたり、料理動画を投稿したりしながら、客との接点を維持した。
時には山本さんがチャーハンで奇跡を起こしたりもしたが――そこは関係ないな。
結果として、休業は単なる「店が閉まっている期間」ではなく、店と客が今まで以上につながる期間になった。
動画のコメント欄には常連客だけでなく、新しく食堂を知った人たちからも応援の声が集まり、再開初日には予想を大幅に上回る客が訪れた。
『危機に際して情報を隠すのではなく、正直に説明する。そして、それまで築いてきた顧客との信頼関係を維持する。この対応が、結果的に早期の信頼回復につながったと考えられます』
「……ずいぶん褒めるな」
「すごいじゃん、山神!」
「これ、対応したの山神なんだろ?」
「俺だけじゃねぇよ。というか、実際に客の前に立ってたのは店長たちだ」
俺が何を言っても、周囲はすでに盛り上がっている。
「萌ちゃん、すごいね!」
「大変だったんだね」
「再開できて本当に良かったじゃん!」
「ありがとうございますです! でも、私だけじゃなくて、お父さんとお母さんと、それに山神君たちもいっぱい助けてくれて――」
山本さんがぺこぺこと頭を下げる。照れたと思ったら嬉しそうに笑い、褒められると胸を張り、その直後には恥ずかしそうに縮こまる。
表情が忙しい。一人で七変化している。
「萌、顔がうるさいわよ」
「直美ちゃん!? 顔がうるさいって何ですか!」
教室に笑い声が広がった。俺も苦笑しながら夏樹へスマホを返そうとした。
「良かったじゃねぇか。基本的には好意的な内容みたいだし」
「うん!」
これなら特に問題ないだろう。むしろ店にとってはありがたい宣伝になるかもしれない。
そう思って本へ戻ろうとした――その時。
『しかし――』
動画の雰囲気が変わった。
「ん?」
俺はスマホへ視線を戻す。
『今回、この件について調べていく中で、非常に興味深い情報が入ってきました』
仮面の配信者が、ゆっくりとそう告げる。周囲で騒いでいたクラスメイトたちも、何となく空気の変化を感じ取ったのか静かになった。
『実は、食堂やまもとを襲った今回の騒動――単なる食材汚染事故では終わらない可能性があります』
「……は?」
なんだ、それ。
俺は本を机の上へ完全に置いた。
それまで食堂の対応を褒めていた配信者の声が、明らかに変わった。画面も暗転し、低い効果音が流れ始める。さっきまでの内容とは、まるで別の動画だ。
『営業再開後、実際に食堂やまもとを利用した客のうち、複数名が体調不良を訴えていることが分かりました』
「……は?」
思わず声が漏れた。
画面が切り替わる。映し出されたのは、食堂やまもとの外観だった。見慣れた暖簾。見慣れた入口。そこから出てきた一人の男が腹を押さえ、前屈みになりながら歩いている。
『こちらは営業再開後に撮影された映像です』
字幕が表示される。
――食事後に腹痛か?
次の映像では、病院の診察室らしき場所が映った。顔にはぼかしが入り、声も加工されている。
『食事をした日の夜からです。急にお腹が痛くなって……吐き気もありました』
『何を食べましたか?』
『定食です。野菜も食べました』
そこで映像が止まり、問題の発言だけが大きな字幕で強調された。
――野菜も食べました。
「…………」
俺は何も言わず、隣を見る。夏樹も俺を見ていた。さっきまでの明るい表情は消えている。視線だけで互いに確認する。
――何だ、これ。
その時、別の方向から視線を感じた。顔を上げる。柴田さんだ。柴田さんも無言でこちらを見ている。
目が合った。いつもなら何かしら嫌味の一つでも飛んできそうなものだが、今は何もない。三人とも、同じことを考えているんだと思う。
おかしい。
『同様の証言は一件だけではありません』
動画は続く。
二人目。
三人目。
いずれも顔にはぼかしが入り、食事をした後に腹痛や吐き気、体調不良があったと証言している。その背景には食堂やまもとが写されている。
どこまで裏付けが取れているのかは、この動画だけでは分からない。食堂で食べたことと体調不良との間に因果関係があるのかも分からない。
ただ――。そんな理屈は、この映像を初めて見る人間には関係ない。
「……マジ?」
「また食材なのか?」
「でも、再開したばっかりだよね……?」
教室の空気が変わっていた。つい数十秒前まで、『すごいね』『よかったね』『大変だったね』そう言っていた奴らが、戸惑ったようにスマホを見つめている。
誰が悪いわけでもない。こんな映像を突然見せられれば、困惑するのは当然だ。
「え……?」
人垣の中心から、か細い声がした。山本さんだった。
「え? え? 何ですか……これ……」
さっきまで照れくさそうに笑っていた顔から、完全に表情が消えていた。スマホの画面を見つめている。
「お店で……体調が悪くなったんですか……?」
誰も答えられない。ただ一つ分かるのは――これはまずいということだけだった。
ようやく営業を再開したばかりだ。しかも一度、食材の安全性を理由に休業している。
そこへ、――再開後の客が体調不良。事実であろうがなかろうが、これ以上ないほど最悪の組み合わせだった。動画の中では、仮面の配信者が淡々と話を続けている。
『現時点で、食堂で提供された料理と症状との因果関係は確認されていません。しかし、食の安全に関わる問題だけに、今後の動向を注視する必要があるでしょう』
その言葉を聞きながら、俺は机の上に置いた本を閉じた。
もう読書どころじゃない。
さっきまで騒がしかった教室が、妙に静かだった。
その静けさの中で、山本さんだけが呆然と画面を見つめていた。




