第70話 いつもと違う朝、幼馴染のそばで
食堂やまもとが営業を再開した翌日。昨日あれだけ忙しかったというのに、俺の一日はいつも通り始まった。
朝起きて、水を一杯飲む。軽く身体をほぐしてから外へ出てランニング。帰ってきたら筋トレ。我ながら健康的な高校生である。
これで趣味が読書じゃなくてサーフィンとかだったら、もう少し陽キャっぽく見えるんだろうか。
「ふっ……ふっ……」
一定の呼吸を意識しながら走る。身体を動かしている時というのは、意外と考え事をするのに向いている。昨日、藤嶋さんから聞いた話を整理してみるか。
まず、食堂やまもとが一時的に営業を続けられなくなった原因。山田農園から仕入れていた野菜などが入らなくなったからだ。そして山田農園で起きていた作物の異常については、どうやら農業用水の汚染が原因である可能性が高い。ここまでは、保健所の調査でも見えてきている。
では、その水を汚したものは何なのか。俺たちが山道の旧道、その奥にある広場で見つけたもの。おそらく建設汚泥だ。もちろん、これはまだ確定じゃない。俺が見た目や臭い、周囲の状況からそう考えているだけで、最終的には専門機関で成分を分析しなければ分からない。
そして、もう一つ。深ダンプだ。空荷の状態で街へ入ってきた深ダンプが、どこかで何かを積み込み、その後山道へ入っていく。さらに旧道の奥にある広場まで向かっていた。つまり、この街のどこかから大量の何かが運び込まれていたことになる。
「……ふぅ」
折り返し地点まで来たところでペースを少し落とす。
問題はここからだ。
株式会社川村。この街で行われている開発の多くを請け負っている建設会社。工事をすれば当然、残土や汚泥などの処理が必要になる。しかも株式会社川村は、一時期かなり資金繰りに苦しんでいたらしい。支払いが遅れることまであった。
ところが、ある時期を境にそれが一度改善している。現在も経営そのものは苦しいらしいから、根本的に立て直したわけではないんだろう。
俺の予想が正しければ――。
本来なら処理業者へ金を払って処分しなければならない建設汚泥を、別の場所へ捨てる。そうすれば処理費用を浮かせられる。浮いた金を支払いに回せば、一時的に資金繰りが改善したようには見える。
……という筋書きだ。
「はぁ……はぁ……」
家へ戻り、今度は筋トレを始める。一、二、三……。
腹筋をしながら考える内容じゃないな。普通の高校生って朝から何考えてるんだ?
今日の昼飯とか?
好きな女子とか?
……昼飯は大事だな。
十五、十六――。
ただし、株式会社川村がやったという証拠はない。ここは絶対に混同しちゃいけない。資金繰りが苦しい。大量の建設汚泥が発生する可能性がある。近くで正体不明の物質が埋められている。これらが全部事実だったとしても、それだけで株式会社川村が不法投棄したことにはならない。
あくまで俺の推測だ。
そして、その埋められたものから雨水によって何らかの成分が流出し、山田農園へつながる水の流れに混入した。それが農業用水へ入り、作物の異常につながった。もしそうなら、これまでバラバラだった出来事が一本につながる。
「二十八……二十九……三十!」
よし。
終了。
俺は床へ仰向けに転がった。
「つっかれたぁ……」
天井を見上げながら息を整える。
まあ、ここから先は俺が考えても仕方がない。保健所だけじゃなく、行政や警察まで動き始めた。旧道の広場に埋められているものが何なのか判明するのも、おそらく時間の問題だ。それが本当に建設汚泥だったなら、次に調べられるのは出所だろう。
誰が運んだ。
どこから運んだ。
誰が土地を用意した。
そして――誰が埋めろと指示したのか。
そこまで来れば、俺たち高校生が山道を走り回らなくても、大人たちが調べてくれる。警察が動いてくれるなら、ぜひ頑張っていただきたい。俺には俺の仕事がある。
「さて……」
起き上がり、汗を拭く。
朝のルーチンを一通り終えた俺は、汗を流すために軽くシャワーを浴び、そのまま朝食の準備に取りかかった。
さて、今日は何にするか。冷蔵庫を開けて中身を確認する。卵、味噌、昨日の残りの野菜。魚もある。うん。普通に和食でいいな。米は炊いてあるし、味噌汁を作って魚を焼いて、だし巻きでも作れば十分だろう。
いつもなら、この辺りで二階からドタドタと騒がしい足音が聞こえてくる。
『創ちゃーん! おはよー!』
そして寝癖をつけた夏樹が現れる。それが最近の朝の定番だった。
……なのだが。
「遅いな」
時計を見る。七時三十二分。そろそろ起きてこないと学校に間に合わなくなる。昨日の食堂が忙しかったから疲れてるのか?
「夏樹~! そろそろ起きろよ~?」
二階へ向かって声を張る。
返事なし。
「夏樹ー!」
やっぱり返事なし。
珍しいな。
仕方なく火を止め、二階へ上がる。夏樹が使っている部屋の前まで行き、軽くノックした。
コンコン。
「夏樹~? 寝てるのか? 入るぞ?」
少し待つ。
……返事なし。
「入るからな?」
念のためもう一度断ってから、そっと扉を開けた。カーテンの隙間から朝日が差し込む部屋。その中央にあるベッドでは、夏樹が布団にくるまっていた。
「おーい。夏樹?」
近づいてみる。そこで違和感に気づいた。
「……ん?」
いつもの幸せそうな寝顔じゃない。呼吸が少し荒い。頬も妙に赤かった。
「まさか……」
ベッド脇に膝をつき、夏樹の額へ手を当てる。
「あっつ!」
いや、熱い。寝起きだからとか、布団にくるまっていたからとか、そういう温度じゃない。
「大丈夫か? 夏樹」
「……んぅ……」
呼びかけると、夏樹がゆっくり目を開けた。いつものぱっちりした目はどこへやら。焦点もいまいち合っていない、とろんとした目で俺を見る。
「創ちゃん……」
「おう」
「なんだか……とってもしんどいよ……」
「だろうな!」
見れば分かるわ!なんで今まで寝てたんだとか、昨日無理したんじゃないのかとか、言いたいことはいくつかあったが、まずは熱だ。
「とりあえず体温測ろう。体温計あるか?」
「あるぅ……」
夏樹がもぞもぞと手を伸ばし、ベッドのヘッドレストに付いている小物入れを探り始める。しかし、身体がしんどいのか動きが遅い。
「ここにあるのか? 取るぞ?」
俺が手を伸ばした瞬間――。
「んもぅ……創ちゃんのえっち……」
「なんでだよ!」
病人から突然とんでもない濡れ衣を着せられた。
「体温計取ろうとしただけだろ!」
「男の子には必要のない物が……入ってたりするんだよぅ……」
「…………」
俺の手が止まる。
なるほど。そういうことね。理解しました。
俺も高校生男子である。具体的に何が入っているのか聞くほど命知らずではない。
「じゃあ、どこに入ってるか教えてくれ。それ以外は絶対見ないから」
「……左の引き出しの……一番上」
「これな?」
「それ以外は開けちゃ駄目だよ?」
布団で鼻まで隠しながら言われた。
「開けねぇよ」
言われた場所だけを開ける。体温計発見。余計なものは見ない。俺は何も見ていない。というか見たくない。
「ほら」
「ありがと……」
夏樹が体温計を受け取り、布団の中でもぞもぞしながら脇に挟む。
「今日、おばさん家にいるのか?」
「うぅん……」
嫌な予感がする。
「お父さんもお母さんも……昨日から出張だって……」
「…………」
俺は静かに天井を仰いだ。
広瀬家のご両親。聞こえますでしょうか。あなた方の大切な娘さんが現在、目の前で完全にダウンしております。そしてこの状況。もしかしなくても、俺が面倒を見るんでしょうか?
……念なんて送っても届くわけねぇか。
もう半分以上諦めていると――。
ピピピッ!
体温計が鳴った。
「測れたぞ」
「うん……」
夏樹が体温計を抜いて表示を見る。
「…………」
目が見開かれた。
おい。
その反応やめろ。
「何度だ?」
体温計を受け取る。表示された数字を見た俺は、思わず頭を抱えた。
『39.6℃』
「…………マジか」
高熱じゃねぇか!学校どころか、食堂のバイトなんてもってのほかだ。俺はベッドの上でぐったりしている夏樹を見る。
「創ちゃん……」
「なんだ?」
「学校……行けるかなぁ……?」
「行けるわけあるか!」
どうやら熱で判断力まで茹で上がっているらしい。俺の平穏な朝は、この瞬間をもって終了した。
さて、どうしたもんか。とりあえず学校に行ける状態じゃないのは確定として、問題はこのあとだ。俺は自分のスマホを取り出した。
「たぶん仕事中だよな……」
出ないかもしれないと思いつつ、夏樹のおばさんに電話をかける。
プルルルル――。
プルル――。
『あら? 創ちゃん、おはよう! こんな時間にどうしたの~?』
数回コールしただけであっさり繋がった。電話越しでも分かる明るい声。やっぱり親子だな。声が夏樹によく似ている。
「おはよう、おばさん。仕事中かな? ちょっとだけ話せる?」
『もう、創ちゃんったら。おばさんなんて言わないでっていつも言ってるでしょう?』
「へ?」
『お義母さんって呼んでほしいって言ってるのに』
「…………」
朝から何を言っているんだ、この人は。
「……本題をお伝えしますね?」
『あら、また流された』
流します。あなたのペースに付き合っていたら、いつまで経っても本題に入れませんので。
「夏樹なんだけど、熱出してる」
『あらぁ~』
反応が軽い!いや、驚いてはいるんだろうけど!
「今測ったら三十九度六分あった。結構高いぞ」
『三十九度六分? それは高いわねぇ』
「今日、おじさんもおばさんも出張なんだろ?」
『そうなのよ。今、沖縄なの』
「沖縄!?」
思ったより遠かった。せいぜい東京とか大阪だと思ってたぞ。
『本当なら予定を切り上げて帰ってもいいんだけど、こっちのお天気が悪くてね。今日は飛行機が飛びそうにないのよ』
「マジか……」
沖縄から泳いで帰ってこいとは言えん。
『でも、大丈夫よ~』
「何が?」
『昔から夏樹には創ちゃんが一番のお薬だから』
「俺に解熱作用はねぇよ」
『あら、そう? 創ちゃんがそばにいたら、すぐ元気になると思うけど』
「そんな医学があってたまるか」
俺はいつから医薬品になったんだ。用法用量を守って正しくお使いください――って、誰が薬だ。
『家にいつも飲ませてる薬があるから、それを飲ませてくれる?』
「あぁ、それはやっとく」
『ありがとう。じゃあ、創ちゃんは学校に行ってくれて大丈夫だからね』
「……いいのか?」
『大丈夫よ。もう高校生なんだから。一人でお留守番くらいできるわよ』
いや、普通の留守番ならな?三十九度六分の人間を一人にするのは、ちょっと意味が違うと思うんだが。
『私からも時々連絡して様子を見るようにするから。何かあったら創ちゃんにも連絡するわ』
「うーん……」
俺がベッドを見ると、夏樹が布団から顔だけ出してこちらを見ていた。頬はまだ真っ赤だ。
『夏樹、近くにいる?』
「いるよ」
『ちょっと代わってくれる?』
「分かった。ほら、おばさん」
スマホを差し出す。
「……お母さんでしょぉ……」
「あぁ、そうだったな」
俺にとってはおばさんなんだから仕方ない。
「もしもし……お母さん?」
夏樹が俺からスマホを受け取り、弱々しい声で話し始める。
「うん……大丈夫……。ちょっとしんどいけど……」
何やら母娘で話している。
「うん……分かった。薬飲む……。うん……創ちゃんいるよ……」
そこでなぜか夏樹が俺を見る。
何だよ。
「……うん。分かってるってば……。もう切るよ?」
ピッ。
電話が切れた。
「何て?」
「薬飲んで寝てなさいって」
「まあ、そうだろうな」
「あと……」
「あと?」
「……何でもない」
「何だよ」
「何でもないよぅ」
怪しい。
絶対、俺に関係する何かを言われただろ。まあいい。今追及することでもない。
「創ちゃん」
「ん?」
「薬飲んで、しばらく休んだら良くなると思うから……学校行ってきていいよ?」
「…………」
親子そろって同じこと言いやがる。確かに高校生なんだから、一人で寝ているくらいはできる。とはいえ三十九度六分だぞ?
水分は取れているか。飯は食えるのか。薬を飲んで熱が下がるのか。もしさらに熱が上がったら?病院に連れていった方がいいんじゃないか?
「うーん……」
学校を休むか。でも、俺がいたところで何ができる?医者じゃないんだから、できるのは飯を作るとか、水分を用意するとか、その程度だ。いや、それが必要なのか?
どうしたもんかな……。俺がスマホを握ったまま悩んでいると――。
ヴヴヴヴッ――。
「ん?」
夏樹を一人にして学校へ行くわけにもいかないよなぁ……なんて考えていたところで、手に持っていたスマホが震えた。
画面を見る。
『山神まり代』
母さん?なんでこんな時間に?とりあえず通話ボタンを押して、スマホを耳に当てる。
「もしもし?」
『もしもし? 創太郎?』
「そうだけど。どうしたんだよ、こんな時間に」
『夏樹ちゃん、熱出したんだって?』
「な、なんで知ってるんだよ!?」
早い!情報が回るのが早すぎる!俺、ついさっき知ったばかりなんですけど!?
『さっき冬美さんから連絡があったのよ』
「あぁ……」
冬美さん。確か夏樹のおばさんの名前だ。っていうか、電話を切ってから何分経った?あの人、俺との電話を切った直後に母さんへ連絡したんじゃないだろうな。母親ネットワーク恐るべし。
「もしかして、母さん戻ってこれるのか?」
『そんなわけないでしょ? 今、私たちがどこにいると思ってるのよ』
「ま、そりゃそうか……」
そうだった。父さんと母さんも仕事で海外にいるんだった。俺の周りの保護者、今日に限って全滅じゃねぇか。
「で? 何の用だよ」
『あんた、冬美さんが言ってたみたいに、夏樹ちゃんを家に置いて学校に行こうなんて考えてないでしょうね?』
「いや、さすがにそれは考えてないぞ」
ベッドを見る。夏樹は布団から顔だけを出して、ぼんやり俺を見ている。
三十九度六分。これで「じゃ、学校行ってくるわ!」なんて爽やかに出ていけるほど、俺の神経は太くない。
「熱も高いし、一人で置いとくわけにはいかないだろ。今日は俺も休もうと思ってた」
『ならいいけど』
電話の向こうで母さんが少し安心したような声を出す。
『学校には私から連絡しておくから、今日は夏樹ちゃんと一緒にいてあげなさい』
「分かった」
『それから、ちゃんと病院にも連れて行ってあげなさいよ? 三十九度超えてるんでしょ?』
「そこまで知ってんのかよ……」
『冬美さんから聞いたわよ』
情報共有が完璧すぎる。俺より母さんの方が夏樹の状況を把握してるんじゃないか?
『水分は取れてる?』
「まだ確認してない」
『じゃあ確認する。朝ご飯も無理に食べさせなくていいから、食べられそうなものを少し用意してあげて。病院が開く時間になったら連れて行きなさい』
「分かってるよ」
『車使えるわよね?』
「うん。だから父さんに車使うって伝えておいて」
『分かったわ。保険証とか診察券の場所は冬美さんに聞きなさいよ』
「はいはい」
『はいは一回!』
「は~い」
『返事を伸ばさない!』
どうしろと。
『まったく……。それじゃ、夏樹ちゃんのこと頼んだわよ?』
「分かってるって」
『何かあったらすぐ連絡しなさい。こっちでできることならするから』
「おう」
『じゃあね』
「ん」
通話が切れる。俺はスマホを下ろし、小さく息を吐いた。……まあ、俺も最初から看病するつもりだったから、異論はない。むしろ学校への連絡を母さんがやってくれるなら助かる。
スマホをポケットに入れると、ベッドの方から視線を感じた。
「今の電話……まり代さん?」
夏樹が布団から顔を半分だけ出して俺を見ている。熱のせいで頬が赤い。普段なら朝から無駄なくらい元気なのに、今日は布団に完全敗北していた。
「そうだよ。もう少ししたら病院に行こうか?」
「えっ……でも、創ちゃん学校に行かなきゃ」
さっきまでぐったりしていたくせに、そこだけは慌てるらしい。
「一日くらい大丈夫だよ。このままお前を放って学校に行く方が精神衛生上悪い」
「でも……」
「三十九度六分の人間が『でも』とか言うな。今のお前に与えられた仕事は寝ることだけだ」
「それ、仕事なの?」
「今日に限っては最重要任務だな」
「そっかぁ……」
納得するんかい。やっぱり熱で頭が回ってないんじゃないか?
「よし。そうと決まれば、夏樹。腹減ってるか? 何か食えそうか?」
「え? ううん……今は何も欲しくない」
「そうか」
「でも、ちょっと喉乾いた……」
「分かった。スポーツドリンク持ってきておくよ」
「ありがと……」
「汗は? 結構かいてないか? 自分で身体拭けそうか?」
「汗は……今はまだ大丈夫かな」
夏樹が自分の額や首元を確かめる。
そして、また俺を見る。
「それより、創ちゃん学校行っていいよ?」
「まだ言うか」
「だって……」
「学校のことは心配すんな。たぶん、もう母さんが休むって連絡してるだろ。今から俺が登校したら、学校側も『お前なんで来たの?』ってなるぞ」
「でも、何か悪いよ……」
「じゃあ、そう思うならさ」
「うん……」
「しっかり休んで、体調を戻すことを最優先にしてくれ。それが一番助かる」
「…………」
夏樹はしばらく俺を見つめたあと、観念したように布団を鼻先まで引き上げた。
「……はぁい」
「よし。分かればよろしい」
「創ちゃん、お母さんみたい……」
「誰がお母さんだ」
せめて父親にしろ。
……いや、それも違うな。
「じゃあ、飲み物取ってくるから大人しくしてろよ」
「はぁい……」
今度は随分と素直な返事が返ってきた。
俺は部屋を出て一階へ下りる。キッチンの冷蔵庫を開け、スポーツドリンクを取り出す。冷たすぎても飲みにくいかと思い、コップには移さずペットボトルのまま持っていくことにした。ついでにストローも一本。
再び二階へ戻って部屋を覗くと、夏樹はさっきとほとんど同じ姿勢で横になっていた。
……本当にしんどいんだな。いつものこいつなら、俺が部屋を出た三十秒後には何か余計なことをしてそうなのに。
「ほら、持ってきたぞ」
「ありがと、創ちゃん……」
「体、起こせそうか? 寝たまま飲むわけにはいかないから」
「うん……」
夏樹が布団から腕を出し、ベッドに手をついて身体を起こそうとする。
「んっ……」
のそのそ。
……遅い。
普段のこいつなら腹筋だけで勢いよく起き上がりそうなもんだが、今日は身体に力が入らないらしい。途中まで起き上がったところで、ふらっと身体が傾いた。
「おっと。無理すんな」
慌てて手を伸ばし、夏樹の肩に腕を回す。そのまま背中を支えて、ゆっくり身体を起こしてやった。
「ほら。これなら大丈夫か?」
「…………」
「夏樹?」
「う、うん……」
なんだ?
さっきより顔が赤くなってないか?
頬どころか耳まで真っ赤だぞ。俺は心配になって夏樹の顔を覗き込む。
「お前、さっきより顔赤くなってるな。熱、上がってきたんじゃないか?」
「……ち、違うと思う」
「何で分かるんだよ」
「分かるの……」
分からん。俺にはまったく分からん。しかも、夏樹はなぜか俺から顔を逸らすように俯いてしまった。
「おい、大丈夫か?」
「大丈夫……」
「吐きそうか?」
「違うよぅ……」
「じゃあ、眩暈?」
「それも違う……」
じゃあ何だ。三十九度六分も熱があるんだから、遠慮せず言ってほしいんだが。
「ほら。飲めそうなら少し飲んどけ」
「うん……」
俺がスポーツドリンクを差し出すと、夏樹が真っ赤な顔のまま受け取った。
「コップに移そうか?」
「このままでいい……」
「そうか」
キャップを開けてやると、夏樹はペットボトルに直接口をつける。
コク、コク、と二口、三口。
普段なら一気に半分くらい飲みそうなものだが、今日はほんの少しだけだった。
「もういいのか?」
「うん……」
「無理して一気に飲まなくていいからな。少しずつでいいから水分は取っとけよ」
「はぁい……」
ペットボトルをベッド脇に置き、夏樹をゆっくり寝かせてやる。布団を掛け直すと、夏樹は安心したように小さく息を吐いた。
「病院は九時からだから、八時半くらいに起こしに来るよ。それまで寝てろ」
「創ちゃんは?」
「下にいる。朝飯の片付けとか、食堂にも休むって連絡しないといけないしな」
「……ごめんね」
「だから謝るなって」
「でも……」
「今のお前がやることは一つ。寝る」
「……はい」
「よろしい」
今日はやけに物分かりがいいな。いつもこれくらい素直なら楽なんだが。
「何かあったらスマホ鳴らしてくれ。気分悪くなったとか、しんどくなったとか、何でもいいから」
「うん……」
「じゃあ、寝とけよ」
「創ちゃん……」
「ん?」
「……ありがと」
「おう」
俺は部屋を出て、静かに扉を閉めた。しかし……やっぱり顔が赤かったよな。病院に行く前に、もう一度熱を測らせた方がいいかもしれない。そんなことを考えながらキッチンへ戻った。




