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きみの隣で、今日も僕は考えてる。本ばかり読んでいた俺の日常は、少しずつ騒がしくなる  作者: マリセリソウ


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第57話 予想外の放課後

 廊下の方から聞こえてくるざわめきは、時間が経つにつれて少しずつ大きくなっていた。

 教室の何人かはすでに席を立ち、様子を見に行っている。どうやらまた何か揉め事が起きているらしい。


 もっとも、俺には関係ない。そう判断した俺は、本のページをめくった。昼休みは貴重だ。騒ぎを見るくらいなら本を読む方が有意義である。

 ところが。


「創ちゃん」

「山神」

「山神君」


 嫌な予感しかしない呼び方だった。顔を上げる。三人がこちらを見ている。


「行った方がいいんじゃない?」

「何で俺が。……俺が行かなくても誰かが止めるだろ」

「それはそうだけど」

「じゃあ問題ない」


 俺は再び本へ視線を戻した。しかし、三人は諦めなかった。


「創ちゃん」

「山神」

「山神君」


 何だこの包囲網。


「つべこべ言わずに行く」

「行きましょう」

「行こうね」


 逃げ道がなかった。

 気が付けば俺は夏樹に腕を引かれ、柴田さんと山本さんに両脇を固められながら廊下へ連行されていた。

 おかしい。昼休みの読書時間を守ろうとしていただけなのに。

 どうしてこうなった。


 渋々教室を出る。廊下には人が集まっていたが、朝ほどではない。まだ騒ぎが大きくなる前だったのだろう。人垣の隙間から中を見ると、見覚えのある顔があった。


「あー……」


 思わず声が漏れる。中心にいたのは川村だった。

 またか。今日は忙しいな。

 その向かいには別の男子生徒が立っている。朝揉めていた相手とは違う。名前は知らない。そもそも俺はクラスメイトの名前を全員把握していない。興味がないからな。だが、川村の方はかなり興奮しているらしかった。


「なぜそれを知っているんだい? 誰から聞いたんだい?」


 低い声が廊下に響く。詰め寄られた男子生徒は明らかに怯えていた。それでも周囲の視線があるからか、何とか言い返している。


「そ、そんなの誰でも知ってるよ!」

「そうだよ!」


 近くにいた友人らしき生徒も声を上げた。


「学校中で噂になってるし!」


 その言葉を聞いた瞬間、川村の表情がさらに険しくなる。


「誰が言いふらしてるんだ? 言い出したのは誰なんだい?」


 一歩前へ出る。男子生徒たちも思わず後ずさった。


「し、知らないって!」

「僕らも人から聞いただけだよ!」

「だから誰だって聞いてるんだ!」


 今にも掴みかかりそうな勢いだった。その間へ割って入っているのが高原と三浦だった。


「川村!」

「落ち着け!」

「これ以上やったら本当にまずいぞ!」

「先生来たら終わりだぞ!」

「うるさい!」


 川村が苛立たしそうに叫ぶ。周囲の生徒たちは完全に引いていた。女子生徒たちは遠巻きに様子を見ているし、男子生徒たちも誰も近寄ろうとはしない。

 そんな中、俺は小さくため息を吐いた。


「帰っていいか?俺が止める必要ないじゃん」

「っていうか、止める気は一切なかったよね?」


 夏樹を横目にもめごとの様子を見ていると、その時だった。

 川村の視線がこちらへ向いた。正確には、人垣の向こう側にいる俺たちへ。

 川村の動きが止まる。そして目が大きく見開かれた。何かに気付いたような顔だった。続いて、その表情が変わる。

 怒りとも違う。

 苛立ちとも違う。

 もっとどろりとした感情。

 憎悪。

 そんな言葉が一番近かった。


「……?」


 俺は首を傾げた。心当たりがない。本当にない。だが川村は俺を睨んだまま、掴んでいた男子生徒の制服を乱暴に放した。

 さらに高原と三浦の手も振り払う。


「お、おい!」

「川村!」


 二人が慌てる。だが川村は構わずこちらへ歩いてきた。人垣が自然と左右へ割れる。そのまま真っ直ぐ俺の前まで来た。

 近い。普通に近い。周囲も静まり返っている。俺は何もしていないんだが。

 川村は俺を見下ろしたまま、小さく口を開いた。


「覚えてなよ?」


 小声だった。周囲には聞こえていないだろう。だが、俺にはしっかり聞こえた。


「……」


 覚えろと言われても困る。そもそも何を覚えるんだ。状況説明が不足している。説明責任を果たしてほしい。そんなことを考えている間に、川村は踵を返した。そのまま誰にも何も言わず、人垣を抜けて去っていく。

 高原と三浦が慌てて後を追いかけていた。残された廊下には微妙な沈黙だけが残る。


「今の何?なんて言われたの?」


 夏樹が呆然と呟く。


「知らん」

「何かしたの?」


 柴田さんまで聞いてきた。


「してないと思うんだが…」

「本当に?」

「あぁ。たぶん、球技大会以降、話もしてないと思うぞ」


 心当たりがなさすぎる。俺は去っていく川村の背中を見送りながら、小さく首を傾げた。


 全く覚えている自信はないな。そんな感想しか出てこなかった。



 川村が去っていったあともしばらく廊下はざわついていた。だが騒ぎそのものは終わったらしく、生徒たちも少しずつ教室へ戻り始めている。俺はそんな様子を眺めながら、小さくため息を吐いた。昼休みの読書時間がまた削られた。朝も似たようなことがあった気がする。今日は本当に本との縁が薄い日らしい。


「何その顔」


 夏樹が呆れたように聞いてくる。


「本の続きが読めたはずなんだ」

「そこ?」

「そこだ。重要な問題なんだよ。俺にとっては」


 せっかく面白くなってきたところだったのに。俺の前では高原と三浦が苦笑していた。


「悪いな」


 高原が頭を掻く。


「別にお前らのせいじゃないだろ」

「まぁな」

「でも何か申し訳なくなる」


 三浦までそんなことを言う。俺としては川村よりも、俺を廊下へ引きずり出した三人の方に責任があると思う。その三人は知らん顔をしていた。

 理不尽だ。


 とはいえ、ここまで巻き込まれた以上、事情くらいは聞いておくべきかもしれない。俺は高原へ視線を向けた。


「で、何があったんだ?」


 高原と三浦が顔を見合わせる。どこから話そうか迷っているようだった。やがて高原が口を開く。


「川村、今かなり荒れてるんだよ」

「見ればわかる」


 むしろ見たくなくても見えるレベルだった。


「スカウトの件もあるしな」


 三浦が補足する。


「スカウト?」

「全部じゃないと思うけど、いったん白紙になっているらしい」


 高原は慎重に言葉を選ぶ。


「全部というわけではないと思うんだが、少なくとも距離を置き始めたところはあるらしい」


 日本代表戦での一件はそれだけ大きかったのだろう。ましてネット時代だ。動画はいくらでも拡散される。川村本人が思っている以上に影響は広がっているのかもしれない。


「それで?」


 俺が続きを促す。


「誰かが自分に不利な情報を流してるって思い込んでるみたいなんだ」


 高原がそう言うと、三浦も頷いた。


「最近ずっと犯人探ししてる」

「犯人探し?」

「自分を陥れようとしてる奴がいるって考えてるらしい」


 なるほど。それでさっきの『誰から聞いた』になるわけか。俺は廊下で見た光景を思い出した。確かにあれは話の出所を探している人間の反応だった。

 ただ。


「妙だな」


 俺は素直な感想を口にした。


「何が?」

「球技大会の時にやり合っただろ?あの時の川村って、もう少し冷静だった気がするんだ」


 高原も三浦も頷く。

 負けず嫌いだった。プライドも高かった。だが感情だけで動くタイプには見えなかった。むしろ勝つためなら冷静に状況を分析するような人間だった印象がある。


「俺もそう思う。正直、今の川村は別人みたいだ」


 高原が即答した。


「だよな」


 三浦も難しい顔をしている。


「俺も最初はストレスだと思ったんだけどさ」

「違うのか?」

「わからん」


 三浦は肩を竦めた。


「でも少しずつ変わってった感じなんだよ」


 突然ではなく。少しずつ変わっていったようだ。その言葉に俺は引っかかりを覚えた。


「いつ頃からだ?」

「そこははっきり覚えてないんだ。何かきっかけがあったという訳ではないと思う。でも少なくとも球技大会の後だ」


 高原が首を横に振る。


「それは間違いないな」


 三浦も同意する。

 球技大会。

 その単語が出た瞬間だった。三浦がふと笑う。


「もしかしてさ」


 嫌な予感がする。こういう時の三浦は大体ろくなことを言わない。


「山神が完封しちゃったからじゃね?」

「……」


 一瞬だけ沈黙した。

 そして俺は川村の去り際の顔を思い出す。あの憎悪の籠った目。明らかに敵意を向けられていた。


「……あながち間違いでもないかもしれん」


 思わず本音が漏れた。ぞわっと背筋が寒くなる。


「えぇ……」


 柴田さんが引いた声を出した。


「そんな理由で逆恨みされたらたまったもんじゃないわ。あの時から思っていたんだけど、随分と子供みたいな考え方をしているのね。川村って」

「俺もそう思う」


 本当にそう思う。球技大会なんて学校行事だ。勝った負けたはあるが、それで人生が決まるわけではない。だが、あの視線を思い出すと冗談で済ませられない気もした。

 すると高原が苦笑しながら首を振る。


「いや、それはないと思うぞ」

「そうか?」

「あくまで球技大会だしな」


 高原の言葉には妙な説得力があった。実際に競技者として川村と接してきた人間だからだろう。


「確かに結果だけ見れば山神の勝ちだったかもしれない。でも、球技大会は公式戦じゃないし、代表選でもない。俺たちもそうだったけど、サッカー未経験の奴らとやるってなると、やっぱりどっか遠慮するんだよ。本気で削りには行かないからな」

「そりゃそうだな」


 え?でも、西海とかは俺の足を本気で削りに来てたと思うけど?あの後、爪がはがれたりしてて結構痛かったんだぞ?

 とはいえ、確かにその通りだった。あれは学校行事だ。競技者にとっては大切な勝負だったとしても、進路や評価に直接関わるものではない。


「山神は確かに素晴らしいプレイヤーだと思う。でも、だからと言ってサッカー部員たちの練習試合や公式戦で同じように抑えきることができたか?ってなると、そこは難しいところだと思うんだよ。だから球技大会で負けたことを引きずってるとは思えないんだ」

「俺もそう思うな。川村が今気にしてるのはもっと別のことだろ。練習中も、どうもずっと集中してないって感じだったしな。プライベートで何かあったんかなぁ…」


 三浦も高原の意見に賛同し、純粋に川村のことを心配しているようだ。

 少なくとも球技大会だけが原因とは考えにくい。

 ただ。だったら何が原因なんだろうな。そんなことを考えていると、ふと柴田さんの様子が気になった。さっきから妙に静かだ。

 視線を向ける。

 柴田さんは腕を組みながら何か考え込んでいた。周囲の会話は聞いているはずだが、意識の半分は別のところへ向いているようにも見える。

 夏樹も気付いたらしい。俺と目が合う。

 そして。


 『直美、どうしたんだろうね? 後で聞いてみたほうがいいかな?』

 『そうしてくれ』


 俺は小さく頷く。


「会話するなら声に出して欲しいわ。二人とも視線だけで会話し始めるんだから」


 柴田さんが呆れたように言った。完全に気付かれていた。


「そんなことできるのか??」


 三浦が驚いたようにこちらを見て言う。高原も驚いたようだ。


「凄いんですよ?夏樹ちゃんと山神君。アルバイトの時にも良く二人で声に出さない会話をしています。突然、夏樹ちゃんが「そういうこと言うんだ」って口にするんです。でも、山神君も私も何も言ってないんです。 でも、山神君の方を見ると、「あ、やべ」みたいな顔してるんです。 夏樹ちゃんがつーんってして、しばらく目を合わさないんです。 ケンカしちゃったのかな?って思ってお仕事が終わったら事情を聞こうと思ってると、夏樹ちゃんが「やった!プリンだ!」って言ってご機嫌なんです。その間も夏樹ちゃんと山神君は声に出して会話してないんです。私はもう、何がなんだか…」

「あ~……あの時のことかな?」


 山本さんが食堂やまもとでの俺たちのアイコンタクトークのエピソードを話している。俺はいつの話だったか覚えていなかったが、夏樹には心当たりがあったようだ。


「夏樹ちゃん、あれって一体何だったんですか?」

「えー…っとね。細かいことまでは忘れちゃったんだけど、ちょっと粘着質なお客さんがいた時に、創ちゃんに手が空いたら接客に来てほしいって行った時のことだと思う」

「あー!あの時の話か!」


 思い出したわ…。常連さんらしいんだがちょっと粘着質なお客さんが来てた時のやつか。あの日は結構忙しかったから店長もなかなか助けにいけない状況で、夏樹からアイコンタクトで「何とかしてほしい」ってSOSが来たんだが、「とびっきりの笑顔を見せてやったら満足するんじゃね?知らんけど」って返したら、ものすごく不機嫌になった時の話だ。

 そのあと、ちゃんと俺が接客に行って、粘着性を取り除いたんだぞ?かわいい幼馴染が困っているのに助けてくれないなんて、なんて非道な奴だってめっちゃ不機嫌だったんだよ。だから、プリンで手を打ってもらったという話だ。


「確かに、声に出している部分だけ聞くと訳が分からないわね」

「たまに何を話してるのかわからなくてびっくりします。たぶん、お二人は気付いていないかもしれませんが、主語がなくなるっていうレベルじゃなく、文章がなくなるレベルでおかしな会話してますよ?」

「えぇ??そんなことないよ。萌、流石に言い過ぎだよ」

「そうだ。声にしてないのに伝わるわけないじゃないか」

「気付いていないのはたぶん、あなたたちだけよ」


 柴田さんも苦笑していた。だが柴田さんの様子を見る限り、深刻な悩みを抱えているわけではなさそうだった。単に何か引っ掛かることがある。その程度だろう。

 夏樹もそれに気付いたからか、表情も少し柔らかくなった。その様子を見ていると、俺も自然と肩の力が抜ける。少なくとも今すぐ何か大きな問題が起きるわけではなさそうだった。

 ……昼休みはもうほとんど残っていないが。



 放課後のホームルームが終わり、生徒たちが一斉に席を立ち始める。俺も鞄へ本をしまい、さて帰るかと思ったところで担任に呼び止められた。


「山神、少しいいか?」

「はい?」

「職員室まで来てくれ」


 その一言で大体察した。進路希望だろう。この時期の呼び出しなんて、大抵その辺りの話だ。周囲ではすでに帰り支度が始まっている。夏樹たちもこちらを見ていた。


「創ちゃん、何かやらかした?」

「何でそうなる」

「だって先生に呼ばれてるし」

「進路だろ? たぶん、突拍子もない進路を提出してるって思われてるんだよ」

「あー」


 夏樹は納得したように頷く。その横で山本さんも小さく頷いた。


「私たちは先に食堂やまもとへ向かっていますね」

「わかった」

「終わったら連絡して」


 柴田さんがそう言いながらスマホを軽く振る。


「店長たちも待ってると思うし」

「あぁ。そんなに遅くはならないと思うし、そのうち行くよ」


 三人と別れ、俺は一人で職員室へ向かった。廊下を歩きながら、先日提出した進路希望調査票のことを思い出す。何を書いたかと言われれば簡単だ。

 第一希望。

 アメリカで就職。

 以上。

 進学希望の欄は空白だった。

 職員室へ到着すると、担任は自席からこちらへ気付いて手招きした。俺も軽く会釈をして近付く。


「失礼します」

「おう、座れ」


 担任の向かいに置かれた椅子へ腰を下ろす。予想通り、机の上には進路希望調査票が置かれていた。赤ペンで何やら書き込みもされている。担任は一度その紙へ目を落としてから俺を見る。


「やっぱり変わらないか?」

「何がです?」

「進路」


 やはりその話だった。


「変わりませんね」

「アメリカで就職です」


 担任は苦笑する。何度目かもわからないやり取りだ。


「ご両親が世界で活躍しているのは俺も聞いているが、高校卒業していきなりアメリカで就職っていうのはなかなかだぞ? 大学は考えないのか?」

「考えません」

「専門学校は?」

「考えてません」

「そうか」


 担任は小さく息を吐いた。別に俺は成績が悪いわけではない。むしろどちらかと言えば良い方だと思う。授業中は本ばかり読んでいるし、やる気があるようにも見えないらしいが、テストの点数は安定している。だからこそ担任としては進学を勧めたいのだろう。

 気持ちはわかる。ただ、俺には最初から別の道が見えているだけだ。勉強そのものは嫌いではない。むしろ好きな部類に入る。知らないことを知るのは面白い。だから本も読む。ただ、学校の勉強が特別好きかと言われるとそうでもない。必要だからやっているだけだ。


 そういえば定期テスト前になると、勉強を教えろとよく夏樹が部屋へ押しかけてくる。最初は面倒だったが、意外なことに自分で問題を解くより人へ説明する方が理解が深まることに気付いた。


 色々調べていると、理由もちゃんとあった。学習心理学では「アウトプット学習」と呼ばれる考え方がある。ただ読むだけ、聞くだけよりも、人へ説明したり問題を解いたりした方が記憶は定着しやすい。理解しているつもりでも、人へ説明しようとすると意外と説明できない部分が見つかるからだ。その穴を埋めることで理解が深まる。

 要するに教えること自体が復習になる。だから夏樹へ教えている時間は、実は俺自身の勉強にもなっていた。本人には言わないが。調子に乗るから。

 担任は俺を見ながら腕を組んだ。


「お前、本当に勉強はできるんだよな」

「ありがとうございます」


 担任は再び進路希望調査票へ視線を落とす。


「もったいないと思うんだよ」


 その言葉は以前から何度も聞いている。俺の成績なら国立の大学も狙える。学費が大変ということなら奨学金という手段もある。そういう話だ。だが、それでも俺の考えは変わらない。


「以前も話しましたけど」

「あぁ」


 担任が苦笑する。

 以前、一度だけ俺は自分の考えをかなり詳しく説明したことがある。

 卒業後のこと。

 将来やりたいこと。

 海外での仕事。

 資産形成。

 学び続ける方法。

 その他色々。

 今思い返しても高校生の進路相談で話す内容ではなかった気がする。結果として担任は途中から理解を諦めた。いや、理解しようとはしてくれていた。ただ、俺の考えが高校生の進路相談から少し逸脱していたのだ。

 だから俺も期待するのをやめた。


 別に見下しているわけではない。むしろ担任は良い先生だと思う。熱心だし、生徒のこともちゃんと見ている。少なくとも俺みたいな面倒な生徒へこうやって何度も声を掛けてくれる程度には。担任は少し黙ったあと、静かに口を開いた。


「わかってやれなくて済まないな」

「いえ」

「正直、お前の考えてること全部は理解できてない」


 それはそうだろう。俺だって他人の頭の中を全部理解できるわけではない。


「でもな」


 担任は真っ直ぐこちらを見る。


「お前が考えなしで言ってるとは思ってない。勢いだけで就職を選んでるとも思わない」


 その言葉は少し意外だった。俺は黙って続きを待つ。担任は苦笑した。


「むしろ考え過ぎなくらい考えてるんだろうな」

「どうでしょう」

「そういうところだぞ」


 何がだろう。よくわからない。だが担任はどこか困ったような顔をしていた。


「だからこそ心配なんだ」

「心配?」

「あぁ」


 担任は椅子へ深く座り直した。


「少しだけペースを落としてもいいんじゃないかと思う」


 その言葉に俺は少しだけ考えた。ペースを落とす。周りを見る。以前も似たようなことを言われた気がする。


「お前、自分では気付いてないかもしれないけど、少し生き急いでるように見えるんだよ」


 生き急ぐ。


 その言葉が妙に胸へ残った。俺自身はそんなつもりはない。やりたいことがあって、そのために動いているだけだ。ただ、それを何人もの大人から言われると少し考えてしまう。本当にそう見えているのだろうか。

 しばらく沈黙が続いた。職員室のあちこちから先生たちの話し声が聞こえてくる。窓の外では運動部の掛け声も聞こえた。俺は小さく息を吐く。


「考えは変わりません」


 それが今の答えだった。担任も予想していたのだろう。苦笑しながら頷く。


「だろうな」

「でも、心配してくれてることはわかります」


 それは本心だった。担任は面倒だから言っているわけではない。本気で心配しているから言っている。だからこそ無視する気にはなれなかった。

 そう伝えると、担任は少し驚いた顔をした。そしてすぐに笑う。


「一般的な学生の枠にはお前ははまらないんだろうな。たぶん、俺なんかじゃ考えもしない未来を歩んでいくんだろうと思う」

「そうですね」

「そこは否定しろ」

「面倒なので」

「……ほんとにそういうところだよ」


 二人で少しだけ笑った。話はそれで終わりだった。俺は椅子から立ち上がり、軽く頭を下げる。


「失礼しました」

「おう」


 職員室を出る。夕方の廊下は静かだった。窓の外ではオレンジ色の光が校舎を照らしている。廊下を歩きながらスマホを取り出した。食堂やまもとへ向かう前に、一応連絡でも入れておくかと思ったのだ。

 だが、画面を見た瞬間、足が止まった。

 着信履歴。

 そこに同じ名前が並んでいる。

 広瀬夏樹。

 一回や二回ではない。短時間のうちに何度も電話が掛かってきていた。


「……何だ?」


 夏樹が何度も電話を掛けてくる時は、大抵ろくなことが起きていない。嫌な予感が胸の奥を掠める。俺はすぐに折り返した。呼び出し音が鳴るより早かった。


「創ちゃん!?」


 ほぼワンコールだった。いや、ワンコールすら鳴っていない気がする。夏樹は電話を握り締めたまま待機していたのだろう。


「どうしよう!」


 声が震えている。


「創ちゃんどうしよう!」


 完全にパニックだった。俺は思わず足を速める。


「落ち着け」

「でも!」

「落ち着け」


 少し強めに言う。電話の向こうで夏樹が息を飲んだ。


「まず何があった」

「直美が……!」


 柴田さんか。俺はすぐに頭を切り替える。


「順番に話せ」


 夏樹が深呼吸する音が聞こえた。それでも焦りは隠せていない。


「放課後にね」

「あぁ」

「私と萌と直美で下駄箱まで行ったの」


 そこまでは普通だ。


「そしたら直美が忘れ物したって言って」

「教室へ戻った?」

「うん」


 夏樹が答える。


「私たちも付いて行こうとしたんだけど、学校の中なんだから大丈夫だって言って一人で行っちゃったの」


 その辺りは柴田さんらしい。過保護にされるのは好きではない。

「それで?」

「待ってたの!でも帰ってこなくて……だから萌と教室まで見に行ったんだけど……」


 だんだん夏樹の声が小さくなる。俺は無言で続きを促した。嫌な予感が強くなる。


「教室には誰もいなかった」

「……」

「でも直美の鞄だけ残ってた」


 俺はすでに走り始めていた。校舎の階段を一段飛ばしで駆け下りる。


「トイレは確認したか?」

「した!女子トイレも全部見た!」

「保健室は?」

「いない!」

「先生には?」

「まだ言ってない!」


 そこまで聞いて状況を整理する。柴田さんが突然姿を消した。鞄は教室。スマホはどうだ。


「電話は?」

「何回も掛けたけど出ない!」


 コール音は鳴るらしい。つまり電源は入っている。圏外でもない。だが出ない。俺は頭の中で可能性を並べていく。

 単純にスマホへ気付いていない?

 可能性はあるが柴田さんは比較的スマホを見るタイプだ。何度も着信があれば気付くはず。

 意図的に出られない状況?

 誰かと話している?何かに巻き込まれている?あるいは隠れている?

 スマホそのものを操作できない状況?

 これが一番厄介だった。

 俺は表情を険しくする。


「夏樹」

「なに?」

「今から柴田さんへ電話するな」

「え?」


 戸惑う声が返ってくる。


「でも!」

「今はするな」


 俺は走りながら言った。


「スマホのバッテリーがどれだけ残ってるかわからない」


 仮に柴田さんがどこかへ閉じ込められていた場合。あるいは助けを求める必要が出た場合。スマホは命綱になる。バッテリーは少しでも温存した方がいい。


「俺が指示した時だけ掛けてくれ」

「……わかった」


 夏樹も納得したらしい。少しだけ落ち着いてきている。パニック状態では判断を誤る。俺は頭の中でさらに状況を整理する。

 以前、柴田さんは公園で襲われかけた。あの時は明らかに外部犯だった。

 だが今回は違うと考えていいだろう。ここは学校だ。まだ下校時間直後。生徒も教師もいる。外部の人間が堂々と侵入して連れ去るにはリスクが高過ぎる。

 可能性が低い。だとすると。


「学校関係者……か」


 思わず呟く。電話の向こうで夏樹が反応した。


「何?」

「いや」


 まだ確定じゃない。だが可能性としては高い。少なくとも学校の構造を知っている人間。あるいは学校内で自然に行動できる人間。その辺りだろう。


 そしてもう一つ。俺が最も気になっていることがある。


 柴田さんの性格だ。


 彼女は決してパニックで動くタイプではない。冷静だ。だからこそ、もし危険な状況になったなら誰かを巻き込まないことを真っ先に考えるはずだ。

 つまり、危険だと判断して夏樹や山本さんから離れている可能性がある。以前からそういう人だった。自分が無理をしてでも周囲を守ろうとする。だからこそ厄介なのだが。

 俺は校舎の外へ出る。夕方の風が顔に当たった。頭の中ではすでに次の行動を決めている。


「創ちゃん?」

「実習棟は見に行ったか?」

「実習棟は行ってない!直美実習棟に行ってるの?」

「いや、それはまだわからない。でも、教室やトイレ、こっちの校舎で行きそうなところにはいなかったんだろ?なら、実習棟のある校舎に言っている可能性があるんじゃないか?」


 うちの学校で、生徒が比較的自由に出入りできる所。しかも放課後は人が少ない。もし誰かを避けるために移動するなら候補になる。


「俺は実習棟へ向かう」

「わかった!」

「夏樹!山本さんと一緒に行動しろ!絶対に一人になるな!」

「うん!」


 電話の向こうで力強い返事が返ってきた。少し安心する。そして俺はさらに言葉を続けた。


「俺の荷物を実習棟へ向かう途中の階段の踊り場に置いていくから回収してくれ」


 走るには邪魔だ。鞄を抱えたままでは動きが鈍る。


「わかった」

「頼む」


 そこまで伝えてから、一度通話を切る。スマホをポケットへ押し込み、速度を上げる。夕日に照らされた実習棟が視界の先に見えた。嫌な予感がする。

 だが、今はその正体を考えている時間はない。俺はただ前だけを見て走った。

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