第52話 あの山道を行く理由
俺たちは、園長に案内されながら農園の奥へ向かって歩いていた。
山田農園は、遠くから眺めているだけでは一面に広がる畑にしか見えなかったが、実際に中へ入ってみると、土地は思っていた以上に複雑で、平らに見える場所にも緩やかな傾斜があり、畑と畑の間を通る農道はところどころでわずかに高くなったり低くなったりしていて、山側から吹いてくる湿った風が作物の葉を揺らすたびに、緑の波がゆっくりとこちらへ押し寄せてくるように見えた。
農園の奥へ進むほど、背後にある住宅街の気配は薄くなり、代わりに山の存在感が強くなる。
木々に覆われた斜面は昼間だというのに薄暗く、ところどころに獣道のような細い筋が見え、そのさらに奥には、柴田さんが調べていた例の山道が続いているはずだった。
足元には細い水路があり、透明な水がさらさらと流れている。
その水路は山側から農園の縁をなぞるように伸び、いくつかの畑の脇を通ってから下流へ向かっていた。
俺は歩きながら、その流れを目で追っていた。
「……やっぱりそうか」
思わず声に出すと、柴田さんがこちらへ視線を向けた。
「何かわかったの?」
俺はすぐには答えず、山側の斜面と畑の位置関係をもう一度確認した。そして、ゆっくり口を開く。
「山道を調べるって判断、多分正しい」
「それって、ダンプカーの件?」
「ああ。それと、農園の異常についてだけど……原因はおそらく雨水だと思う」
その言葉に、山田が目を丸くした。
「雨水?」
柴田さんも眉を寄せる。
「ちょっと待って。急に結論まで飛ばないで。順番に説明して」
もっともな反応だ。俺は小さく頷き、足元の水路と山の斜面を交互に見た。
「まず、今回の汚染の出方がかなり変なんだよ」
「変?」
「普通、畑そのものが汚染されてるなら、検査結果はもっと安定するはずなんだ」
俺はスマホに保存していた検査結果の写真を開き、画面を少し傾けて見せた。
「例えば土壌自体に原因物質が残っているなら、同じ場所を調べた時に、多少の誤差はあっても継続的に似たような数値が出る可能性が高い。でも今回の資料を見ると、検出される日とされない日があるし、濃度も微量でかなりばらついてる」
園長が静かに頷く。
「そこは行政も気にしていたね。何度調べても、同じように出るわけじゃない。だから原因を絞るのが難しいと言っていたよ」
「はい。そこが最初に引っ掛かりました」
風が通り、畑の葉がざわりと鳴った。山から下りてきた風は、わずかに土と草の匂いを含んでいる。
「もし農薬や肥料、土壌そのものが原因なら、もっと連続性があっていいはずなんです。でも今回は、一部の区画にだけ、しかも一時的に出ている」
「つまり、ずっとそこにあるものじゃない……?」
山田が確認するように言う。
「たぶん。常にそこにある汚染じゃなくて、何かの条件が揃った時だけ流れ込んでいる可能性がある」
柴田さんが少し考え込むように視線を落とした。
「その条件が、雨?」
「ああ。正確には、“降雨による一時的な流入”の可能性」
俺は山側を指差した。山田と柴田さんが、同時に山を見る。
農園の向こう側には、木々に覆われた斜面が広がっている。その斜面はなだらかな場所もあれば、急に落ち込むような場所もあり、雨が降れば水がどこを通って下りてくるか、素人目にも想像できる部分があった。
「昔、環境汚染に関する本を読んだことがあるんだ。山間部に不法投棄された産業廃棄物から、有害物質が雨で流れ出して、下流の土地や水路に影響を与えた事例が載ってた」
「不法投棄……」
柴田さんの声が少し低くなる。
「その時に出てきた言葉が、“浸出水”」
山田が首を傾げる。
「しんしゅつすい?」
「簡単に言えば、何かから染み出した水のこと。たとえば山の中に廃棄物が埋められていて、そこへ雨が降る。雨水は土の中へ染み込む。その時に、廃棄物に含まれる成分が水に溶け出すことがある。その水が浸出水」
「廃棄物処理の現場ではよく問題になるやつだね」
「そうです。普通の雨水そのものが悪いわけじゃない。でも、通り道に何かがあれば、そこから成分を拾ってしまう。水は、通った場所の影響を受けるんだ。山の中で何かに触れれば、その成分を少しだけ含んで流れてくることがある」
俺は足元の水路へ視線を落とした。透明な水が小さく光りながら流れている。
「でも、それなら毎回出そうじゃない?」
俺は山の斜面を見上げた。
「そこが雨水の厄介なところなんだ。雨量によって流れ方が変わる。小雨なら地中に吸収されて終わるかもしれない。大雨なら普段とは違う場所を水が通るかもしれない。乾いている日が続いた後の雨なら、溜まっていた成分が一気に流れることもある」
「だから、検出される日とされない日がある……と山神は考えているのね」
「可能性としてはな。それに、山の水は全部が地表を流れるわけじゃない。地中を通る水もある」
柴田さんが反応する。
「地下水?」
「近い。もう少し広く言うと、“伏流水”って考え方がある」
山田が眉を寄せる。
「ふくりゅうすい?」
「簡単に言うと、地面の下を流れている水。川みたいに見える水じゃなくて、土や砂利の中を通って移動している水のこと。山の地面は層になっているんだ。水を通しやすい層もあれば、通しにくい層もある」
園長が補足するように、畑の奥の斜面を指した。
「そうです。砂や小石が多い層は水を通しやすい。逆に粘土質の層は水を通しにくい。だから雨水が上から染み込んでも、途中で水を通しにくい層にぶつかると、横方向へ流れることがある」
俺は手で斜面をなぞるような動きをした。
「山の中で汚染された水が、地層に沿って横へ流れて、それが特定の場所にだけ出てくる。そういうことが起きると、農園全体じゃなく、一部区画だけに影響が出てもおかしくない」
「一部区画だけっていうのは、そういう理由で説明できるのね」
「説明はできる。証明はまだできないけど、今回の検査結果とはかなり噛み合う」
そこは強調しておきたかった。俺は探偵じゃないし、科学者でもない。ただ、読んできた本の知識と、目の前の地形と、資料の数字を繋げているだけだ。
園長が静かに言う。
「山神君の話を聞くと、確かにそうだな。最初は農園内部の原因を疑うのが当然だった。農薬、肥料、土壌、農機具、用水路、地下水。全部調べた。でも、はっきりした原因は出なかった」
「行政や保健所がそこを調べるのは当然だと思います。最初に農園内の管理不備がないかを確認しなきゃいけないので」
「うん。それは俺たちも納得してる」
園長の声は穏やかだったが、その奥には疲労も滲んでいた。何度も疑われ、何度も説明し、何度も検査を受けてきた人の声だった。
「でも、農園内に明確な原因が見つからないなら、外から来ている可能性を考える必要がある」
俺は視線を山道の方へ向けた。
「そこで、柴田さんが集めたダンプカーの情報が繋がる」
柴田さんがスマホを取り出し、ピンの立った地図を表示した。
「東側から来たダンプカーね」
「ああ。幹線道路は東西に伸びている。東へ行けば大都市。西へ行けば住宅地や静かな地域が広がる。でも、目撃情報は東側に偏っていて、西側ではほとんどない」
山田が地図を覗き込む。
「つまり、西へ抜けてるわけじゃない?」
「そう。単なる通過車両なら、西側でも目撃されてもいい。でもそうじゃない。東側から空の状態で入ってきて、何かを積んだ状態で山道を通って出ていった可能性がある」
「しかも、荷台にはカバーが掛けられていた」
柴田さんが付け加える。
「何を積んでいるか見えないように」
「普通に運ぶだけなら、幹線道路を使った方が楽です。道幅もあるし、時間も読める。それなのに、わざわざ車通りの少ない山道を使っている」
園長の表情が少し険しくなる。
「見られたくない何かを運んでいる可能性がある、ということか」
「まだ可能性です。でも、もし山の中に何かを不法に置いている場所があるなら、雨が降った時だけ微量の成分が流れ出して、農園の一部区画へ影響する。この流れなら、今までの検査結果とかなり辻褄が合う」
山田は黙って山を見ていた。その視線の先には、農園の奥からさらに続く木々の斜面がある。日差しは強いのに、山の入り口付近だけは暗く、そこから流れてくる風は少し冷たかった。
「だから、山道を見に行く必要があると思う」
俺がそう言うと、柴田さんは小さく息を吐いた。
「……そういうことだったのね」
「まだ確定じゃない」
「わかってる。でも、調べる理由としては十分だわ」
園長もゆっくり頷いた。
「俺たちも、水系統は疑っていた。地下水や用水路は特に。でも、降雨による一時的な流入、まして山中からの浸出水という見方は、そこまで強く持っていなかった」
「行政側も可能性としては考えてるかもしれません。でも、証拠がないと断定できない」
「そうだな。行政は“たぶん”では動けない」
園長は農園の方を見渡した。
手入れされた畑。
風に揺れる葉。
整えられた水路。
ここまで丁寧に守ってきた土地が、外から来た何かで傷つけられているかもしれない。その可能性が、静かに目の前へ現れていた。
「山神君。山道へ行くなら、僕も一緒に行くよ」
山田が驚いたように父親を見る。
「父さん」
「これはうちの問題だ。君たちだけに任せるわけにはいかない」
その声は穏やかだったが、決意ははっきりしていた。俺は少し考えてから首を横に振った。
「園長は、まず行政か弁護士に連絡を取った方がいいと思います」
「……」
「俺たちが今から行くのは、あくまで確認です。もし本当に何かあった場合、すぐに引き返します」
「絶対に無理はしません。写真を撮って、場所を確認するだけです」
柴田さんも真剣な顔で頷く。
「……そうか」
園長は一度目を伏せ、それから頷いた。
「なら、少なくとも何か見つけたらすぐ連絡してくれ」
「はい」
俺は頷き、もう一度山を見た。
風が吹き、木々がざわめく。その音は、ただの自然の音にも聞こえるし、何かを隠している場所からの警告にも聞こえた。
確証はまだない。でも、進む理由はできた。
俺と柴田さんは、山田農園の裏手から続く山道をゆっくりと登っていた。
舗装こそされているものの、道幅は車がぎりぎりすれ違える程度しかなく、左右には背の高い木々が生い茂っていて、昼間だというのに場所によっては薄暗く、木漏れ日がまだら模様になって地面へ落ちている。
蝉にはまだ少し早い季節だが、それでも山の中では名前のわからない虫たちが忙しなく鳴いており、風が吹くたびに枝葉が擦れ合う音が頭上から降ってきた。
今日は朝から気温が高く、ニュースでも「今年初の夏日を観測」だの「地域によっては真夏日予想」だの騒いでいたが、実際に山道を歩いてみるとその予報がまるで脅しではなかったことを嫌というほど理解できる。
ただでさえ坂道なのに湿度まで高い。
歩き始めてまだそこまで時間は経っていないはずなのに、背中にはじっとり汗が張り付いていた。
「……暑い」
隣で柴田さんが、片手で麦わら帽子を押さえながらぼやく。
園長から借りたその帽子は、いかにも農園で使っていますという感じの年季の入った代物だったが、直射日光をかなり防いでくれているらしく、柴田さんはさっきから何だかんだ文句を言いつつも外そうとはしなかった。
「だから言っただろ。帽子借りといて正解だって」
「山神は?」
「俺は慣れてる」
「絶対うそ」
「……半分くらいは」
俺は肩に掛けていたリュックを少し持ち直す。荷物は全部俺が持っていた。水分、簡易救急セット、タオル、モバイルバッテリー、虫除けスプレー、あと柴田さんが持ってきた資料類。
体力的なことを考えると、柴田さんに荷物を持たせる意味はあまりない。本人は「自分の荷物くらい持てる」と言っていたが、もし本当に山道を長時間歩くことになれば、後半で確実にバテる。それなら最初から俺が持った方が早い。
「しかし、ほんとに山道って感じね……」
柴田さんが周囲を見回す。道の片側は山肌が迫り、もう片側は緩やかな斜面になっていて、木々の隙間からは山田農園の一部が小さく見えた。遠くに見える畑は綺麗に整っていて、こうして山の上から見ると、まるで緑色のパッチワークみたいだった。
「園長の話だと、この道だいたい十キロくらい続いてるらしい」
「しかも五キロくらい進むと開けるのよね?」
「ああ。だから何か隠すなら、その手前の山林側だと思う」
「なるほど……」
柴田さんはそう言いながらスポーツドリンクを一口飲んだ。山田から渡されたものだ。自分たちでも準備してきていたが、こういうのは多いに越したことはない。特に今日は危険なくらい暑い。
「でも……本当にイノシシ出るのかしら?」
柴田さんが少し眉を寄せる。
「園長は“出るかも”って言ってたな」
「怖いわ」
「安心しろ。俺も怖い」
「全然安心できないわ」
「遭遇したら全力で逃げるってことで合意してるだろ」
「山神、私を置いて逃げてしまいそうだわ……」
「生存本能だからな」
そんなことを話しながら歩いていると、少しだけ空気が和らぐ。だが、しばらく沈黙が続いたあと、俺は前から気になっていたことを柴田さんへ聞くことにした。
「そういえば」
「ん?」
「前に三人組に襲われそうになった件、警察には届けたのか?」
柴田さんの表情が少し真面目になる。
「ええ。両親と一緒に被害届は出したわ」
「相手は捕まったのか?」
「捕まったって話はまだ聞いてないわね」
「そうか……。……心当たりは?」
俺は少しだけ眉を寄せる。あの時の連中の動きは妙だった。単なるナンパや通り魔という感じではなかった。
柴田さんは少しだけ考え込んだあと、小さく肩をすくめる。
「正直、個人的な恨みとかは思い当たらないわ。だから、多分だけど……今回の調査関係かなって思ってる」
「やっぱりそう考えるか」
「だってタイミングが出来すぎてるもの」
確かにそうだ。しかも、あの時の連中は妙にスマホを気にしていた。俺はその時のことを思い返しながら聞く。
「スマホを奪おうとしてるように見えたけど、あの中には何が入ってる?あ、言える範囲でいいんだが」
「言える範囲だから別にいいわよ。夏樹たちと取った写真とか、動画とか、学校で取ったものがほとんどね。それ以外には…」
柴田さんは歩きながら指折り数え始めた。
「…山田農園関連のインタビュー音声、写真、メモ、あと食堂やまもとの件とか、生配信前にまとめてた資料とか」
「ふむ」
「それ以外だと、親戚の報道関係者から送られてきた情報も多少」
「報道関係者からの情報?」
「うん。ただ、その人から“まだ公にはするな”って言われてる内容もあるから、それは話せないわ」
「別に無理に聞く気はない」
「助かるわ」
柴田さんは苦笑する。
「でも内容自体は、私はそこまで大したものじゃないと思ってる」
「例えば、山田農園や食堂やまもと周辺の人間関係とか、過去の取引先とか、土地関連とか……か?」
「……ノーコメントよ」
少し間があったし、何でわかるの?という顔をする柴田さん。そんな姿に俺は苦笑しながら伝える。
「ジャーナリストを目指すなら、もう少しポーカーフェイスを磨いた方がいいかもな」
「私は何も言っていないわ。でも、何でそんなの調べてるのか私にはよくわからなかった」
土地関連や過去の取引先とか……ね。詳しい情報を聞いてみたかったが今日は聞いても教えてくれないだろう。なので別の質問をすることにした。
「生配信については何か言ってたか?」
「最初はスクープになるかもって考えてたみたいだけど、あの配信見て諦めたみたいね」
「諦めた?」
「だって、あれだけ全部説明しちゃったから。ネットニュースにはなったけど、コメント欄が“詳しくはアーカイブ見れば全部わかる”で埋まってたらしいし、“追加取材しても新情報出ない”って判断したみたい」
柴田さんが呆れたように笑う。
「まあ、あれ以上説明できることほとんどなかったからな……」
「正直、三時間超えるとは思わなかったわ」
「俺もだよ」
思い出すだけで疲れる。コメント欄との殴り合いみたいな配信だった。しかも精神的ダメージ付き。
「……でも、山田農園とか食堂やまもとや過去の取引先とか、土地関連以外にも、何か別のこと調べてる感じだったのよね」
柴田さんが少し真面目な声になる。
「別のこと?」
「うん。でもそこはまだ話すなって言われてる」
「なるほど」
そこは仕方ない。口止めされてることまで無理に聞き出すつもりはない。
ただ――何かが引っ掛かる。
バラバラだった情報が、少しずつ一本の線になりかけている気がした。そんなことを考えながら歩いていると、俺はふと足を止めた。
「……山神?」
柴田さんが振り返る。俺はしゃがみ込み、地面へ視線を落とした。
アスファルトの端。土が少し柔らかくなっている部分に、深く刻まれたタイヤ跡が残っていた。
「これ……」
俺は指先で跡の幅をなぞる。普通車より明らかに大きい。しかも最近ついたものだ。完全には風化していない。
「そういえば、ダンプカーの写真ってあるか?」
俺は顔を上げた。
「写真はないわ。でも、目撃者に“どんな車だったか”聞いて、近い画像は調べてある」
柴田さんはスマホを取り出す。そう言って、ネットで見つけたダンプカーの画像を表示した。俺はその画面を見た瞬間、思わず目を細めた。
「……これか」
「何かわかった?」
俺はすぐには答えなかった。画面に映っていたのは、一般的な土砂運搬用ダンプではなかった。
荷台の形状。
後部の構造。
タイヤの太さ。
それは――。
「これ、深ダンプだ」
「深ダンプ?」
「荷台が通常より深く作られてるタイプ。軽いけど嵩張るものを運ぶ時によく使われる」
「嵩張るもの?」
「あぁ。例えば……『産業廃棄物』とか」
柴田さんの表情が固まる。
山の中を吹き抜ける風が、一瞬だけ冷たく感じた。




