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きみの隣で、今日も考えてる  作者: マリセリソウ


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第37話 静かに広がる悪意

 放課後の空気はまだ少しだけ暖かさを残していて、校門を出たあたりから夕方の気配がゆっくりと滲み始めていた。隣を歩く夏樹はいつも通りの調子で何か話していたが、途中でふと足を止める。


「創ちゃん、あれ……」


 視線の先には、山田農園の倉庫の前にできた人だかりがあった。普段なら営業前であれば静かなはずの時間帯だが、今日は様子が違う。ざわざわとした声が重なり合い、明らかに穏やかな雰囲気ではない。


「……行ってみるか」


 短くそう言って歩みを進めると、声の内容が徐々にはっきりしてくる。


「だからさ!お宅の野菜を使ってたせいで、こっちは客が離れてるんだよ!」


 低く押し殺したような怒鳴り声だったが、その中に焦りと苛立ちが混じっているのがわかる。


 人の隙間から中を覗くと、五、六人ほどの男たちが半円を作るように立っており、その中心で一人の男性が頭を下げながら対応していた。見覚えのある顔だった。おそらく山田農園の人だろう。年齢は三十代後半から四十代くらいだろうか、作業着のままということもあって、急いでここに来たことが伺える。


「食べたら体調が悪くなるって話も出てるんだぞ!?どうしてくれるんだ!」


 別の男が声を荒げる。周囲の数人も口々に不満を漏らしていて、収拾がついていない。


「い、いや……それについては、保健所にもきちんと相談しておりまして……。現在確認されている数値では、健康被害が起きる可能性は低いという見解もいただいています」


 山田農園の男性は、必死に言葉を選びながら応じる。


「“低い”じゃ困るんだよ!」


 間髪入れずに言葉が被さる。


「実際に客が離れてるんだ!店の売り上げが落ちてるんだぞ!?」

「そうだそうだ!」と周りの男たちも同調する。


 空気が一段と荒れる。男性は一瞬だけ言葉に詰まり、それでもすぐに頭を下げた。


「ご迷惑をおかけしているのは事実です……それについては、深くお詫び申し上げます。現在、自主回収も進めておりますし、原因の特定についても継続して調査を行っております」


 その声は小さくはないが、押し返されそうになるのを必死に踏みとどまっているようだった。


「そんな話じゃなくてだな!客が来なくなった責任をどう取るのかって聞いてるんだよ!」


 別の男が一歩踏み出す。


「それについては……」


 再び言葉が詰まる。


「何もできません、とは言わせねぇぞ!」

「……申し訳ありません」


 男性は再度深く頭を下げる。


「ただ、現時点で具体的な補償などについては、まだ判断ができる段階ではなく……」

「じゃあ泣き寝入りしろってのか!?」

「そういうことじゃないでしょう!」


 別の方向からも声が飛ぶ。怒鳴り声が重なり、もはや誰が何を言っているのか分からなくなりつつある。

 夏樹が横で息を呑むのがわかった。


「創ちゃん……これ……」

「あぁ。結構まずいかもしれないな」


 短く答える。目の前の光景は、ただのクレーム対応ではない。卸先との関係が崩れかけている現場だ。男たちの服装からして、おそらく飲食店や小売の関係者だろう。普段から取引していた相手だからこそ、こうして直接乗り込んできている。そして、その言葉の端々には“事実”と“噂”が混ざっている。


 「体調が悪くなるらしい」という曖昧な表現。


 根拠があるわけではないが、否定しきれない不安が広がっている。それが一番厄介だ。


 山田農園の男性は、何度も頭を下げながら言葉を繋ぐ。


「現時点で確認されている範囲では、安全性に問題はないと判断されておりますが……原因が特定できていない以上、出荷を再開することはできません」

「だから困ってるんだろうが!」


すぐに怒声が返る。


「仕入れが止まってるだけでも痛いのに、風評まで立ってるんだぞ!」

「他の業者も様子見してるって話だしな」

「このままじゃ共倒れだぞ……」


 苛立ちだけでなく、不安も混じり始めている。それがさらに場の空気を悪くしていた。男性はそのすべてを受け止めるように、ただ頭を下げ続ける。


「……信頼を回復できるよう、全力で対応してまいります」


 その言葉は決して軽くはないが、今この場で求められている答えとは少しずれている。だからこそ、誰も納得しない。言い争いはまだ続きそうだった。その場の空気を飲み込みながら、俺は小さく息を吐いた。


 隣で夏樹が不安そうにその様子を見つめている。


 ざわついた空気の中で、ふいに倉庫の引き戸が軋む音を立てて開いた。視線がそちらに流れる。中から出てきたのは、学生服姿の青年だった。


 一瞬、目が合う。


 ……山田か?


 クラスメイトの山田篤弘だとすぐに分かった。普段はどこか穏やかな印象のある顔つきだが、今は明らかに強張っている。そのまま迷うことなく人だかりの中心へと歩み寄り、先ほどから頭を下げ続けている男性の隣に立った。

 そして、何も言わずに同じように頭を下げる。

 並んだ二人の背格好はよく似ていた。体格や肩の線、立ち方の癖までどこか共通している。


 親子。そう思うのは自然だった。


「本当に申し訳ありません」


 青年――山田が声を出す。

 父親と思しき男性と並んで、深く頭を下げ続ける。だが、それでも場の空気は変わらない。


「謝って済む話じゃないだろ!」

「こっちは実害が出てるんだぞ!」


 怒声は止まらない。むしろ、“若い人間が出てきた”ことで、さらに圧が増したようにも見える。山田は何も言い返さず、ただ頭を下げ続けている。

 その姿を見て、隣の夏樹が小さく息を呑んだ。


「創ちゃん……」


 視線がこちらに向く。


「何とかできない?」


 無茶を言うな、と思う。だが、放っておける空気でもなかった。小さくため息を吐く。


「……ああ、分かった」


 一歩前に出る。

 人だかりの背中が近づくにつれて、怒号がよりはっきりと耳に入ってくる。そして、そのまま輪の中に踏み込んだ。


「大の大人がこんなところで寄ってたかって、みっともない」


 はっきりとした声だった。ざわつきが一瞬だけ止まる。何人かが苛立たしげに振り向く。


「なんだお前は」

「何の話か知らんが、近隣住民としては迷惑だ」


 淡々と続ける。


「騒ぐなら場所を変えろ。ここで続けるなら警察に連絡する」


 一拍の沈黙のあと、空気が揺れる。


「お前に何が分かる!」


 男の一人が声を荒げる。


「関係ない奴は引っ込んでろ!」


 その言葉に、わずかに間を置く。そして、ためらいなく言い返した。


「うるせぇって言ってんだよ!関係あるか無いかなんてどうでもいい。うるせぇんだよ!それで何だ?この騒ぎで近所迷惑になってることは無視か?」


 誰もすぐには返せない。さらに畳みかける。


「じゃあ何か?うるさくて俺が体調崩したら、お前ら全員で責任取ってくれるのか?今から病院行って診断書取ってこようか?慰謝料請求でも何でもできるぞ。顔も覚えたし、会社名も聞こえてる。逃げられると思うなよ」


 何人かの表情が変わる。完全に理屈ではなく、圧で押し切る。


「ちっ……」


 舌打ちが一つ落ちる。張り詰めていた空気が、わずかに緩む。


 怒鳴っていた男たちも、一歩引いた位置で互いの顔を見合わせるようになった。感情のままに押していた流れが、急に冷水を浴びせられたように止まる。


 その隙を逃さなかった山田の父親が、もう一度深く頭を下げる。


「……皆さん、本当に申し訳ありません。ご迷惑をおかけしていることは、重々承知しております」


 先ほどよりも、はっきりとした声だった。一人一人に向けるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「現在、原因の特定と再発防止に向けて全力で対応しておりますので、どうかもう少しだけお時間をいただければと思います」


 その姿勢は変わらない。ただ頭を下げるだけではなく、“受け止めている”という意思が伝わる形になっていた。その横で、山田も同じように頭を下げている。その様子を見て、先ほどまで声を荒げていた男たちの表情が少しずつ変わっていく。


「……いや、こっちも言い過ぎた」


 誰かがぽつりと呟く。


「状況が状況だからな……」

「悪かったな、感情的になって」


 言葉がぽつぽつと落ちていく。完全に納得したわけではない。だが、さっきまでの“攻撃的な空気”は消えていた。


「こちらこそ、すみませんでした」


 山田の父親がもう一度頭を下げる。今度は先ほどよりも少しだけ角度が浅い。やり取りが“対話”に戻っている証拠だった。男たちはそれぞれに一言二言残しながら、徐々にその場を離れていく。人だかりはゆっくりとほどけ、騒がしかった空間に静けさが戻っていった。


 残ったのは、山田親子と、こちら側の数人だけだった。夕方の光が差し込み、さっきまでの騒ぎが嘘のように感じられる。山田はようやく顔を上げ、深く息を吐いた。


 その視線がこちらに向く。


 何かを言おうとしたようだったが、言葉にはならない。代わりに、静かに頭を下げた。

 騒ぎが嘘のように静まると、あれだけ密集していた人の気配はゆっくりとほどけ、通りにはいつもの夕方の空気が戻ってきた。さっきまで張り詰めていた声の残響だけが、どこかに引っかかっているように感じられる。


 少しの沈黙のあと、山田が一歩こちらに近づいてくる。


「……さっきは、ありがとう。助かったよ」


 声は落ち着いていたが、その奥にある緊張が完全に抜けていないのがわかる。肩の力がまだわずかに入ったままだった。続けてそう言って、軽く頭を下げる。

 「別に」と短く返すと、山田は少しだけ苦笑した。そのまま隣に立つ父親の方へ視線を向ける。


「父さん、この二人、クラスメイトなんだ」


 紹介されて、男性――山田の父親が顔を上げる。


 近くで見ると、その疲労は隠しきれていなかった。目の下には濃い影が落ち、表情もどこか力が抜けている。それでも、無理にでも整えようとしているのが分かる。


「……そうか」


 ゆっくりと頷き、こちらに向き直る。


「さっきは、ありがとう。本当に助かった」


 深く頭を下げられる。


「いえ、あのままだと近所迷惑でしたし」


 形式的に返すが、目の前の様子を見ればそれだけでは済まないことも分かる。山田の父親は顔を上げると、ほんの少しだけ息を吐いた。その仕草が、思っている以上に消耗していることを物語っていた。

 隣で山田がその様子をちらりと見ている。何か言いたげだが、言葉にはしない。ただ静かに寄り添うように立っている。その距離感で、十分に伝わるものがあった。さっきのやり取りも含めて考えると、ああいう場面は一度や二度ではないのだろう。初めてであれば、もう少し動揺が表に出るはずだが、二人ともそれを抑える術を知っている。


 だからこそ、消耗の蓄積も見える。


 夏樹が一歩前に出た。


「山田くん」


 名前を呼ばれて、山田が顔を上げる。


「どんなことができるかは分からないけど、できる範囲で協力するから一人で抱え込まないでね?」


 まっすぐな言葉だった。山田は一瞬、驚いたように目を見開く。予想していなかったのだろう。そのまま数秒だけ言葉を失い、それから小さく息を吐くように笑った。


「……ありがとう」


 短いが、はっきりとした返事だった。そのやり取りを見ながら、少しだけ視線を落とす。


 ……そろそろ限界かもしれないな。


 精神的な余裕が削られているのは明らかだった。外から見える範囲でもこれだけなのだから、内側はもっと厳しいはずだ。

 山田の父親が、その様子を見てから再びこちらに向き直る。


「仲良くしてくれているみたいで、本当にありがたい。息子は、その……あまり社交的な方じゃなくてね」


 少しだけ困ったように笑う。


「引っ込み思案で、人見知りで……でも、優しいやつなんだ」


 山田が少しだけ視線を逸らす。


「学校でも、もしよければ仲良くしてやってほしい」


 その言葉には、親としての素直な願いが込められていた。

 俺は小さく頷くだけで返す。

 それで十分だと思った。


 隣で、夏樹がはっきりと声を出す。


「はい!」


 明るく、迷いのない返事だった。その声に、山田の父親が少しだけ表情を緩める。

 夕方の光が少しずつ傾き、影が長く伸びていく。さっきまでの騒がしさが遠くに押しやられたように、静かな時間がゆっくりと流れ始めていた。


 夕方の空気は少し冷え始めていて、さっきまでの騒ぎの余韻が頭の奥に残ったまま、俺と夏樹は食堂やまもとの暖簾をくぐった。店の中はいつもと同じはずなのに、どこか落ち着かない空気が漂っているように感じる。

 靴を脱いで上がろうとしたその瞬間、奥から慌ただしい足音が響いた。


「二人とも!大変です!!今すぐちょっと見てほしいんですけど、さっきからコメント欄の様子がおかしくて、どう対応したらいいのか分からなくて……!」


 山本さんが息を切らしながら飛び出してくる。その手にはスマートフォンが握られていて、画面をこちらに向けるように差し出してきた。


「落ち着け、何があった?」


 そう言いながら画面を覗き込むと、すぐに状況は理解できた。

 動画の再生数は明らかに伸びている。いつもよりも勢いがある数字だ。だが、その下に並ぶコメント欄は、今まで見てきたものとは明らかに違っていた。


「……荒れてるな、これは」


 思わず口に出る。


「“子供を使って金儲けしてるだけじゃないのか”とか、“こういうやり方は信用できないし、裏で何かやってるようにしか見えない”とか、そういうコメントが急に増えてきて……さっきまではこんなことなかったのに……!」


 山本さんの声は焦りを隠しきれていない。隣で夏樹も画面を覗き込みながら顔をしかめる。


「ちょっと待って、これ……ひどくない?“親が前に出ずに子供にやらせてるのが気持ち悪い”とか、“店のイメージ悪くなるからやめた方がいい”って……何これ、全然知らない人が勝手なこと言ってるだけじゃん……!」


 指でスクロールするたびに、似たような文面のコメントが続く。言葉遣いを少し変えただけで、言っている内容はほとんど同じだ。


 店の奥では、店長と奥さんも同じようにスマートフォンを見ていた。


「いやあ、これはまた一気に来たねえ……さっきまで普通だったのに、急に流れが変わったなあ、こういうのもあるもんなんだなあ……」


 店長は困ったように頭をかきながらも、どこか状況を冷静に見ている様子だった。奥さんは画面を見つめたまま、ゆっくりと口を開く。


「でもね、こういうコメントって、ある程度人が増えてくるとどうしても出てくるものなのよ、もちろん気持ちのいいものではないけど、ある意味では“広がっている証拠”とも言えるのよね……」

「いや、それでも限度がありますよ……これはちょっと多すぎますし、明らかにおかしい流れになってます」


 そう言いながら、もう一度画面を見る。投稿時間も似通っているし、内容も寄せられている。誰かが意図的にやっている?そんな馬鹿げたことが頭にちらつく。さらに…


 山田農園の件が頭をよぎる。


「一回、コメント閉じるか」


 そう言うと、三人が同時にこちらを見る。


「この状態で開けておいても、荒れが加速するだけだし、初めて来た人の印象も悪くなる、対応するにしても一旦落ち着かせた方がいいと思う」


 少し間が空く。山本さんが小さく首を振った。


「でも、それだと……ちゃんと見てくれてる人の声も届かなくなっちゃいませんか?私たちの動画を見て、応援してくれてる人もいると思うんです……」

「それはそうだが、この量を全部拾うのは現実的じゃない。今の状態だと、悪意のあるコメントに引っ張られるだけだ」

「それでも、全部じゃなくてもいいんですけど、一つ一つちゃんと見て、ちゃんと返せるものには返したいです、無視してるって思われるのは、ちょっと違う気がして……」


 その声はさっきよりも落ち着いているが、はっきりとした意思があった。


「僕も、そっちの方がいいと思う、全部に対応するのは無理でも、ちゃんと応援してくれてる人には応えたいし、そういう人たちまで切り捨てるのはもったいないと思う」


 店長はそう言ってスマホを操作しながら続ける。


「ほら、この人とか、“料理の説明が分かりやすくて助かってます”って書いてくれてるし、こういうコメントにはちゃんと返した方がいいと思うんだよ」


 確かに、荒れたコメントの中に、そういうものも埋もれている。店長が腕を組みながらゆっくりと頷いた。


「効率だけで考えたら閉じるのが正解なんだろうけど、うちはそういうやり方はあんまり向いてない気もするんだよなあ、せっかく見てくれてる人がいるなら、その人たちとのやり取りも大事にしたいしなあ……」


 奥さんも穏やかに微笑む。


「全部に反応する必要はないけど、“ちゃんと見てますよ”っていう姿勢は見せたいわよね、それがこのお店らしさでもあると思うし……」

「……非効率ですが、それでもいいんですか?」


 最後に一応言う。


「分かってるよ、でもね。効率だけでやるなら、そもそもこんな店やってないって話だろ?」


 店長が軽く笑う。その言葉に、少しだけ言葉を飲み込む。

 山本さんが小さく頷く。


「じゃあ……やります、できる範囲で、一つずつちゃんと対応していきます」


 さっきまでの不安とは違う、覚悟の混じった声だった。

 スマートフォンの画面には、今も新しいコメントが流れ込んでくる。良いものも、悪いものも、区別なく。それでも、その中から拾い上げていくと決めたらしい。



 さて、どうするべきか。考えつつ俺も自然と画面に視線を戻していた。

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